50歳以上のおっさんが高校野球を語る Part.4
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http://bunshun.jp/articles/-/8621
日本記録保持者より速い甲子園球児…。陸上競技関係者をバカにしてないか?
これ見て思い出したんが毎年行われる体育祭のリレー、クラブマッチで自分らの在学中は3年連続野球部が勝った。
むしろ、ライバルはサッカー部やったような記憶があるんやが。
ちなみに母校の野球部、陸上部、サッカー部はそれぞれ全国大会の常連やった。
(全国制覇しているのは野球部だけ)
この記事の記者はその辺りをどう思いよるんやろか、、、。 >>900
野球部の5秒8とかは手動というだけでなく加速走だから質が悪い。一流の陸上選手だったら
後半の100mは4秒一寸で走るからね。100m12秒くらいのへっぽこの陸上部に勝っても
何の自慢にならん。 >>901
そう言うと陸上部の全国大会の仕組みとか知らんかった。
たしか、3年連続で1位野球部、2位サッカー部、3位陸上部やったような…。
うちの陸上部はへっぽこやったんか。 やっぱ、高知商業は明神、森田がいた時のように泥だらけのユニだったら勝てたのになあ。 >>900
別にバカにはしてないだろ。
公式記録でもないのに文春のいちいち揚げ足取る感じが気持ち悪い。
文藝春秋はナンバーの毎年似たような甲子園特集をなんとかしろよ >>897
日本国内での多分決勝戦だと思うけどテレビで見た。
調布リーグの試合だった。
チャンネルは忘れた。
荒木大介の所属したチームだけど、荒木がいたかはわからんが。 >>895
80年夏の横浜との対戦や池田のやまびこ打線の影響を受けて
尾藤監督は野球観が変わり、采配も違ってきたんだろうね。
選手の方も82〜84年のチームは、走塁の際に全力疾走しない選手も見かけるようになり
かつてのひたむきさが消えたような気がする。 >>884
根性論で精神を究極まで追い込んで、
その度合いがエグければエグいほど
自己満足できるけど試合では体力温存しときたいみたいな、ボクサーの減量前と後みたいな。 自分も、試合の二倍三倍やったから、試合は楽に思えるはず、なんて練習をしたものだ。今はやらないのか? 調布リーグが出てたリトルリーグ漫画もあったな
サヨク○○派と試合してボール挟まった鉄パイプで殴ってタッチアウト 明日浦学と大阪桐蔭が対戦するが、昔同じ埼玉代表の上尾がやはり準々決勝で原辰徳率いる優勝候補No.1の東海大相模に勝ったことがあった。
でそのまま勝ち進むと思われたが、準決勝の新居浜商に惜敗し優勝はできなかった。こういうところが埼玉代表なんだよな。 黒の秘密兵器とはまた懐かしいねぇ内容は主人公が忍者の子孫とかライバルの打者の秘打
回転打法(打席での縦・回転)が三振にとられないのが不思議やったの覚えてる。 >>903
明神懐かしいw
どんな選手だったかあまり覚えてないが名前は強烈に記憶残ってる いつの頃から根性野球は悪者みたいに言われ始めたけど、結局は根性が物を言う。
馬鹿げた練習と根性野球は別物なんやろう。
打倒江川を果たした銚子商業と広島商業はスタイルは違っても根底は迫力の根性野球やったな。 >>884
練習中の水飲み禁止は、戦前の軍事教練や戦中の実戦由来。実際、行軍中に水を飲むと
腹を壊してとんでもないことになる。今でもインドに行ったら水飲み禁止は常識。
昭和30年代くらいだと上水が必ずしも綺麗でないし、指導者は軍隊上がりが多いから
練習中の水飲み禁止に繋がった。試合中は指導者のエゴもあるかもわからんけど、全国大会
とかだったら衛生面では保証できた。
まあ、水飲み禁止を真に受けた「男どアホウ甲子園」の記述はどうかと思うけどね。
(あの漫画は矛盾だらけだけど、「ドカベン」より遥かに面白い)。 近江がベスト8で、滋賀県が普通に強豪県になったのは同慶の至り。
夏は78年迄未勝利県で、最も遅くまで甲子園で勝てない県として有名だった。
そもそも京滋大会が組まれていてほぼ選手権には出られないのが常だった。
特に78年は、共に群馬の前橋と桐生に春に史上初の完全試合を喰らって、
夏は0-18で完敗して、最弱県の悪名が広まった。翌79年に比叡山が漸く
夏に勝利するとベスト8, 翌年には瀬田工業がベスト4とコンプレックスを
解消する大活躍で、今日の活躍に繋がるようになった。 県岐阜商が秀岳館風のユニフォームに変わるみたいだが、伝統を軽んじて欲しくない。 >>918
県岐阜商はOBの小川閥が糞
一時的には建て直した有能な監督を追い出して超無能なるジュニアを監督にして見事に没落
ユニフォーム変えることは、鍛治舎の改革への覚悟を感じるから肯定的2見たい >>918
マジですか〜?!
古豪は伝統のユニは変えてほしくないなー!県岐阜商のユニ嫌いじゃないけどねー。
ましてや秀岳館風すなわちパナソニック風になったら最悪だ、勘弁してくれ!
ちなみに三重は伝統のユニに戻したもんな。 >>918
ええ…ユニのデザインが松下電器→オール枚方→秀岳館→県立岐阜商業、、、の流れが嫌やなあ。
松下での悪名高いリストラは耳にした事はあるが…暴挙ゆうてもいいぐらいやと思うなあ。 >>794
この時の朝日(ひょっとしたら毎日)は確か仲根と辻内(明星)のピッチングの写真を2人大写しにしていた
と記憶がある。この年の選抜は4強が東日本勢によって独占され、決勝は東京対決だった
珍しい年。夏として東京が1枠だった最後の年でもある。
選抜の時は制球の良い山本を擁する倉敷工業の評価が高かったけど、東北に粉砕され、辻内も無四球男
として注目を集めたけど、期待外れだった。(と言っても改めて記録を見ると良く投げているのだが)。
辻内は同志社->大丸で活躍したけど、同志社では一年上の田尾の方が二刀流でずっと派手に
活躍していた。田尾は大学2年の時の日米野球では投手として選ばれていた筈。 >>913
あの頃、白土三平が全盛だったので二大人気テーマの忍者と野球を組み合わせるのは自然
だったのでだろう。終わり方が如何にもご都合主義のような気がした。多くの魔球が登場
したけど、同じ著者の「どろんこエース」の焼き直しの印象もあった。
まあ、だけど一峰大二と言えばウルトラマンなんだけど。 俺、外人部隊の秀岳館の時は鍛治舎を応援してなかった(むしろ負けを祈ってた)けど、
公立の母校を率いるということで、今度は応援するつもりでいたが、
あのユニにするのならまた応援する気なくなっちまったよ(苦笑)。最悪や!というよりショック! >>924
そりゃ有名な指導者がよその学校で勝ちまくっていたらおもんないわな。
智辯和歌山で勝ちまくっている長崎海星OBのの高嶋監督の事を長崎海星の関係者はどう思っているんやろね。 >>924
どうだろうね。
秀学館の時は他の地区(特に大阪)の選手を集めていたが、
県岐阜商ではそれは出来ないからな。
これで秀学館の時のような成績が残せれば本物だが。
大阪桐蔭の西谷に公立高校の監督をやらせてみたいわ。
西谷なら公立でも色々な手を使って選手集めそうだが。 >>922
東京が1枠だったのは翌73年まで。
桜丘はあまりにも内野守備が悪すぎて仲根が気の毒だった。
辻内は予選7試合でわずか1四球。甲子園でも3試合で1つか2つしか与えていないはず。
あのときの明星には小柄な松本がいたな、長崎海星戦で代打に出てヒットを打っている。 >>927
訂正どうも。55回記念大会だから増枠があったかと思ったら日大一だけの都から代表一校
でしたね。55回の日大一も選抜ベスト8で好投手小山がいたので、そこそこの評価(4強の
次のクラス)だったと記憶するけど、初戦で(同じ選別ベスト8の)今治西に大敗している。
松本は確か147cmだったね。 完全試合って夏は未だに達成されてないのかな?
佐賀商の新谷がやってたら至上初で唯一だったのか? >>929
そうだね。新谷が一番惜しかった。延長で達成したのは王貞治(早実)のみ。
工藤(名電)は先頭打者に四球のみと思ったら投失があった。その後はゲッツーで28人で
終了。因みに工藤は名古屋市立久方中学で市の大会で優勝している。同学年の丹羽とか
がいた中京中学は少なくとも中部軟式野球大会で77,78の連覇を果たしている。
(一年下の78年に中京が選手権ベスト4になった時、全国優勝したと言っていたような気が
するが、確認できなかった。)中京中は多分その年に廃校。 鎮西の松崎は、全国中学軟式大会で、ほとんどヒット打たれずに優勝じゃなかったか。高校でどんなになるかと思ったが 小柄と言えば明星の松本以外に、時代はそれぞれ違うかったが静岡高校と広島商業にも小さな選手が居たな。
ふたりとも小さな身体も思い切り縮めて打席に立ってたのがちょっと悲しかったわ。ファーボール狙いをベンチから言われてたんやろ。
しかも静岡の人は高松商業大北から三振を喫した場面が動画に残されてて気の毒に思うわ。 >>931
アンダースローの優勝した軟式のピッチャーかな? 名古屋電機の工藤君はカーブの投げすぎで手首が曲がってしまい
試合後に元に矯正するっていう実況未だに覚えてる 最近、漢字のユニフォームが多いですね。羽黒なんかは甲子園が決まった途端、
漢字のユニフォームに変更。1986の選抜に出た関東学園大付を思い出しました。
ユニフォームが校名の宣伝媒体になっておりなんか嫌な感じ(漢字だけに)。昔
は取手二が優勝するまで漢字のユニフォームのチームは優勝できないとのジンクス
があったもんですが(取手二の前の漢字ユニでの優勝チームは作新?)。
そんな中、生徒数が300人程度と少なく経営的にヤバそうなのに、経営なんか
知ったことか俺たちは着たいユニフォームで戦うとばかりに(個人的な妄想です)
昔の日ハム風のユニフォームで戦っている下関国際に漢を感じます。 工藤は連投が効かない感じだった。愛知予選でも連投となった準決勝、決勝で点を
取られていたし、甲子園でも準決勝の投球は精彩がなかった。準々決勝までの投球
だったら報徳は打てなかっただろう。報徳ー早実の逆転に関しては、荒木の投球の
リズムがセットポジションで乱れた印象。ワインドアップと言うよりも足を蹴り上げて
モーションに入るようなリズムの取り方だったけど、ランナーが出てそんな大きな
モーションが取れなくなり、結果として連打を喰らって同点。最終的に逆転負けになった。 >>39
古川は有藤の抗議の原因作ったセカンドランナーな。
あと近鉄の高柳も春日部工業だった。
ザキヤマの頃には弱体化してたとはいえ、甲子園準優勝の春日部共栄ではコールド負けは仕方ない。アメトーークネタには笑った。 >>922
えっ?
あの年の辻内が期待外れって、どんな凄い投手を期待していたの?
優勝した津久見の強打線を8回まで0点に抑え、初戦は完封、2回戦は外野の拙い守備で1失点しただけなのに
小柄な技巧派投手だから球速はしょぼかったし
田尾みたいなプロでバリバリやる選手ではなかったのは確かだけどね
準々決勝で津久見水江が一世一代の好投していなければ、明星が優勝したと思うよ >>938
池畑三四郎みたいに七色の変化球を操る天才投手。 >>935
2ちゃんねるのアイドル『はちあたま』は公立なのに昭和62年夏鳥取県大会優勝すると【YAZU】から漢字縦書きの今みたいなのに変わったもんな。 今夏、横浜に勝って8強入りした金足農は、オールドファンからしたら、
1984年夏に初出場でいきなり4強入りした時の鮮烈な印象が強い。
準決勝でKKのPL学園に2対3の惜敗。
桑田に逆転の特大2ランをレフトスタンドに浴びたシーンは忘れられない。
1985年夏がミラクル甲西なら、1984年夏はミラクル金農だなw 明星に辻本より年上のレギュラーがいたよな?
19歳だったかな?
大阪大会の決勝戦で言うてた
決勝の相手は河南高校やったかいな? 明星は、恒例・朝日新聞ゴリ押しの「関西推し」で優勝候補に祭り上げられただけw
実際は辻内頼みで、打線は超淡泊。1、2回戦は、津久見以外評価の低い九州勢相手の所謂「くじ運」。 >>945
レギュラーの内、160cm台が5人。
4番が1年生のキャッチャー。 1972年夏・全国選手権地方大会・大阪大会決勝
明星 10−0 興南
今から46年前w
>>944
仮にその人が当時14歳だったとしたら、現在、還暦w 1972年夏・全国選手権地方大会・大阪大会決勝
明星 10−0 河南
今から46年前w
>>944
仮にその人が当時14歳だったとしたら、現在、還暦w >>912
習志野が優勝したけどね。
済美に勝って、完全に潮目変わって、むしろ神奈川より、勢いあるんじゃない?
花咲で完全に開花したと思うし、
いや、自分でもうまく言ったかなw。
それにしても新居浜商のファールフライのタッチアップ油断こそやらかしだったなあ。たけばは高校生のくせにヒゲ生やすし、松商だったら絶対ありえんわとかさんざん叩かれたよw。 72年の選抜の準優勝校の日大三高は前年の選抜優勝のチームより戦力が充実していた
様な気がする(前年も主力で後に早稲田から阪急に行ってレギュラーのショートで優勝に
も何度も貢献した吉沢をはじめ、待鳥等色々いた)けど、選手権予選は都立戸山なんか
に負けているんだね。その頃の戸山は未だ東大に50人くらいは入る進学校だろう?
一体、何があった?それとも戸山って別にあるのか。 進学校の都立国立(くにたち)高校が1980年夏に甲子園初出場した時は驚いたな。
都立の高校で、当時、初めての出場だった。
東京の激戦区をよく勝ち上がってきたもんだなとつくづく思った。 >>941
甲西-久留米商って85年だったのか
行ってたけど何時だったのか忘れてたわ
あの頃は甲子園ギャルもそこまでコアじゃない子も女の子同士の観戦が今より多かったな
第四試合終わった後の球場外周歩いてる顔が日焼けしてて、そばかすの頬が赤くなってたのを見るのも風物詩だった
今年は2回行ったけど日焼けどころか、jK位の女の子同士の観戦してる様子なんて殆ど見ない >>953
1985年のミラクル甲西の夏の甲子園4強入りはよく覚えている。
ちょうど、日本航空機墜落事故の時だったからね。 日大三高優勝投手の渡部は今もOB会によく顔を出しているみたいだけど
待井、吉沢、岩沢あたりの優勝メンバーはあんまり来ないらしいなw >>949
解説はファールフライ捕るなって言うとった気がする >>956
取った後、無警戒にもおしゃべりしてたんだよね。そこが松商ヲタの逆鱗にふれたみたいw 実況入ってたLP持ってたけど解説の声はなかったな
「ライト、タケバ、構えた、追いついた〜取る!セカンドランナータッチアップ!
…際どいぃークロスプレーっ!」 >>932
池田イレブンの本盗決めたその名も雲本彼も小さかった やっぱ、ベスト8とか地元校が残ったりしてくるとオールドファンは以前に全国制覇した時も○○県勢と当たって勝ったことがあったから、こりゃあいけるかもしれんなあ、とか都合の良いこと考えるんだよな。 >>963
確かに過去のデータは見ちゃうねw
時代もやってる選手も全然違うんだからあんまり関係ないはずだけど、◯◯県とは相性がいいとか何か有利な材料を見つけたくなる気持ちは分かる。 >>950
日大三の都戸山戦では先発が小曽根 待井でなく
三番手だったからね。甘く見たことは確かだろうけど0-2での完封負けだから打てなすぎだな。
この試合が原因かは判らないけど鈴木監督はすぐ辞めてしまったね。 やっぱ、ベスト8とか地元校が残ったりしてくるとオールドファンは以前に全国制覇した時も○○県勢と当たって勝ったことがあったから、こりゃあいけるかもしれんなあ、とか都合の良いこと考えるんだよな。 戦後、最初の夏の東京大会決勝は、
現筑波大付属と現日比谷。
当時、全国で3本の指に入る進学校同士の対決だった。 金農の吉田君、決勝まで行ったら、まさに平成の太田幸司だな。 >>962
出場する前に小さい頃住んでたけどあれにはたまげた。小学校に入学したらすぐ放課後はソフトボールやって遊んでたから野球の盛んな土地だったかもしれない。 >>968
だとすると決勝で力尽きるパターン
まああの時は再試合まで行ったけど 金農の吉田は北国のエースってかんじだよな
今日で終わるような気がするけど 吉田君は176cmか。太田幸司は174cmやったかなとwiki見たら176cmになっとったw >>950
>>965
当時の戸山には、後に東大4位の所謂「赤門旋風」時の平野裕一監督が選手でいた。
他に東大・高橋らもいて侮れない戦力だった。 中西太を見たのは10・19近鉄ロッテのダブルヘッダー以来かも?
あの試合は仰木監督より前に出て目立ってたわ 昭和53年に誤審やら継投ミスやらで奇跡のPLの片棒を担いで優勝を逃した中京は
深谷監督が直後に退任。元々、杉浦監督が勝てなかったので、昔の名監督に指揮を
任せていたけど、選抜は出場辞退で夏はあんな終わり方で運がなかった。 >>952
今大会、ピッチャーが一人で投げ抜いてるチームがマスコミで叩かれてるが、
国立のエース市川も、予選8試合全部一人で投げ抜いたね。
それも相手忘れたが、準々決勝で延長18回引き分け再試合があったはず。 その後、杉浦監督が復活。所や大藤等を軸にした小粒なチームだった。翌夏は1回戦
大勝のあと、2回戦で隣県の県岐阜商。所が毎回安打を喰らいながら粘りのピッチングで
延長戦の末に勝利。しかし3回戦の池田戦で力の違いを見せつけられた。 >>975
深谷監督はまだご存命だな
1976年選手権で監督へアンケートで優勝候補を聴く試みがあったんだが、唯1人PLを挙げていたのが印象的で、こうしえんで初戦敗退が2度続いていた中京を立て直したが、肝心なところでの采配ミスで優勝を逃しスパッと退任した引き際は見事だった >>976
国立の準々決勝の相手は佼成学園でした。 昔、朝日新聞のユニホームきたボールボーイが専属でずっとしてたけど、高野連が彼らをアルバイトで雇ってたの? 朝日のユニフォームを着たボールボーイは、報徳学園の一年生部員。 杉浦監督は復帰後も育成は良いがやらかしが多く勝てる試合を落とすことが多々あった
1980年は所、瀬戸山のバッテリーに元南海の吉村を中心の強打線で全国制覇を狙える陣容だったが、大府に逆転負け
82年選抜の準決勝では拙攻のオンパレードで二松学舎にの敗戦 夏も拙攻の繰り返しで広島商に負けて決勝へ行けず。その年の秋の東海大会でも拙攻続きで静清工にまさかの敗戦 >>981
じゃあ、その1年生ボールボーイは金村で優勝した時の報徳を間近で見れたんだ
楽しかったやろうなあ >>981
81年夏報徳学園が優勝した時、二年後の報徳の4番・谷川がボールボーイをやっていた
人選は、甲子園を経験させる報徳側の作戦 報徳の谷川って選抜の桐蔭学園戦0-2で負けている展開で、
8回二死から起死回生の逆転3ラン打った谷川?
試合後のお立ち台インタビューで桐蔭の印象を聞かれて
「こんなん言うたら悪いけど、たいしたことなかったわ」と放言して驚いた。
なるほど、谷川は甲子園慣れしたベテランの雰囲気を醸し出していたわけだw 大会150号の井上のHRラッキーゾーンに飛び込んで取った時
家から持ってきた違うボールを報徳ボールボーイに投げ返したら首かしげながら帰っていったw
まぁそのボールは翌年レギュラーに昇格した井上に開会式予行演習の日に返したけどね 深谷さんは、この間殿堂入りした瀧正雄と二人三脚で戦後の中京野球を築いてきた人
なんだよね。
https://www.umemura.ac.jp/school-history/in-those-days/person1.html
赴任後すぐ選手権に戦後初めて出て準決勝進出。喜んで梅村学園長に報告したら
「歴史を作りましたね。選手権初めての敗戦です。」と皮肉を言われた。翌年、
中山俊丈投手(中日で活躍)を擁して5度目の優勝を果たしたけど、その折の苦労が
http://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/column/legendschool/CK2018011002000214.html
から窺える。
杉浦さんも大学卒業後すぐ監督になって割とすぐ春夏連覇をしたけど、そこから東邦に
勝てなくなったりして苦労した。82年春夏の準決勝での拙攻による敗退は良く覚えている。
特に夏は兄が憤慨していたが、寧ろ私が「池田に粉砕されなくて良かった」という良く
分からない慰め方をした。野中等が居る間に一回全国を取らせたかった。杉浦だけでなく、
阪口、(この夏で引退した)柴垣、(イチロー等を育てた)中村監督の話が
http://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/column/koshienshinseiki/CK2015051202100009.html
にある。イチローが居た時の中村監督の話が特に面白い。中村の前任の鈴木監督が
77年夏の予選決勝で遭遇したことのコピーの様。あの時も絶対優勢と思われながら、東邦の
1年生投手の坂本にひねられた。 >>986
そう。長打は岡本と谷川しか期待できない貧打の報徳打線w 日大三高が優勝した1971年の選抜。下馬評ではジャンボ橘を擁する津久見が筆頭だと
思ったが好投手堀を擁する県岐阜商に完封負け。その県岐阜商も次の鈴木を擁する
木更津中央に競り負けた。木更津中央は球威No.1と言われた水谷擁する東邦にも競り勝ち、
4強に進出するが大鉄に負けた。鈴木は高校卒業後新日鉄名古屋でエースとして活躍した。
正直なところ、大鉄の印象はない。
もう一つのブロックは日大三が勝ち上がり、決勝も危なげなく勝ち優勝。エース渡部は
特に凄い球を持っている訳ではないが、2回戦以外全て完封。安定感のある左腕だった。
その2回戦の相手は普天間(沖縄)。初回に先制したものの3回に逆転を許す。日大三は
その裏に再逆転をして5回までに7-3とリードし、楽勝体制。ところが6回に普天間が猛攻を
見せ、3点を取り一点差まで追い詰め、尚、甲子園の観衆と共に押せ押せムード。顔面蒼白
になる渡部。しかしリードを辛うじて守り切り勝利。唯一日大三が危なかった場面だった。
この頃は春の日大三、夏の日大一と呼ばれ、何故か日大三は選手権になかなか出場できなかった。
この夏も日大一に夏の予選で0-7で完敗。翌年は選抜優勝(、関東大会準優勝)にも拘わらず
戸山に負ける失態。その一方で日大一は73年を除き、選抜はほぼ出なかったものの68-71,73の
選手権代表。 >>976
延長18回1-1の引き分けは佼成学園戦。
しかしこの手のスレって大会中は書き込みが少なくなるのが通例なのに、ことしは書き込み数がやたら多いな。 >>990
あの年の大鉄は確かにノーマークだった
近大附もイマイチだったけどね
大鉄が準決勝で木更津中央に勝って驚いたよ ピッチャー問題もあるが、高校野球はルール変えないとな
球数制限もつける
ベンチ入りを増やすなり、試合ごとに入れ替えをありにする
選手は自宅から2時間圏内(引っ越す家庭も出てくると思うが... )
夏は関西のドーム
春は関東のドーム他
秋は北海道、ヤフオク他
審判の教育に力を入れる
審判にちゃんと抗議ができるようにする 甲子園は高校生と言うか100年を越す世界でも稀な学生スポーツやからねえ。
伝統を守って欲しいと思うのは日本人として願うわ。
甲子園は関西、中国、四国の人たちが中心に大切に育てた大会やからね。
改革したいなら地元で小さい大会でも立ち上げて育ててみたらいいんじゃないかな。 伝統かもしれんが異常気象でこの暑さ
選手がかわいそう だいたい高校野球は毎年、憎たらしい学校が最後には優勝するよな。唯一そうでなかったのがハンカチの早実と佐賀北の優勝かな。 >>998
佐賀北の優勝は誤審やら球場での異様な雰囲気やらマスゴミの偏向報道やらで
最もけったくそ悪かったけど。 レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。