50歳以上のおっさんが高校野球を語る Part.2
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50を超えてしまったおっさんの私が印象に残ってるシーンの一つ・・・・・・・・・
水江の津久見が優勝した時の準決勝天理戦の終了整列時に、
ゴリラみたいなゴッツイ佐藤はじめ天理ナインが津久見ナインに
「がんばれよ〜!!」・・・・って声をかけたのを覚えてる。とても感動的なシーンだった。 >>1
スレ立てお疲れさまです。
前スレの最後に、78年夏の膳所は70年代で最弱とあったが、ほかに70年春の網走南ヶ丘とか、その夏の須坂園芸とかはどうだったのだろうか。この両チームは記憶にない。
沖縄のチームは70年代に入るとわりと力があった印象がある。 「78膳所が70年代最弱」なんて言ってる奴の根拠は、甲子園での派手な負けっ振りだけw
ニワカか!www 甲子園での派手な負けっ振りで十分だろwwwwwww
お前がニワカwwww
春の網走南ケ丘は当時は雪国のハンデが大きかった時代、許してやってくれ
須坂園芸も膳所の内野安打1本の惨殺劇には及ばない
78膳所は69三笠といい勝負だろうな 本土復帰前の沖縄勢は甲子園で惨敗を繰り返している。さしずめいまの21世紀枠のよう。
63年春 首里(PL戸田に21三振を喫す。ただし夏は沖縄初勝利を記録)
65年春 コザ(岡山東平松に6回までパーフェクトに抑えられる。結局は3安打、スコアは0-7)
68年春 沖縄(高岡商に1-14。初回6失点。ただし8安打を放つ)
69年春 首里(広島商に0-12。やはり初回6失点。謝敷投手は18安打11四死球)
あと、58年の40回記念大会に出場した岩手の福岡は夏の予選に入るまで2勝15敗だったが県で優勝して甲子園に出たという話を聞いたことがある。甲子園では和歌山海南に1-14。 >>6
ニワカは、相手関係も考えられないらしいw
膳所は、桐生・木暮、阿久沢に1安打。
須坂園芸は、平安・エース片山温存で、控えの大狩(完投)に1安打。
推して知るべしwwwww >>8
激しく同意。
野球は、相手あってのもの。
力の差を考慮せず、大敗すると「最弱」と大騒ぎするのはにわか。
むしろ、弱いチーム同士で対戦した中に「最弱」は潜んでいるかも...... まあ、俺としては青柳がこれを機に、やはり野球は投手力なんだと思ってくれたら それで良い。投手力のないチームに栄冠はないのだからな。 >>9
最近でいえば今治西と桐蔭の試合のような感じか。
ほかに思い浮かぶのは78年春の岐阜対吉備。
吉備投手陣が17四死球を与えた。 いまは合併で他にもあるのかもしれないが、
むかし 滋賀と京都は全国で唯一の県庁所在地が隣接しているところだったんだね。 >>8
木暮は夏の県大会で前橋工にOKされるなど不調だったことも知らないニワカ君
あと、70年平安は片山はじめ同じ実力の投手が3.4人いたことも知らないニワカ
須坂のヒットはクリーンヒットだが、膳所のヒットはぼてぼてのゴロを野手が緩慢に捌いてセーフになったもの
どうみても70年代最弱は膳所 >>11
岐阜は大塚、広瀬など六大学で活躍した名手がいたし、吉備の岡本も長くプロで飯を食ったほどの選手
ピッチャーが四死球を乱発しただけて誰がみても最弱とはほど遠いぞ
馬鹿試合であったことは確かだが
78年春の最弱は比叡山だよ >>14
残念!
78春の最弱は益田だよ
ニワカくんwww >>15
アホ
優勝校に3点差地味負けの益田は単なる空気 >>9
最弱スレを見直せ、ニワカ
相手関係なと関係ない >>13
平安・片山と同じ実力の控えPって誰?
