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第1次近衛内閣が成立すると、近衛文麿の側近として軍の首脳部とも緊密な関係を保った。
近衛は尾崎の正体を知った際に驚愕し、「全く不明の致すところにして何とも申訳無之深く責任を感ずる次第に御座候」と天皇に謝罪している。

尾崎が参加した昭和研究会は国策の理念的裏づけを行い、大政翼賛会結成を推進して日本の政治形態を一国一党の軍部・官僚による独裁組織に誘導しているが、
昭和研究会のメンバーが同会から発展する形で独自に結成した「昭和塾」のメンバーは尾崎ら共産主義者と企画院グループの
「革新官僚」によって構成され、理念的裏づけはことごとくマルクス主義を基にしていた。

1941年(昭和16年)10月15日にゾルゲ事件の首謀者の一人として逮捕された。
逮捕後の取調べでは、「我々のグループの目的・任務は、狭義には世界共産主義革命遂行上の最も重要な支柱であるソ連を日本帝国主義から守ること」と供述している

1944年(昭和19年)、ロシア革命記念日にあたる11月7日に、国防保安法違反、軍機保護法違反、治安維持法違反により巣鴨拘置所でリヒャルト・ゾルゲと共に絞首刑に処された。

ソ連のスパイとして働いた功績からソ連政府から勲章と表彰状を受けたとされていたが、近年その存在が確認された。
それを受けて、ロシア政府は親族からの申し出があれば勲章と賞状を授与すると2010年1月発表している。
また尾崎と共に活動し投獄、獄死した宮城与徳の遺族は、勲章と表彰状を受領した。