【野球の目的は「故障防止」】 大船渡高校 国保陽平監督 Part.2 【極端・支離滅裂・本末転倒】
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
人生には、いろんな思いを背負って、一世一代の大勝負をしなきゃらならない時がある。
大船渡高校野球部員にとって、甲子園をかけて大横綱花巻東と戦う決勝の日、7/25はその日だったろう。
勝負ごとだから、勝つこともあれば、負けることもある。 勝つか負けるか、その結果が大事なのではない。
全てを賭けて、全力で戦うことが大事なのだ。
自身の立場で前もってしておくべき準備、配慮を一切せず、いざその場になって「故障を防ぐ」というご立派な理由で、
「全てを賭けて、全力で戦う」という人生最大の貴重な体験の場を、奪い去った監督。
無理に完投させる必要もないにもかかわらず一日に194球、129球を投げさせるわりに、
「故障を防ぐため」という名目で、これ以上ないという大一番の決勝で二連投はさせない(そもそも出場させない)。
エースで四番打者という大黒柱を、登板しない日には野手としての出場さえさせない。
決勝の先発投手は初登板の4番手投手。9失点後やっと交代。次に出てきたのは、これまた初登板の5番手投手。
あまりにも極端な選手起用をする一方で、試合中はノーサインで選手に好き勝手にやらせる。
勝つ気があるのか? 勝つつもりでこういう采配をしたなら、どういう理屈なのか?
理解不能の采配をし、2−12 と大惨敗した後、選手に向かって、「死ぬなよ」と声をかける。
そんな監督について語るスレです。
大船渡高校野球部監督 国保陽平 Wikipedia
岩手県立盛岡第一高校、筑波大学体育専門学群を卒業。
社会人クラブチーム「Tsukuba Club」を経て、アリゾナサマーリーグに参加。
アメリカ独立リーグのティフアナ・シマロンズと契約。
帰国後に体育教師として岩手県立花巻農業高校に赴任。野球部監督となる。
2017年4月より岩手県立大船渡高校に異動し、野球部監督に就任。
今年の夏、大船渡 佐々木投手の登板(大会後半のみ)
7/21 四回戦_ 194球完投(延長12回)
7/22 準々決勝 登板なし(出場なし)
7/23 ____ 試合なし
7/24 準決勝_ 129球完投
7/25 決勝__ 登板なし(出場なし) 大会初登板の4,5番手投手のみ登板
【目的は故障しないこと】 大船渡高校 国保陽平監督 【 過保護野球 】
https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/hsb/1564228549/
【緊急アンケート】大船渡・国保監督の采配をどう思うか?
http://medaka.5ch.net/test/read.cgi/hsb/1564034525/
【緊急アンケート】大船渡・国保監督の采配をどう思うか? 2
https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/hsb/1564050649/
【緊急アンケート】大船渡・国保監督の采配をどう思うか? 3
https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/hsb/1564076898/
【緊急アンケート】大船渡・国保監督の采配をどう思うか? 4
https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/hsb/1564140954/ K保 : 一週間で500球ってのは、守備での送球も含むんでしょ? だから、登板翌日はベンチ。 ルール先取りしました。 「163キロ投手の肘のダメージは未知数」
大船渡佐々木・登板回避に元日本代表クローザーは「英断だった」 大船渡高校・佐々木朗希(ろうき・3年)投手の登板回避問題。
準決勝までの4試合で435球を投げた佐々木投手に国保陽平監督(32)が下した判断は、疲労の蓄積と故障防止を考慮しての「欠場」だった。 「チームの甲子園出場がかかっていたわけですから、苦渋の決断だったと思います。でも、“十年に一度の逸材”を預かる指導者として、英断を下したのだと思います」 そう語るのは、かつて日本を代表するクローザーとして活躍した元福岡ソフトバンクホークスの馬原孝浩氏(まはらたかひろ・37)だ。 熊本市立高校(現・熊本市立必由館高等学校)から九州共立大に進み、2004年に福岡ダイエーホークスに入団。 最速158キロの剛速球と鋭く落ちるフォークボールを武器に、絶対的なストッパーとして活躍した。 だが右肩を故障し、2012年に手術を受ける。
