TOMBOY 復活!!おめでとう!!!!
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
あのファンタジーボードゲームの鬼才
プレイステーション トムボーイ が装い新たに帰ってきた!
なんかメイドカフェとかに手を伸ばしているようだが、そんなの全然関係ないぜ!
・プリンセスクエスト
・ドラゴンパニック
・列強の興亡
・HPラブクラフト
クトゥルフホラー
http://ps-tomboy.com/home.html 林「なんでそんなもの認可されるんですか。しかも9電力同じで。とんでもないことです」
迎「ただね、われわれもね、それで認可をずっとしてきたんだし」
林「経産省に責任があります」
迎「いや、責任があるといわれるかもしれないですが、
去年の値下げについてもそういう区分でやったことを、われわれはおかしいという立場ではないんでね。
ご意見はご意見として承りますが」
林「こんな不景気でね、倒産が相次ぐ中、現実に金を払わされておるんですよ。
そんな悠長なことと違うんですよ。私も(通産省)OBですからね、こういう交渉は抑えに抑えてきたんですよ。
しかし調べれば調べるほどひどい」
当時の加盟会社役員は振り返る。
「われわれは電力は供給していただくものと考えていた。
林さんは、電力は買うもので、われわれは消費者だという考えだった」
林がこだわったのは電力料金の「士農工商」だった。
英国での検問:17
隣と同じにしてくれ
電気料金は、企業と家庭では格差がある。それは広く知られている。
しかし企業利用者の間にもさまざまな差がある。
その料金は公開されておらず、電力会社と企業の個別交渉で決まっていく。
日本ボランタリーチェーン協会の林信太郎(故人)らの
2001年当時の調査によると、その中身はざっと以下のようなものだった。
当時の電気料金は「大口の工場」で
1キロワット時あたり平均約12円だった。
「大口の商店」は同18円。1.5倍だ。
「小口の工場」は同14円。
「小口の商店」は同23円。
林は01年9月、資源エネルギー庁電力・ガス事業部長の迎(むかえ)陽一と交渉したとき、その点も持ち出した。
「補助金をくれとかそんなんじゃないんです。隣の工場とキロワットアワーの単価を同じにしてくれというだけですよ」
価格差をなくすために電気事業法に基づく認可申請の「変更命令」をすぐに出すよう求めた。
「大口」と「小口」の格差だけでなく、
小売業には工場と別の体系が適用されている。そんな電気料金制度にも、林の議論は及んだ。
なぜ体系が別なのか。業界内にはそれを差別ととらえ、
「電気料金の士農工商」と、江戸時代の差別的身分制度になぞらえる言葉まである。 体系はさらに、
超大口である「特別高圧」、
大口の「高圧」、
一般の「低圧」と分けられる。
そして使用規模に応じた料金体系とは別に、
利用者の形態による区分がある。
オフィスビル、小売店、学校などが対象になる「業務用」。
家庭用の「電灯料金」。
その区分ごとに、さらにまた料金が違う。
そうした料金を、電力会社は相手の顔を見て決めていくわけだ。
しかし、林の追及にも迎はほとんど応じなかった。
「ただちに是正命令を出せ、区分の見直しをとのことですが、
全体の制度の中でどの方向がいいのかということは、私たちも問題意識として持っています」
そして03年、林は外圧の中で会長職の辞任に追い込まれるのである。
経産省によると、全国の電力会社に常勤の役員や顧問として天下ったOBは過去50年間で68人いる。
昨年の震災前にも、資源エネルギー庁長官が
東電の顧問に天下って批判を呼んだ。
経産省と電力会社は密接につながっている。 英国での検問:18
自由化すれば変わる
大阪市中心部にある関西電力本社の高層ビル。
一般エレベーターは35階までしか行かないが、最上階の36階には直通エレベーターがある。
日本ボランタリーチェーン協会の林信太郎が2001年当時、電力料金の格差をめぐって激しく攻め立てた
経済産業省の迎(むかえ)陽一はいま、この36階、役員フロアが職場だ。
04年に商務流通審議官に転じた後、54歳で勇退、商工中金の理事になる。
その2年後の08年8月に関西電力顧問に転じ、09年6月の株主総会で常務に就任した。
36階の役員室は広い。大きな窓からは大阪平野が見渡せる。ゆったりとした執務室で、迎が口を開く。
「戦後は(外貨を稼ぐ産業に資源を集める)傾斜生産みたいなことがある時代だった。
その後、料金改定を何度もやるんだけど、経産省も抜本的に直すことをしなかった。経産省も産業官庁だから」
しかし、商工格差への不満は高まってくる。
その急先鋒(せんぽう)だった林とのやり取りを振り返る中で、
迎は「自由化」という言葉を出した。
「林信太郎が画期的な新説を述べたわけではない。
ぼくは、そういうものも含めて、電力自由化の中で是正されればいいと思っていた」
電力自由化とは、その名の通り利用者が電力会社を選べるようにすること。
自由に選べれば価格も交渉で下がる可能性がある。
林とやり合っていた当時、自由化への期待は高まっていた。
95年、電力会社以外による発電事業が認められた。
00年には大規模工場や大型ビル、病院などに対する超大口の電力小売りが自由化された。
大口電力の自由化も当然となり、さらに小口にまで自由化が広がる勢いがあった。
それを先取りするように電力料金の値下げも進んでいた。
迎が就いていた資源エネルギー庁電力・ガス事業部長のポストは、
経産省キャリア官僚にとって「経済界への顔見せポスト」とされる。
話をする相手は電力会社の常務クラス。
官房長、事務次官と出世するにつれて、相手も社長、会長と変わる。
そうやって両者の間には濃密な関係が築かれていた。
が、電力自由化は徐々に進む。
電力会社側から見ると、自由化は経営基盤を揺るがすものだ。
警戒すべきその自由化が、02年ごろから少しずつ減速する。
背景には電力会社の攻勢があったとされる。
経産省は、幹部だけでなく末端の官僚まで、さまざまな攻勢にさらされていた。 英国での検問:19
ガス中毒か 感電か
1998年のある夜、資源エネルギー庁の電力担当課に属する係長が電力業界の人間と銀座で飲んだ。
翌日、その係長は電力会社内の情報源から、
「あの係長はガス中毒」と書かれたメールを見せられた。
銀座のクラブでしゃべったことが細かく文章にされ、
電力9社の通産省(現経産省)担当者にメーリングリストで回っていたのである。
「ガス中毒」とは、ガス業界に近いことを意味する。
逆に、電力業界寄りだと「感電」といわれる。
電気とガスの業界は、家庭向けでも企業向けでも競争をしている。
通産省の規制いかんで競争条件が変わるため、通産省の方針は大きな関心事だ。
その中で係長の「思想」は、ガス業界寄りと判断されたわけだ。
係長はそうしたメーリングリストを「夜の議事録」と名付けた。
