(宣教師ヴァリニャーノの)室での滞留により大いに利益を被った二番目の人物は、官兵衛殿の一人息子で後継者であるカイノカミ(=黒田長政)であった。
彼は関白の了承を得、すでに父から豊後国を渡されており、これを所有し統治している。
洗礼名をダミアンと称し、当時二十二歳、または二十三歳であった。
だが極めて優れた理解力と知識の持ち主で、その秀でた勇気と勤勉と相まって、日本で彼に優る者はごく僅かしかなく、したがって関白殿から気に入られ寵遇されていた。
五年前に父の官兵衛が関白の軍勢の武将として、一軍を率いて秋月を襲撃した時に、この息子は関白の命令により、戦場へ父に会いに来た。
当時、彼は十七歳であった。
その折、彼の父は彼がすぐにキリシタンになるように説得し、彼はその地で幾つかの説教を聞き、多くの家臣とともに受洗した。
だがこのたび関白の迫害が襲った時には、まだキリシタンとしては日が浅く、若輩で、我らの教えについてはほとんどなにも知ってはいなかった。
つねに自分がキリシタンであるとは公言していたものの、彼は聴聞したことに大いなる疑問を抱いていた。
特に人間が救われるためには、洗礼を受けてキリシタンになる必要があるということが納得できなかった。
彼には、人間は道理にしたがって正しく生きさえすれば、いかなる宗教によっても救われると思えたからである。

「フロイス日本史」より、1590〜1591年頃の黒田長政についての話