名前を教えて。
第2Pの大狩は、実力的には片山よりかなり落ちたけど。 >>12
今では仙台市と山形市が隣接するなんて事になってるからなあ
自分が学生時代に仙台に住んでいた頃には考えられない事態になっている >>13
>>19
都合が悪くなると、とたんにno response
だって、大嘘だもんな〜、ニワカくんwww >>13
書き込み待ってます。
噓じゃないことを信じて..... 【日本の高校】台湾が修学旅行先トップに、10年前の11倍超「親日的で心配なく旅行できる」 そう言えば、前スレで美木良介の話題が出てたが、
よく語られるのは75年夏のことだが、
実は74年春にもレギュラーとして出場してる。
その時は初戦で銚子商と当たってるが、
そうなると土屋、篠塚と試合をしてることになるのか。 僕は 兵庫県だけど 静岡商業が好きでね
新浦 藤波 松島とかね それから 左腕深沢 大滝 それから高橋とかね 今は静岡高校ばかり 懐かしいなー >>24
この試合を最後に向井さんが岡山東を去り、県の教育委員会に入ってしまった。
この試合は部長としてベンチ入りしていた。
試合後、勝った銚子の斎藤監督は「好敵手を失って…」と泣いていた。 しかし、ウソをついてまで膳所をディスる奴の気が知れない(失笑) →>>13 >>29
虚言癖じゃね。
噓をついても自分の主張を通したいらしい。
気持ち悪いww >>26
「上を向いて投げよう」深沢
「思い切り投げて四球なら仕方ない」高橋
この二人が早明戦で投げ合ったことがあった。しかも二試合連続で。 >>2
水江といえば、この時期の津久見は浜浦・橘・水江と3年連続エースがプロ入りしてるんだよね。
普通の公立校としては、これはちょっと驚きだな。 小嶋監督時代の津久見高校は普通のl公立高校じゃないぞw
県内の有望中学生は津久見大分商のどちらかへ進学 2強寡占状態
小嶋監督は津久見市の名誉市民で助役よりも発言力が強いと言われたほど
70年代半ばから日田林工が材木マネーで有望選手を集め出して寡占状態は終わったが >>34
久しぶりだな、ニワカくんw
平安の控え投手、早く教えてくれよww >>33
津久見のあの下が黄色で上が黒のストッキングが好きだなー。
高校野球のユニフォームは味気もそっけもないものが多い中、
少しでも黄色とか目立つ色があるとそれが特徴として印象に残るからね。
ちなみに秀岳館の青と黄色のユニはダサくて嫌いだが・・・・。
そういえばその水江と対戦した時の天理のユニは、(今は何もなしの真っ白だが)確か袖とズボンの横にはラインは入ったものだったような記憶がある。
帽子とかの色までははっきり覚えてないが、おそらくまだ紫(天理教カラーなのか?)ではなかったのではないか?? Wikipediaでその1972年夏の出場校見直したら、
膳所が出てるんだなー。なんだかんだ言って、これは桐生に負けたの覚えてるが1978年も出てるし、
滋賀県ベスト8で今回選ばれるのは???うーん、どうでしょう?って感じだな。
もっと出てない伝統校もあるだろうに? >>36
マックス佐藤が天理のエース兼主将で甲子園出場した時は帽子は黒てわユニフォームには細いラインが入ってました。 >>38
ですよねー・・・・まだ紫ではなかったもんねー。
それと佐藤がピッチャーだったことは忘れてたなー。
早稲田とかでは確か打者に転向してたよね、そのイメージが強いので・・・。 >>39
もともとファーストだよね。
三年のときはチーム事情でマウンドに上がっていたんだろうけど。
早稲田では野手一本だったね。大型選手にありがちなもろさがあった。六大学で17本塁打するなどパワーはすごかったがプロから指名がなかったのもそういうところが嫌われたと思う。
日生で活躍したな。 >>40
エースの金森は制球難があったからな
結局、佐藤をエースにして金森は打撃を生かして外野手に固定した
金森は中日から投手としてドラフト指名されたくらい素材としてはいいものがあったんだが、投手としては開花しなかった >>40
僕もさっき「そういえば、佐藤ってプロ行ってなかったよな〜・・・」って思ってたとこでした。
強打のイメージがあったのにねー。社会人で終わったのか〜・・・・・。 マックス佐藤は大学三年秋の早慶第二戦で戦で5打数5安打3本塁打17塁打(ほかに三塁打、二塁打1本ずつ)の記録を作ったのが強烈な印象。
それまでは打率が二割に満たない不振のシーズンだったが、突然変異の大爆発。
テレビを見ていたが二塁打もエンタイトルだったのであとわずかで4本塁打になるところだった。
打たれた投手の中に小綿(盛岡三出身)がいた。 マックス佐藤がエースだったときの天理で一塁を守っていた北口勝久は、後に早稲田大学で石山監督に投手にコンバートされ、4年生のときはエース格で活躍しました >>44
平安の控え投手の名前、まだ?w
おおウソつきさんww >>40
6大学通算で15本以上の本塁打を打っている選手の中でプロに行けなかったのは19本塁打の山口高誉(立大)とマックス佐藤だけ?
山口の1年先輩で15本塁打の黒須陽一郎もドラフト指名は受けたし。 50過ぎたおっさんの罵り合いはみっともないからヤメレ。見苦しい。 >>13
>>44
70平安には、エース・片山と同レベルの投手が3・4人いた事実はない。
素直に謝罪したらw >>42
佐藤は大学四年のドラフト後に巨人の長嶋監督から「ドラフト外でキミを採りたい。来ないか」と電話で誘われたが、「本当に僕を欲しいんだったらどうして指名してくれなかったんですか」と断ったらしい。
日本生命では85年の都市対抗で優勝。のちに早稲田の監督も務めた。 >>44
78年秋は勝ち点4同士の早慶決戦、第一戦で完封、優勝に貢献した。 >>50
第2戦で胴上げ投手になったのが1年生の三谷
三谷は怪我さえなければ間違いなくドラフト上位指名でプロに行けたな 本当に惜しい >>51
レスポンスがないから、70年代の最弱は須坂園芸に決定しました!www 香川から。54年春の浪商、箕島の決勝をユーチューブでみた。自分は当時高一。牛島のテンポの良い映像が懐かしい。この牛島、香川の浪商に我高松商が黒星をつけた。今香川は最弱県認定されるが、この頃自分の感覚では全国で10位圏内にはいた感覚です。 >>53
77夏から78春への河地の伸びはまるで別人のよう。
片や78春の牛島も成長途上で、79春とは全然違う。
結果、チームの完成度の違いで高松商が勝った。 昭和54年春の決勝の動画見ると、ドカベン香川、嶋田捕手ふたりとも
両手取りなのだが、チップとかで右手危なくないのかな と思った。
昔の捕手はみんな両手取りだったのか。 あの時の浪商は例年の年なら全国制覇したレベル。しっかし残念ながら、あん時は超試合巧者の箕島がいたからな。 まあ、オールドフアンとしては、桐生、浪商、箕島、池田、辺りには復活して欲しいね。 >>53
そういえば、30年夏には坂出商が準優勝してますね
正岡子規の時代から四国全体がレベル高かった印象
どの県も3〜4校の強豪の名前がスラスラ出てくる >>52
反対
70年代最弱は実質ノーヒットノーラン、18点差大敗の78膳所でーす >>55
53です。自分も野球部でキャッチやってましたが両手取りだった。その頃はなんか片手取りとか、グラブから人差し指を出すのは、格好しぃなんて云われてました。 >>58
香川が10位圏内って言っても、愛媛、高知は上で、徳島と香川がエエ勝負してた感覚かな?自分のチームも秦、島田のいた鳴門に木っ端にやられた。その鳴門に丸亀商が勝ったんだ。 でも四国って、少し前まではいきなり初出場とか、全国的には無名とかで出てきて優勝、準優勝って多かったよね。
池田、中村、伊野商、新田、宇和島東、観音寺中央・・・・。 >池田、中村、伊野商、新田、宇和島東、観音寺中央・・・・。
50代の自分でも、さすがにこれらが少し前とは思えない >>63
「少し前」という表現は自分でも無理があるかな?と思いつつ、まあいいかと思って書きました。
それだけあの頃の四国はそういう高校のイメージが今でも残っているということなんで、どうぞご理解を!(苦笑)
・結構ここで細かいとこ突っ込まれること多いんで今後は気を付けるよ(先週の「プロ野球以外で有名な・・・・・ジャンボ尾崎、とかね。これもまあいいかと思って書いたんだが・・・皆さん細かいとこまで厳しいねー(笑))
さすが50台!! >>56
夏は池田にやられたんだよね
池田は82年夏以降の印象が強烈だけど、この年のチームも強力打線だったよね >>59
>あと、70年平安は片山はじめ同じ実力の投手が3.4人いたことも知らないニワカ
この大ウソの釈明を聞きたいもんだな、虚言癖のニワカくんwww >>68
浪商が準決勝で箕島をコールドで沈め、決勝ではPLを破った尼崎北に快勝 香川は手指を骨折して近畿大会では猪熊がマスクをかぶった。
箕島戦、石井は先発しなかった、たしか江川だったはす。箕島は1、2回に4点ずつ取られて結果は4-11の8回コールド負けだった。 >>59
却下w
謝罪もできないポンコツじじいwww 江川は星稜との延長戦が再試合になれば先発予定だったんだな。
スピードだけなら石井や上野を上回る本格派だったらしく、若くして鬼籍に入ったのは残念。 どなたか盈進のエピソード詳しい方いませんか?最近復活できそうであと一歩の、もう43年出てませんね・・・ >>73
県大会で広陵、中国大会でドラフトの目玉・引地を擁する倉敷商を破って「センバツ行けるぞ!」と思った途端........ 確か、あの時の浪商には香川、牛島の他に山本って強打者がいたよね。 あの決勝って、
牛島はもうかなり体力的にヘロヘロの状態だったって言ってたっけ?
全く真っ白の状態でやったらやっぱ浪商の方が勝ってたかもね・・・?? それと、2人はあまり仲が良くなかったのか?
それこそ昔、週刊誌レベルの記事で、
牛島(香川を) 「あいつは練習せえへん・・・」
香川(牛島を) 「あいつは不良や!」
というような感じのコメントが載ってたの読んだ記憶がある。 ところで、全国制覇クラスで一代を築いた名監督が去って、新監督になり、また復活して強くなってきた学校って殆んどないよねえ。横浜もイマイチだしなあ。 >>76
浪商は5試合目 箕島は1回戦不戦勝で4戦目
しかも浪商は準々決勝の川之江戦で延長13回を戦っている 名監督勇退後に低迷期を迎える学校もあれば不祥事による出場停止から躓いて低迷期に入る学校って多いよね。 >>78
松山商の窪田(1986年準V)→澤田(1996年年V) >>73
78年夏、12年夏は奇しくも広島工との決勝戦。
いづれの年も、前評判では互角。特に78年は、春の県大会で広島工を破っていたから期待したが…
それにしても、盈進が決勝戦に出て来る年は、決まって波乱の年!w >>84
広島のドラフト1位・田辺が卒業した翌年度で、エースはアンダースローの渡辺。
この年も優勝候補の広島商、広陵、崇徳が相次いで敗退。
ベスト4の顔ぶれを見て、正直「広島、終了〜〜!」と思ったw >>82
愛媛の新居浜商は前者だな。
鴨田監督時代の新居浜商は「県でベスト8に入れないなんて珍しい」と言われてたが、
鴨田監督が去った後は「県でベスト8に入るなんて珍しい」と言われる有様。
鴨田監督は法政OBだが、あの法政・五明監督勇退後にOB連中が有無を言わさず
鴨田氏を法政の監督に引き抜きやがったのは今でも許せん。 鴨田監督は法政大でも手腕を発揮、江川世代が抜けたあとの法政大を立て直し黄金時代を築いた 鴨田さんが新居浜商を去ったのは残念だった。
しかし、異動後も手腕を発揮、法政では初優勝は6シーズン目の80年秋と出足は苦労したが、その後は黄金時代を築いた。82年春は西田、木戸、田中冨生などで10戦全勝、強かった。
法政のつぎは日本IBM野洲の監督も務め、高校野球の解説も91年春から担当した。
鴨田さんの人生にとっては良かったと思う。
しかし、鴨田さんが去ってからの新居浜商は見る影もなくなった。鴨田さん時代の入学組が残った最後の79年夏を最後にまったく名前を聞かなくなった。91年春にプロ入りした神野で県準優勝したくらいだな。 四月には、ココに顔出せる清原世代の1個下です。 宜しくです。 50代にはフライングやけど許す(笑) 4月1日生まれが、その学年の最終になるって、桑田真澄で知った。もうKKコンビが50歳か。(^-^ >>85
広島工も、前チームの主力が抜け1年生2人を主力に登用する苦しいチーム。
おまけに、甲子園大会直前にレギュラーの1年生・滝川君が骨折でドクターストップ。
それでも、中越に勝って箕島相手に「あわや?!」の善戦をしたのには驚いた。 投手は津田だった。
南陽工業の津田とは力が違ったががんばった。
箕島戦、1点先制したあと、バント処理して三塁に送球したがサードが取れずに同点になってしまった。少しそれたが取れない送球ではなかった、サードも固くなってしまったと話していた。
満塁のピンチで代打西川に痛恨の押し出し。マウンドで無念の表情をしていたのが記憶にある。 >>91
エース津田は、急角度に曲がる面白いカーブを投げていたな。
ショート中村は、専修大→日本生命とレギュラーで通した。箕島戦でのファインプレーが記憶に新しい。 結局、期待された滝川、浅川の代の広島工は、甲子園には来れなかった。 広島といえば、
黒田でセンバツ制した崇徳思い出すけど、
当時他県の僕らのイメージは「崇徳=バレー」で、野球はあまりイメージなかったんだけど、
それ以前も県内ではまずまず実力校だったの?? >>95
甲子園初出場から時間は経過したが、普通に強豪校。
甲子園初優勝の3年前のチームは、優勝チームと互角の力があった。ただ、当時は広商全盛期だったから、甲子園とは縁がない。
崇徳よりも、広島工のほうが実力校感は薄かった。甲子園が現実的になったのは、小林誠二が入学してから。 崇徳は73年夏の県決勝で広商に2-4と敗退。
投手はのちに阪神入りした藤原だった。
1イニングで一挙4点取られたんだよな、5回か6回だったか。
75年夏決勝もこれまた4回に一挙4点取られて広商に敗退。黒田が二年のとき。 72崇徳も東芝のエースで橋戸賞男・黒紙を擁し期待されたが、秋は広商にまさかの敗退。
黒田が、今までの恨みを晴らすように広商をノーヒットノーランに抑えたが、82年に痛いシッペ返しが…… >>98
82年のチームは、全国制覇も期待されていたな。
広商は「創部以来最弱」と言われ、崇徳の楽勝かと思ったら、エース山川(現ソフトバンク・コーチ)が準決勝とは別人のような球威のなさ。
崇徳vs池田の決勝戦を見たかった。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています