戊辰戦争で幕府軍はなんで負けたの?
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若干23歳、身長148センチの童顔、
乳飲み子と噂された
長州藩の山田市之允(顯義)が
陣頭指揮を執ったからです。 慶應三年、山田顯義、長藩の隊長となり、一隊の兵を率ゐて攝津西の宮に屯した。
當時、會桑の兵を京都より拂はんとする議があつて、長州兵の入京を急がすの
必要があつたから、西ク隆盛旨を傳へて、顯義の進軍を促さしめるために、
大山彌助(巖)を西の宮に遣つた。大山、西の宮に來り、陣門に入りて、顯義に逢はん事を求めた
。帷幕の裡に待つことやゝ乍らくあつて、顯義が出て來て、其姓名をつげ、大山の使命を聞かんといふ。
大山、顯義を熟視すると、之れ一箇の矮小漢であり、年齒も甚だ若い。
其英名はかねてより聞いてゐるが、かゝる小忰とは思はなかつたから、大山大に侮る色が生じた。
かゝる乳臭兒が何を能くするかと思ひつゝも、西クの使命は傳へねばならぬから。西クの密書を
懷より取り出して渡し、時機甚だ切迫してゐるから、急いで兵を進ませられよと陳べた。
顯義、曰く諾と。直に左右を顧みて、出兵の命を下した。其言語擧動の敏捷なる、
流石評判に恥ぢぬだけのものがある。大山亦侮り易からざるを感じつゝ、
辭して陣門を去らんとすると。早、兵隊の部署は整然として悉く定り、將に進發せんとする模樣がある。
之れを見て大山遂に顯義の穎秀なるに敬服して了うた。
時に顯義二十二歲、大山二十四歲であつた。 最後の部分が化けちゃったね。
時に顯義二十二歳、大山二十四歳であつた。 意外に知られていないんだがな。日本軍隊の創立者は
おでこの大村益次郎と門人の山田市之允(顯義)なんだよな。
痩せの山縣狂介(有朋)と西郷隆盛は間違い。
↓ ↓ ↓ このスレをジックリ読めばわかります。
狂騒のパジェント 靖国神社の大村益次郎像についての批判
http://pagent.seesaa.net/article/388231675.html それ以前にそもそも西国の大大名動員して長州袋叩きにしようとして逆ににフルボッコにされた時点で…
幕府オワタと世の流れが見える人たちは皆思っただろうよ
幕府と言うより会津中心とした一部の抵抗勢力が薩長にボコられただけ 日大の山田顕義と慶応の福沢諭吉、早稲田の大隈重信との違いは
血みどろの戦いを [無断転載禁止]©2ch.net
http://tamae.2ch.net/test/read.cgi/jsaloon/1481985949/
陣頭指揮突貫
日大の山田顕義と慶応の福沢諭吉、早稲田の大隈重信との違いは血みどろの戦いを
したかどうかだな。鳥羽伏見、徳川幕府との決戦に山田は命を捨てて
戦いに臨んだんだな。一方福沢と大隈の2人は鳥羽伏見の戦いを静観。
お茶を飲んだ後お昼寝しました。
私は山田顕義伯爵は福沢諭吉になにも言い残していませんが内心はこうだったと思う。
「人は人の上に人をつくらずは正しい。言っていることは立派だ。でも自由な言論も
私たちが戦場に残してきた屍の上に成り立っていることを忘れては困る。」
大隈さんに対しては「大風呂敷もわかる。力量もある。見識も立派だ。でも鳥羽伏見のときに
出てこなかった責任はどうとるのか?。私たちは明日の行方も知れず命を的に戦った。
勝った後、のこのこ出てこられてもあまり嬉しくない。
なんでも鑑定団 愛のエメラルド 慶應元年、幕府の征長軍、長藩の四境を冒さんとする。長軍之れを迎え撃ちて諸方に戰を交へた。
藝州久波の戰ひには、朝から日沒まで交戰し、夕に至つて兩軍兵を收めた。
長藩の御楯隊軍監山田市之丞、時に十八歲であつた。隊長河野顯吾に吿げて、今日の戰鬪は
勝負が決しなかつたが、明日は必らず敵軍が氣を新にして攻めるであらう。之れに對する
吾軍は寡兵で、終日の奮鬪に大に疲れてゐる。若し明日敵が大擧して進み來ると、
吾軍は甚だ窮する事となるに違ひない。それで今夜の內に、久波驛に放火して、敵をして
其處に留まる事ができないやうにする必要がある。之れを爲すには、其前に吾軍の遊撃隊長に吿げて、
豫め發砲せぬやうに注意をして置かねばならぬ。かくすると敵の油斷をせしむる利がある外に、
放火する君等の危險を除く事になるから、之れは是非豫吿して置くべしである。
急いで此策を實行して見よと、ヘへ示した。
河野之れに因つて、顯義のヘへるが如く、遊撃隊に豫告し、
夜半潛かに久波驛を燒いた。
敵軍果して驚いて去り、明くる日は來り攻むの勇氣を失うてゐた。
顯義の軍に臨むに方りては、必らず前夜の深更に自ら敵營に近づいて、
充分綿密に偵察し、之れを攻撃するの方法を考究して置いた。
この故に每戰必らず捷ちて、人をして舌を捲かしむるものがあつた。
殊に顯義の體軀の倭小なる敵前を偵察するに最も便なるものがあつた。 凄いなぁ 次々に化けちゃった
□ 時に18歳
□ 隊長河野顯吾に告げて
□ 今夜の内に
□ 遊撃隊長に告げて
□ 是非豫告して置くべしである
□ 毎戰必らず
□ 體體の倭小 慶應元年、幕府の征長軍、長藩の四境を冒さんとする。長軍之れを迎え撃ちて諸方に戰を交へた。
藝州久波の戰ひには、朝から日沒まで交戰し、夕に至つて兩軍兵を收めた。
長藩の御楯隊軍監山田市之丞、時に十八歳であつた。隊長河野顯吾に告げて、今日の戰鬪は
勝負が決しなかつたが、明日は必らず敵軍が氣を新にして攻めるであらう。之れに對する
吾軍は寡兵で、終日の奮鬪に大に疲れてゐる。若し明日敵が大擧して進み來ると、
吾軍は甚だ窮する事となるに違ひない。それで今夜の内に、久波驛に放火して、敵をして
其處に留まる事ができないやうにする必要がある。之れを爲すには、其前に吾軍の遊撃隊長に告げて、
豫め發砲せぬやうに注意をして置かねばならぬ。かくすると敵の油斷をせしむる利がある外に、
放火する君等の危險を除く事になるから、之れは是非豫告して置くべしである。
急いで此策を實行して見よと、ヘへ示した。
河野之れに因つて、顯義のヘへるが如く、遊撃隊に豫告し、
夜半潛かに久波驛を燒いた。
敵軍果して驚いて去り、明くる日は來り攻むの勇氣を失うてゐた。
顯義の軍に臨むに方りては、必らず前夜の深更に自ら敵營に近づいて、
充分綿密に偵察し、之れを攻撃するの方法を考究して置いた。
この故に毎戰必らず捷ちて、人をして舌を捲かしむるものがあつた。
殊に顯義の體體の倭小なる敵前を偵察するに最も便なるものがあつた。 独逸国 、大モルトケを驚かす
顯義、曾つて洋行をした。身長矮少で無髯白晢の年であるが、
已に將官であつたから、歐洲人怪しんで、
日本には少年の將官があるかと問うた。
陸軍中將鳥尾小彌太と、 顯義とは、當時殊に年少の將軍であつた。
共に奇材を以て目されてゐた。顯義、獨逸に往つた時、
モルトケ將軍は、其年少なるを見て種々奇問を發して試みたが、
顯義、奇才縱にして、よく之れに應辯して、大モルトケを驚かしめた。
大山格のブログ
https://ameblo.jp/itaru-ohyama/entry-11505147913.html 小さなナポレオン 山田顯義
https://mint.5ch.net/test/read.cgi/history/1284970361/l50
幕府軍はなんで負けたのかは一つの
謎なんだがな。武器の性能の差なんかもあるとは思うが
気持ちの差が一番大きいと思うぞ。
山田顯義なんかは生きて還れるとは
思っていなかったようです。
徳川慶喜くんは命が惜しかったようですねw 何が普通なのかよくわからんけど
長州は大した力を持ってなかったが薩摩は当時日本有数の大藩なんだが
西南諸島を支配下において密貿易でぼろ儲けしてた薩摩藩は兵力も兵器も高いレベルにあったんだよ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています