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1942年(昭和17年)11月18日、近衞は予審判事・中村光三から僅かな形式的訊問を受け、
「記憶しません」を連発し尾崎との親密な関係を隠蔽したが、
元アメリカ共産党員の宮城与徳は検事訊問(1942年3月17日)に対して、「近衛首相は防共連盟の顧問であるから反ソ的な人だと思って居たところ、
支那問題解決の為寧ろソ連と手を握ってもよいと考える程ソ連的であることが判りました」と証言した。

国家総動員法や大政翼賛会による立憲自由主義議会制デモクラシー破壊に猛反対した鳩山一郎は、これより前に日記(昭和十五年十一月一日の条)に、
「近衛時代に於ける政府の施設凡てコミンテルンのテーゼに基く。寔に怖るべし。
一身を犠牲にして御奉公すべき時期の近づくを痛感す」と書いていた。

海軍大将・井上成美は、近衞文麿については終始辛口だった。
「近衛という人は、ちょっとやってみて、いけなくなれば、すぐ自分はすねて引っ込んでしまう。
相手と相手を噛み合せておいて、自分の責任を回避する。

三国同盟の問題でも、対米開戦の問題でも、海軍にNOと言わせさえすれば、自分は楽で、責めはすべて海軍に押し付けられると考えていた。
開戦の責任問題で、人が常に挙げるのは東条の名であり、むろんそれには違いはないが、
順を追うてこれを見て行けば、其処に到る種を播いたのは、みな近衛公であった」

*補足 鳩山一郎の日記には、「贅沢は敵だ」がレーニンの敗戦革命スローガンであり、戦時右翼の正体が天皇尊重を偽装した
マルキストつまり左翼であったことなど、大東亜戦争の真実を穿つ貴重な記述が多い。