夜の夢に溶ける。 [無断転載禁止]©2ch.net
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美食家の玄米リゾットは独立の味。
おにぎりは3種握る。田んぼの畦を見守る。カエルはいつだって逃げる。 自生のイタリアンパセリとコリアンダー発見。自生のディルは大量に。 立ち話。立ち話。立ち話。立ち話。立ち話。
近所の駐車場ではイチゴが自生。
どうなってんだ? 塩むすびがいちばんおいしいことの秘密は果たして何なのか。
近所のおばあさんにディルをプレゼントした夜。
永遠に続きそうだわこの夜の夢。 あこがれる。想像しただけで空気がかわる。目に光が増す。笑顔がふえる。
ほっぺがまるくつややかになる。 普段触れ得ない。それを目指すのが幸せ。今もう澄んだ空気が鼻を通る。 極めて厳しい世界を覗き込んだことのある人は
どこまでもやさしいと思う。 でも生きるならば。
いろいろなことに納得して生きていたい。 「わたしは誰のためにも演じていない。
わたしはわたしのために演じている。観客はわたし一人だ。」と言った。 後から振り返ってみたら
ずいぶんとかっこいいこといったものだけど。本当。 でも××は違う。自分のためだけに演じている。
自分だけの喜びのために。 自分が自分という存在を納得する。
そういう瞬間のために。 それは外側にいるのではなく。
それはわたしの内にある。
内にあって輝いている。 サックスのブー。
トランペットのパオー。
ギターにどれだけエフェクターつけたって。 それは居る。そこかしこに。
空気の粒子のツブツブに。 空から光が舞い降りる中。
うつむいて歩きながら我が世のそれを悟る。 誰だって勢いよくそれである。と。
誰だって勢いよくそれである。と。 テレビが苦手。録り貯めしたドラマをみることもない。 テレビを見てると無くなるよ。
生まれもった個性とか感性とか。 もっと自発するような。発光するような。そんなものを持った方がいい。 誰かが人生は虚しいと言う。それは。
世の中に溶け込みすぎているから。 そして関わる人は選んだ方がいい。
内側から輝く「自然」をもっている人。 ちいさな声のなかにこそ
眠っている光る真実もある。 旧いなにかと終ってしまったなにかにしがみついて「離れまい」とする叫び声がそこここで響き渡る。 そして叫び声の存在が
あたらしい時代がはじまっている事実を際立たせる。 どんな混乱のあとも時が経ってみれば純粋なものと必然だけが残る。
否。この瞬間も本当は何が純粋かはっきりとわかっている。 わたしたちの中にある闇もひとたび鏡にうつって認識すればたちまち溶解する。 時代は想像しているよりももっとあたらしくなりつつありそのスピードは加速している。 あわてようが。あきらめようが。
あたらしい扉は次々と音を立てて開いている。 ふだんは決して見ないニュースをたまにかいま見れば「えー。懲りなさすぎー。」「地球の5回目だか6回目をやるつもり!?」とつい思ってしまう。 そんなおり。あるすばらしい光をはなつ女性のお手伝いをさせていただいた。 賢い人たちはみんなだまっている。
でもこの沈黙は確かにちからづよく
愛の方向に向かっていて
ほうぼうで愛の場をつくりつつある。 腹の立つ相手も悲しくなるような事象だって。
最終的にはほんとうの愛の場に溶け入っていく。 誰かに腹を立てたり何かを説得しようとするエネルギーを
「見たい変化にわたし自身がなる」ためのエネルギーへ。 ほんものの革命はいつだって誰にも見つからない場。ちいさな息づかいの場で静かにとりおこなわれている。 いま。この瞬間。あなたのこころの中でも。夜の夢の中でも。 気付いたら5月終了。みたいなところ。
反省するところは反省し良いところは認め。 5月の目標は「五月の鯉の吹き流し」。
こいのぼりのように大空を気持ちよく泳ぐ。 お腹の中はさわやかな春の風で満たされる。
何のわだかまりもなく、すっきり。
「腹をすっきりさせる」。これが目標だった。 結論から言えば点数にして57点。
反省する点。
五月半ばに心が揺れた揺れた心の切り替えに時間がかかった。 心の揺れの理由は「いやだなー」と思う自分。
「いやだなー」という人に会わないといけないことになり。 内側に存在する「いやだなー」。
先入観を持ってはいけないと知りつつ。持ってはいけない。いけないと思ったらなおさら気になった自分。
心の切り替えが思うようにいかなかったまどろっこしい自分。
それがマイナス点。 最後は心を切り替えてすっきり。
人はこの繰り返しなんだろうな。 おじいちゃんやおばあちゃんが昔から住んでたような家で眠ってみたい。 全体的にまぬけなんだよ人間。ちょっとまぬけなくらいがちょうどいい。 見なければ何も気にならないって本当だ。何を今更って話だろうけど。 暫くデトックスだか毒を出すだかわからないけどそんなことが起こってた。 原因不明なものだから結構つらいものがあったわけだ。 その原因不明な症状が随分らくになってきたなと思ってふと鏡を見たら別人。 別人は言い過ぎかな。肌質が変わっていたり、顔色も違う。一瞬だれ?と思った。 何とも言い様がないんだけど。
すっかり身体の中の悪いもの全てを出しきったんだな。という感じ。 こういったカタチで転機を向かえる事はなかったように記憶しているので何とも不思議な体験だったね。 まあね。って。独り言だから。でも何だ。上げないところに悪意は感じない。 フランス組曲アルモンドについて、このようにのべようと思っていた。 人生の序章、これから始まると言わんばかりの高揚感。小川のような流れのある調べ。 すべてこの生活を象徴するかのようである。それでいて1曲の中に、いきようようとしたやる気、期待、ちょっとしたつまづき、やり直し、仕切り直し、問題の発生、困難、挑戦、挑戦、忍耐、忍耐からの夜明け、一旦来る許し、変容、変容から、いきなり天使の世界へ。 目に見えない世界は、そこにもドラマがあって、かつそこには許ししかないという事実、許し、許し、最後においては許しだけになるという、まさに人生と、死んでからの人生みたいなものがたった短い1曲に詰まっている。 音楽というのは、天につながる通路をいとも簡単につくるのだと驚愕した。今回バッハを弾いたら少しは成功したといえるのだろうか。 なお、先生と連弾したエリック・サティのピカデリーは、焼肉屋さんでじゅうじゅう何かを焼いているかのような、もうもう煙が立つような演奏だった。 途中かなりの割愛。訳のわからない文章が更にわからなくなるから。 ときにきいて涙する人もいたり。何か思い入れがあったり何かを感じ取る人だったのかもしれない。
知らぬ人から花束をいただき、こちらこそ有り難うという。サインなどもっていないが澄んだ目の幼い子にペンと何かを渡される。署名のように名前を書くだけになった。
わたしにピアノがあってよかったです。 『新しい音なんてどこにもない。鍵盤を見てごらん。すべての音はそこに既に並んでいる。でも君がある音にしっかり意味を込めればそれは違った響き方をする。君がやるべきことは本当に意味を込めた音を拾い上げることだ。』 音は既にあるのだ。
そうかもね。事実としてはそう聴こえてる。
プロのピアニストがそういってるのだから素直に信じよう。音は既にある。 リズムはもともと誰でも持っている。生れた時から。いや、もっと前。
地球ができた原初からある。 アフリカ。
ジャンべの音が流れてくると。
子ども、大人、男も女もみんなが広場に集まってくる。
太鼓の音に合わせて、腰を振りステップを踏み踊りだす。 ドラマーの叩く太鼓の音色が踊り手の耳に、目に、皮膚に、腹に、足の裏に沁み込んでくるとグルーブになる。
太鼓の強いビートに魂は反応する。
この時のことを思ったら楽になった。 散策をしたり瞑想に耽ったり。こんな夜長は籠ってピアノを弾いたりしてるけど、やっぱりそういうのが好きだ。
 
  ここより空気も水も綺麗だったし、練習5時間集中、少し周辺を散策、戻って読み物、客人を見送る時に「今日月が綺麗だよ。」と話をしたり。 その後にまた集中して練習、春は桜が綺麗な場所がを選んで遠回りして帰ったりして。四季を感じたり、旬の野菜を使って料理したり。そんな事に心は踊っていたし、そういう生活が大好きだ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています