◇山本五十六 wiki
は、日本の海軍軍人。最終階級は元帥海軍大将。第26、27代連合艦隊司令長官。海軍兵学校32期生。前線視察の際、ブーゲンビル島上空で戦死(海軍甲事件)

1909年(明治42年)にアメリカに駐在、1911年(明治44年)に海軍大学校乙種学生を卒業すると
海軍砲術学校と海軍経理学校の教官になり、同僚の米内光政と盟友になる。井上成美によれば兵器学講座担当であったという

1919年(大正8年)4月5日にアメリカに駐在を受命、ハーバード大学に留学した(〜1921年5月5日)。
アメリカに駐在する前の1918年(大正7年)から「ナショナルジオグラフィック」を購読していた。

長男の山本義正は、2度目のアメリカ滞在から日本に戻った1928年(昭和3年)以降のこととして
「(山本がアメリカから帰国してから1930年(昭和5年)まで住んだ)鎌倉・材木座の自宅には、ナショナルジオグラフィックがアメリカから毎月届きました。

当時小学生だった私は、父より先に封筒から取り出して良く見たものです」「(山本の)本棚の半分はアメリカの歴史に関する本で、
他に黄色い背表紙のナショナルジオグラフィックがたくさん並んでいました。
付録地図もケースの中に大切にとってありました。父はアメリカを知るためのあらゆる勉強をしていました」と語った

1925年(大正14年)12月、駐米大使館付武官となって、再びアメリカに滞在する
この際にも再びアメリカの石油や自動車、航空機や船舶などの生産や流通体制を視察、研究し、この経験が後の対米戦の戦略立案に大きな影響を与えた。

当時の総理大臣であった近衛文麿の『近衛日記』によると、近衛に日米戦争の場合の見込み問われた山本は

「それは是非やれと言われれば初め半年や1年の間は随分暴れてご覧に入れる。然しながら、2年3年となれば全く確信は持てぬ。三国条約が出来たのは致方ないが、
かくなりし上は日米戦争を回避する様極極力御努力願ひたい」と発言している

井上成美は戦後この時の山本の発言について「優柔不断な近衛さんに、海軍は取りあえず1年だけでも戦えると間違った判断をさせてしまった。
はっきりと、『海軍は(戦争を)やれません。戦えば必ず負けます』と言った方が、戦争を回避出来たかも知れない」と述べている。