パクさんは粘り強く会社側と交渉して、
ついにカット数からカット毎との作画枚数まで約束し、
必要制作日数まで約束せざるを得なくなっていた。
当然のごとく約束ははみ出し、
その度にパクさんは始末書を書いた。
一体パクさんは何枚の始末書を書いたのだろう。
僕も手一杯の仕事を抱えて、
パクさんの苦闘に寄り添う暇はなかった。
大塚さんも、会社側の脅しや泣き落としに耐えて、
目の前のカットの山を崩すのが精一杯だった。
初号で僕は初めて、迷いの森ヒルダのシーンを見た。
作画は大先輩の森康二さんだった。
なんという圧倒的な表現だったろう。
なんという強い絵。なんという...優しさだったろう...。
これをパクさんは表現したかったのだと初めてわかった。
パクさんは仕事を成し遂げていた。
森康二さんも、かつてない仕事を成し遂げていた。
大塚さんと僕はそれを支えたのだった。
「太陽の王子」公開から30年以上たった西暦2000年に、
パクさんの発案で「太陽の王子」関係者の集まりが行われた。
当時の会社の責任者、重役たち、
会社と現場の板挟みに苦しんだ中間管理職の人々、
制作進行、作画スタッフ、背景・トレース・彩色の女性たち、
技術家、撮影、録音、編集の各スタッフがたくさん集まってくれた。
もういまはないゼロックスの職場の懐かしい人々の顔もまじっていた。
偉い人たちが「あの頃が一番おもしろかったなあ」と言ってくれた。
「太陽の王子」の興行は振るわなかったが、
もう誰もそんなことを気にしていなかった。
パクさん。僕らは精一杯、あの時を生きたんだ。
膝を折らなかったパクさんの姿勢は、僕らのものだったんだ。
ありがとう、パクさん。
55年前に...あの雨上がりのバス停で声をかけてくれたパクさんのことを忘れない。
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https://www.huffingtonpost.jp/2018/05/14/isao-takahata-farewell_a_23434642/