日米戦争で不可解な政策、戦術、作戦を実行して日本を敗戦に追い詰めた国際金融資本、共産主義スパイ列伝 4

◇米内光政 wiki
は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍大将。位階は従二位。勲等は勲一等。
功級は功一級。連合艦隊司令長官(第23代)、海軍大臣(第19・24代)、内閣総理大臣(第37代)を歴任した。

海軍次官・山本五十六、軍務局長・井上とともに、ドイツ・イタリアとの日独伊三国軍事同盟に反対する。
日独防共協定締結に際しては、「なぜソ連と手を握らないか」と慨嘆した親ソ派であった。

8月、五相会議の席上で、同盟を締結した場合に日独伊と英仏米ソ間で戦争となった場合、
海軍として見通しはどうかと大蔵大臣・石渡荘太郎から問われた時に米内は「勝てる見込みはありません。
日本の海軍は米英を相手に戦争ができるように建造されておりません。独伊の海軍にいたっては問題になりません」と言下に答えた。
8月30日 昭和天皇は、米内に「海軍が(命がけで三国同盟を止めたことに対し)良くやってくれたので日本の国は救われた」という言葉をかけたという。

米内の日独伊三国同盟反対論について、「海軍力が日独伊では米英に及ばないという海軍の論理から反対しただけであって、
大局的な意味での反対論ではなかった」「魅力に富んだ知的人物だが、政治面において定見のある人物とはいえなかった」という否定的な意見もある

戦争への危機感が高まる中、海軍左派を自認しながら海軍部内への意思浸透を怠ったこと、
同じ海軍左派である山本五十六を右翼勢力や過激な青年将校から護るためとして連合艦隊司令長官に転出させたこと、
早期和平を主張して陸軍と対立することの多かった海軍次官・井上成美を1945年(昭和20年)5月に大将に昇進させて次官を辞任させ、

後任次官に多田武雄、軍務局長に周囲から本土決戦派と見なされていた保科善四郎を置き、軍令部次長に徹底抗戦派の大西瀧治郎を就任させた人事などに対する批判や非難、
また軍政家・政治家としての力量に疑問を投げかける意見もあった。