それでもかつての速球は戻ることなく、2015年をもって現役を引退することになったのだ。 馬原氏は引退後、九州医療スポーツ専門学校で3年間学び、今年3月に柔道整復師、鍼灸師の国家資格を取得した。
現在はセミナーや講演、解説、野球教室などを行いながら、オフにはプロ野球選手の自主トレで指導もしているという。 土日に試合で“4完投”していた高校時代
馬原氏が高校球児だった頃は「球数制限など無関係な時代でした」と話す。 「高校時代は火曜水曜で500球。木曜金曜で500球という投げ込みのノルマがありました。
その上で、土日の試合で“4完投”していました。肩は消耗品ですが、『それで壊れたら自分の責任』という時代だった。 今ではスポーツ医学もだいぶ進みました。
高校野球でも球数制限はもちろんあっていいと思います。 高校生なら1日休めば回復は全然違います。
登板間隔を空けることができれば問題ありませんが、準決勝、決勝と進んで試合間隔が詰まってくれば、そうもいかない。 その際に判断基準となるのは、やはり『投球数』です。
まだ18歳で成長過程にある彼が、準決勝で129球、4回戦では194球を投げているわけですから、監督はその『投球数』から欠場を判断したのだろうと思います。 大会映像で佐々木投手のフォームを見ましたが、肘にかなりの負担がかかっているのは明白です。 腕をびしっと伸ばすタイプではなく、長い脚を高く上げることで反動をつけ、リリースの瞬間、長い腕をしならせ、肘をたたむようにしてボールを投げる。 あの独得のピッチングフォームが最速163キロという高い“出力”を生み出しているわけで、彼の最大のストロングポイントだと言えます。 しかし、その“出力”をすべて受け止めているのが、彼の肘です。
1球1球、肘に受ける衝撃と消費は他の選手とは絶対的に違うはずです。
しかも、大事な試合では、りきみも出る。ひとつ間違えれば、靭帯断裂や骨折までいったかもしれません」 150キロ超えは指導する側も未知数
馬原氏が高校生の時は140キロの球を投げても「豪速球投手」と呼ばれる時代だった。
それが現在では、トレーニング技術が改善されたこともあり、高校生でも150キロ超えが珍しくない。
しかし、そのぶんケガをしやすくなっているのも事実だという。 「当時、高校生で150キロを投げていたのは、松坂大輔さん(中日ドラゴンズ)や新垣渚さん(元ダイエーホークス)くらいでした。 その頃は走り込みと投げ込みを繰り返して体力をつけるのが普通だったのですが、
最近ではハイテクマシンなどを使った筋トレなどで体を大きくして、160キロ近くの球を投げるピッチャーがたくさん出てきているわけです。 けれど、彼らについては、指導する側としても未知数なことが多く、監督も使い方が難しくなっているというのが現実です。 大切なのは“休ませる”ことなんです。
ただ単に何もしないで体を休ませるんじゃなく、上手に休ませるということが必要です。 つまり、選手の表情や動きを見て、ケアしながら休ませる。投げた次の日は休ませる。
高校野球では、監督に投げろと言われたら投げるというのが普通ですが、本来はトレーナーやコンディショニングの知識のある専門家が疲労の度合いを判断してストップさせるべきなんです」 特に、甲子園常連校のような本格的に活動しているチームには「専門的なトレーナーが必要」と馬原氏は主張する。 「専門家であれば、筋肉の張り具合でわかります。筋肉にも張っていていい場所と、張っていたらダメな場所があるんです。
ダメな場所で張りの症状が出てきたらストップをかけてあげればいい。
資格を持っている人間ならば、選手の身体に触ることで適切な判断ができるんです。 ケガをさせないコンディション作りは、まずは無理をさせないこと。
知識さえあれば、日によってメニューが変わるのは当然です。 精神ではなく、肉体を鍛えなければいけないわけで、大会本番で一番のベストコンディションに持っていってあげることこそが指導者の仕事なんです。
それでも、選手の体のことを監督一人に委ねるというのは、なかなか難しい。怖さで判断しきれないんじゃないかなと思います。 私が現役のときもそうでしたけど、いまだに資格を持たない指導者って多いんです。
マッサージとかストレッチとか。私自身も経験と知識を踏まえて教えて欲しかったという思いがあります。 自分は肩を壊し、手術という経験を経て、最後にはトレーナーに対して自分で『マッサージはこういう風にしてください。
ストレッチはこういう風にしてください』と指示をしながらコンディションを整えていました。
そんなこともあり、勉強を始めたんです。 今回の騒動を見ても、高校野球には休むことがダメという風習がなぜかまだ残っていますよね。 本当は、大会中は軽く動くウォーミングアップだけで十分なんです。
たとえば朝7時に起きて散歩をして、軽くキャッチボールをして、バットを振る。 それだけで体は十分動くようになる。
自分が高校の時は、本当に練習しすぎて疲れ果てて、試合で力が出せませんでした。 高校野球でも指導者の資格取得をもっと進めるべきだと思います。
指導者が講習を受けて、勉強会に出て、ちゃんと体のことを学ぶ。 独学でやってきた指導者と、ちゃんとした知識を学んだ人では、選手に対して適切な指導ができるかどうかに大きな差が出る。 実際には、経験と知識を兼ね備えているという人はなかなかいないのですが、
大船渡・佐々木投手のような選手側の急激な技術革新に対応して、
より高度な専門知識を持ったトレーナーが増えてしかるべきでしょう」 イチロー恩師は「あの夏のエース温存をずっと後悔している」大船渡佐々木“登板回避”で振り返る 全国49代表の出場校が出揃った第101回全国高校野球選手権大会。
そのマウンドで主役になると思われた「令和の怪物」こと大船渡・佐々木朗希(ろうき・3年)投手の姿はない。
「決勝回避問題」は数日経っても依然、波紋を広げている。 「私も疲労を考慮して決勝でエースのイチローを抑え投手として温存していたが、結局、投げさせることができなかったのです」 そう語るのはイチローの恩師で、甲子園春夏5回の出場を果たした愛工大名電高校元監督の中村豪氏(77)だ。
1991年夏、エースだったイチローは愛知予選決勝で投げることなく東邦高校に敗れた。 「序盤に大量点を与えてしまい、イチローに登板させる機会を逸してしまった。
今回の大船渡の決勝を見ていて、佐々木温存を決めた監督の意図もわからないではありません。
ただ、私はずっと後悔している。あのとき、イチローに投げさせてやりたかった」 中村氏は1978年に愛工大名電(当時は名古屋電気高校)の監督に就任。
81年夏にはエース工藤公康(現・福岡ソフトバンクホークス監督)のノーヒットノーランなどの活躍で甲子園でベスト4。
90年夏・91年春にはイチローを率いて甲子園出場を果たした。監督時代に14人のプロ野球選手を輩出した名伯楽だ。 「佐々木君が岩手大会の4回戦で12回194球投げたのは、絶対的なピッチャーが彼1人しかおらんかったからでしょう。
それが決勝で影響してしまった。
私も工藤(公康)のときにベスト4まで行ったときは、それまで3試合投げて彼の体がパンク状態だった。 球のスピードも落ちて、相手チームの報徳学園の選手が『今日の工藤の球はキレがねえぞ』って円陣で話していたくらい。
それでも交代させることはできず、結局、打たれてしまった。 どうしても監督は1人に頼っちゃうと思うんです。
いろいろ問題になっているけれども、私が監督だったら、やっぱり佐々木君をマウンドに立たせていたかもしれませんね。 佐々木君の欠場を事前にナインに伝えなかったのも、監督は試合前に選手の気持ちを壊したらいけないと考えて、伝えなかったんじゃないですか」 気温40度の猛暑に過密日程。現在の高校野球を勝ち残っていくには、絶対的なエース1人よりも、高い同レベルの投手2人のほうが圧倒的に有利だと主張する。 「160キロを超える球を投げる佐々木君でも、連戦の中で常にコンディションを整えていくのはなかなか難しい。
近年は異常気象などで苛酷な環境下で連戦をこなさなければいけない。
かつてとは気候環境がずいぶん変わったと思います。 そんな中では、同じレベルのピッチャーが2人、3人いるチーム作りをしていかなければ、甲子園どころか地方大会も勝ち進めない。
最近の甲子園常連校には、昔のように突出した1人のエースが投げて勝ち進んだチームはあまりいないでしょう。
ほとんどの強豪校が継投で勝ち上がってくるのはそのためです」 先日の高校野球愛知大会では、愛工大名電や中京などの強豪校を破り、ノーシードから誉高校が勝ち進み、甲子園初出場を決めた。やはり、勝因は“投手の分業”にあったと中村氏は分析する。 「左右のいいピッチャーが2人いて、8試合中7試合を5回と4回に分担して継投で勝ってきた。
おそらく今年の甲子園は星稜の奥川(恭伸)君が注目されていますけど、彼だって5試合を1人で投げるというのは大変でしょう。
そういう時代なんだよね。これからの指導者は大変だと思います。 来春に導入される予定の『球数制限』を機に高校野球は大きく変わるでしょう。
例えば100球前後で投げられるのは6回か7回。その後の抑えのピッチャーが1人か2人必要になる。 しかし、頼れるピッチャーを2人育てるのは非常に難しいこと。
ピッチャーは高校になってからできるものじゃなく、素材だと思います。
いい素材をどうやって集めるかというスカウティングがテーマになってくる。 今回の件で、夏の大会の時期や地方大会を前倒しして6月から始めたらどうか、という意見も出ているようですが、これは難しいでしょう。 高野連が進めているのは、”教育としての高校野球”ですから。
生徒たちは野球だけやっているわけではなく、授業がある。
今後はますます”投手の分業制”を徹底していく時代になっていくはずです」 【ケガの深刻さは球速に比例する】
大船渡佐々木の登板回避に元プロ野球エース2人は一定の理解 令和の初となる甲子園は、最速163キロ右腕の大船渡高校・佐々木朗希(ろうき・3年)投手の独壇場になるかと思われた。
だが、岩手県大会決勝を肘の違和感から登板回避。
「令和の怪物」の夏はあっけなく終わった。
賛否両論の声が上がる今回の騒動をプロはどう見たか。 まずは、浪商高(現・大体大浪商高)のエースとして、”ドカベン”こと香川伸行氏(故人)とバッテリーを組み、3度の甲子園出場を果たした牛島和彦氏(58)に聞いた。
牛島氏は1979年にドラフト1位で中日ドラゴンズに入団。
通算53勝64敗126セーブの成績を収めた。 「当時は僕も仲間も甲子園に行きたいから必死でした。」 春の選抜の延長戦で200球くらい投げて、翌日はバテバテになって体が全然動かなくなりました。 そうなると体がしんどくなりますよね。
体全体に張りがあって、全身筋肉痛みたいな感じで投げてましたけど、それが当たり前でしたから。
僕なら投げていたかも知れない 牛島氏は2005年からの2シーズン、横浜ベイスターズ(現・横浜DeNAベイスターズ)の監督も務めている。
その経験から牛島氏は、大船渡・国保監督の采配に理解を示す。 「佐々木君は細身ですけど、ダイナミックに足をあげて体全身を使っているからあれだけのスピードを出せる。
でも、160キロの球を投げれる分、当然ケガもそれに応じて深刻になるんですよ。」 やはりあれだけの素材なので、『肘がおかしい』と言われたら、私も投げさせていないかもしれないですね。 仕方なかったかなという気がします。
佐々木君自身は、試合に出れないのはしんどいと思いますし、仲間に申し訳ないという思いも強かったとは思いますが……」 “伝家の宝刀”フォークボールで最多勝を2度獲得した遠藤一彦氏(64)も、今回の佐々木投手と同様の経験をした球児の一人だ。
学法石川高(福島)のエースで4番だった遠藤氏は、1977年にドラフト3位で横浜大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)に入団。
通算134勝128敗58セーブの成績を収めた。 「3年生の夏の福島大会は決勝までいきました。
しかし、やはり準々決勝、準決勝と延長戦を投げていまして、決勝戦前に監督から突然『先発は2年生投手で行く』と言われたんです。 ただ、私はこれが最後ですから、『すみません監督、投げさせてください』と直訴すると、監督は私の意をくんでくれて先発で投げさせてくれました。 試合は1-2で敗退。けど、私としては悔いはなかった。勝てなかったのは自分の力のなさですから。心残りがなければ、私はいいんじゃないかと思います。 投手の“痛い”“違和感”というのは本人にしかわからないので、監督の判断は正しかったと思います。
ただ、佐々木君の『投げたかった』というコメントがあるように彼の気持ちの中でどうだったのかなっていうことは思いますね」 一方で遠藤氏は、佐々木選手が打者として試合に出ていたら、展開は変わったかもしれないと指摘した。 「彼は4番を打つバッターでもあるわけじゃないですか。そういう面ではどこか守りながら打撃の面でも出場ということもできたかなと思います。
やっぱりみんなで甲子園を目標にやってきて、ベンチではなく佐々木君がグラウンドにいるだけでチームの雰囲気も違ったかもしれませんね」 高校野球「熱中症で力尽きたエース」記事が朝日新聞に見当たらない、という問題
新聞読み比べでわかった、美談の「外側」 スポーツ報知は7月31日の裏1面で「夏の甲子園100回記念スペシャル」と題し、桑田真澄と東大アメフト部ヘッドコーチ森清之の対談を載せた。
桑田は「球数制限」を主張する。 「タイブレークが導入されましたが、僕は有望な投手の将来を守るためには球数制限を導入すべきだと思います。」
「日本は力のあるエースほど連戦連投を強いられます。」 森も「メディアは熱中症で選手が倒れたら問題視しますが、
一方で
『暑い中、投げきった』
とか
『猛練習に耐えた』
と、ダブルスタンダードな部分もある」と話し、両者ともプレイヤーズ・ファーストへの転換を訴えていた。 高校時代に甲子園で20勝している桑田真澄が言うのは説得力があるなぁと思いながら紙面をめくると、
「日大鶴ケ丘・勝又、154球力尽く 救急搬送」という見出しが飛び込んできた。
えっ!? 救急搬送? 「酷暑の激闘で体は限界だった」
西東京大会決勝で日大鶴ケ丘の勝又温史投手が試合後に脱水症状を伴う熱中症を発症したというのだ。
先発登板した勝又投手は、サヨナラ本塁打を浴びた9回途中まで154球を投じた。 《メダル授与式後、全身に痛みを訴えた。神宮のグラウンド内まで救急車が入り、都内の病院に搬送。》
しかも勝又投手は3回戦でも熱中症で途中降板していたという。「酷暑の激闘で体は限界だった」と記事にある。 他紙でもエースの熱中症は大きく扱われていた。サンスポは「力尽きたエース…熱中症で救急搬送 日大鶴ケ丘・勝又」。
《試合後の表彰式には出席したが、ベンチに戻ると脱水症状をともなう熱中症で歩行も困難になり、神宮球場から救急車で東京都内の病院に搬送された。》
ほ、歩行困難……。 日刊スポーツも「154球……熱中症 救急車で搬送」。
《閉会式の後に体調不良を訴え、報道陣への対応前に救急車で搬送された。都内の病院で脱水症状を伴う熱中症と診断され、点滴加療を受けた。》 これらを読むと桑田真澄の「日本は力のあるエースほど連戦連投を強いられます。」という言葉と、今年の酷暑をまざまざと思い知る。 一般紙(東京版 7月31日)でもこの話題は大きく扱われた。
毎日新聞は「ライバルも認めた直球 日大鶴ケ丘・勝又温史投手(3年)」と敗者にスポットを当てた記事の中で、
《幕切れはあっけなかった。マウンドにしゃがみ込み、打球が吸い込まれた左翼席を見つめた。
閉会式を終えた後、救急車で病院に運ばれた。脱水症状を伴う熱中症だった。》 読売新聞も「真っ向勝負 154球の熱投 日大鶴ケ丘 勝又温史投手」で、「試合後は両足がつり、病院に運ばれた」「試合後 熱中症で搬送」と報道。 東京新聞は「勝又投手、救急搬送」。
《西東京大会の本部は30日、同日に神宮球場で行われた日大三―日大鶴ケ丘の決勝戦後に、日大鶴ケ丘の勝又温史投手が体調不良を訴えて救急搬送されたと発表した。》
各紙、エースの熱中症にふれている。 では夏の高校野球主催の朝日新聞ではどれだけ大きく扱われているのか。
東京版は「日大三サヨナラアーチ V」と「日大鶴ケ丘 夢へあと一歩」。でかでかと2ページを使ってこの決勝を報じている。 敗者・勝又投手を大きく扱った「『打倒 日大三』渾身の投球」というコラムもあった。
《小学生だった2011年、西東京大会で日大三と日大鶴ケ丘の準決勝を観戦。その時に負けた日大鶴ケ丘で日大三を倒したいと進学した。》 さすが朝日、入念な取材力である。高校野球のドラマを感じさせる。試合後、勝又は日大三の選手に声をかけられたと書く。
《「ナイスピッチ」。これに対し勝又は返した。「ありがとう」。そして「頼むぞ」。》
もう、高校野球ファンなら涙、涙のエピソードである。感動をありがとう! しかし……。
記事はこれで終わっているのだ。「勝又投手、熱中症」のことは書かれていないのである。 いや、それだけじゃない。2ページにわたって大々的に報じられたこの決勝戦の朝日の紙面をすべて探しても「勝又投手、熱中症」や「救急搬送」は一切書かれていないのである。
これにはびっくりした。何度も何度もこの日の朝日新聞を隅から隅までチェックしたがやはり一言も触れていない。 主催だから美談で記事を埋め尽くしたい気持ちはわかるが
あるのはその下の、
「『壮絶な試合』両校たたえる 閉会式で都高野連会長」という記事や、「ご協力に感謝します」という東京都高野連と朝日新聞社連名の感謝のことば。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています