少し疲れたので話をきいてほしい
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少し疲れてしまった
相談相手もいないし、これからどうしたらいいかも
よくわからないので、
できれば参考までに教えて欲しい 話さない事にははじまれないので、勝手に失礼します。
相談したいのは親の事で
父親は私が生まれる前から統合失調症
母親は仕事してくれているけど、メンヘラなんだと思う。
小さい頃から親のケンカは当たり前で、怒鳴り声も食器の割れる音も覚えてるし、
親同士でなぐりあいしてるのも覚えてる
そして、ケンカのあとは必ずお父さんは入院して、
私はまだ3歳だったけど、お母さんをはげましてたのを覚えてる 小さき頃は、お父さんが入院中、寂しいなと思うくらいで、
苦しいとは感じてなかったと思う。
苦しくなるのは小学生から
小学4年生の夏休みはじめ、終業式?のあと成績表をもって帰った。
なかなか良い成績だったから、専業主婦である父親にみせるのをワクワクして帰った。
でも、家の鍵は何故か空いてて、部屋には誰もいなかった。
机の上にキャッシュカードと、探さないでくださいとかかれたチラシをみつけて
パニックになった。
少し前に父親は自殺未遂をしていて、この瞬間、本当にお父さんは自殺にしたにちがいないとぎゃんぎゃん泣いた。
もちろん、自殺なんてしなかったけど 結局、父親は父方の実家にいた。
ホッとしたのもつかの間で、次はお母さんがおかしくなった。
その日の夜、一緒に自殺しようと何度も誘われた。
小学生ではあったけど、お母さんをとにかく落ち着かせないとと思って、
必死に私は死にたくないと伝えた事を覚えてる。
この日からお父さんは一年間帰ってこなかった。 聞いてくれる人いるのか。ありがとう
お父さんは当時は珍しい専業主婦だったから、友達に人気があった。
なんで、最近お父さんいないの?とよく聞かれた
その度に、お父さんは実家の手伝いをしに帰ってるんだと、今は大漁で忙しいからね
と答えた(父の実家は漁師、祖父は他界済みなので舟はもうない)
小学3年生くらいに頃に思いついた言い訳を
結局高校生活が終わるまで使い続けてしまった。
とにかく、友人たちに父親の病気はばれることはなかったけど、
必死で本当に必死に家庭環境が何かしらおかしいことを隠してた。
誰にも相談しなかったし、誰にも言わなかった。 書き込みに時間がかかってる。ごめんなさい
お父さんも大概だったけど、私は「お父さんは病気」ということが種の支えというか、
言い訳にもにた諦めがあって、お父さんの調子が悪くなる事に抵抗はなかった。
でも、母親があれるのだけは地獄だった、
小学生のころから、漫画、ゲーム禁止だったが、私は漫画が大好きだった。
もちろんイラストをかくのも大好きだった。しかし、母親は私のイラストをみるたびに、
線が1本になってない、目が大きい、小学生が女のひとの胸を強調させてかくなとか、とにかく
全否定だった。文集にかいた将来の夢が漫画家だった時は一週間、毎日説教だった。
結局、その文集以来、お母さんが怒らないような将来の夢だけかくようにした。 文が所々ぬけてるけど、多めにみてください
中学にあがれば自然の反抗期もくるわけで、母親との衝突は多かった。
最初はただの口喧嘩が気がつけば、
母親は地面にころがりながら、大声で絶叫し、頭をがんがんと打ち付けている。
お父さんがいる時は、そんな母親を止めてくれたけど、