酒席の話も議事録を通じて業界で共有される。
係長は以後、記憶がなくなるほど深酒をすることをやめた。
いまでもその習慣は残っている。
役所内の光景も、係長の脳裏に深く刻まれた。
当時、資源エネルギー庁公益事業部(今の電力・ガス事業部)の各課には
電力業界関係者が自由に出入りして、夜になると担当者を誘っては飲みに連れていった。
彼らは、昼間も用がないのに出入りした。目当ての官僚が席を外すと、机の上の書類やパソコンの画面をのぞき込む。
「思想チェックなんです。
もちろん、その場にいたらそんなことはさせませんが、すきを見てはのぞく。
そして、何かと理由をつけてはビール券の束を持って来る。
われわれもそれを受け取って、課内の宴会などで使っていました」
電力会社の接待は、電力会社の保養施設での一次会から始まる。
まず勉強会を30分から1時間ぐらいして、酒の席になる。
専属の料理人がいて、高級な料理が出る。その後で銀座のクラブに繰り出す。
「当時は公務員倫理法がなかったので、接待漬けでした。
そうしないと向こうの情報も取れなかった」
原発見学の誘いもあった。夜は宴会となる。
年度末になると「予算を消化しないといけない」「10万円のワインを開けましょう」。
思想チェックと甘い誘い。
そのチェックポイントは電力自由化に対する思想だ。
かつて、電力会社は官僚に密着することで、その動向を探っていた。
英国での検問:20
送電網めぐり激突
旧通商産業省出身で、2001年1月にダイエーの会長に就いた
雨貝二郎(66歳、現日本アルコール販売・会長兼社長)は、電力会社を相手にこんな交渉をした。
「スーパーの冷凍庫は24時間動いている。これは安定的な需要だ。格安にしてもいいじゃないか、と」
旧通産省でもスーパー業界でも先輩である林信太郎から
「使用量の変化が大きいとみなされると電気代が高くなる」と聞いたためだ。
しばらく交渉すると、東京電力が値下げに応じてきた。
「その時は、電力業界の中も開明派と保守派とに分かれていた。
東電は、少しぐらいなら努力しようという姿勢があり、懐が大きい感じだった。
東電で前進したら、それをほかの電力会社にも求めた」
一巡するとまた東電との交渉に戻る。こうして少しずつ前進した。
しかし雨貝は、ある時点から「東電の懐が浅くなった」と感じた。
「ほかの電力会社から『前向きすぎるんじゃないの』という声が出たのではないでしょうか」
当時の東電社長で、電気事業連合会の会長でもあった
南直哉(のぶや)(76)は、家庭用まで自由化することに賛成を表明していた。
南は、実はそこには東電独特の事情もあった、と振り返る。
「首都圏の世論は厳しかった。電力は殿様商売で、日本の電気は世界一高いと。
そんなことはないと自負していたので、自由化されればわれわれが正しいことが証明されると考えていました」 しかし、地方電力会社の反対があった。
「激しい競争になると、いいお客だけ持っていかれて、割が悪いお客だけ残る可能性がある。
いままでの安定した経営はできません」
反対の声には説得をした。
「自由化のメリットもある。経営の効率化、サービスの充実で会社の体質が変わる、と」
その南は、やがて送電網のあり方をめぐって経済産業省と激突する。
「電気事業の根幹は、発電ではない。
需要に応じて発電したり止めたりしながら送配電する仕組みです。
ところが、経産省は送配電を細部まで許認可権で縛ろうとしてきた」
南は真っ向から反対した。02年のことだった。
この年の8月、東電の原発でトラブル隠しが発覚。
南は責任を取って辞任する。
南が進めようとした電力自由化は中途半端なまま、今日に至っている。
値上げ「寝耳に水」
東京都日野市のマンション「ビバヒルズ」(629戸)の管理組合に、
2月上旬、東京電力からの「電気料金値上げのお願い」が届いた。
その値上げ額は年間で153万円にもなるという。
中身は、基本料金はそのままで、
1キロワット時あたり2円61銭の値上げをするというものだ。
その結果、昨年の約867万円が約1020万円に増えるという試算がついている。17.7%の値上げだ。
マンションには、個人で所有する居住部分のほか、廊下や敷地などの共有部分がある。
その電灯やエレベーターで使う電気代は住民が払う管理費でまかなわれる。
その電気代が業務用で契約されているので、4月から値上げするという。
受け取った管理組合理事長の黒崎昇(59)は頭を抱えた。
「まさに寝耳に水です。事業用というので、自分とは関係ないと思っていました。
これは1年だけのことではない。10年で1500万円にもなる。長期修繕計画を練り直さないといけません」
ビバヒルズは2005年に分譲されたマンションだが、07年に長期修繕計画を大きく見直した。
この時に助言したマンション管理士の瀬下義浩(50)が言う。
「マンション販売業者は、購入者の負担を低く見せて売りやすくするために、
積立金を低く設定する傾向があります。ビバヒルズの場合もそうでした」
マンションには管理費と積立金の負担がある。
販売業者としては、関連会社などの仕事にもなる管理費は減らしにくい。
一方、将来の修繕に使う積立金は削られやすい。
ビバヒルズは積立金負担を2.1倍に増やす一方、
管理費を見直して積立金に回す計画を立てた。
その管理費の約8%が電気代だった。
ビバヒルズでは、昨年の東電福島原発事故を受けた節電のため、共有部の電灯を間引きして半分にした。
これで経費も浮いたが、節電の夏がすぎ、「暗い」という苦情もあり、12月に戻したばかりだった。
ビバヒルズ管理組合は3日の理事会で、値上げに応じないことを出席者の全員一致で決めた。
「我々は629戸の負託を受けています。黙って従うわけにはいきません」
ビバヒルズは2年ほど前から電気代対策で「一括受電」に切り替える検討をしてきた。その検討を本格化することにしている。
英国での検問22
変圧する権利ある
2月末、東京都昭島市のマンションで、1982年に建てられて以来使われてきた変圧器を交換する工事が行われた。
東京電力の大小4基の変圧器が外された。
新しい変圧器は、「中央電力」というマンション電力サービス会社のものだった。
マンションは、東電から6600ボルトの電力を一括で受け、それを100ボルトに変圧して各戸に供給する。
これまでは東電が変圧していた。
それを今後、電気は東電のまま、変圧を中央電力に任せる。
すると、廊下やエレベーターなどで使う電気代が標準で4割減るという。
東京都千代田区の中央電力本社で、常務の平野泰敏が説明した。
「マンションはもともと高圧で受電している。
住民はそれを変圧して使う権利を持っています」
高圧で受電する「業務用」の単価は、東電の場合、夏以外の昼間は1キロワット時あたり約15円。
ところが、家庭用は約23円が中心だ。
業務用の安い高圧電力を受電しながら、各家庭が高い料金を東電に払う。
一戸建てだと、電柱を立てて電線を張る必要がある。
