礼は中国の前近代社会における伝統的社会制度や道徳規定として貴族社会の秩序をさすものであったが、孔子以降の儒家により理論化され、国家を頂点とする社会秩序に関して理論的に正当化する役割を担った。
日本における礼儀作法の知識および概念は平安時代の公家社会においてすでに存在したが、文化として確立したのは武士が支配階級となった室町時代以降である。
とくに室町中期に小笠原(おがさわら)氏が将軍家の弓馬師範として幕府の弓馬故実の中心に位置し、将軍をはじめ諸大名や幕府直臣に伝えたことが大きい。
さらに江戸時代を通じて幕府の弓馬礼式をつかさどることで、小笠原流の礼法が公式な武士礼法として日本文化に定着した。
元禄期には小笠原流を称する水島卜也(ぼくや)ら市井の礼法家が富裕町民や上層農民向けに換骨奪胎してこれを広めたが、華美に流れ、瑣末(さまつ)に走る傾向もみられた。
明治以降にはとくに女子教育において礼法が採用され、明治10年代には小笠原氏の礼法を根底に置いた「小学女礼式」などが編まれ、
20年代から30年代には高等女学校教授要目において古礼にこだわらず実生活に応用できるものを教えるべし、とされた。
しかし教育の現場では煩瑣(はんさ)に過ぎる指導が行われ、応用の利かないものとする風潮が生じ、明治40年代には下田歌子ら女子教育者の疑義が公然と示されるようになった。
そのころから茶道教育が現実生活にあった作法であるとして導入されるようになる。