父親が入院してしまえば、私1人で落ち着かせなくちゃいけなくなる
大声はご近所に迷惑だからと、手のひらで口をおさえたら、歯形がつく位には強くかまれる。
暴れるから、手足をおさえると、大声で娘が私を虐待する!!殺される!!と叫びまくる
私もパニックに近い状態で震えながらとにかく、ケンカした事を謝るが、
ごめんなさいを何度も伝えても、嘘だ、心がこもってないろ言われる。
小学生のころは明るかったし、中学のころもまだ明るかった。
でも、母親とケンカするたびに、私の意見は母親のヒステリーでもみ消され、
否は全部私にあることになってしまう事から、徐々に口癖がごめんなさいになってしまった。
バイト先でごめんなさい、なんてそんなに言わなくていいのよと今でもよく注意されるけど、
なかなかなおせない 高校は県内の進学校にはいった。勉強は頑張れば、ゆっくりできていくタイプだった。
だからこそ、この進学は間違いで、案の定授業についていけなくなった。
そもそも、睡眠時間がほぼなかった事がこたえたのも原因だった。
朝7:30に授業がはじまる。0限目というもので、たぶん進学校ならあるあるネタだと思う。
田舎で電車も少なく、そもそも高校も遠かった私は、始発6:10の電車で通った。
家から駅までは自転車なので、家をでるのは5:40
高校には念願のソフトボール部があったため、迷わず入部したが、練習は21時30分まであった。
自転車、電車と乗り継いで、家に帰り着くころには22:30はすぎてしまう。そこから勉強したが、
英語の暗記、数学の宿題などを必死にやり、終わる事には3:30だった。
必死に入学した高校だったけども、とてもじゃないが体がもたなかった。
7月にはいることには完全に体調をくずし、本当は夏休み期間中は学校があるのだが、その間だけでもと
お休みをもらった。
この事は未だに後悔してる まだまだ序章っぽいから全部書き終わったら質問させて。
言い方悪いけどちょっと興味ある 私が鬱気味になった事から
父親が自分の精神疾患、つまり統合失調症が遺伝したのだと思いはじめたようで、
徐々に父親の症状は悪化していった。気がつかなかった
ある日、父方の親戚から何かしらの嫌みを電話でいわれたらしく、
父は二度目の自殺未遂をはかった
その時、私は友人と電車にのっていた。連絡は電話でお父さんが薬を大量に服用したから、
急いで病院にいきなさいと言われた。この時も友達にはばれてはいけないと、表情にださなかった
タクシーをつかまえて、病院におくってもらう間も、何故かばれてはいけないと思って、
見舞いにいくのだと、タクシーのおじさんと談笑していた。
結果的に父は助かったが、次は別の問題がおこった。
自殺未遂した際に頭を強く打ち付けていたらしく、次は頭の手術となった。
結局、頭の手術は4回行なったが、この時が一番家族らしくすごした最後の時間だった。 家に帰ってきた父は何かが違っていたらしい。そして、親は離婚した。
未だに自分でもよくわからない事がここで、父親が退院してから
私が離婚の承諾書にサインをするところまで、何も覚えてない。
ただ単に忘れてしまっただけだろうけど。
離婚の話は小学生の頃から何度もあった。本当に数えるのをやめる位には
何度も離婚しようと思うと母親から相談された。
そして、一度も私はクビを縦にふることなく、幼稚園も小学校も中学も卒業した。
しかし、なぜかあのとき、潮時なのかとふっと諦めた。
母親も父親も別々に生きた方が幸せなんだろうなと思った。
離婚成立の時に一番驚いたのは、15歳以上の子供がいると
離婚の書類の子供のサインが必要なこと
子供の同意なしに離婚がきないという素晴らしい制度だとも思ったけど、
いま思い出すと、サインをしたことがただただ悔しくて、本当に私は馬鹿だったと
当時の自分が憎くて仕方が無い 離婚が成立して、父は実家に帰った。
働いていたのは母だったので、私は母をくらした。
小学生から父親の病気をかくしてきた私は当然、名字はかえなかった。
母も面倒だからとかえなかった。
この当時の私にとって離婚とは、父と完璧に縁をきらなくてはいけないものだと思っていた。
父と縁をきれば、母親の精神不安定な部分も落ち着くと思っていた。
携帯に2回公衆電話から留守電がはいった。
いつ会いにくる?と訪ねる父の声だった。無視した
次の留守電は
たのむから会いにきてくれと涙声の父の声だった。無視した
さすがにこの時には、私がいないと父は辛いのだと気がついていたが、
私は父と会うという行為が何故かその時非常に恐ろしく、辛く、とてもじゃないが
会いにいけなかった
母に父に会いたいとも言わなかった
いまだに理由はよくわからない 質問ならいつでもうけますよ。
ただ、かくのが遅いけど、その点すみません
父が悪化したと連絡がきた。 悪化なんていつもの事じゃないか、本気でそう思った
まず、母親が様子をみにいった。
会いにいってもいいけど、覚悟をきめてね と言われた
隔離病棟にいた。隔離病棟にいることは、今まで何度かあったので別段驚かなかった。
実際には隔離病棟の中の保護室?にいた
ここに父がはいった事は一度もないため、驚いた。
許可をもらって鍵をあけてもらい父とあった。
「マリア様がおって、B29やら、==ーーが爆撃をして、」 何を喋ってるかわからなかった
「あなたはマリア様ね?あなたは誰ね?しらん」 母親を見ながらいった
「私はわかる?」
「しらん。俺もだれかわからん。でも○○(私の名前と人文字ちがいの言葉)ならしっちょう。」
私の名前も忘れていたし、よくわからない妄想を語る姿をみて、父は統合失調症だと思い知った。
今までは薬がよくきいていただけだったのだと痛感した。
そして、電話に残った留守電。あの時はまだ父は父であったのだと、私があの場で
会いにいけば悪化しなかったのだと。 家に帰って自室にこもってぎゃんぎゃんないた。
父は保護室で、着ていた服をすぐにやぶり、大声をあげ、歌をうたい、
踊りながら、部屋の隅にある便器に祈りを捧げていた。
それほどまでに悪化した。 そして、母も悪化した 母は前より一層、暴れながら怒るようになった。
死んでやるといいながら、暴れ回り、「あああああああ」と大声をあげる。
少してを抑えれば「おれるうううううぎゃあああ」と叫ぶ。
私は謝り過ぎてパニックに近い状態になり、がたがたと震えるようになる。
そしてやっと母親らしく「こんなに弱い母親でごめんね」と言う
しかし、後になって「あなたに殴られた、あなたが私のてを」という。
ちなみに私は殴ってない。むしろ殴られたし、母親を抑えようとしてお腹をけられた
そして、母親は父親にむけてた愛情を完全に私にゆだねだし、
世界で一番大切なのはあなた、だから私の事も愛してね、と
どうしてあなたのことを一番愛してる私のことを理解してくれないの?
一番の理解者はあなたなのよ?言わなくても私の考えがわかるでしょ?
