■ギャザー・スタイムという概念の導入
(注:ギャザー・スタイムとは、ニュータイプという概念を一歩進めたもの。
他者との共鳴だけでなく、精神的に他者と完全な一致を見ることを表現しようとしていたようだ。
この概念は、結局「Z」では採用されず、わずかにZのバイオセンサーに名残をとどめる。)
しかし、人と同化すると言うことが、人の能力の拡大であるとは思えないという反論に対して、
どのように対処するのか?
他者をとり込む技術的な解決策がどこにあるのか?
とり込まれた側の主権というものがどのようになるのか?
主権論で言えば、肉体を持った人であるからこそ、任意の認識を具有する事ができるのであって、
そうでない人の存在というものは、偏向したものとして存在するわけであって、
反物質的でありすぎるという懸念を解消する事はできないのではないのか?
死を待たなければ、ギャザー・スタイムが完決しないとなったとき、
故意に殺人を犯すというプロセスが産まれ出よう。
劇的でいいのだが、そこにのみ焦点を合わせるという訳にはいかない。
大体、ギャザー・スタイムの概念の至る処は、愛なんだ、
という結論さえも用意する事ができるわけで、それでは"ヤマト"と同じでしかない。
この前提を回避する方法というものが、設定されなければ、
ゼーター・ガンダムの意味はないわけだ。
84.3.12

■ゼーター・ガンダム=逆襲のシャア=
これを置いた時のゼーター・ガンダムはどうなる。
これが第二のニュータイプ論。ギャザースタイムになるのだろうが、
この為には、もう少し時間が必要な気がする。
手をつなぎあう人の共感論なのだから。
現実と照らし合わせた場合のシリアスなアピールがどの部分にあるのか?
ドラマナイズしてゆく場合の、共感はどこにあるのか?
なにが、一般受けするものなのか、という原点の模索は、注意深くされなければならない。
しかし、ここまで吐き出した時に、俺はどこに行くのかという不安がある。
大丈夫だという安心感は、所詮自慰なのだから…。
84.5.21

ΖLDBOX富野メモより