マンションは、電柱も電線もなしで戸建てと同じ電気料が取れる。
電力会社にとって割のいい顧客だ。
それを、業務用の配電の段階で東電からまとめて買い、変圧・配電をマンション側でやれば安くできる。
「一括受電」と呼ばれるこの方法なら管理費を大きく削減できる。 東京都江戸川区のマンション「宇喜田ホームズ」は、5月に変圧器交換の工事を予定している。
管理組合理事長、鷲森雅弘(68)はいう。
「コンサルタントに依頼して管理費を削減し、植栽、清掃費を減らすなどいろいろやってきました。
東電以外の電力会社に替える検討もしましたが、断念しました」
一番の問題は、220戸の全員が別の電力会社に契約を切り替える必要があることだった。
契約変更に反対する人は必ず一定数いる。
そういう人たちは会うことさえしない。
契約に応じない住民をどう説得するか。
中央電力は、それを管理組合に代わって自分の会社でやった。
部屋の出入りの時をねらうしかない。
深夜や早朝に張り込みをした。
鷲森は言う。
「中央電力が契約を一本にまとめてくれたので可能になりました。
次は電力の買い入れ先を変更することも考えます。
東電が値上げするならなおさらです」 英国での検問:23
すべて新顔が落札
川崎市の会社員、武井智弘(37)のマンションには、おもしろい仕掛けがある。
ウェブサイトでいま使っている電力が分かる。
1日の使用量の変化も分かるので、何が電力を食うのかを意識するようになった。
「電子レンジや洗濯機を使うとドンと上がります。目で見てわかるというのは大きい」
サービスに登録した約900人の中で、使用量が少ない順にランキングされる。
電気代を減らすと順位が上がる仕組みだ。
「使わない部屋の電気を消して回ったり、洗浄便座の水温を下げてみたり。
それでも100位ぐらいにしか上がらない。
上位の人は何をしているのだろうと思いますよ」
電力の使用量を減らすとポイントがもらえるサービスもある。
その連絡は携帯電話に来る。
「使用抑制を呼びかけるメールが来ると、暖房を消して、家族でスーパーに避難するか、なんて」
このサービスを提供しているのはNTTファシリティーズ(東京都港区)だ。
武井のマンションは東京電力ではなく、
新規参入の発電会社「エネット」(港区)が電力を供給している。
料金が東電よりも5%安い。
そのエネットは、NTTファシリティーズが出資した会社なのである。
エネットはそのほか、東京ガスと大阪ガスの出資も受け、電力の小売りが一部自由化された2000年に設立された。
日本の電力供給量は自家発電を含めて年間約1兆キロワット時あるが、
新規参入はその2%程度でしかない。
その半分の約100億キロワット時をエネットが供給する。
マンションだと約1万3千戸に提供しているという。
電力は親会社のガス2社のほか、
ゴミ焼却場や工場などの自家発電などから買っている。
たとえば、横浜市の四つのゴミ焼却場は
電力の販売を入札にかけている。
エネットは昨年、4件のうち3件の電力を落札した。
しかし今年はちょっと苦しい。
2月に行われた12年度の入札では、新顔のJX日鉱日石エネルギーに4件すべてを落札されてしまった。
入札参加者自体も増えた。競争が激しくなっているのだ。
東電の原発事故で、新規参入電力会社の注目度は高まった。その結果、少ない電力源の争奪が始まっている。
英国での検問:24
値上げ率のマジック
これは「数字のマジック」なのではないか――。
東京電力が7月にも計画している家庭向け電気代の値上げ率が、10%程度と報じられていることだ。
事業用の料金が17%程度と発表されているので、配慮があるように見える。
しかし、値上げの額自体は大差がないのだ。
実際の値上げ額は1キロワット時あたりで「2円63銭」が軸とされている。
すでに発表されている企業向けが数銭低いので、家庭向けは逆に数銭高いのが実情だ。
額が同じなのに10%と17%の差が出るということは、もともと家庭用の料金が企業向けより高いためなのだ。
現在の家庭用の料金は企業向けの1.7倍なのである。
2円63銭の負担増は、1月17日に事業用の値上げが発表されたとき、すでに明らかにされている。
この時、家庭用を含めた東電の2012年度の販売電力量2720億キロワット時を前提に、
燃料費の値上げ分を均等に負担する試算が示された。
企業向けの中でさらに大口の特別高圧は、アップ率さえ秘密にされている。
アップ率を公開すると、電気料金の極端な安さが明らかになってしまうからだ。
事業用は4月からだが、家庭向けの値上げはまだ公式に発表されてはいない。
あくまでも報道段階だ。
事業用の値上げが公表された後、各メディアは家庭用料金の値上げ幅について「最大10%」「10%前後」といった観測記事を出した。
人々がどう反応するか見るために、意識的に情報が流されたように思える。 2月25日になるとNHKが家庭向けを「10%程度で調整」と報じた。
3月3日の毎日新聞は「値上げ幅を圧縮」と表現しながら10%程度の値上げと書いた。
値上げ10%を報じた5日の朝日新聞夕刊も「家庭向けは新しい基準で申請」とした。
要するに「割り勘で払おうね」となっただけなのに、
率で表現されたために「事業用に比べて低い、家庭用には配慮があった」と感じられる構図がつくられている。
東電の販売電力量は、年間2720億キロワット時と想定されているので、
1円の値上げでも2720億円の増収となる。大変な額なのだ。
値上げは大きなコストアップになるため、企業の抵抗は大きい。
その結果、しわ寄せは家庭に来る。
東電の値上げには、もう一つ数字のマジックがあると指摘する人がいる。 英国での検問:25
処分場、ドーム100個分
5日、東京電力経営陣に原発事故の責任を問う株主代表訴訟が起きた。
株主の一人、堀江鉄雄(64)は1990年から、株主として東電の経営を見てきた。
電力料金値上げの理由を、東電は原発の停止による燃料費の増加のためと説明している。
堀江はそれを数字のマジックだという。
「燃料費だけ見れば原発は確かに安い。
しかし、止めても大きな費用がかかる。
それをまかないながら利益をあげるための値上げなんです」
2003年度の東電の原発の発電量は、
最近のピークの06年度と比べると35%しかない。
原発のトラブル隠しの影響で発電量が大きく減ったためだ。
にもかかわらず、発電費用は79%もかかっていた。
06年度、火力発電費用に占める燃料費の割合は76.4%だ。
しかし原発の場合は9.7%にすぎない。
原発の燃料は、発電した後も金を食い続ける。
東電の昨年末時点の決算によると「使用済み燃料再処理等引当金」は1兆1723億円にのぼる。
青森県六ケ所村にある日本原燃の再処理工場が稼働していないためだ。
それとは別に、電力各社は日本原燃を支えるため、1兆円以上の処理費を前払いしている。
さらに、「原子力環境整備促進・資金管理センター」に預けてある再処理費用もある。
経済産業省の外郭団体だ。
全国の原発の分で2兆4416億円(11年3月)ある。
さらに、核燃料は再処理したらなくなるわけではない。
英国は昨年11月、再処理工場のセラフィールドがある
カンブリア州に地下の処分場を造ろうと、住民らの意見を聴く手続きを始めた。
地下200〜千メートルに、600〜2500ヘクタールの処分場を造る。
東京ドーム100個以上の広さだ。
工事の費用は予測もつかない。
処分場に反対する画家のマリアン・バークビーは言う。
「セラフィールドは57年に重大な放射能漏れ事故を起こした。
今度は原発のゴミ捨て場になるという。
私は絵を描いて反対しています」
電気事業連合会の試算によると、使用済み核燃料は再処理だけで19兆円かかる。
最終処分まで考えると、コストは膨大だ。
そんな始末におえないものを生み出す原発が、いま全国に54基もある。
(松浦新)
◇
明日から第9シリーズ「ロスの明かり」に入ります。
ロスの灯り:1
見過ごせない失敗
福島第一原発の事故を受けても、国が「原子力推進」に立ち返るのを待っている県がある。青森県だ。
その青森県で1月、見過ごせないほど大きな「つまずき」が起きた。
使用済みの核燃料をもう一度使えるよう再処理する工場でだった。
事業者の日本原燃(にほんげんねん)は1月24日、
再処理で出る高レベル放射性廃棄物をガラスで固める試験に向け、最終の作業に入った。
炉に入れてあった模擬のガラスビーズを熱で溶かし、容器にうまく流れ落ちるかを見た。
しかし、流速が決められた水準に達せず、作業は中止。試験は延期となった。
社長の川井吉彦(かわい・よしひこ)(68)は2月末の記者会見で
「解決困難な技術的課題に直面しているのではない」と理解を求めた。しかし、無理があった。
固化の失敗は初めてではなく、この失敗こそが再処理工場の完成を18回も延期してきた主因だからだ。
しかも今回の試験は、与党の民主党の議員有志から、核燃料を再処理するのはもうやめようとの意見が出ている中でおこなわれた。
失敗の原因は究明中だが、炉の壁にはりつけてあるれんががはがれ、
ガラスを固化体の容器に流し込む漏斗(ろうと)をつまらせた可能性が大きい。
そうならば、この失敗は茨城県東海村の模擬炉で2度起きた失敗と同じだ。
日本原燃は、いまだ完成していない技術を青森に持ち込み、実用で使おうとしたことになる。
高レベル放射性廃棄物はいわゆる「死の灰」だ。使用済み核燃料を再処理しプルトニウムとウランを取り出した後に残る。
半減期が長い様々な核物質からなり、放射能量は固化体1本で2京(けい)ベクレルもある。
表面の放射線量はできあがった時点で毎時1500シーベルト。
近づけば1分以内に死ぬ。 青森県は、高レベル放射性廃棄物を生み出す核燃料再処理工場の県内設置を引き受けた。
それだけでなく、仏英につくってもらったガラス固化体1440本を「一時的に」貯蔵する施設も引き受けた。
すでに1414本を受け入れている。
今の状態で青森県側から、核燃料の再処理をやめて、という要望はない。
最終処分地が決まっていないのにそんなことをして、
「一時貯蔵」という約束がなくなり、永久に置いておかれては大変だからだ。
青森県が原子力開発の継続を求める背景はここにもある。
青森県はなぜ、こんなやっかいなものを引き受けたのか。
それを知ろうとするなら、今から50年ほど前、
ロサンゼルスの街の灯(あか)りに取りつかれた一人の男の話から始めなければならない。 (宮崎知己)
◇
新シリーズ「ロスの灯り」は、開発と人々の幸せを考えます。
「米国の象徴を見た」
1963年9月22日午後8時。旅客機がロサンゼルス空港に向かって高度を下げた。
その機内で、窓に顔をはりつけている日本人がいた。
男はこれまで、機内の他の乗客の様子ばかり気になっていた。
欧米人が深くしっかり座っているのに、日本人の座り方がだらしない。
右左に傾いて……。それが今や、ロスの夜景の明るさに夢中になっている。
男の名は北村正哉(きたむら・まさや=当時47)。後の青森県知事だ。
しかしこのときはまだ青森県議の3期目だ。酪農視察の団員として、他県の代表とともに欧米に向かう途中だった。
総勢は12人。
アメリカやカナダ、西ドイツ、アラブ連合、香港など14の国と地域を見てまわる計画だった。
当時の為替レートは1ドル=360円。旅費だけで1人数百万円もかかった。
一行は日本の酪農の将来を背負っていた。
しかし、ひとり北村は違った。
帰国早々に著した「牛のよだれ 欧米酪農視察紀行」(三沢青年会議所)に、
北村は酪農の話はそっちのけで、こんなことを書いていた。
「一直線に灯で彩られた幅広い道路や点々と際立って明るく紅(あか)い繁華街、
黒々と散在する公園、その他の無住地帯、かっと輝くスタジアム。
これらの景色を飽(あ)かず見下しながら、私はここにアメリカを見た。
広いという点でずば抜けたアメリカ、その広いアメリカの象徴としてのロスアンゼルスを見たのである」
帰国後の北村の動きは早かった。
経済企画庁で調査官をしていた下河辺淳(しもこうべ・あつし=当時40)を、下北に連れて行く。
下河辺はそのころ全国総合開発計画を推進。のちに阪神・淡路大震災復興委員長を務めた人物だ。
ねらいは下河辺を通じて、半島の付け根部分を陸奥湾(むつわん)から
小川原湖(おがわらこ)にかけて覆い尽くす巨大開発を、次の全国総合開発計画「新全総」に盛り込ませること。
「むつ小川原開発」のスタートだった。
この開発計画は、第三セクターが2500ヘクタールもの土地を所有したものの、
当て込んだ鉄鋼会社や石油化学会社は来なかった。
その結果、三セクは破綻(はたん)することになる。
北村は、なぜこのような巨大開発をやろうとしたのか。
開発の失敗が確定し、代わりに来た核燃料サイクル基地の建設がすでに始まっていた94年7月、
知事になっていた北村に、その疑問をぶつけた。
北村は答えた。
「下北半島を青森のロサンゼルスにしたかったんだ」
ロスの灯り:3
兵士を見送るように
3月、元経済企画庁調査官の下河辺淳に会った。
元青森県知事の北村正哉が県議時代、下北開発を働きかけた人物だ。
あれから48年。
全国総合開発計画づくりにかかわってきた下河辺は88歳になっていた。
青森県が巨大開発の誘致に熱心だったのは記憶している。
しかし県議時代の北村と下北半島に行ったことは覚えていなかった。
「あそこには年中行っていたもので……」
1960年代半ば、下河辺は、東京、大阪から瀬戸内にかけての
太平洋ベルト地帯にはもう石油化学工場はつくれないと考えていた。
「事故が起きたときに取り返しがつかない、というのが一番の理由でしたね」
では、下北半島は実際に見てどうだったのか。
「小川原湖(おがわらこ)の方は外洋だからいい。陸奥湾(むつわん)はだめだと考えました」
実現性については?
「財界人が、消費地から遠いといやがっていましたね」
中央の政財界の期待はそれほど高くなかった。しかし青森県議の北村は、土地の広さと湖沼の多さで、
下北半島は石油化学コンビナートの適地だと信じて疑わなかった。
なぜ、巨大開発をあの場所で進めようと思ったのか。94年、北村は私にこう語っている。 「小川原湖やその北の尾駮沼(おぶちぬま)などの水に注目した。
江戸時代にあの辺りを治めていた南部藩(なんぶはん)の
野辺地忠左衛門(のへじ・ちゅうざえもん)は
『湖沼群を利用できぬ者は為政者にあらず』といっていた。
太平洋に面した広い土地もある。
あれだけ条件のいい場所は他にない」
県民の貧しさを北村は憂えていた。
「中学を出た子どもが、集団就職で東京に出て行った。
青森や弘前の駅では、その子たちをブラスバンドでジャンジャンやって見送るんだよ。
まるで出征(しゅっせい)兵士を見送るみたいに。これは悲劇だった」
北村が、下北半島を「青森のロス」にしようと夢を描いていた64年3月、
中学の卒業式を終えたばかりの少女が一人、
三沢駅から、上野行きの集団就職列車に乗り込んだ。
3月なのにまだ寒い片側駅舎には、ブラスバンドどころか、
見送る家族の姿もなかった。
少女の名は磯崎慶子(いそざき・けいこ)。
後に日本の原子力政策の矛盾を、
六ケ所村から世界に発信する、菊川(きくかわ)慶子だった。
(宮崎知己) ロスの灯り:4
布団に雪が積もる
核燃料サイクル基地ができた青森県六ケ所村(ろっかしょむら)の南西部の丘陵に、豊原(とよはら)と呼ばれる集落がある。
菊川慶子は、豊原の開拓民の次女として1948年、青森県三本木町(さんぼんぎまち)、いまの十和田市に生まれた。
64年、15歳のとき、三沢駅から集団就職列車で上京した。見送りはだれもいなかった。
「両親も祖父も農作業が大変でとても三沢まで見送りなんかに出てこられなかったのです」
中学の時、慶子は住み込みで三沢の親戚の洋服店を手伝っていた。
「その親戚も、卒業後も私が手伝うものと信じていたので、やはり来てくれませんでした」
「豊原」の地名は、この地区の開拓民が
樺太(からふと)の豊原、いまのロシア・ユジノサハリンスクからの引き揚げ者だったことに由来する。
開拓民は、三本木の引き揚げ住宅から豊原に通った。
汽車を乗り継いで大湊線の有戸(ありと)駅に出る。そこから十数キロ歩き、豊原で開墾をし、夜に三本木に戻った。
「私は母におぶられていましたから覚えていません」
3歳上の姉の記憶だと、駅から原生林の中を歩き、丸木橋を渡り、峠をいくつか越えてようやくたどり着く場所だったという。
やがて「掘っ立て小屋」が建つようになり、開拓民は豊原に住むようになった。慶子が3歳のときだ。
「二重窓ではありませんから、冬は家の中に干した洗濯物がそのままの形で凍ってました」
眠っている間に、布団によく雪が積もった。 慶子の両親は木を切り倒し、根っこを掘り起こした。
全部耕すと大変なので、何本か筋をつくり、そこだけ畝(うね)を切って豆をまいた。
豆の根が硬い土をくだき、地味が肥えてくると、アワやヒエなどの雑穀をまいた。
続いてナタネを育て、主食用のジャガイモをつくった。
男たちは冬になると山に入り、コナラやヤチダモなどで炭を焼き、現金収入を得た。
炭にするのに適当な木がなくなると出稼ぎに出た。
六ケ所村では夏に、冷たい東風のヤマセが吹く。
米はつくれず、金を払って買わなければいけなかった。
「そのためどこの家も借金が積もりました」
農耕に馬を使うようになり、それでまた借金が増えた。
青森の夏の夜明けは早い。慶子の両親は、夏は午前3時から働くようになった。 ロスの灯り:5
トヨハラよいところ
菊川慶子の両親は豊原の開拓地で、夏は午前3時から畑に出た。
慶子の日課はランプ磨きだったが、小学生の夏休みはダルマストーブの火おこしも役目に加わった。
ストーブは上で煮炊きができるよう、扁平(へんぺい)型になっている。
それに薪(まき)をくべ、火をおこす。
「何にでも使えて便利なストーブでしたね」。
暖房はヤマセのせいで夏休みの時期も必要だった。
活発な小学生だった。
山賊ごっこやターザンごっこ、そり滑り。
分校の友達と、毎日、自然の中で遊び回った。
遊びのルールづくりはもっぱら慶子が担当した。
「このときの工夫の経験が、反核燃運動で機動隊を出し抜くアイデアにつながったのかも」
夏休みには盆踊りをした。
新しい集落なので祭りの道具は何もなく、太鼓の代わりにドラム缶で音頭をとった。
北海盆唄や炭坑節とともに、豊原音頭を踊った。
「ここさトヨハラよいところ」
繰り返し部分だけであるが、樺太(からふと)時代から歌い継がれてきた歌の一節をいまでも覚えている。
だが、小学校高学年になるとドラム缶の盆踊りはなくなった。
「農作業がたいへんで、盆踊りどころではなくなったのです」
歩調を合わせるかのように、家の中も暗くなった。 父親が出稼ぎに出る冬はよかったが、春から秋は両親のけんかが絶えなくなった。
慶子はこれも農作業の大変さが原因だと思った。
中学生になった。初めはうちから4キロ離れた千歳中学校に通った。
行き帰りはひとりぼっち。
それでも灰田勝彦(はいだ・かつひこ)の「新雪」や
伊藤久男(いとう・ひさお)の「山のけむり」を、坂道では「峠のわが家」を大声で歌いながら登下校した。
だが、両親の絶えないけんかにとうとういたたまれなくなる。
三沢の親戚の洋服店を住み込みで手伝うことにし三沢第一中学校に転校した。
そのころ三沢では、県議だったころの北村正哉が、
巨大工業開発で県を豊かにする考えにますます傾斜していた。
開拓民が必死に取り組む農業、自分が世界一周までして視察した酪農、目前に広がる豊かな漁場――。
そうしたものへの思いを吹き飛ばすのに、ためらいはなかった。
なぜそんな考えを持つようになったのか。
北村家の系譜をさかのぼると、彼の祖先も「入植者」だったことに気がつく。 ロスの灯り:6
会津武士の国替え
1870年春。
新潟港からアメリカの外輪蒸気船「ヤンシー号」が北に向けて出港した。
乗せられていたのは、戊辰(ぼしん)戦争に敗れた旧会津藩士(あいづはんし)とその家族だった。
幕末の雄藩、会津23万石は、賊軍の汚名を着せられ、国替えさせられた。明治に起きた国替えである。
会津武士とその家族計1万7千人余りは、ヤンシー号や陸路で青森に向かった。
その中に、元知事、北村正哉の曽祖父、豊三(とよぞう)がいた。
1871年の廃藩置県までわずか1年余だけ存在した藩がある。青森の「斗南藩(となみはん)」。
いまの青森県むつ市を中心とする下北半島の一帯と、少し離れた三戸(さんのへ)郡を中心とする内陸部だ。
それが彼らが行き着いた土地だ。米作には向かなかった。
北村の長男、正任(まさとう)(70)は毎日新聞社の元社長で、今は相談役をしている。
彼によると、豊三は三戸のほうに落ち着く。
廃藩置県になると、藩の重役の広沢安任(ひろさわ・やすとう)とともに
小川原湖のほとり、いまの青森県三沢市谷地頭(やちがしら)に移った。
正任の名は安任にあやかったものだ。
豊三の子で北村の祖父にあたる要(かなめ)は、
広沢の右腕となって、西洋式の大牧場を開くのを手伝った。
要は続いて、いまの六ケ所村に牧場を開いて牛の飼育に努め、
その後、三沢市岡三沢(おかみさわ)に「北村牧場」を開き、馬を育て始めた。
要の娘婿(むすめむこ)で北村の父にあたる直枝(なおえ)も馬を生産した。 北村は、盛岡高等農林学校獣医科から帝国陸軍に進み、軍馬の専門家になった。
北村の前任の青森県知事、竹内俊吉(たけうち・しゅんきち)は、
北村のこうした経歴を知っていて、「最もよいインスペクター(調査官)」として、
世界一周酪農視察の県代表に任命した。
しかし「ロスの灯(あか)り」を見てしまった北村は、
青森は農業より工業で豊かになるべきだとの確信を強めて帰国した。
北村は、自著「牛のよだれ」で、
日本農業の近代化を目指す国の構造改善事業に「もどかしさを感ずる」としてこう記した。
「残された手は、日本全土に拡(ひろ)がる高原地帯、傾斜地帯の農地化であり、牧草地化ではなかろうか。(中略)
この方向に向けて諸施策が進められない限り、酪農の将来に対して大きな不安を感ぜざるを得ない」
そこまでやらないと、日本で酪農を成功させることなどできない。そういう結論だ。
北村は同時に、工業開発についても会津人らしい考えを熟成させていた。
ロスの灯り:7
成長 まぶしすぎた
青森県知事時代の北村正哉は、西国出身とみると風変わりな質問をし、反応をみるのが好きだった。
1994年、大阪出身の私もその対象となった。
「きみのおじいさんは戦前、何をやっていたのかね」
大陸相手の貿易商を営んでいた、と答えると、にやっと笑ってわが家の食卓の様子をいい当てた。
「きみの家では、シジミ汁のシジミの身は食べんだろう?」
シジミは小川原湖の名産品だ。
北村の長男正任によると、北村はシジミ売りが小さなシジミを売りにくると「こんな小さいうちに取るやつがあるか」としかっていたという。
北村は「大阪の商家出身の兵隊さんがみなそうだった」とタネ明かしをした。ぜいたくを戒めたあとも質問は続く。
「きみは、東北が貧しいのは雪深いせいだと思っていないか」
まごつきながらもそうだと思うと答えると、北村は真顔で否定した。
「ちがう。光(ひかり)、下松(くだまつ)、徳山(とくやま)とつらなる工業地帯。
あれは明治維新以来、政府が資本を集中投下してきたからできたのだ」
北村は県名をいわなかったが、三つの都市は山口県にある。官軍の中心の長州である。
「きみは北海道の道路を走ったことはあるか」
「北海道の道路はすばらしい。路肩や歩道を見れば、つくりの違いがよくわかる。
北海道・沖縄開発庁予算というのは、実にうらやましい。東北開発庁というのがあってもいいと思わんか」 北村の考えでは、開発というのは、まず第一歩は政府の資本投下があるべきだった。
ロサンゼルスが急成長したのも、南カリフォルニア一帯に用水と電力を供給するフーバーダムの建設、
という政府資本の投下があったからこそ、と考えていた。
ロサンゼルスは、市ができたときわずか1610人しか市民がいなかった。
しかし、その後100年で200万人都市に成長していく。北辺の地の政治家、北村にとってはまぶしすぎた。
青森県議だった北村は1965年3月、県政史上初の代表質問者として登壇し、
自らの工業開発の思想と、県民所得向上策を披露した。
あまりにも巨大な構想に、周囲の反応は鈍かったが、
北村はこれで県政の将来を握るきっかけを得た。(宮崎知己)
ロスの灯り:8
我田引水 何のその
1965年3月5日の青森県議会は、さながら県議北村正哉の意見発表会だった。
工業開発思想と県民の所得水準向上策を、彼は存分に披露する。ハイライトは次の部分だった。
「化学工業立地の最大の要件は港湾と用水と土地であります。我田引水のそしりを免れないのでありますが、
この三つの立地条件を十分に満たしてあまりある場所、それは小川原湖であります」
海水と淡水の混じり合う小川原湖を、間仕切りして港湾化すれば、工業用水はふんだんにとれるようになる。
大型タンカーも入って来られる。土地はもともと広い。
後はおのずと石油化学コンビナートができる。そうすれば県民の所得水準は全国並みになる――。
青森県はそのころ、県内で豊富な砂鉄と針葉樹、石灰石を使い、
製鉄業や製紙業、セメント工業をさかんにしようと考えていた。
北村はこうした工業を「資源型工業」と呼び、「将来性に限度がある」と一蹴する。
県の活路を石油化学に求めるよう迫った。
政府による資本投下こそ重要だ。それを説明するため、得意の「北海道との比較論」も飛び出した。
北海道では、大正時代になる前から各地に巨大な煙突が立ち並んだ。その工場のほとんどは官営から出発し、
「目玉の飛び出るような」額の政府の財政投融資を受けた。
その結果、道民の所得は青森県民の1.5倍に達している、と主張した。 工業開発の目標は県民所得の向上にある――。
当時、青森県は長期経済計画で、70年の県民所得水準を全国平均の85%にすることを目指していた。
北村はそれにもかみつく。
「悲憤を覚えます」
「青森県の人もまた厳然として日本人であります」
しかし、この日の県議会で、北村の考えをにわかにのみ込める人は少なかった。
下北半島は、近くに大消費地がない。そこに10年ほどで巨大な工業地帯をつくり、
県民の所得を全国平均まで引き上げる。そんな考えに誰もついていけなかった。
知事の竹内俊吉は北村に対し
「資源型工業の方が、地方開発における速度の点から考えたならば本当だ」と答弁。にべもなかった。
ところが67年春、竹内は突然、県議の北村を副知事にしてしまった。 ロスの灯り:9
「やりましょうや」
1965年3月の県議・北村正哉による代表質問の後、北村によると、
知事の竹内俊吉はしばらく迷っていたという。
下北で、北村のいう石油化学中心の巨大開発をやるか。地元資源を中心に地道な工業化をやるか。
北村の県議会での質問に竹内は、砂鉄や針葉樹、石灰石といった
県内の資源を使う「資源型工業」の方が本当だ、と答弁していた。
しかしその直後の65年4月、下北半島の砂鉄を使うはずだった製鉄会社が、操業開始前に解散した。
採算が合わないという理由で、設立からわずか2年だった。
下北半島の付け根、六戸町の製糖工場も67年、閉鎖された。
粗糖の自由化で不採算になったためだ。進出からわずか5年。
県が栽培を奨励したビートを使っていたので、農家が打撃を受けた。
東京に集団就職した菊川慶子の実家も損が出た。
迷う竹内を、北村はこう説得したという。
「やりましょうや。これ以外に青森では大きな開発はできない」
北村が副知事に任命されたのはその直後だった。
それを境に、青森は県として下北半島への巨大工業開発づくりに突き進む。
68年末、通商産業省が出した「工業開発の構想(試案)」に下北の巨大開発構想を盛り込んでもらった。
69年3月、財団法人・日本工業立地センターに「陸奥湾・小川原湖大規模工業開発」をまとめさせた。 そして、69年5月、経済企画庁調査官の下河辺淳がつくる「新全総」に載せてもらった。
わずか2行だけだったが。
その2行のため、北村は「経企庁に説明に行き、回答をもらい、また説明に行く。7回ぐらいやった」。
県はこの年8月、「陸奥湾・小川原湖地域の開発」をつくった。
鉄鋼、石油化学などの臨海型装置産業を中心に、
非鉄金属、化学、造船、自動車、電気機械などの機械工業を配置する。
原子力発電所をつくり、鉄鋼などの基幹産業とでコンビナートを形成する――。
工業用地は約1万5千ヘクタールと巨大で、工業生産額は年5兆円、従業員は10万人超。
3千ヘクタールの新市街地を造成し、20万人が定住するとも描かれていた。
71年5月、菊川慶子が六ケ所村に戻ってきた。
結婚して、出産のための里帰りだった。
実家の様子は一変していた。 ロスの灯り:10
村中が新築ラッシュ
出産のため1971年5月に青森県六ケ所村に戻ってきた菊川慶子は、新築中の実家の立派さに驚いた。
最初の家は、風よけのため低地に建てた掘っ立て小屋だった。
開拓に入って数年で、そこから抜け出し、高台に建てた「少しましな家」に移っていた。
その横にまた新しい家を建てていたのである。
あたりを見てまた驚いた。村全体が新築ラッシュにわいていた。
「信じられないほど高い値段で土地が売れたんです」
里帰りの2年前、69年5月30日、経済企画庁調査官の下河辺淳らによってつくられた
新全国総合開発計画(新全総)が閣議決定された。
それには、下北半島の大規模開発について、「小川原工業港の建設等の総合的な産業基盤の整備により、
陸奥湾、小川原湖周辺ならびに八戸(はちのへ)、久慈(くじ)一帯に
巨大臨海コンビナートの形成を図る」とわずか2行記されていただけだった。
その前から東京の不動産業者が下北半島に押しかけ、あちこちで土地を買いあさり始めた。
慶子の実家は、工業開発区域から外れていた。
それでも買い手があらわれ、多額の現金を手にすることができた。
慶子の実家は馬を使って農業をしていたので、えさの採草地を持っていた。
薪(まき)が暖房源で生活源だったので薪を切る山も持っていた。 「それをいくらか売ったのだそうです」と慶子はいう。
村人たちは家を建て替えただけではない。
車や電話、テレビや冷蔵庫などの家電製品を買いそろえた。
積もり積もった借金も消えた。
慶子の実家は、車にまでは手を出さなかった。
だが、少し後になってトラクターは買った。それで農作業が楽になった。
弟は、八戸市に下宿させてもらうことができた。
そこから工業高等専門学校に通った。
「両親は、開発のおかげで土地が売れて借金から抜け出せた、
ようやく人並みの生活ができるようになった、という意識のようでした」
村は景気がよくなったが、工業開発に対する不安も高まっていた。
なりわいの基である土地や漁業の権利を売って現金を得る。
そんなことをして、その後どうやって暮らしていくのか。懸念する人もいた。
県の計画が、どうも大風呂敷すぎるらしい、ということが村人にとって気がかりだった。
ロスの灯り:11
「田植え終わったか」
北村正哉の前任知事、竹内俊吉にはこんなエピソードがある。
下北半島の向かい側、津軽半島の旧車力村富萢(しゃりきむらとみやち)というところの
中学校が統廃合されるという話になった。
困った村民が、青森市の県庁まではるばる陳情にやってきた。
竹内は会うなりいった。
「言いたいことはわかった。さて、おめんだち、田植え終わったか。なに、してねえ? 今日はひとまず戻れ」
村はこの日が田植えの最適日だった。村民は知事がそんなことまで気を配ってくれたことに感動した。1964年ころの話だ。
旧出精村(しゅっせいむら)という小村の農家出身の竹内が、
開発志向の北村を副知事にし、青森県は変わっていく。
71年3月、用地買収を担当する財団法人「むつ小川原開発公社」と、
用地造成と分譲を担当する第三セクター「むつ小川原開発株式会社」が設立された。
公社は県が資金を出してつくり、職員を派遣した。
株式会社は国と県のほか、経団連加盟の約150社が出資した。
この2社に、基本計画の調査設計を担当する株式会社「むつ小川原総合開発センター」が加わる。
3社は、開発への道を猛進し始めた。下北の巨大開発の進め方が「トロイカ方式」と呼ばれるのはこのためだ。3頭立て馬車である。 71年8月14日、県が下北半島の住民に、開発構想と住民対策の案を示した。
その2年前につくった「陸奥湾小川原湖の開発」では、工業用地は1万5千ヘクタールだった。
それが「構想」では9500ヘクタールに減った。
30万トン級の船が入れる港湾と、巨大石油タンク群という、陸奥湾側の計画が消えたためだ。
陸奥湾のホタテ生産者が、革命的な稚貝育成法を編み出した。
杉の葉入りのタマネギ袋で捕らえるという簡単な方法で、ホタテで生計を立てることに自信を持つ。
彼らが団結し、開発を拒絶したのである。
「陸奥湾小川原湖開発」はこれを境に「むつ小川原開発」になる。
一方、太平洋側は大騒ぎになっていた。
「構想」で、六ケ所村と三沢市を中心に
2020世帯9614人、34集落が移転の対象となると明らかになったためだ。
住民に不安の声が高まる。
開発を拒絶する人たちの先頭に立ったのは寺下力三郎(てらした・りきさぶろう、当時59)。
六ケ所村の村長だった。
ロスの灯り:12
工場で働けばいい
開発拒否の村人の先頭に立った六ケ所村長の寺下力三郎は、村民に「鹿島開発」を見に行かせた。約1千万円の予算をつけた。
20余年後の1993年8月、寺下は視察のねらいを私に語った。
「農民が農地を売ったらどうなってしまうのか、鹿島の農民に話を聞いてくるべきだ。
その上で開発とは何か考えよう、ということでした」
鹿島開発とは、茨城県南部の鹿島灘に面した地区の開発のことだ。
砂浜にY字形の掘り込み港湾をつくり、鉄鋼、石油精製、石油化学の工場を配置した。
社会科の教科書にも登場した大型開発だ。
下北の太平洋岸と鹿島の海岸は、その地形、砂浜、近くに航空基地があるなど、うり二つだった。
さらに、むつ小川原開発と鹿島開発は、砂浜に巨大な港をつくり、石油化学コンビナートを誘致する点でもそっくりだった。
「農工両全(のうこうりょうぜん)」
鹿島開発を進めた茨城県知事の岩上二郎(いわかみ・にろう)は、この標語を掲げ、農業もしっかり続けていくとの姿勢を示した。
それで農民を安心させ、土地を手放してもらおうとしたのだ。そのやり方はこんな具合だった。
開発対象の3町村の全地主に所有地の4割を提供させ、その代金を払う。
そのうち開発区域の地主には、提供させた土地を集めてつくる代替地から、元の所有地の6割に相当する分を渡す――。
全員が公平に4割減り、お金が入る。
開発区域の農民は代替地で農業ができる。
「六四方式」と呼ばれた。 だが寺下は鹿島視察で、代替地が都市化の波に洗われたり、
農民が多額のお金でぜいたくにおぼれたりし、農業を続けられなくなっていくことに気づく。
寺下が下北半島の巨大開発を拒否したのは、戦前の朝鮮半島で見たのと同じだと思ったからだ。
当時、寺下は現地の窒素肥料の会社で働いていた。
日本人が「幸せになるためだ」と、朝鮮人の土地に住宅や工場、発電所をつくるたびに
朝鮮の農民が結局は生活基盤を失い、没落していくのを見た。
「開発は住民を幸せにしない」。寺下は鹿島視察で確信を深めた。
しかし、青森県の方法は、鹿島より乱暴だった。
農業はやめて、工場で働けばいいとして、基本的に代替農地を用意しなかった。
農業から工業への転換こそが所得向上の道とする、北村正哉の考え方からいくとごく自然な行為だった。 ロスの灯り:13
口先だけの了解
「無責任収用」――。
開発拒否を訴えた六ケ所村長の寺下力三郎は、かつて青森県の土地買収方法をこう表現した。
「収用」とは、行政が道路など公共物をつくるときに、法律によって強制的に住民を立ち退かせる手段のことだ。
下北に進出するのは民間企業だから、法的強制力は使えない。
にもかかわらず寺下が「収用」と呼んだのは、政府が異常なまでに買収の便宜をはかり、
青森県は住民に対し、あたかも強制力があるようによそおったからだ。
最たるものが1972年9月の田中角栄内閣による閣議口頭了解だ。
閣議決定でもなんでもない、口先だけの了解だ。
しかし青森県はこれを錦(にしき)の御旗(みはた)とし、自分たちの計画を「国家的プロジェクトだ」というようになった。
口頭了解は、税務当局が、むつ小川原開発公社による土地の買収を特別扱いする呼び水にもなった。
北海道苫小牧市立中央図書館に、その記録が残っていた。
「土地譲渡所得の1500万円特別控除対象」とする文書がそれだ。
文書が北海道に残っていたのは、むつ小川原開発と同時期に、同種の「苫小牧東部開発」が進められていたためと思われる。 むつ小川原開発公社に土地を売った地主は所得税の課税評価で1500万円も特別控除を認められる。
これで公社はさらに農民に土地を売らせやすくなった。
農地を工業用地に転用するのは、農地法によって厳しく制限されている。
しかし政府は、人口1万2千人の六ケ所村を都市計画法の対象とした。これで農地法は無力化した。
寺下が「無責任」と呼んだのは、むつ小川原開発公社の行為だ。
公社の「創立十周年記念誌」という書物の155ページに次のような記述がある。
「発足した当時、県庁の機構上からこの公社は、関東軍の再来ともいわれたものであった。
事実、この関東軍は関係者の期待にたがわず強固な団結力と行動力をもって勇猛果敢に戦った精鋭部隊であった」
公社の職員の大半は県からの出向者、すなわち公務員だ。
それが旧満州を占領した関東軍のような気分で、農民の土地を容赦なく買収していったのである。
土地の買収が急ピッチで進む中、村議が一人ふたりと推進派に転向した。
村は開発推進か拒否かで騒がしくなった。
ロスの灯り:14
目の前の金銭よりも
農民が、なりわいの基である農地を奪われたらどうなるか――。
六ケ所村長の寺下力三郎はそれを朝鮮半島で目の当たりにし、鹿島開発で再確認した。
彼は開発拒否を訴え続けた。
一方、「開発トロイカ」の1頭であるむつ小川原開発公社は、1972年暮れから土地買収を本格化させる。
指揮は山内善郎(やまうち・よしろう)(当時58)が執った。
青森県開拓課長を務め、六ケ所村民に顔が売れていた。
県庁が推進の旗を振る。
その事業を現地の村長が認めない。
真っ向対立の状態となった。
73年7月、寺下は衆院建設委員会に公述人として出席し、次のように訴えた。
「世間では反対運動だといっておられるようですけれど、それは村外の方々から見た表面上のことで、
私たち住民にとっては、生きるための努力でございます」
寺下は、これは金銭面の損か得かの問題ではないと考えていた。
農民が土地を奪われて死ぬという問題なのだ。
村長としては、開発反対などという生ぬるい態度ではなく、「許さず」といわねばならない――。
農民にとっては、目の前の金銭より、
将来に向けてのやる気と希望こそが、幸せか否かを考えるうえで重要だ。
寺下はそう強調した。 65年の農林省の意識調査に、六ケ所村がある青森県上北・下北地域では
43.4%の農家が「やり方によっては希望が持てる」と答え、全国最高だった。
「それが開発騒ぎのために完全に逆転の状態になってしまったのでございます」と訴える。
リコールの応酬の後、73年暮れ、六ケ所村長選がおこなわれた。
推進派が多数を占めるようになった村議会を代表して、
議長の古川伊勢松(ふるかわ・いせまつ)が条件付き賛成を掲げて、
現職の寺下に挑む構えをみせた。
それでも古川の地盤は村北部の泊集落だけだ。
寺下は村中央部をおさえている。
下馬評では寺下の方が優位とみられていた。
開発の是非に決着がつく。
それがこの村長選の意味だった。
寺下が勝てばむつ小川原開発は止まる。
県はあせる。
知事の竹内俊吉から、書生たちに指示が飛んだ。
「もう1人立てて寺下の票を割れ。三派戦(さんぱせん)、やれじゃ」 いろいろと役に立つ副業情報ドットコム
念のためにのせておきます
グーグル検索『金持ちになりたい 鎌野介メソッド』
N7OXO ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています