日米戦争で不可解な政策、戦術、作戦を実行して日本を敗戦に追い詰めた国際金融資本、共産主義スパイと共謀して昭和天皇失脚を狙った男 
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◇近衛文麿 wiki
は、日本の政治家。栄典は従二位勲一等公爵。

貴族院議員、貴族院副議長(第10代)、貴族院議長(第9代)、枢密院議長(第18代)、内閣総理大臣(第34・38・39代)、外務大臣(第57代)、
拓務大臣(第13代)、班列、農林大臣(臨時代理)、司法大臣(第43代)、国務大臣、麝香間祗候、大政翼賛会総裁(初代)、日本放送協会総裁(第2代)などを歴任した。

1933年(昭和8年)には近衞を中心とした政策研究団体として後藤隆之助らにより昭和研究会が創設された。
この研究会には暉峻義等、三木清、平貞蔵、笠信太郎、東畑精一、矢部貞治、また企画院事件で逮捕される稲葉秀三、勝間田清一、正木千冬、和田耕作らが参加している。
後にゾルゲ事件において絞首刑に処せられる尾崎秀実もメンバーの一人であった。

終戦工作
1944年(昭和19年)7月9日のサイパン島陥落に伴い、東條内閣に対する退陣要求が強まったが、近衞は「このまま東條に政権を担当させておく方が良い。
戦局は、誰に代わっても好転する事は無いのだから、最後まで全責任を負わせる様にしたら良い」と述べ、敗戦を見越した上で、天皇に戦争責任が及びにくくするように考えていた。

1945年(昭和20年)1月25日に京都の近衛家陽明文庫において岡田啓介、米内光政、仁和寺の門跡・岡本慈航と会談し、敗戦後の天皇退位の可能性が話し合われた。
もし退位が避け難い場合は、天皇を落飾させ仁和寺門跡とする計画が定められた。ただし、米内の手記にはこの様な話し合いをしたという記述はない。

6月22日、昭和天皇は内大臣の木戸幸一などから提案のあった「ソ連を仲介とした和平交渉」
を行う事を政府に認め、7月7日に「思い切って特使を派遣した方が良いのではないか」と首相・鈴木貫太郎に述べた。
これを受けて、外相・東郷茂徳は近衞に特使就任を依頼し、7月12日に正式に近衞は天皇から特使に任命された。
この際、近衞は「ご命令とあれば身命を賭していたします」と返答した。