わかるわけがないので、否定すれば発狂、発狂
父親もよくならない。母親もおかしい
家をある種捨てるような気持ちで大阪に進学と理由をつけて上京した。 大阪は楽しかった。ケンカもないし、父親のことも手放しだった。
高校は結局なんとか卒業できただけで、成績ぼろぼろ、出席日数ギリギリという悲惨なものだった。
大学は世に言うF欄だけど、学費をだしてくれる母親にはやはりこの点は感謝しなくてはならないし、している。
夏と冬に実家帰省し、相変わらず話は何も通じない父親にあって、大阪にもどる。
成人式は父親に見てもらえないのが本当に残念だったが、いつか回復した時にでもと思った。
成人式の前日に母親に大切な話があるといわれた。
父親のことかと思ったら、結婚したい男性がうんぬんと言われた
正直、もう20超えてたし、私にとってその日とはお父さんにはなり得ないから、好きにすればと答えた。
ただ、条件としてあくまでも大人同士での結婚、私まで巻き込んだ結婚はしないでくれとお願いした。
要は、新しいお母さんの夫とは、会いたくもないし会う必要も感じないし、父親ぶって欲しくもないと伝えた。
成人式当日、父親がいないことが本当にショックだったが、地元の友人と久々に会えたのが嬉しかった。
しかし突然知らないおじさんから「私さん?」とよばれた。母親の新しい旦那さんだった。
この晴れ姿を見せたかった父親ではなく、できることならば父親に戻ってきて欲しかったポジションを
奪っていった男の人に見られた事がショックでたまらなかった。 結局は母親は再婚し、結婚式まであげた。あくまでも子供をまきこまないという条件で
結婚を喜んだけど、新しい人は過干渉で困った。そもそも母親がその人とケンカすると、
その人から電話がかかってきて、お母さんをなだめてくれと頼まれたりもした。
電話口で母親を説得するが、その度に母親は、お父さんとまた結婚したいと言った。
お父さんは死んだ訳でない中での再婚という意味に対する覚悟のなさにあきれた。
あと、母親の名字はかわったが、私は父親姓のままにした。
面倒だからと答えたけど、本当はお父さんが正気に戻った時に私まで
名字が違っていあたらあまりにもツライだろうからと考えた。
両親の離婚を後悔するようになってからは、家族3人でまた遊べたり、旅行できたり、
あの家で一緒に少しは上手くなった料理をお父さんにふるまいたいと思っていた。
本当は母親が再婚した時点で諦めるべきだったが、何せ母親と旦那さんがうまくいって
ないのだから、家族3人も夢じゃないと本当に思った ある日
「お父さんの調子がよい」という連絡がきた。信じられなかったが私の名前も思い出しているらしい。
病院を退院し。お父さんの実家で暮らしているという。本当に信じられなかった。
父は保護室から隔離、隔離から開放病棟へと少しずつよくなってきてはいたが、退院は諦めていた私にとって、
この話はまるで信じられなかった。あわてて、実家に帰省した。
父方の実家におじゃますると、私の名前をよびながら父が迎えてくれた。
離婚すると決まり、私が父に会うものかと意地をはったせいで悪化した。本当に後悔した。
6年ぶりのまともな父親の声をきいた。父親が自殺したときも、悪化した父親をみた時も
人前では絶対に泣かなかった。このときだけは祖母の目もきにせず、ごめんなさいと
泣いてしまい、玄関からなかなか部屋にあがれなかった。 よくなった父の姿をみに、母も一度だけ、父方の実家にやってきた。
久々に三人ででかけた。人が多い場所はダメだから、有名なうなぎ屋さんのお弁当を
お持ち帰りして、小さな公園でもそもそと食べた。
そして、また会いにくるから、と約束して帰った。
冬は1人で父にあいにいった。帰りに久々にとお礼の品をもって、父親の親戚をまわった。
特に父親のお姉さんは母親の再婚を仕方がない事と理解してくれており、また父親にも話していない
事を教えてくれた。本当にありがたい配慮だった、母親が再婚してから、父方の実家は居心地が悪く、
困っていたが、また母親もつれてきてもいいとも言ってくれた。
お姉さんに、お父さんには再婚の話をしないことをまたよくお願いして、大阪に戻った。
そして、東京に引っ越し、新生活をはじめた。
母親の再婚が邪魔でこそあったが、あの母親ならもう一回くらい離婚するだろうな、みたいな
気持ちもあり、家族3人で楽しくすごせる日も近いかなと思っていた。
父親の調子が不安定なのか、私がお盆に帰ってくるとずっと言っているらしいと連絡がきた。
とてもじゃないが、仕事やら交通費の関係で冬までは帰る予定がなかったので困ったが、
どうにかして9月に3日間休みをもらう事に成功した。
今回は母親もつれていってやろうと思い、父方に電話した。父親に母親がくると伝えると、調子をくずさないとも
言えないので、祖母にだけ。母親も連れて行きたいと伝えた。そして、念を押して、お父さんには日が近くなったら
私の口から伝えるので、言わないでとお願いした。 昨日父親から電話がきた。
「たのむから母親をつれてくるな。あいつ再婚したんだろ?」
と言われた。
いつかは知るかもしれないけど、言わないでくれとあんなに念を押してきた。
父親さえ母親を拒否しなければいつか3人そろって遊べると思った。
祖母にもとにかく裏切られたように感じたし、祖母の気持ちもわかるから、
余計になんというか気持ちが空っぽになった。
本当にもう離婚したんだな
と昨日実感した気がする
とにかくそれで、なんというか空っぽに感じられるようになった
誰1人として、私の気持ちをすくって、3人で仲良くあわせてやろうなんて思ってないのも、
なんというか、仕方はないにしても、大人のくせにと思ってしまう。
なんか、もう本当に疲れたのでスレをたててみました
話とんだりして申し訳ないし、最後はかけあしぎみだったけど、多めにみてください、
読んでくれた人がいたなら、ありがとうございます。
もし、質問があれば答えます。 他人で関係も何もないけれど、あなたが強く生きていることが嬉しい
なんというか、ありがとう 羊さんへ
そういって頂けると、こちらまで救われます。
読んでくれてありがとう 離婚、再婚して三人で穏やかに会うって方が難しいと思うけどな。
子供が大きくなればなるほど尚更。
親の立場上、子供のためには三人で接してあげるべきなんだろうけどね。
とりあえず一人で父親に会いに行って自分で話せばいいと思う。
ってかこの問題、まだ解決してないのが一番こわいと私は思いました。 読みやすい文章で一気に読めた。
1は心から何を望んでるん?
話見てたら母親は根が腐ってるからもう無理やろ
三人でまた仲良くってのを望んでるっぽいけど
母親がいる限り1も親父も幸せになれんし親父の病気もよくならんやろ
人は誰かに必要とされると認識したら生きる希望が湧いてくる
親父はもう自分なんて死んだ方がいいんじゃないかと思ってそう 偉そうな言い方ですまんが、この過酷な幼少期の環境は
捉え方次第では1に大きなプラスになると思うで。
ちなみに、この過酷な経験から何か得た事ってあった?
1は今、幸せなん?夢とか目標とかはあるんかな??? 遅くなりました。1です。
確かに離婚した時点で色々諦めていたんですが、
母親が父親といる方が幸せだと口癖のように言うので、つい私まで毒されていたように感じます。
今は実家帰省をするために、精神面を落ち着かせようと必死です。
父も完全に回復したわけではないので、
例えば普通の親子のように食事をレストランでする事は難しいです。
あまりうるさい場所へ行ってしまうと、ソワソワと落ち着きがなくなるのがわかります。
声の音量も、やはり一般のお客さんに比べたら大きいし、
話題は同じ内容の繰り返しです。
小さい頃は何の問題もなく、一緒に外食してたのが嘘みたいです。本当 また、父の面倒は今は祖母がみています。
しかし、当たり前ですが祖母が死んだら、父をみる方法がありません。
私は東京くらいにしかない職で食べて行こうとしています。とてもじゃありませんが、田舎である実家に帰ってしまっては、同じ職では食べていけません。
何より、4年お付き合いしてる人がおり、その人と別れてまで実家へ帰ることはしたくはありません。私の家庭環境を知った上でお付き合いしてくれる人はきっと少ないでしょうから。
父を東京方面にとも思いますが、飛行機など多数の人が乗る交通方法で移動は難しく、また車では距離が長すぎて、父がもちません。
このままでは、父は精神病院に入院しか方法がないのかと、また20そこそこの私にはそこまでしか考えが及ばす、悩んでいます。 また、過酷な人生を生きている方は他にもいらっしゃるでしょうから、悲劇のヒロインぶるつもりはありません。
ちなみに母親は多少というか、確実に悲劇ヒロインになっている気がします。
この体験で得たものは
私にもし子供ができたら、子供にみせてはいけない親の姿が想像できること位です。
あとはほとんどがマイナスに繋がる気がします。ごめんなさい、連呼のせいで、知らず知らずか自分に自信もなくなりましたし。
でも、父親の見舞いのために行く
隔離病棟やら精神病院では普通では体験できない事とかも経験できたから、ある意味これはよかったかもですね。 よく、いままでがんばったね。
おばあさんもご高齢だろうし、我が子といえども介護がおつらいと思う。
父方のご親戚と今後について話し合ってみるのが良いでしょう。
もうご両親は離婚したんだし、あなたの親権はお母さんが取ったんだよね?
あちらの判断に任せるしかない。
あなたに押し付けるようであれば、就職や結婚をあきらめなくてはならないよ。
これだけは避けて。
家族の修復より、あなたが新しい家庭を築く年代になったんだよ。 お父さんは何年もかけてゆっくり療養していく時なんだと思う。
お祖母さんが亡くなられたことの心配をされているようだけど、
社会サポートをフルに活かせば日本ではやっていけると思うから、
東京でなくても、近くのそういうサポートが受けられるところが良いかもしれんね。
訪問看護をフル導入して、毎日通えるデイケアか作業所があるところで、
長いことかけて導入していけば環境にも慣れると思うよ。 ご両親のことをそこまで考えているのはとても立派だけど
やっぱり自分の人生あってこそだからね。
お父さんは、医療に任せて、
あなたはあなたが支えられる分、サポートしてあげれば良いと思うよ。 1です
こんなにご意見いただけるとは思ってませんでした。本当にありがとうございます。
心の整理がつきそうです。実家に帰れば、また荒れそうですが…
もし、父がまた入院となっても、その時はまた会いに行けばいいですよね。面白い患者さんたちもいるから、解放病棟は平気ですし。隔離病棟は前は平気だったんですが、さすがにこれはヤバイっていう人に1人だけ会ってからは行ってません ここも放置されてる物件か?
ならば我がネズミ不動産がホームレス支援の為に活用しようぞ。
ところでネズミさんはアメリカのトランプ氏をどう捉えているんだろう? ホームレスの癖に携帯電話に詳しくて、他人の人生相談にのったりする変なの
がいるという。 好きな人との雲を掴むようなやりとりに疲れました
もう2ch卒業しようかな
いちいちレスに噛みついてくる人がいるし… またダメだった、もう疲れたよ
何にも良いことないな、、、 どうしたらいいんだろう
どの場所行っても浮く、私がダメなの分かってるけど
コンタクト何処でとればいいの?疲れたどうすればいいのか うちのアパートに人を送り込んだな?
正直やめて欲しい お金がなかったらないなりにやるから そうなんだ でも童貞っていうのが意味不明
彼氏彼女がいたことがあって 婚姻歴もあるのに
何で童貞なのか?? 心理的にも体力的にも疲れた
疲れたが口癖になってきた、もうダメなのか 人生・仕事・生きるのに疲れたと思った時に読んでほしいこと
http://commufreelife.com/tsukareta/
hssteteter4 お疲れ!
気分転換しようよ。
こんな児童図書みつけた。
↓
★ 勇人(ゆうと)と亮輔(りょうすけ)★
http://slib.net/71510
『目次』
1 めずらしくて、おいしいもの
2 亮輔君の家で
3 ぼくの町の話
4 漁船の話
5 近未来はけっこう大変だ
6 本当は怖い、海の体験
7 大人の責任と、ぼくらのきづな
勇人は小学3年の夏、いとこの5年生、亮輔の所に遊びに行った。釣り船を経営する家だ。
そこで様々な海の体験と、人や大人とのつながり、心の交流を学ぶ。
大人にこそ読んで欲しいものです。 2015年、8作品中7作目
上松煌 作
(プロフィール) http://slib.net/a/21610/ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています