【規格外の馬場】BI砲を考える12【反骨心の猪木】
名勝負でも二人の確執でも友情でも
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【共通の師・力道山】BI 砲を考える11【蜜月と対立】
https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/wres/1707255368/
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【馬場】BI 砲を考える【猪木】
【32文】BI 砲を考える2【コブラツイスト】
【アトキンス】BI 砲を考える3【クラウザー】
【清水一郎】BI砲を考える4【古舘伊知郎】
【慎重居士】BI砲を考える5【夢追い人】
【ジャイアントサービス】BI砲を考える6【アントン・トレーディング】
【スナイダー&ホッジ】BI砲を考える7【ブルーザー&クラッシャー】
【王道】BI砲を考える8【闘魂】
【⚪田中米太郎】BI砲を考える9【⚫大木金太郎】
【日本武道館】BI砲を考える10【東京ドーム】 前スレの続きで・・
引き抜きで優遇されたのはハンセンが断トツで、シンもPWFに挑戦とかインタータッグ奪取、注目された輪島の相手とか妥当な扱い
チャボも干されてないよな
新日ではIWGP優勝戦や猪木のパートナーも務めたマードックが一番
問題児ブロディは猪木戦のみがピックアップされたけど扱いに困った
(紳士協定以降だから移籍になるのか?)
全日潰しに出たブッチャー引き抜きがなかったら馬場も本気にならなかったし
あのまま続いてたらアンドレや象徴ゴッチも引き抜きにかかっていたと思われる 今日は東京タワーズがファンクスからインタータッグを奪取
テレ朝に残ってるらしい映像も気になる >>4
それでホーガンのギャラがハンセンより上になった事が
ハンセンのプライドを傷つけて全日移籍したんじゃないかという報道もあったが、
実際にはハンセンは引き抜き合戦勃発時点で馬場に会って
口頭で「全日移籍OK」をしているからホーガンのそれは無関係だった。 国際は崩壊してるから引き抜きじゃないけど、スミルノフは何で両団体のポスターに載ってたの? >>6
ブッチャーが移籍してくる事に事前の通知が無かったので新日本に不信感を持ったと言ってるな
少なくともハンセンの肌に合ったやり方ではなかったと ガイジンとしてシリーズに参加することになる、というのを
事前に認可承諾的なもの貰わないといけないのかなあ
読売みたいに今度は某チームの4番を取るけどいいよね? って現行クリーンアップに話通すんだろうか
気持ちはわからんではないけどさ >>9
外国人トップを任されてる以上、団体の意図は事前に知りたいだろうな
WWFでも繋ぎの王座を決める時は現王者に説明するみたいだし >>009
野球の場合は主力に限るけど、クリーンアップかというよりポジションが被る場合は話すんじゃない?
「今度〇〇が来るから、この機会に負担が少ない一塁に回ってくれる?」みたいな感じで。
落合が巨人の正一塁手だった時期、落合に何の説明もなく球団はポジションが被る西武の清原を獲りに行った
結果的に落合は「自分はいらないんだな」と球団の意図を感じ、結局はFA行使して日ハムへ行ってしまった。
ハンセンの全日移籍はこれに近いんじゃないかな? >>12
そもそも落合がFAで巨人に来る直前に駒田が「自分は不要と思われている」と気がついて
FAで横浜に移籍していますな >>8
ハンセンの移籍をブロディは喜んだが、直前まで馬場から何の説明もなかったとハンセンに愚痴ってる 直前まで〜というのは無理ないと思うよ、業界的に。
スミルノフやホーガンの例をとるまでもない
本人が来るまでは、本当に来るのかわからなんだから 当然、極秘裏に進められていた計画だから仕方ないし馬場の意向を聞いて納得したそうだけど
ブロディの場合メインイベンターとしてのプライドが高過ぎるというのもあるんだよな
ビジネスとして割切ればプエルトリコの悲劇も起こらなかったはずだし >>13
そっか、それもあったね
他には巨人の小久保、ハムから小笠原が来るのを聞いてソフトバンクに行った例もあった
王さんからの「帰ってこい」と直々に言われたのもあるだろうけど。
外人レスラーも日本マット常連というポジションは限られてるから、死活問題という点は野球と同じだね。
>>14
ブロディは喜んだの?
後輩と異国の地でも一緒になれるのはそうだろうけど、自分のポジションが脅かされるわけだし
なんか複雑な感じもしそう…ハンセンと組んで超獣組として自分も得できる、と総合的にプラスと考えられたのかな? ハンセンとブロディならこの時期(81年末頃)なら明らかにハンセンが上だったからね。
人気、知名度、来日回数、実績など。 野球はポジションや打順の取り合いだけども
プロレスの場合は来日ガイジンだからそんなに拘らなくてもと思う
新春A 冬B リーグA 夏B 秋C タッグABで棲み分けできるし
団体としてはそうすべきだろう。なのにプロモーターの要請かなんか知らんが
安易にブッチャーばかり、ハンセンずっと来てる、にするからなあ >>15
最強タッグ決勝戦当日にハンセンがドタキャンする事だって無いと言えないからね。
一般常識ではありえない事が起きるのがプロレス界だから。 >>20
そのドタキャンをさらに越えた、1984最強タッグ
キッドスミスはドタキャン+他団体のリーグ戦に参加した
他団体参戦だけならまだしも、同一趣向のシリーズに参戦して星取合戦に名を連ねるなんて…
あんな例は他にないんじゃないの?
野球でいえば巨人の選手として契約したのに、来日したら阪神の選手としてスタメンに出てるようなもんだ。 トレードでも引き抜きでもいいけど、どうせなら協定結んだ時に3対3とかの入れ替えをして欲しかった
アンドレ、バックランド、ホーガンorカネックとドリー、レイス、ニックorマスカラスとか
マッチメークは非常に困るが(笑 トレードとの説はあるけどどうなんだろうね。
そう見た方が得心がいくような状況ではあるんだろうけど
トレードされた本人であるブッチャーやシンが証言したらはっきりするんだが
>>23
まず温厚そうなMスーパースターとTデビアスあたりで様子を見て >>24
ブッチャーのwikiには80年暮に新日移籍の意思を馬場に伝えていると書かれているが…
信憑性は不明 シンの元に訪れたのはシーク、ファンクス、馬場と色んな説があるね。
シーク説が濃厚かな。
またシンは『上田の移籍も条件』とか。
上田は上田で全日移籍の本音はどうだったのだろうか?
シンの居ない新日に残っても上田の需要は限られてたけど。
注目は移籍したばかりのブッチャーとの絡みくらいか。 >>18
バランスを取るためハンセンが来る前にブロディに一度インターを取らせたとも言えそう >>27
いい視点だわ。ハンセン、元NWF王者で
ブロディが無冠じゃ弱いっちゃ弱いからな
松戸で戴冠する予定だったんだろね >>28
松戸ってドリーvsテリーをやった時?
あの時点ではハンセン移籍は内定してないんじゃない?
ハンセンとのバランスをとるなら10周年の時でもギリギリ間に合うし。
ただし上記のブッチャーの証言の件も含めて、皆さんの視点が実は引き抜き合戦という名のトレードだったという前提での見方なら
松戸の時点でのハンセンとのバランスも十分あり得ますけど。 >>26 >>29
シンは81年スーパーパワーシリーズ終了後に馬場夫妻と日テレ原章がトロントの自宅に出向き契約
続いてダラスの空港でハンセンと合流してハンセンとも契約した
シンにすればカーン戦で足を骨折して第4回MSGシリーズに参戦できなくなったアンドレの代打として来日した際
初めてブッチャーの移籍を聞かされ衝撃と怒りを感じ馬場の誘いにいち早く応じたという >>30
(ハワイ→)ダラス→トロントだよ
原の証言だとトロントの自宅じゃなくてホテル
MSGシリーズ中に馬場は既にシンと交渉してたらしい ハンセンやシンに移籍の決断までさせるブッチャーの脅威・存在感は凄いという事は間違いないね
もちろん高額なギャラアップが後押しさせたのも込みだけど。
ジャパンが全日に上がる時、ハンセンはブッチャー新日移籍の過去がオーバーラップしたらしいけど
「心配するな、ちゃんとポジションは戻すから」との馬場の言葉を信じた、と回想してたけど
新日はそのへんの配慮が少し足りなかったかな…といっても馬場はだってハンセンとは逆にブロディには去られてるけど…。 >>31
訂正ありがと!
当時のシンはタイツにライオンマークの刺繍を入れて新日所属感を出していたから尚更怒ったんだろうね
6.24蔵前の10周年3大スーパーファイトでハンセンと組んで猪木ローデス組との対戦が決まっていたが
新日を最優先するはずのシンがカナダでのスケジュールを理由に来日をキャンセル
ローデスも6.21アトランタでレイスからNWA王座を獲得して来日を取りやめた
結局谷津の悲惨な国内デビュー戦、猪木&谷津vsハンセン&ブッチャーとなった >>32
盟友ハンセンは許せるけど、ウォリアーズと長州の優遇は・・・ >>32
ブッチャーの価値というより新日本の自分たちに対する姿勢に不信感を持ったらしい
いつかあっさり切るつもりなんじゃないかって >>34
長州はともかく、ウォリアーズのファイトスタイルは数十分も攻守攻防する戦い方じゃないし
だから本当の意味で鶴龍らの好敵手にならない、ハンセンブロディとは立ち位置が根本的に違うのにね
結局はトップどころじゃなくて二線級を叩き潰す姿に需要があるんだから、ブロディも急ぎすぎたね。
>>35
そういう意味では全日移籍は大成功だ、蔵前乱入から20年も主戦場にできたんだから
それに最後は契約解除ではなくて、自ら引退を選ぶ最後で理想的。 >>36
まあ金曜夜八時で改めて顔を広めた上で新日本をメタメタにし遂にはギャラダウンで改めて迎え入れたわけだからな
結果として馬場にとって悪くない結果だったとも言える むしろ新日のほうが全日よりはるかに
ブロディをうまく使っていい商売をしてる
全日はブロディをシングルで使って5000人も集めたこともないからな >>35
そもそもブッチャーを新日に売り込みをかけたのは梶原とトルコ2人の共謀で、最初から新日側が積極的に動いた訳ではない
80年12月11日蔵前国技館に現れた二人はブッチャーに新日移籍への折衝をしている
上にも書いたが、その頃に「こういう話があるんだが」と馬場に伝えたんだろうね
(梶原とブッチャーの接点は映画『吼えろ鉄拳』で主演の真田広之と共演した関係から) >>40
リング外での揉め事がリング上での過激な(当時のもの言い)試合に繋がるのだぞという期待や下地はあったからそれはそれで素晴らしいというべきかと
いわゆる「遺恨」ともちょっと違う味付けがある
ブロディと新日にだけあった相性によるのだろう
>>41
ブッチャー自身はそれでギャラアップや待遇改善を図ったんだろうけどそのうち段々その気になってきて……ということなのかな 新日がブッチャーに提示したギャラは全日時代の倍額。
トルコが言うには上田のギャラはブッチャーの新日時代の
1/6に過ぎなかったとか。 >>43
グリーンボーイ時代から苦楽を共にしていたハンセンはプロモーターや先輩レスラーと衝突するブロディを窘めていたらしい
だから85年彼が新日に移籍した時に軋轢は避けられないと確信していたようだ
金銭よりメインイベンターとしてのプライドの方が強かったから
「俺だけでは不足なのか?」というブロディの中でのプロモーター不信
その蓄積が後の悲劇につながったと断定していて、傍に居ながら止めてやれなかったことを後悔している 前田が長州から聞いた話だが「全日本へ行け」と言ったのは猪木らしいな 新日がガラガラになってるけど、オカダオスプレイは猪木馬場に相当するからね
「こんな事は初めてじゃない。抜けたときにいつも救世主が現れた、今回誰が出てくるのか楽しみで仕方ない!」
なんて危機感のない発言してたけども
そりゃいっぺんにエース2人抜けられたら客は減るだろ
どっちが馬場とか猪木じゃなくてね
オスプは外人だけど日本で育ち毎シリーズ参加してたから年に数回来ていた昔のエース外人と違う
今残っているのは大木坂口レベル、それが内藤や真田、海野くらいかなあ
辻上村成田あたりは小鹿高千穂あたり・・ 日本プロレスを思い出したw
そういやあ日本プロレス社長も同じような事言ってたな
「力道山が死んでも馬場や猪木が抜けても大丈夫だった」とね
で小鹿や上田、松岡を上の方で使ってどうなったかw >>44
上田のギャラを安く抑えたのは
・日プロ末期の因縁
・もともとシンのオマケとしか考えておらず、シングルプレーヤーとして評価していなかった
・所属の日本人選手への忖度
などありそうだな
特に極道あたりは「日プロでは俺らと大して変わらないポジションで、しかも一回辞めた
出戻りのくせして、なんでメイン張ってタイトルまでとらせてもらってんだ」とか不満あっただろうから
その上ギャラまで自分らよりずっと高額となったら、抑えがきかなかったかも >>49
シンがパートナーとして上田を馬場にリクエストしたのもあったとか
とにかく上田としては因縁の蔵前でメインに >>49-50
どうであれなんであれ10周年の蔵前で上田はメインを飾った、これは事実
じゃあ逆に極道が新日に引き抜かれたとして、メインを飾る扱いを受けるかどうか…?
戸口でも田コロのメインだったんだから、もしかしたら新日なら有り得る? >オカダオスプレイは猪木馬場に相当するからね
あまりの馬鹿発言に呆れた
なら、新日は来年の春には崩壊するんだな?www
オカダオスプレイなんて、日本プロレス時代の馬場、猪木の足もとにも及ばない
プロレスに興味がな人でも、この二人の名前は知っていた
試しに、周りの人にオスプレイというプロレスラーを知っているか聞いてみなよ
オカダだって知名度は低いぞ!
オカダの穴なら海野でも辻でも埋められる >>51
馬場サンマルチノと並ぶ混成友情コンビってのが良かった
年末でも馬場組の足を三年連続で引っ張ったし 今日は馬場吉村が三度目のアジアタッグ挑戦失敗
四度目でようやく戴冠も年末でインタータッグにあっさり乗り換え >>53
そうかなあ?
ハンセンが来る前に、シンが馬場と大会場で一騎打ちするチャンスは
あそこしかなかったと思うが
サンマルチノとの友情タッグは、最強タッグの特別参加とかでよかったかも >>55
最強タッグで馬場がサンマルチノと組めば鶴田が誰と組むかだな?
天龍が原と全日国際コンビだったから、同じく鶴田も井上あたりと? >>52
世間でそれくらいバリューがあるなんて言ってない >>55
シンには結局上田以上のパートナーがいなかったからな
いろいろ考えてみたけど猪木くらいしか浮かばなかった。 引き抜き抗争や10周年の頃は大会場での興行が打てなくて、日テレとしても老舗のメンツで資金援助にも力を入れている
ただゴールデンを外れて久しい全日の台所事情は苦しくて、外国人レスラーの源泉所得税滞納という噂も出始めていた 結局、大物外国人レスラーで固めても業績は好転しないんだよな
展開が読めるマンネリというか・・
ハンセンが来て何が変わったかというとハラハラやドキドキの緊張感
この緊張感が試合にあるか無いかが新日本との決定的な差だったと思う 馬場が衰える一方だし、鶴田じゃ客呼べないしでなあ
ドリーとブロディのインター抗争なんかもやってたなあ >>60
ギャラの現物支給?
それってインディーとかでよくあったチケット〇〇枚を選手に渡して
「お前が自分で売れ、その売った代金がギャラの代わりな。」というやつ?
78年って前年末にファンクス人気爆発して、マスカラスも鶴田と名勝負やってスカイハイ人気爆発
なんで翌年にそんなになっちゃうの?外人ギャラも日テレ持ちなら上がる要素しかないと思うが…。 体感だけどそのテリー人気やマスカラス人気は
彼等が来た時に見に行こう、テレビ見ようということになって
いないときは見ないでいいやという行動に繋がったんじゃないかと 豪華外人レスラーってだいぶ日本テレビが援助してたでしょ
テレ朝やテレ東はそこまで経営に入り込んでなかった
国プロは3000万用意してテコ入れしようとしたりして目に見えるような事もあったけどね
日テレは放送権料から考えて下手したら年間、億とか放送権料以外にも外人招聘などで
出していたんじゃないかなあ 外人至上主義だし外人には気前良いにしても馬場さん本質的にケチだし、
派手な事嫌いだから日本テレビなしであれだけの質量の外人レスラーを呼び続ける費用を
自腹(自分の会社)でも出したとは思えないんだよね 外人招聘にしてもテレ朝が10周年で豪華メンバーを揃えたりする興行戦争には日テレもテコ入れするが
それで十分だと思っていたんだろうな
あと放送権料といってもプライム外れたら支払われる額は大幅ダウンするんじゃないの
所属の日本人レスラーにツケが回って可哀想だけど社保完だから雇用は考えていた ブッチャー新日流出発覚後の
スーパーパワーシリーズの慌てぶりは凄かった。
といっても物量的でシークはともかく
いまさら呼んでも、のデストや
いてもいなくてもまったくかわらんカールフォンスタイガーを特別参加させた スーパーパワーシリーズの目玉にノースカロライナの黄金カードを持ってこられても >>67
原プロデューサーによれば、土曜5時半になっても放映権料はゴールデン時代と
変わらなかったそうだ。
新日の事情の方がいろいろあって難しかったようだ。 >>70
「将来打ち切られるのではないか?」と聞かれて
「ありえません。プロレスは社内で大事にされているから
むしろ強固にバックアップしますよ。」と原は答えていた。 日プロ崩壊時の大木、小鹿らの先の見通しの甘さは良く語られるけど
独立した時の馬場や日テレも同程度の頭の中身だったんだな
全日は諸般の事情を考えても視聴率でも観客動員でも
馬場在籍時の日プロの半分の数字も獲れていないし金だけは無駄に使ってる >>73
ファンからすれば無駄とは言えない
おかげで良い物を見させてもらったし今でも楽しませてもらってる >>62
ドリーとブロディとインターという組み合わせはむしろ傑作だと思う
開始の時点よりもその三つを確実にアップさせたし >>68
ブッチャーの最大の武器は、日本人、外人問わず
トップ選手相手に誰とでも因縁つくって抗争が演じられる
コミュ力の高さだからな
いなくなったら、補うのに最低何人かは必要になる
だからブッチャー移籍後の10周年記念興業は
オールスターを揃える必要があった 最終的にはハンセンがその役をブッチャー以上に果たす事に >>69
リッキー繋がりでスヌーカを見出したという意味では大成功 >>59
79年と80年の蔵前大会は一度ずつだがそれでも全団体最高の入りでその年の全団体の最終興行の役割を果たしていた >>78
スヌーカとの現地直送マッチよりも、シークとのシングルのほうがリッキーの
ベビーフェースぶりが際立って良かったな >>79
プロレス興行としては79年はオールスター戦(東スポ)、
80年は猪木VSウィリー(梶原プロモーション)が最高じゃないのか?
プロレス団体が行った興行という意味では最強タッグが最高だろうけど。 ブッチャー本人が「猪木は私と試合をしたがっているように見えなかった」と回想していたが
ブッチャー引き抜きは梶原、トルコと新間の仕掛けで、猪木の希望じゃなかったんだよね。
猪木VSウィリーもブレーンの梶原の仕掛けで、内心では無名の空手家のウィリーと
引き分けブックは納得行かなかったんだろうな
ウィリー戦については黒歴史というほど語らなかったし、
90年代になってウィリー戦をやりなおして完勝ブックだったのを見ても現れている。 >>82
ウィリー戦はキラー猪木のビデオのインタビューで結構語ってるよ
猪木はウィリー個人には好感を持ってるようだ
「周りはいろいろ熱くなってたけど試合をする当人同士は何の遺恨も無いんだよねw」猪木談 >>82
ブッチャーに関しては新日のリングに初めて上がった時に、
猪木がマイクで「これまでと同じブッチャーなら私には絶対に勝てません!」って言っちゃってる
あとウィリーは無名じゃないぞ、ちゃんと梶原一騎がウィリーを売り出した上で組んでる
既に映画に出して「熊殺し」(実際はレスリングベアとジャレただけだが)の異名も付けて
世界大会でも3位に入って話題になった(梶原によると、優勝してしまうと他流試合出来なくなるのでわざと反則負けにさせたとか) >>84
ウィリーを無名と書いたのは、かなり長い間、ウィリーには海外版のWIKIすら
存在しなかったのよ。
あくまで日本限定で梶原一騎が宣伝しまくったが、海外ではそんなもんだったんだなと思った。 >>85
海外では無名って当たり前じゃん
それ言い出したら猪木の格闘技戦の相手はアリとスピンクス以外無名だらけだぞ 異種格闘技戦も体力的にウィリー戦でやめたかったんだろうな >>87
猪木としてはそうだろうね
それ以降の格闘技戦は会社の台所事情の苦しさからやってる感じがある >>80
ブッチャーが去りハンセンが移籍してきたことでシークは81最強タッグでお役御免
蔵前の支度部屋でシンと乱闘した行為はシナリオになく馬場が激怒したらしい
シークもハンセン乱入はこの日初めて知って危機感を抱いたアピールだったようだが‥ >>81
最強タッグが当時の別格だったのは年間の大トリの役割でもあったからなんだよな >>82
ウイリー戦やりなおしたのは、一足先にリングスで
前田に完敗したのが大きかったのでは?
ウイリーはその後FMWにも上がってるし、実はプロレス好きだったのかも >>89
シークに勝手をさせて切り易くする無言の仕掛と思えない事もないな >>91
東京ドームの試合は“決め技限定マッチ”だったな
モンスターマンとの再戦、フライとの引退試合と同じグラウンドコブラだった
>>92
程のいいリストラとも言えるw >>81
https://www.instagram.com/toudoukan/p/C3SKVkoLXk9/
猪木vsウィリーの主催東スポだけど(新格闘術黒崎道場と併記されてるverもある)
梶原プロモーションってなんだ?
梶原プロダクションなら知ってるけど興行はやってないだろ >>82
猪木はシン戦で、ブッチャーはテリー戦で
ヒールファイトのパターンやりつくしてるし
お互い何をやっていいかわからない顔合わせだよなあ。 モチベーションがなかった
本気で盛り上げようとしたらいい作品作れたかも
ただ全盛期過ぎようとしてたし体調的にも厳しかったろうけど ブッチャーをあんま強く見せたくなかっったんじゃないないかな アリと戦う前、クラップとさえ盛り上げた頃の猪木。
その頃の裸足の猪突猛進ななブッチャーとだったら
盛り上がった可能性はある。
お互いアリ戦、テリー戦で間合いが変わってしまった。 全日がブッチャー離脱をはっきり掴んだのはいつのことなんだろう。
嫌がらせ的に直前のチャンピオン・カーニバル&インター争奪リーグで
馬場、鶴田、ブロディ、テリーがブッチャーに完勝してたら
猪木がああいう反応になるのはわかるけど、全日は最後までエースとして配慮して扱ってたな。 全盛期過ぎた馬場のテンポでハンセンは合わないと思ったが見事に好勝負に仕上げた感じ
ハンセンには新日スタイルで構わないと言ったようだが ハンセンはDVDのインタビューで「猪木は自分のスタイルにこだわり
俺のスタイルにはつきあわなかった」と言ってる。
意外なようだが、ハンセンは坂口戦やアンドレ戦のようなラッシュ
スタイルが自分の本来で、猪木はそれにはつきあわなかったと言ってる。
そういう意味では馬場は猪木以上に「つきあった」。
これは馬場が超大型レスラーであったことに起因するだろうが、
馬場もそのあたり自信があったのだろう。 >>100
まあ正月のシリーズでは鶴田にフォールでUN奪還されていたが >>102
そらあ馬場がアメリカや日プロで戦ってきた相手はトップクラスばかりだったからな キニスキー、エリック、ブラジルと大型選手は馬場の得意領域。
ハンセンも初来日は全日本だし、基本的な部分はわかっている。
しかも6月に契約しながらもハンセンはその後も新日本に半年参戦。
その間馬場はアンドレ戦などを見ながら、じっくり試合の
パターンを練る時間があった。
そして「これはいける」と踏んで、参戦即シングルマッチへと
踏み切った・・・ >>106
全日の看板カードというところまではいかなかった ブロディと手が合ったのって鶴田とフレアーくらいか? PWF防衛戦で最後に3本勝負が行われたのは10周年ジャイアントシリーズ富山大会の馬場vsブロディ戦
82年ハンセン参戦以降全日本プロレスに基本1本勝負が定着した
(フレアーのNWA戦やウォリアーズのインタータッグでは限定的に3本勝負もあったが) >>108
ブロディはドリーと手が合ったよ。
最初にブロディの迫力を引き出したのはドリー。
それに天龍。 >>110
ドリーもまたブロディを相手に得る事でシングル王者として再生出来た ドリーはブロディと合い、ハンセンとは今ひとつ。
テリーはハンセンと合って、ブロディともまあまあ。
馬場はハンセンと合ってブロディとは今ひとつ。
鶴田はブロディと合ってハンセンとは噛み合わず。
馬場はドリーとはまあまあ、テリーとは合わず。
鶴田はテリーと合って、ドリーには遠慮がち。
みたいな感じかや >>100
ファンクス兄弟対決が実現した松戸のリングで
ドリーの対戦相手を決める抽選を行ったとき
くじを外したブッチャーが見るからにふてくされていたのが映っていた。
「もうお前に見せ場はやらんぞ」みたいな空気を感じたのが態度に現れたのだろうし、
全日サイドもさすがにあの時点では離脱を予見していたのだろう。
>>105
一番その割を食ったのがシンだな
自分の方が半年先に移籍してきたのに
一騎打ちで先を越され、しかもあれだけの
インパクトを残されてしまったあとでは
もうハンセンとの序列をひっくり返す術はなかった
今にして思えば、上田のことなんか気にかけず、
秋の蔵前で馬場に一騎打ちを迫るべきだった >>113
シンがやっとPWFに挑戦した時にはハンセンもいたがセミ前の前のタッグマッチだったんだよな
要するにシンを立てる意味合いなんだろうが初来日でもセミ前だったのを考えても面白い 全日からすればシンの評価は最初からそんなもんだったんじゃない?
ブッチャーを獲られたから仕返しとしての大義名分を果たすため、もしくは新日の外人戦力を削るため。
シンと上田のセットでやっとシリーズのエースが務まる、みたいな。
だから10周年でシン上田組で一応メインに収まれた。 基本的には力道山追悼のデストロイヤーと同じくサンマルチノを立てるのが前提とすれば相手がシン上田になるのは必然かともなる
また前年の同所で坂口藤波に敗れてるのも考えればむしろ優遇と思えなくもない でもハンセン移籍までの半年間で、馬場と大会場で一騎打ちするチャンスは
あの10周年の蔵前しかなかったからなあ
シンがハンセンの全日移籍に気づいたのがいつかは知らんけど、移籍先で
いちはやくトップヒールとしての地位を確立するためには、
大暴れの末の反則負けとかで構わないから、
いち早く一騎打ちを実現してインパクトを残す必要があったはず
たぶん猪木が渋ってたんだろうけど、新日移籍したブッチャーもなかなか
猪木戦を実現できずにいたわけで、機先を制する意義は大きかった
>>115
馬場の著書を読む限り、確かにシンの実力に対する評価は高くなかったが
「食えるようになったのは大したもの」とは書いてあった。
同じアトキンス門下としてのシンパシーはあったんだろう。 >>117
ブロディはチェーンを捨てれば世界チャンピオンになれるが
シンはサーベルを捨てても世界チャンピオンになれない
だが「稼げるレスラー」にはなったから立派なものだ
みたいな評価だった シンは少し乱暴なクリス・マルコフにしか見えなかった 十年契約も保障されてたみたいでシンとしても割り切ってやってた印象だな
その間にサイドビジネスにも精を出してたみたいだし アトキンス門下でいうと、シンが全日移籍してからアドニスが新日に初来日するんだな >>117
馬場は猪木ブッチャー戦の実現まではシンとシングルやる気なかったでしょ。
シンとは大した試合にならないことは予感していた。
猪木ブッチャー戦に自信のあるハンセン戦をぶつけて評価を上げた後
安心して?シン戦をやる計画 >>122
ハンセンと組んで谷津を血祭りにした新日デビュー戦は悪くないんだからタッグリーグに出したら持ち味を発揮したかもね >>120
あの時期のシンに10年契約とは全日(日テレ)も太っ腹だな…同年齢のテリーはあと二年で引退するのに。
急ぎ声をかけたシンですらそんな破格の契約をするんだから、ハンセンなんていったいどれぐらいの提示条件だったのやら…?
またブロディへの契約見直しもあっただろうし、またマードックや戸口も抜かれたけど、逆に抱えてる選手の冷静な値踏みや見切りも急ぎ判断してたんだろうな。 >>109
3本勝負と言えば馬場鶴龍の海外遠征で
鶴龍が2本先勝した試合があったな
鶴田のラリアットとブレーンバスター(腰から落とす)であっさり済ませた試合
日曜の昼にやっていた >>115
シン抜きの上田となれば82年の最強タッグ
いきなり馬場組と場外心中で >>122
確かに馬場とシンの初対決は凡戦だったね。再戦を見たいとは思わなかった。
あれを猪木ブッチャー戦にぶつけても、お互い凡戦で痛み分けか。
誰とでも抗争できるはずのブッチャー相手にいい試合を作れず
評価を落とした猪木に対して、馬場はハンセン戦で評価が爆上がりしたから、
あのタイミングで一騎打ちして大正解だったな。 >>127
インター返上させられた大木と日プロ残党コンビも面白いが、遅かった
82年最強タッグ前のシリーズで大木は全日からフェードアウトしたからね >>129
大木がフェードアウトしたのはその前年81年の秋だな >>129
そんな頃まで大木って全日に上がってたんだ?
年齢とかも含めて色々と凄いな…
といっても例えば、馬場と一騎打ちした時の大木の年齢が現在の棚橋弘至と同年齢…
大木が老けすぎだったのか、棚橋が若すぎるのか…?
棚橋はいまでもハイフライフローとかやってるしなあ。 >>125
ロビンソンの先例とは、ロビンソンも10年契約だったという事?
確かに馬場と一騎打ちしたのが1975年で、最後に来たのがゴールデン昇格の1985年のシリーズだけど… >>131
大木が1929年生って明らかになったのはだいぶ後になってからで、
当時は4〜5歳若く公表されていたから(それでも高齢だが)
そこまで違和感はなかったよ シンはハンセン移籍で割を食った。
ブッチャーもラッシャー国際軍団の登場で割を食った。
新日では10/8と11/3の蔵前では猪木は2回ともラッシャーとのシングル。
本来ならこのどちらかで猪木とブッチャーのシングルを組むのが自然。
猪木からしたらブッチャーよりラッシャーとのシングルの方が相応しかったのだろう。
また新日としてもブッチャーよりラッシャーの方がウケると思ったのかも。
そうなればブッチャーは重要視されなくて飼い殺しの流れになるのも当然。 馬場が言うにはハンセン引き抜きはシンより先に決まっていたって話だからね。
ハンセンと新日の契約が1981年一杯まで残っていたので待っただけの話で。 >>134
元々ブッチャー自身に猪木とのシングルを引き伸ばす構想があったんだよ。
猪木としても「3年ノーフォール」みたいな約束があった以上、何回もシングルは組めないしね。むしろブッチャーが埋没する流れになって、慌てて予定を繰り上げた感じじゃないかと >>130
81年ジャイアントシリーズが最後だったか
全日本ラストマッチが馬場シンの兄弟弟子、アトキンスに師事したマスクドX(サイレント・マクニー)だったんだね >>133
サバ読んでたとしても、亡くなるのが若かったよね
オレ、現ハム監督の新庄の現役時代のファンでさ
新庄が引退する最後の日本シリーズ見に行ったけど(ハムがシリーズを制した至福の夜だった)
ところが大木の訃報をテレビでやってて(札幌で報道した意味はわからないけど)一気に追悼ムードになって複雑な夜だったよ。 >>134
そういや、例の長州のかませ犬発言が飛び出したのも
翌年の10・8後楽園ホールにおける
猪木藤波長州vsブッチャーアレンジョーンズの6人タッグでだったな
日本人抗争の添え物にされるとか、ブッチャーの扱いがひどすぎる
まだ全日のシンの扱いの方がずっとマシだった >>139
せっかくの長期契約だからしっかり使おうって感じだったな
最後はシンコール誕生でむしろこれからだったのに >>139
それは言える。
シンは馬場のタイトルに何度も挑戦したし。
またインタータッグにも何度も挑戦して一度は奪取できた。
ブッチャーは酷すぎた。
ただブッチャーが移籍したと同時に新日は主要タイトルが返上されてなかった。
移籍がもう少し前なら猪木のNWFにも挑戦しただろう。
藤波のWWFインターに挑戦しても互いに何の発展もない。
ブッチャーの新日時代に猪木がタイトルを保持してれば少しは違ったかも。
それか坂口の北米ヘビーに挑戦とかでも。 猪木ブッチャー戦(2回目)はタイミング的に大会場でやる時がないよ
あの時にやっておけば実際よりも客が入ったり視聴率が取れたのに
というのは今から考えても無かったんじゃないか ブッチャーの新日本参戦は誤算だらけ!
⚪︎初戦がカーンとのシングルのはずが
ハンセンとのタッグになって食われ気味に
⚪︎初シリーズ参戦の終盤にボックが登場して話題をさらわれる
⚪︎3回目の参戦でマードック戦拒否事件で
株を下げる
⚪︎4回目の参戦の猪木戦が不評
⚪︎5回目の参戦には猪木不在。ホーガン戦は
盛り上げたのが救い
⚪︎6回目の参戦で長州維新革命に話題を前半持っていかれる >>144
話題を全部持っていかれる。
訂正の訂正で失礼 ブッチャーの新日でのベストバウトといったらやはり
藤波のヘビー級十番勝負でピン勝ちしたときか
カウンターの地獄突き→山嵐→エルボーの
必殺フルコースの説得力は、全日でもなかなかみたことがなかった
半面、ヘビー級転向間もない藤波にフルコース出さないと勝てないってことは、
それより格上のレスラーには何やっても勝てないってことだから、限界が見えてしまった >>142
大会場ではないけど、1984年元旦の後楽園でやってほしかった
スペシャル番組枠だし、ローデスとお茶を濁すような試合よりマシだったでしょう。
ネームバリュー的にも視聴率は貢献出来たんじゃないの?少なくともローデスよりは。 逆に87年古巣に復帰した時の歓迎ぶり、お帰り感は嬉しかっただろうなぁ〜
ブーイングされてもおかしくないのにブッチャーコールが巻き起こっていた
本人も蘇ったかのように活き活きしてたし、一足先に復帰したブロディ共々全日ファンの優しさに包まれていた >>147
2度目の猪木ブッチャー戦は85年1月の徳山だったか
このときはもう3年間ノーフォール契約も切れてたし
外人エースの座も初来日のバンディに譲ってたしで、
ブレンバスターであっさりピン負けし、結局その後2度と呼ばれることはなかった
ああいうのを使い捨てっていうだろうって感じだった
>>148
本人もインタビューで「またオールジャパンのリングに上がれるなんて、
こんなハッピーなことはない。ババに感謝してるぜ!」って答えてたな
馬場は確か前の年にブッチャーとプエルトリコで手合わせしているから
「まだ行ける。俺が暴落したこいつの価値をまた引き上げてやる」
とか手ごたえ感じたんだろうな >>149
猪木VSブッチャー2戦目は長州の故郷だったからか観客動員は
全く振るわなかったが、視聴率は取ってたな。 >>146
ホーガンとの抗争はイケるかなと思ったけど
相手がどんどん上がって行って立ち消えになっちゃったな アブチャからすりゃあやっぱりぃアノキよりもぉジャイバの方がぁー相性良かったんよぉ。
アブチャはぁジャイバにゃ葉巻を上げたりしちょったかんな。
アブチャがぁーアノキに何か渡すとかぁ想像でけなぃしぃ。 >>150
ブッチャーが猪木にピン負けした1週間後、
今度はシンが馬場にギブ負け
だが、ブッチャーがそれきりポイ捨てされたのに対し、
シンはその後も呼ばれ続け、輪島のデビュー相手という
大役も任された
両団体の外人のケアの差がはっきり表れているね 馬場プロレスを批判し続けて自らのキャラを確立していた猪木が、全日の顔ともいえるブッチャーの良さを引き出すような試合は見せられなかったのかな 村松友視との対談でブッチャーを「あんなもの」と
吐き捨てているからな。ブッチャーと好試合する気などさらさらなかっただろう。 ブッチャーの新日移籍で期待したカード。
対アンドレ
対カーン
対ハンセン
対ホーガン
対バックランド
対ローデス
対シン
結果的に実現したのはホーガンとローデスだけ。
ハンセンとは後に全日では対戦したけど。 シンやアンドレとも後々には全日で遅すぎた対決があったわ。 >>156
ブッチャーないしその試合をあんなものと吐き捨てる
のも猪木がスタイルを守ったアピールだろ。
今までのような試合をしてたらこの私には〜みたいな発言もきっちりワークしてるだけなんだが
村松みたいな太鼓持ち(こいつがまた確信犯なんだが)にいわせれば絶賛の種になる。
コンビの掛け合い漫才みたいなもんだよ
唾棄するほど嫌なら呼ばなきゃいいんだから。あるいは前座で冷やすか。 というかIWGPを1981年のうちにサッサとやってれば
アンドレ、ボック、ハンセン、ローデス、ブッチャーにバックランドに
猪木で誰も文句のない最強戦だったのに ループしたら悪いが
ブッチャーの期待したカードよりも、ブロディの方が期待感が全然違った
85年はアンドレ・ホーガン、復帰した86年は前田・ウイリアムス
この4試合は本当に期待した、特にアンドレ戦と前田戦は発表までしてさ…
最初から実現させないつもりで発表だけした、という説もあるけどどうなんだろ? >>162
86年はそもそも話が成立してなかったという説も
9月の時も二戦の間には出てないし アンドレ対ブロディの大阪城は写真入りのチケットまで刷っていなかったか? 以前どっかで晒されていたが1981年のMSGタッグリーグのポスターは
実際の参加チームとは全然違ってて笑った。
昭和らしいテキトーさだった。 >>162
アンドレ戦は期待したが、いま1985年の
アンドレのファイトを見てみると急速に
衰えがきていて、ハンセン戦みたいには
ならなかったと予想 >>168
アンドレも猪木にギブアップ負けした時点で撤退のつもりだったかも ヒストリーチャンネルでアンドレの
ドキュメンタリー観たけど、巨人症で
40年以上生きられないと宣告されてて、
プロレスやってるのは奇跡的だったらしい。 確かにブロディとアンドレ、前田は普通に見たかった。
二つとも発表されといて消滅したのが本当に残念だったな。 あとブロディの新日移籍で頭に浮かんだのがホーガン×ブロディ。
ホーガンとブロディはそれまでも意外に接点がなかった。
この後も結局は接点なしに終わったけど。
ホーガン×ブロディはこの頃は一番見たかった夢のカード。
まずは2人が同じリングに立つ場面が見たかった。 >>154
ブロディはブッチャーの新日での末路を見て
自分も数年後にはああなるとか思わなかったんだろうか?
>>162
>>163
いや、確実にしてないだろ。明らかにフライング。
ブロディが前年末に縁切った新日に再来日したのは、未払いのギャラの回収と
全日に戻る条件として馬場から新日とけじめをつけて来いと厳命されてたから
全日に戻る気満々なのに、今更新日のために新しい話題なんか提供するわけない
発表しちまえばあとはどうとでもなると思ったんだろうが、あのブロディが
そんな話にのるわけない
>>172
超人と超獣もし戦わばってシミュレーションがどっかの雑誌に載ってたな
どういう結論だったか忘れたが、跳び技がある分ブロディ有利だったような >>168
個人的には猪木とのIWGP優勝戦の時はそんなに衰えを感じなかったけどな
それ以上に猪木の衰えが顕著でアンドレは気にならなかったのかも、でも確かに1981年の頃とは違うね。
>>173
全日に戻るつもりだったなら、戻る前にジャパン離脱はブロディにとって追い風だったね。
陣容が脆弱になって大会場はウォリアーズ頼み、天龍革命がなければどうなってたやら…という状況になったからね。
しかしジャパンが残ってるうちにカムバックも見たかった気もする、長州との再会マッチとかね…。 >>173
ブロディだけでなくアンドレもだから確約まで行っていなかった飛ばし発表だった可能性は高い >>174
長州の強引な新日Uターンの結果発生した違約金を支払う代わりに
引き抜き防止リストから名前が外れたから、ブロディ(ブッチャーもだが)は
全日に復帰することができた。あの強引なUターンがなければ
復帰は難しかったのでは? >>176
長州がとどまったら、あるいは新日が違約金をちゃんと払ったらブッチャーやブロディは
全日に戻れずに、FMWやSWSができるまで日本とはご無沙汰になってたんだろうな。
史実通りになってたらブロディは二度と日本マットに上がれなかったな。 ファンとしては二人とも歓迎の全日復帰だったが、猪木に負けなかった分ブロディの評価は以前より全国区になった感じだし
ブロディというフィルターを通して新日全日の比較ができた >>175
ブロディはスヌーカとのタッグで86ジャパンカップ争奪タッグリーグ戦に参加予定と発表された
リーグ戦は11月14日に始まったが、ブロディは21日からの参戦予定だったので
公式戦だけでもかなりの過密日程。前年のボイコットの経緯からしてギャラもよくて
据え置きだろうから、公式戦に加えて前田やアンドレとのシングルにも応じるとは
考えにくい。来日直前の19日にキャンセルが発表されたが、契約していない前田戦や
アンドレ戦が飛ばしで発表されたことに怒ってドタキャンしたと考えるのが自然だろう 外国人選手は週給が基本だがトップクラスになればシングルの大一番が組まれたときにはボーナス契約があるのかな?
特にこのブロディの場合、タッグリーグ戦のために来日するのにシングルマッチを強要されたらボーナスを要求したくなるのはプロとして当然。
それを新日が拒否したのだとしたら大失態と言わざるを得ない。 >>167
あれは詐欺まがいだけど
この中から何人来ると思う? お前らなら来るよな?
ていう踏み絵みたいなもんじゃなかったかなと思う
関係者でも「こんなかの一人も来ないよ」と考えていたのか疑問だ
こいつとこいつは来るかも、なんてね。 >>169
ビンスJr.が業務提携50万ドルのブッキング料とは別に、ホーガン・アンドレとの個別契約料を要求
流石にこれは飲めず85年で業務提携を解消することになる
ただアンドレは新日との残った契約を履行するため86年4月のビッグファイターシリーズと5月のIWGPチャンピオンシリーズに連続参戦した
ギブアップ負けは新日への感謝のあらわれだろうな
新日最後の試合は名古屋の3日後、京都で行われた佐川急便杯ワンナイトトーナメント決勝での猪木戦
アンドレがリングアウト勝ちして賞金1,000万円を獲得。スポンサード興行なのでギブ負けの見返りボーナスとも思える
次の来日が90年、動けなくなった日米レスリングサミットからの全日参戦だからなぁ >>174
リアルタイムではそんなに衰えを感じなかったけど
いま84年と85年の動画を比べると明らかに足腰が落ちてる。
(正確に言うと83年と84年でも落ちている)
藤波戦など顕著。84年以前のアンドレなら前田にも対処できたかも アンドレの全盛期は70年代中盤から80年代前半だろうな
その時期に独占できた新日本はラッキーだった ボディースラムで投げただけで伝説になるんだからアンドレでしょう
昔レスラー仲間で「世界最強のレスラーは誰?」という話題が出て、誰かが「アンドレ」と言ったら
居合わせたドリーが「彼は別だろ」と怪訝そうな顔をしたらしい >>182
その間のレッスルマニア3が事実上の引退試合 >>189
アンドレがホーガンにピン負けしたときだっけ?
それまで誰にもピンされたことのなかったアンドレが、
この試合以降ウォリアーに何度もピン負けするようになったのは
見ていて悲しかった レッスルマニア4でも同じような試合してるけどなアンドレとホーガン
その少し前にはデビアスのアシスト付きながらホーガンからピンフォール勝ち >>191
試合後のレフェリー抹殺がハイライト>デビアス幻の戴冠w試合 1987年のホーガン戦が、若手のロシモフ時代を除けばアンドレ初の完全フォール負け。
「ホーガンは全米を代表するスーパースター。アンドレはホーガンを突け狙うヒール
2人の立場は完全に逆転した。」と書かれた
アンドレですら衰えたらジョブをやることになる。 今日は馬場の初戴冠日
スーパースター列伝を読んだのが先だったので馬場が豊登とトロフィーのアジアタッグを持っていたのは驚きだった 猪木がアンドレにギブ勝ちしたのは、前シリーズの前田vsアンドレが起点になってるんじゃないか?と当時は思ってた
あの試合で前田の株が上がり、アンドレ幻想が下落した、対立軸になってる新日本体や特に猪木が意識しないわけがない
一番良いのはアンドレにリベンジの機会を与える、しかしそれは実力的にもう困難で返り討ちに合う可能性もある
なら前田を猪木がイメージ的に上回るには明確な勝利しかない
そして鬼の猪木が関節技を解禁して持ち上げてたアンドレに引導を渡した。
アンドレを中心軸にした猪木が前田を意識した結果と思っていた…まだある程度ガチだと思ってた頃の勝手な見解だけど。
それでWWF以後は実力的に低下したアンドレが新日での下落をそのまま引きずり、ホーガンにもやられる…。
当時はそう思ってたけど、ガチじゃなくても猪木が前田を意識してアンドレに負けを飲ませたという点は同じって事はない? >>197
関節技を解禁して…キラー猪木は無いにしても、その考えはなかったなぁ
義理堅いアンドレだから12年越え、最後の新日を意識して猪木の要求を飲んだ可能性はあるよね
ノーテレビだけど、そう考えると佐川マネーの(ダミーじゃない)ボーナスは辻褄が合う
>>198
フォーカスされたのもこのシリーズだったか
おかげでアンドレ戦もマードック戦も画的に間抜けに見えてくるw >>197
俺はそれを考えたよ
アンドレを屈服させて必要以上にオーバーした前田
リング上で前田をコントロールする力がない猪木からすればアンドレ相手に勝ちを得たら前田と向き合わずに勝ったと言えるからねぇ 前田のレスラー人生を変えてしまったのは猪木自身なんだから自業自得 猪木は2局体制で日プロがどうなったのか末路を一番よく知ってるはずなのに、何で同じことをしようとしたのか謎だ それは猪木に学習機能がついていることを前提にしているが? 北尾をハイキックkoしたたかd。
そのごじつ、コピロフをハイキックkoした前田。 猪木の側近の人が語っていた
「猪木は3歩歩くと言ったことを忘れる」
「4歩目に違うことを言い出す」 「サトウキビの搾り粕を牛の飼料として利用する」
アントン・ハイセルでひどい目にあったのに
後に「永久電池」に手を出す人だからな 猪木がハイセルに資金を注ぎ込むために当時ジャパンライフの新間に接触して第3団体設立に動いた
テレ朝とフジテレビ2局放送を目論んで…
日プロの時と違うのは新日とUWFは独立した別団体で、猪木個人は両方のテレビ局に出場可能になるようフジと交渉しているが
この猪木の二股がテレ朝上層部の知ることになり三浦専務から大目玉をくらいUWF行きを撤回(考えなくてもダメだと分かるはず)
先兵として送り出されたのが前田なんだよな 新間はビンスシニアにブッキング依頼するも実権はジュニアに移っていて、この年WWFの世界戦略がスタートしていた
フジに提出していた企画書のレスラーは招聘できなくなり放送も断念
「私はプロレス界に万里の長城を築く」「私はすでに数十人のレスラーを確保した」のポスターが虚しいw >>208-209
独立したUWFを作るんじゃなくて、新日のままフジと契約して放映料をハイセル資金として回すという案はなかったのかな?
一度クーデターで社長権を剥奪されたけど、秋には復権してるんでしょ?
まあしかし、クーデターの理由が理由だけにフジ資金までハイセルに回すというのはバツが悪いとか、金庫を握られてるとかあるのかな?
あとWWFの全米侵攻やジュニアに実権とか…なんかIWGPで結果的にホーガンの格を最大限に高めてわずか半年後というのが皮肉だね。
それと三浦専務からダメ出しを食らった後、それでも前田を先兵に…というのはまだ時間かければ二局放映に未練を残したという事?
それで思い出したけど全盛時のK-1なんて3局同時に又にかけてなかった?
フジが本選K-1、日テレがK-1ジャパン、TBSがK-1マックスで…石井館長は本当にやり手だなあ。 あの頃よく「男のロマン」といって猪木の全てを許容する雰囲気があったけど
世の中はそう簡単には思惑通りにはいってくれない。人生経験を積み重ねてくると
それがよく分かる。 >>210
誰のおかげで今の新日があるのか考えただけで、フジとの2局放送なんかテレ朝が許すわけないよね
時系列で調べてみると、84年3月2日ビッグファイトシリーズ開幕戦に前田、R木村、剛竜馬の3人が無断欠場
UWFが新宿に事務所開きを行ったのが3月8日、同日フジテレビが放映見送りを通達してきた(企画書のメンバーが揃わなかったから)
3月25日新間はMSGでUWFロゴ入りベルトを持参、前田とピエール・ラファエルでWWFインター王者決定戦を行う
帰国後、オープニングシリーズに参戦できるレスラーを馬場に依頼。ブッカーのテリーを通してアメリカ中西部の中堅どころを集めた
3月30日ビッグファイトシリーズ第2弾開幕戦で若手のホープ高田が「前田さんと男の約束を果たす為に旗揚げシリーズに参加する」と発言
4月11日大宮旗揚げ戦をむかえることに、、
先兵として行かせておいて新日に残った猪木も負い目があるのか、会社としてUポスターにクレームは付けさせなかった(当然)
ちなみにホーガンがMSGでアイアン・シークを破りWWF世界王者になったのが84年1月23日 アンジャはぁマエアを潰せんかったかんな。
しかしぃマエアはぁアンジャの姿勢に気付いてかなりぃ焦ったとかぁ。
アンジャはぁこん時ゃもぉかなりぃ膝がぁー悪かったしぃ。
もぉ何年か前のアンジャならぁマエアもぉヤバかったぞぇ。
アンジャから全体重を掛けられた時ゃあマエアはぁ焦りングだしぃ。
そんで『殺らにゃあ殺られる』っちゅうにぃ。 >>206
新間が言うには、猪木は「昔の俺と今の俺は違う人間なんだよ」というのが口癖だったとか
どういうことかというと、「昔の俺と今の俺は違う人間だから、昔の俺が借りた金を
今の俺が返す必要はない」という意味らしいw >>214
ちなみに新間は猪木を信じて中央大学の先輩、浦田UWF社長が工面した移籍金2,500万(4,000万説もあり)を渡しているがハイセル運転資金に消えた可能性があるという >>212
詳細な説明、ありがとうございます
@新間氏はクーデター騒動後に一人だけ責任とらされて新日辞任
➁その後にUWF設立時にもう一度猪木に託して(新日に対しての個人的な鬱憤もあっただろうけど)
それもフジや猪木の不参加…それでも新日と業務提携に話をつけたのに選手とフロントの意地のために苦労が水泡…
Bさらには佐山タイガーの復帰の条件として辞任要求される…。
オレの見方が新間氏側でしか見てないんだけど、なんか三度も人間関係で強烈な仕打ちを受けてるように見えるんだけど…? >>215
猪木がどういう人間か知り尽くしている新間が、猪木を信じて大金預けたって話が信じられない
猪木に金出すのって、タニマチの道楽じゃないとありえないとか思ってた 猪木の命令で用意したUWFの約束を反故にされプロレス界から撤退→89年スポーツ平和党幹事長に就任
→猪木の政治スキャンダルで泥試合→和解→喧嘩別れ→和解・・・
二人三脚で成功体験したことが忘れられず、これを繰り返した人
理解できないけど、猪木に抜け出せない魅力とか宗教的な教えとか何かあるのかなぁw
もとは新間の親父の住職が豊登と仲が良かったことから始まる >>218
スポーツ平和党では次の参議院選挙の名簿順を当選圏に入れるとの約束を反故にされ、
落選後に「アントニオ猪木のPKOは……です」と放送禁止用語を連発して訣別
このときはさすがにこれで終わりと思ったけど、結局この後もよりが戻ってしまった
2人の間にしかわからない何かがあるんだろう。 >>209とか見ると、新間の失墜ってビンスシニアからジュニアへの権力移行も結構影響してんだね。
希代の敏腕人たらしといえ新間って義理人情の人だから、
今までツーカーの仲だったシニアを蹴飛ばしてジュニアに取り入るってことは出来なかったろうし。 ビンス・シニアは親日家で、新日に惜しげもなく一流レスラーを送り込んでくれたが
ビンス・ジュニアになったらホーガンはMSGタッグで一試合だけして帰国。
提携を打ち切るために支払えない金額の提携料を要求。
新日がバンディ、ビガロを売りだせば嫌がらせのように引き抜いた。 ビンスシニアの頃はNWA、AWAとも共存共栄、相互不可侵だったがジュニアの野望は全米制圧
ケーブルテレビで全米にWWFホーガンの試合を流し、セントルイスやシカゴで興行戦争を仕掛けNWA&AWA連合軍にも観客動員で圧勝
ジョージアのバーネットやブリスコ兄弟が株式をジュニアに売却すると、ダラスのエリックまで「これからは自分たちでやっていく」と独立宣言
NWAが失速したことにより副会長に相応しいアメリカ国内にプロモーターがいなくなり、馬場に第一副会長の椅子が廻ってきた(84年8月) >>222
ビンスシニアがジュニアにWWFは譲るのではない。
息子に売るのだから売り値は稼いで返せ。と言ったんだっけ。
ジュニアは必死だったと思われる。 全日のwikiで「1986年3月31日にNWAから脱退」とあって、こんなに早い段階で?と不思議に思ってたけど、
この時点で従来型のNWAという組織はほぼ姿を消していて、
実質ジム・クロケット・ジュニアの団体になりつつあったってことなのか。 >>223
あの親子は不仲だったからねw
それにシニア時代のWWF親会社はキャピトル・レスリング・コーポレーション(新日が提携)で
ジュニアになると新たに別法人タイタンスポーツ社が親会社になってる
>>224
テリトリー制は崩壊し、会長クロケットが世界王者を独占するようになった >>224
当時は気付かなかったがその後に世界ジュニアヘビーを名乗ったのはまさに独立宣言だったんだな ヘビー級のシングル王座とタッグ王座が統一という名目で名称変えたのもそれが原因かね
それまで全日のタイトルはNWAが認可しているという一応の建前があったはず
ベルト自体は団体の物だから返す必要はないけど 個人的にはテッド・ターナーのWCWに買収されてから、従来の馬場が最高権威に位置付けていたNWAのイメージなくなったわ
そのWCWもWWEに買収されることになるが >>224
そうなんか
でも脱退以降もNWA戦やっているよね 86年はフレアー来日したっけ?
87年3月来日のときはベルトが新調されていたんだよな。
武道館で輪島が挑戦したのは長州の代打だっかと。
輪島は長州から剥奪したPWF王座決定戦もドリーから譲られてハンセンと闘った。
輪島ゴリ押しピークの頃だったな。 >>230
フレアーは86年は来日してない。
10月の創立15周年(数え)記念興行で長州の挑戦を受ける予定だったが、
ドタキャンで流れた。 >>231
そうでした!
86年10月、20世紀最後の全日本両国大会でしたね。
フレアー欠場でテリー・ファンクが長州のPWFに挑戦し屈辱の敗北。
仮にフレアー対長州がおこなわれていても長州王座獲得にはなっていなかったでしょうが、長州サイドを納得させるためにテリーに負けを呑んでもらったのではと想像してしまいます。 >>227
世界ヘビーでなく三冠ヘビーとしたのはもはや亡き本物のNWAへの最後の敬意として永久欠番にした印象も >>232
輪島のデビューを控えてジャパンへの配慮もあったかも >>229
NWAを脱退といっても86年9月のNWA総会で第一副会長に再任されている
全日最後のNWA世界戦は88年3月8日日本武道館のRスティムボートvs三沢タイガー
馬場にとってプライドが傷つけられ許せなかったのは86年10月(やむお得ない理由じゃない)と
87年10月2度のフレアー来日キャンセル(87年10月は王者Rガービン)
87年フレアー欠場の穴はX参戦とされたが、それがブロディの全日マット復帰だった
NWAはクロケットプロの一社独占状態でAWA は大量の選手をWWFに引き抜かれ両団体に身切りをつけ
新しい権威を創造しようとしたのが三冠王座統一ロード
既存のタイトルを返上・封印して創設したIWGPより、日本マット界で長年認知されてきた権威あるベルトの統一は十分説得力がある いわば日プロ後期のインター絶対路線への回帰でもあるんだよな
あと武道館興行とのリンク化も進めて全日本その物との三位一体的なブランド化も推進
その開始の第一弾こそがあの伝説の6・5だったわけで 武道館中心主義になるにつれ他の地方興行は手薄になっていった
大阪、札幌にしても他団体と比べても並程度でしかない テレビが短縮されてから武道館への依存が高まった
あと出遅れていたビデオシリーズもようやく開始 >>235
87サマーアクションシリーズ2もキャンセルされた >>232
引退し復帰した時にジャパンがいたってのはバッドタイミング。
馬場も復帰は快く思ってなく、長州との対決も避けるわけにいかず。か。 >>240
ブッカーとしてフレアードタキャンの責任を取らされた可能性も >>227
三冠を統一した(’89年春)のは、長州らジャパン勢が離脱(87年春)、そして新しい外人も発掘できず、逆にブロディが死去(88年夏)、もう3個のシングルタイトルでファンが満足できるタイトルマッチを組めなくなったのが大きな理由じゃないかな?
統一せずに翌年90年の春に天龍ら大量の選手がSWSに移籍したら、それこそ目も当てられない
タイトルはあっても、それに見合う王者はいない。王者はいても挑戦者がいない。まるで日プロの末期だよ 長州がPWFを取った時点で三タイトルの序列が実質的に無くなったんだよな
あとボクシングでタイソンの三冠統一シリーズをやってたのも大きかった チョリキとテリファの試合はぁかなりぃ惨めだったかんな。
ザファン信者はぁ悔し涙ん明け暮れたっちゅうにぃ。
しかしぃザファンはぁその後も息はぁ長かったんよぉ。
チョリキもぉ息がぁー長かったぞぇ。 >>243
鶴田=インター王者、天龍=UN王者、長州=PWF王者、ハンセン=AWA王者
さすがにこのままじゃ放置しておくわけにはいかないでしょ
馬場も当初は「タイトルにはそれぞれ歴史がある」と統一に否定的だったが
統一を求める周囲の声に逆らえなくなった 開幕戦の後楽園でいきなりのトリプル戦だからな
それだけでも混迷状態ってのが分かった 今日は馬場がカマタにPWFを渡した日
また同時に猪木とバックランドのダブル戦 >>245
馬場の存命中は統一ベルトも作らなかったからね >>249
あれもベルトは二組のまま
当初はPWFだけ使っていたが 三冠は統一の過程がね…
シングル戦かみ合わない印象の鶴田ハンセンの中でも特に良くない2連戦で決まってしまった事が功績を白けさせてしまった
6.5の天龍の下克上達成でやっと大勢の支持を受けた感じ ハンセンを破ったスモールパッケージホールドは
前方回転式の超難易技だったはずだぞ。 >>251
その前の大阪での天龍失神も上手い前振りになった >>252
鶴田としては六年ぶりのUN返り咲きで初のPWF奪取
そのせいかベルトを巻く時はPWFが多かった印象 >>251
過程でいうと大阪府立のブロディ(インター)vs天龍(PWF&UN)の初めての三冠統一戦
両者ノックダウンだったが文句のつけようがない好試合だった >>251
>>256
初代統一王者を鶴田とすることは既定路線
その場合、統一戦の相手として考えられるのは天龍、ハンセン、ブロディの3人
ブロディが突然死し、鶴龍対決はぜひ天龍を王座統一後の挑戦者として行いたいとなると、
消去法で相手はハンセンになっちゃうんだよね。ゴディだとまだ実績が不足してたし 記念すべき統一戦の場所が後楽園や大田区体育館というのはショボい
不入りでもいいから然るべき場所でやるべきだった >>258
そこから大阪府立に武道館
まさに最高のストーリーだった 三冠統一王座とIWGP、世間の話題を持ってったのは舌出し芝居で三大新聞社会面やワイドショーを賑わせたIWGP
さすが(あざとい)猪木!上手いなぁ〜と思うわ
あれから41年が過ぎた それから全日本の武道館大入り札止め、伝説の
鶴田、超世代軍の大盛況時代となる。 キャリア2年のオープン選手権で初対決し4年目Cカーニバル公式戦で初めて引き分け以降
最後まで馬場は鶴田にタッグ含めフォールを許さなかった
インター王者になってからのシングル対決は無いが むしろ四年目でまだ三十代の馬場と引き分けられる位置まで登り詰められた事を凄いと考えるべきかもな
少なくとも鶴田を負けさせる事は出来なくなったわけで 馬場も第5回Cカーニバル優勝戦で勝って以来すべて引き分け
負けることは出来なくなっても鶴田のNWA挑戦記録をみると世代交代する気ないな
[鶴田NWA挑戦記録]
1.ドリー (1-0)‥73,5.20アルバカーキ
2.ブリスコ (2-1)‥74,1.3日大
3.ブリスコ (2-1)‥74,12.12川崎
4.ブリスコ (2-1)‥75,3.11愛知
5.テリー (2-1)‥76,3.11蔵前〜十番勝負第3戦 6.レイス (2-1)‥77,6.11世田谷〜十番勝負第8戦
7.レイス (1-1)‥78,1.20帯広
8.レイス (1-1)‥79,5.7大阪
9.レイス (0-0)‥79,10.26松本
10.レイス (1-1)‥80,5.28札幌
11.レイス (0-0)‥80,9.1鹿児島
12.フレアー (2-1)‥81,10.9蔵前
13.フレアー (0-0)‥82,6.8蔵前
14.フレアー (0-1)‥83,6.8蔵前〜2フォール奪えず
15.レイス (0-0)‥83,10.26盛岡
16.ケリー (1-1)‥84,5.22田コロ
17.フレアー (0-0)‥85,4.24横浜
18.フレアー (1-0)‥87,3.10郡山
全18戦 1勝8敗9分 >>266
レイス戦の引き分け乱発がイメージを
悪くしたね。年2回引き分けが続くのは 81/10/09、仮にローデスが来てたらどういう負け方になったか
ローデスと鶴田の三本勝負なんて怖いものみたさだわ >>265 自己レス訂正
ブリスコ 74,1.3←1.30日大講堂 79年と80年はカーニバルの決勝からも引いてるよな
79年の対戦などは鶴田の優勢的で翌年は同じ場所で初優勝
これらの年に馬場のNWA返り咲きがあったのもバランス的か ジャイバはぁジャンツを売り出しちょってもぉエヌダはぁ巻かせんかったかんな。
それをやるとぉジャンツがぁー自分と同列んなってもぉちゃるからだしぃ。
怪物覚醒前のジャンツはぁダメなイメージがぁー強かったぞぇ。
こん頃のジャンツはぁお笑ぃ要素がぁーかなり強しングだぞぇ。
アノキからぁ『うちのフジナとジャンツを一緒んすんな』っちゅうのもぉわかるしぃ。
アノキはぁジャンツにゃあかなりぃ厳しぃ評価だったかんな。
認めちょらんっちゅう感じだったんよぉ。 >>266
地方会場で無理に挑戦させるのも良くない。
6.レイス (2-1)‥77,6.11世田谷〜十番勝負第8戦
7.レイス (1-1)‥78,1.20帯広
8.レイス (1-1)‥79,5.7大阪
10.レイス (1-1)‥80,5.28札幌
12.フレアー (2-1)‥81,10.9蔵前
13.フレアー (0-0)‥82,6.8蔵前
14.フレアー (0-1)‥83,6.8蔵前〜2フォール奪えず
16.ケリー (1-1)‥84,5.22田コロ
17.フレアー (0-0)‥85,4.24横浜
18.フレアー (1-0)‥87,3.10郡山
このくらいにそておかないと
鶴田の威信もタイトルの権威もゆらぐ >>272
そのくせガニアにはAWA王者のショートリリーフにガニアの大好きなオリンピックボーイの鶴田を推薦してんだよな
でもまぁビンスJr.のWWFの全米制圧プランがなければガニアから馬場に相談もなく鶴田のAWA王者はなかったんだけどね >>272
フレアーと蔵前での三年連続が実質的なピークにしてクライマックスだったな
最後はメインだったし >>273
結果的にはこの時がテリーのNWAと同じく鶴田のキャリアのピークになるんだよな
故郷の墓碑にあるのもこの時の姿だし >>271
あんたにキャラ名付けたいわ
その独特の語り口クセになるわ >>266
フレアー相手に鶴田が負け越しているのが意外
87年に鶴田が負けてんのか!?
マーテル相手にも負け越しだとは思うが
都合2回のフォール負けは日本で無くアメリカまたはカナダだった筈 それより3月にアマリロでプロデビュー戦を飾り、5月にNWA世界戦を行っているのが凄い
馬場への忖度があるにせよ、僅か2ヶ月でアメプロのパフォーマンスを修得し世界戦を観客に披露するゴーサインが出たということか
73年3月24日テキサス州アマリロ・TVスタジオ(15分1本勝負)
鶴田友美(6分52秒 体固め)エル・タピア
5月20日ニューメキシコ州アルバカーキ・シビックオーデトリアム
NWA世界ヘビー級選手権60分3本勝負
ドリー・ファンクJr.(2-1)鶴田友美
鶴田(26分15秒 体固め=スープレックス)
ドリー(14分18秒スピニング・トー・ホールド)
ドリー(11分27秒 回転エビ固め) 元々アマリロは大胆な新人抜擢を行うエリアだったらしいし
タイプ的にドリーと手が合うというのもあったろう
とにかく最初のオコーナーベルトと最後のフレアーベルトまで四つのタイプに挑戦していたのも凄い 細分化してブリスコ赤ベルトとレイス黒ベルトというカウントにしてるんだな 鶴田はawaのベルトが凄く似合ってたね
インターやun、とくに後者も悪くないんだがな
nwaのベルトはそんな似合う感じしないな
その後潰れたのは残念だがやっぱりawaで良かったかな
猪木はなんでも似合っていたがnwfのベルトが一番似合ってたかな UNは似合ってない
というかUNはデザインなのかサイズなのか似合う人がいない
あえていえば坂口かと思うがここは逆張りで高千穂といっておこうか >>282
自分のベストは一日天下のシーク
とにかく迫力があった 黄金期を築いたベルトが一番よく似合う気がする
猪木はUNでもIWGPでもなくNWF、馬場もPWFやNWAじゃなくインター
馬場なんか日テレ中継もないアメリカでひっそりとブロディの王座に挑戦している
愛着あるインターベルトへのケジメだったんだろうな
インターナショナルヘビー級選手権(82,6.17アマリロ・シビックセンター)
Bブロディ(12分32秒 両者リングアウト)G馬場
※ブロディ初防衛 馬場がそのタイトルを昔々に持っていたという事実も
地元のドリーからブロディが奪ったタイトルだということも
観客の誰も知らなかったんだろうなと思うと悲しいな >>285
アマリロってことはエリックのテリトリーじゃなくてファンクスの興行?
どっちもテキサスか ファンクスの地元興行(シニアだと思うが誰がプロモートしたのか知らない)
馬場にすれば72年6月のバレンタイン戦以来10年ぶりのインター戦
この日は前年新日に移籍したブッチャーがテリーと対戦し両者反則裁定
馬場とブッチャーはニアミスだね >>289
73年に亡くなったシニアの訳なかったねw
その後、ファンク兄弟→マードック&マリガン→Rロメロと続いて、82年頃だったらファンクスが不定期に開催してるから
テリーに興行権があったかもね >>285
インターは力道山以来だから個人的な象徴はやはりPWFって感じもする
やはりハンセンとの抗争が凄すぎ
そしてインターを巡る最大のライバルはやはりキニスキーか やはり馬場のインターって相手が凄い
たまにちょろいのも混じるけど
キニスキーブラジルエリック、この当たりの強敵感
彼等は来ても年イチくらいだし
全日になってブッチャーとハンセンとだけ防衛戦をやってたのは
ビッグイベントな感じがまったくなかった。 日プロの頃はハンセンクラスのライバルは多かった
むしろハイスパートで攻撃一辺倒の印象すらあるハンセンよりも、受けもしっかりするからおもしろかった >>292
ブラジル、サンマルチノ、キニスキーといったWWA,WWWF,NWAの各世界王者を挑戦者として戦った1968年がピークかな?
逆に71年は、新顔ということでモンゴリアン・ストンパー、S・アリオン、I・コロフ、c・マルコフ、テリー・ファンクらを挑戦者に迎えたが、格落ち感を拭えなかった ジャイバはぁゼンニプロレ旗揚げん時にゃあピークを過ぎちょったっちゅうにぃ聞くぞぇ。
そん頃からぁもぉ衰ぇちょったんかぃなぁ。
アノキのバワイぁシンニプロレ旗揚げん時ゃあ全盛期真っ只中っちゅうにぃ。 66年テーズ、エリック
67年サンマルチノ、デストロイヤー、
キニスキー、クラッシャー
68年クラッシャー、ブルーザー、ブラジル、
サンマルチノ、キニスキー
69年デストロイヤー、ブルーザー
70年ブラジル、エリック、ドリー、キニスキー
71年エリック、サンマルチノ
当時のランクでいうとこのへんは超一流
チャレンジャーだね エリックは67年(アメリカでは69年も)ブラジルは72年にも挑戦
スナイダーやバレンタインも超一流 >>294
猪木が居ても馬場の絶対エースは揺るがなかったな
そして年末の蔵前でのキニスキー戦の勝利がピークか >>292
6月となるとカマタからロビンソンへのPWFリレーを思い出す
馬場の個人王座から脱却させるためにも良い機会に >>296
いくら大物であっても3巡目くらいになる70年あたりから飽きられ始めてる やはりドリーがNWA王者になった辺りから潮目が変わる感じか >>301
馬場と手が合うのはブルーザー、エリック、ブラジルなんかの60年代の怪物系レスラー。
キニスキーもこの系列だったけど、ドリーにそういう怪物性は皆無だったからね
これらの怪物系レスラーはみんな馬場よりかなり年上だったから、彼らが衰えた
70年代以降はストーリー展開がしりすぼみになるところだった。
そういう意味では、日プロ末期にブッチャーを発掘したことの意義は実に大きかった
ブッチャーがいなかったら、猪木との力関係はもっと危なかったかも 70年代、NWA王者はドリーからレイス、ブリスコ、テリーと言った中型でテクニシャンタイプ(反怪物型)
WWWFも73年までは,やはり中型のモラレス、そしてミル・マスカラスが台頭してきた
これらの選手は、馬場とは合わない。猪木と手が合う。しかし72年新日全日分裂以降、これら中型テクニシャンが全日に流れたのは、本当に猪木にとって不運だった
そして、馬場の手にあう70年代レスラー(怪物型)は、ブッチャーとアンドレだったのだが、これまたアンドレが新日に流れたというのが皮肉だった >>303
そう言うレスラーと対応するための鶴田でもあったのだろうがそれだけに扱いが難しくなった
本人的にその気が無くても馬場としては自分の立場を侵されかねない危惧を感じずにはいられなかったろうし >>303
そうかな?この辺のテクニシャンタイプが猪木と手が合ったのは間違いないけど、
このメンバーと好勝負繰り広げてもシンの凶悪ファイトほど客呼べなかっただろうし
燃える闘魂ってキャラも確立されなかっただろうから、猪木にとって決して不幸ではなかったと思うけど
馬場も日プロ時代は主に年上の怪物キャラと抗争していたが(同年代はブルーノとモンスーンぐらいか)
全日になってからは自分の年齢が上がったこともあって、年下のレスラー発掘しなきゃいけなくなった
その中で当たりだったのがブッチャー、レイス、そしてハンセンってところか
アンドレに関しては、自分よりデカい奴がいると自分の商品価値が落ちるからなかなか呼びたがらなかったね
お互い年取ったあのタイミングじゃないと呼ぶのは難しかったかも。
鶴田に関しては、扱いに困った結果があの善戦マン化なんだろうね。 赤字体質改善を理由に全日の経営に本格的に手を突っ込んできた日テレのもう一つの狙いが
エースの座とブッカーを馬場から鶴田に移す作業で、
打診された鶴田は馬場と元子の嫉妬の強さ、怖さを知っているだけに華麗に身をかわし、ブッカーの件を佐藤に丸投げ。
馬場も現場監督として抵抗して70年代後半、80年代前半の衰えた馬場よりもさらに「頼りない鶴田」像を作った感じ。
それじゃ全日がもっと酷くなるとファンの立場からすれば思うけど、
馬場は俺がエースじゃないならブッチャー、ファンクス、マスカラスがエースでいいじゃないかって立場なんだろうな。
鶴田が「馬場の正統な後継者」を諦めた、というか放棄したのはクツワダ事件なんかよりも日テレの介入だと思う。
日テレがちょっかい出さなければ鶴田は82年あたりにNWAを初戴冠してその座に3日ほど就いてたかも。 NWAを三日か……最短記録を作ることになるな。
でもそれをやると(三日でも九日でも同じだが)またレンタルか、結局このやり口か、となって
馬場の焼き直しでしかない、鶴田はだめという評価は変わらないような でもまあ鶴田がエースらしい見栄えの体格に
なったのは1982年の黒タイツ化以降だから
83年にインター、84年にAWA戴冠という流れは
間違いではなかった。 >>305
猪木が79年にプリスコと戦った時、かなり醒めた試合ぶりだったし、モラレス戦も同様。
アリ戦以降、猪木はプロレスリング的な名勝負に興味をなくしてしまったね。 >>306
鶴田がエースはともかく、ブッカーに興味示すかな?
契約の細部を詰められるほど英語が得意じゃなかっただろうし、
こんな外人を呼びたいとか、次のシリーズはこいつをエースにして回したいとか
考えている様子がほとんど想像できない。
>>308
黒タイツに代えた直後、それまでの星タイツ時代と同じデザインの
白地に黒い星の入ったジャンパー羽織って入場してたけど、すぐにやめちゃったね。
多分数試合程度しか着用しなかったと思うけど、あれは一体何だったんだろう? 鶴田のエース就任はまあ適切な時期だったんじゃないの。
逆に藤波は1986年、33歳くらいのタイミングでエースに
しとくべきだった >>306
そもそも鶴田は入団した時から馬場を押し退けてまでトップになる野心がなかったのでは?
プロレスの仕組みや待遇面の説明を受けての入団会見だと思うが「就職します」と発言するセンスの持ち主なんだし
そこが全日本プロレスや松根社長、強いては全日ファンのジレンマで、BIと決定的に違うところだったと思う
本気モードになったのも“馬場からの後押し”以外なかったと思うし
猪木のようにエースの座を掴み取ろうとする気があったのなら、何かしらどこかの場面で行動を起こしてた気がする 馬場が最強タッグで怪我して欠場して鶴田トップの時は面白かったがなぁ 鶴田は知っていたんじゃないかと思う。プロレスは一人前になるまで十年掛かると。
よく記事に載ったのが「今は馬場さん猪木さんの時代ですよ」と。自分の時代が
来るまでは十年掛かる、と思っていたように感じる。で、十年目が来るとテーズが
全日に来てバックドロップを伝授して貰い、これでトップへの道が開けることになる。 >>315
鶴田は普通の修行時代がほとんど無かったからな 馬場も鶴田のAWA挑戦の話を渋ったりして
自分がトップでやる気あったなら
鶴田をあんな促成栽培しないで
もっと時間かけて育てればよかったのにな 83年、84年と日テレのゴールデンタイム特番を組まれたインター、AWA戦で
鶴田は「日テレプロレス」の新エースらしい試合をしましたよ。「勝っていい試合」をやらせたら本領発揮だったと思う >>315
テーズのバックドロップ伝授も馬場のアイデアではなく、
鶴田をエースにしたい日テレ側の提案だったんだよね。
継承のタイミングも良かったけど、
日テレの宣伝工作?で「説得力ある一撃必殺の技を継承」ってイメージ作りもばっちりだった。
ジャンピングニーとダブルアームを必殺技として使い続ける鶴田も見てみたい気がするけど
それだと鶴龍戦や超世代軍との戦いがあそこまでの深みが出なかったか… >>317
AWAについては自分のアメリカでの挑戦を伏せたりしてましたからね
ガニアはともかくニックとは手が合わないみたいでしたし >>317
鶴田の促成栽培は日テレの意向もあるでしょ
日プロ残党が合流して、大木がインタタッグのパートナーの
座を要求する中、それをはねのけるにはどうしても
鶴田をパートナーにしないといけなかったし
1年ちょっとのキャリアでそれにこたえられる鶴田のポテンシャルも凄かったけど
>>315
鶴田の4種類のスープレックスは基本2段モーションだったけど
なぜかダブルアープだけ高く持ち上げるアメリカンスタイルだった
あれだと腰に負担がかからないからその後も長く使えたけど
フィニッシュとしての説得力には乏しいね
ダブルアームをフィニッシュにするにはロビンソンから伝授されたという
ストーリーが必要だけど、後年のインタビュー読む限りは難しそう 馬場主導で30代に入った鶴田のリニューアル、もう一段のレベルアップを図るなら、
テーズではなくドリーとオコーナーに依頼してたのかな。
>>315
鶴田は自著で同じ技での欧州と北米のかけ方、受け身の取り方の違いを書いてたね。
スープレックスは欧州は「早く、弧を小さく、叩き付ける」、北米は「ゆっくり、大きく投げる」
ドリーはインタビューで鶴田の修業時代にスープレックスをすべて受けてみて
危険ではないやり方だけ試合での使用を許可したって言ってた。
鶴田自身も「相手に与えるダメージ&観客に与える説得力」と「相手に怪我をさせない&見栄えの良さ」の狭間で
苦労してたようだけど、テーズのバックドロップはそれをすべて解消してくれた。 ロビンソンも、ダブルアーム(だけ)をフィニッシュにしていなかった
サイド・スープレックス→ワンハンド・バックブリーカー、そして止めにダブルアームというのが、彼の必殺フルコース
昭和40年代半ばでも、バックドロップ、ブレーンバスター、ジャーマンを見慣れたファンからすれば、頭も打たないダブルアームは、華麗だけれど威力があるのか?
高く上げたショルダースルーの方が効いているのでは?という感じ >>321
ロビンソンはアメリカ渡ってからダブルアームの投げ方変わったんだろうな
でもホフマンはファンクスとテンポが違ってた気がする
..そこらへんは田鶴浜さんの解説を聞いてみたかった >>323
カマタからPWFを取ったのもブッチャーに渡したのもワンハンドだったな '80年にプロレス見始めて「これは痛いだろ!」と衝撃を受けたのがロビンソンのワンハンドバックブリーカーだった。
「これは痛いのか?でも掛けられた相手が物凄く痛がっているから痛いのだろう」と半信半疑だったのがファンクスのスピニングトーホールド。 >>300
ブルーザー 65年、68年、69年、75年
エリック 66年、67年、70年、71年、73年、75年
サンマルチノ67年、68年、71年、72年、73年、75年
キニスキー 67年、68年、70年、74年、75年
ブラジル 68年、70年、72年、73年、75年
主なライバルたちとはタイトル戦を5巡くらいやってるんだな。 >>326
バックドロップの勢いそのままにワンハンドにいくから強烈だよね
あれ見た後にペンデュラムやシュミット式みても説得力がない
>>324
当時はイライラして聞いてたけど、今思うと味があって何かいいわ
「62対57で馬場ですなー」「ローリング、ローリング」「あけましておめでとうございました」「心臓にきてます!」「没収試合ですなー」 >>328
位置エネルギーからしてワンハンドがもっとも効くはず
おまけに手で押さえつけるからさらに効くだろう
おれはごっこの時にこれを得意技にしていたがいかんせん軽量の相手にしかかけられない
重いやつにはベンジュラムを使っていた。 相手の同意が必要と思うが、風車式バックブリーカーもなかなかエグそうだ
やはり回転するから毎回当たる位置がランダムだし、計算通りにいかないだろうし スピニングトーホールドはガチで決めると瞬間的にギブするしかない、あんなに耐えながらもう片方の足で蹴って返すなんて無理
夜中に脚がつってふくらはぎが激痛になるのと似てる痛みだよね、スピニングはもう少し下の足首だけど。 >>321
フロントスープレックスもそうして使用解禁されたけど
実際に試合で使ったのは相手がドリー、ブリスコ、レイスのときだけか
鶴田も抜群に受け身のうまい選手にしか使わないってどっかで言ってたし
この3人、さすがにNWA王者だけのことはあるな
随分後で天龍相手にも使ってたけど、あの頃はもう体が斜めに流れるようになってたし >>333
自分が初めて見たのは北見でのUNリターンマッチ
最後のボディシザースドロップも合わせて個人的にはあの試合が鶴田で一番好き >>310
まあそうだろうね
プロレス界の定説とちがって猪木は最初からスーパーエリートだし力道山のお気に入り
弟子制度がなくましてや人種差別撤がまだ色濃い時代にに大物外人レスラーが連れて帰りたがったりするくらい見る人が見れば逸材だった
アメリカ時代も馬場に比べ不遇だの活躍してなかった言われるが当時21歳くらいで大活躍してるレスラーなんて白人でも殆んどいなかったんじゃ無いかな >>335
猪木と同年代の外人で
当時本当にトップまで上り詰めたのはWWア世界王者のペドロ・モラレスだろう
同時期に猪木はNWAタッグをマツダと取っていたが
65年くらいならレイス、ブリスコ、テリー、マスカラスも大した活躍をしていない >>336
そりゃあまんなその当時は20代前半でキャリア数年の若手だし。 >>336
ハワイで豊登の誘いに乗らなければ猪木とモラレスの対戦があったんだよね 猪木=雑草と宣伝されたが実際の猪木はエリートだったのは最近指摘されている
力道山に船の上から海に叩き落されたエピソードもあるが、
力道山には他のレスラー達も酷い目にあわされていたからな。
デビュー三戦目で田中米太郎に勝利。デビュー三年で将来のエースが行く海外遠征。
豊登が「俺だけじゃ対抗できないから次期エースの猪木を引き抜く!」
日本プロレスが「猪木をTBSプロレスにとられてはいかん!」と厚遇で呼び戻す。
だからね。 猪木の雑草はあくまで馬場と比較しての話だからな
大木なんかふざけんなって感じだったろう >>339
入門時には馬場と共に大々的にスポーツ新聞に
取り上げられる。
デビュー3年目にはワールドリーグに出場。
そして百田敬子によれば、力道山は猪木を寵愛し手元から離さず、ビジネス経営まで教えていたとか。 >>341
十代でテーズと対戦してたんだよな
その十三年後に恩返し まだ大学に行ってる人がいる歳に、蔵前でバレンタインと名勝負だもんな
プロレスラーにならなくても異常な人生を歩んでいたに違いないが >>72
巨人戦とボクシングの世界タイトル戦と歌番組そしてプロレスは
テレビのゴールデンやプライムタイムで放送されないことは無いと思っていた >>83
「四角いジャングル」でも猪木とウィリアムズとは因縁が無さそうだった >>341
『プロレスラー夜明け前』(瑞佐富郎著)によると、猪木はプロデビュー直後から“ブラジル生まれの日系二世”と報道され
帰国当初はずいぶん元級友から「嘘つくな!お前は寛至だろう⁉」という電話に悩まされたそうだ。
いきなりホラを吹かされる形となった猪木は記念すべきデビュー戦の試合後
「日本チャンピオンになって、ブラジルにいくのが夢です」と述べた。
ちなみに馬場は「アガるということはなかったですね。観客に囲まれるのは、プロ野球で馴れていますから」 藤波も十代でアフリカに置き去りされてるからな
しかも海外渡航自体が珍しかった70年代前半に >>344
今やボクシングも「コロボックルのボクササイズ」と揶揄される始末…
井上尚弥がバンタムとJrフェザーの2階級を4団体統一しても、だ。 猪木=雑草 はひょっとして「列伝」でわりと遅くに形づくられたのか?
あるいは寵愛を受けながらも暴行を受ける姿で早くからあったものなのか 1976 マットの獅子王 アントニオ猪木伝 が少年キングで連載開始
原作梶原一騎 構成真樹日佐夫のクレジット表記
これ未見だが誰か読んでないか? www.mangashop.jp/bin/showprod?c=9784775912553
ここで数ページ立ち読みできるぞ
昔から梶原一騎原作が好きでこれも知ってるが、正直買ってまで読む価値はない >>350
単行本で読んだよ
漫画としては「ジャイアント台風」の方が面白かった >>351のページでの紹介見たら
>少年時代に一家でブラジル移民となるエピソードでは、悪の農場主に“ブラックパワー殺しのトリオ”なる物騒な刺客を放たれ兄弟で立ち向かったり、力道山が仏のように優しく猪木の成長を見守ったりするなど
つまらなくても読みたくなるなww
力道山存命時の列伝との差分が一番気になるんだが 不自然な兄弟タッグになってるが カジ先生は実質ノータッチとか? 身近に置いたからこそ殴られもしたんだろうけど
敬子夫人は力道山の猪木への溺愛ぶりに「嫉妬」したと
細田の本に書いてあった。 猪木の雑草orエリート論、テロ当時の藤原の言葉を思い出したよ
「アイツ(長州)はエリート、オレはゴミ」「かませ犬?笑わせんな…下には下がいる事を教えてやっただけ」
確かに藤原の言葉は的を得てる、長州のレスラーとしてのモチベーションは別としても
毎回シリーズのポスターでは猪木・坂口・藤波の次ぐらいの顔写真の大きさだったからね
カーンが帰国した頃に一時的に長州より大きかったが、別枠的な位置だったし
逆に長州のかませ犬になってたのはストロング小林だったと思う。 >>349
雑草orエリートはマスコミが作り上げたライバルストーリーじゃないかなぁ
同日入門、同日デビューで対馬場の16連敗は物語になるし、梶原以前からあったと思われる
>>352
「ジャイアント台風」は面白かった(猪木の雑草話はなかった記憶)
ガキでも分かる嘘っぱちだったが夢中で読んだよ
力道山道場の地獄のダンベル蜂特訓やアイアンクロー対策の土中のジープ特訓・・
後年、馬場はインタビューで「そんな事したら死んじゃうよ」と答えたそうだ
サンマルチノ、ロッカ、コワルスキーの創作逸話もこのマンガで知った
一番笑ったのが、馬場の母親が体型も顔立ちも馬場そっくりな容姿が後半に登場した際は別人に変わっていたw あれは編集が悪いな。梶原にはともかく辻なら直してくれるだろう
辻なおし 1960年9月にデビューした新人が
1962年4月にはワールドリーグに出場。
デビュー1年半の19歳だよ。
今でいえばヤングライオンもいいとこの時期に リーグ戦には出てないが61年ビル・ミラーと対戦、その年に海外武者修行に出た馬場
62年Wリーグ参加でテーズやハットンと対戦した猪木
力道山が目をかけた二人とも超エリートだよね 力道山は3年後(1963年の)には引退を考えていた。
馬場のことはヒット商品としてそのまんまレールに乗せ、
猪木は一時相撲入りさせるという奇策で格上げをはかり
両雄に次代をまかせるプランであった。
猪木にとっては相撲入りは迷惑な話であったが
力道山にとっては「関脇ブランド」で成功した自分と
同じ路線に猪木を乗せたかった。 まあ力道山が目をかけてたのは間違いないだろうが
シゴキが目に余るほどだったのも事実で
サニー・マイヤースが毎日力道山に叩かれてる猪木が不憫で
力道山に俺に預けろと直談判してアメリカに連れて行こうとしてたなんて話もある そういえば、新日やU系はいじめパワハラ話多いけど、全日ノアはそんなに聞かないな
自分が知らないだけか? 馬場が力道山に殴られなかったのは
背が高すぎて殴りにくかったせい?、 力道山に殴られなかったのは馬場と豊登位だったという話もあるな
マンモス鈴木なんてビールの木箱で力道山に殴られて
その木箱が粉々になっていたとか。 金ヅルになると思ったからでしょうねw あと、性格も見越したからかな
力道山と馬場の被るところは現役のままこの世を去った、くらいか 馬場は理不尽な暴力は受けなかったが、空手チョップ用の掌に鍛えるために重い灰皿などでガンガン叩かれたと著書に書いていたな。 >>366
豊登と馬場が力道山に殴られなかったのは馬場自身が話していたから間違いないだろう。
遠藤幸吉とユセフ・トルコも殴られなかったそうだが、これは「変なことをしたら
リキさんの出自を世間にバラしますからね」と密かに脅していたかららしいな。 遠藤トルコは力道山の弟子ではないからね
日プロの数々のトラブルは大概この二人が関わっている
馬場嫌いでも有名 >>365
馬場は成人してたし金ヅルだが殴ったら辞めかねない 猪木は10代だったし逃げる場所がないと思われてたという話 >>372
そもそも猪木は力道山に駆け込んでブラジルを脱出したという説まである >>361
オリンピックをヒントに開催したワールドリーグも第5回を最後にするつもりだったようだね
翌年の東京オリンピックには別の企画も考えていたようだ
>>373
もはや啓介さんしか知る由もないのかな 猪木より馬場のほうがプロレス逃げたら行き場ないと思うけどな
あの図体だとどこでも目立つから一般の仕事なんか出来ないし、相撲は嫌ってたからな >>375
プロ野球を挫折した時、都落ちだけは意地でもしたくなくて力道山を訪ねているからね
逃げたら世間に晒されるのは承知していた筈
まぁタレント性もあり映画のオファー等もあったみたいだから、一般職は無理でも食いっぱぐれはなさそうだが >>377
マンモス鈴木もあれだけ売れた、というか脇役だけどあちこちの映画に出てたし
ストロング金剛も同じくだし、馬場なら二人より身体能力も高いしアクション系の映画なら30年位は食っていけたでしょう。 「死亡遊戯」でブルースリーと闘うのはアブノーマル=ババーを名乗る馬場正平だったのかもしれない >>378
セリフある役は無理だろうし、芸能で食っていくとかそんなに甘くないだろ 役者というより希少価値のあるタレントだね
でも駅前茶釜の演技は台詞も味のある、よく言えば素朴な感じが出ていた
悪く言えばダイコンだったがw
立ち回りは流石に上手かったが、プロレス殺法主体だったから判断できないな 野球時代には「役者にならないか」「ホテルのドアボーイにならないか」とか
他にもいろんなところから誘いがあったそうで。野球しくじった時もそんなに
悲観していなかったらしい。 馬場には007のジョーズ役のオファーが来てたじゃないか
断ったらしいけど、ちょうど猪木アリ戦で
新日に話題で圧倒されてた時期だったから、
対抗するためにも日テレと相談の上受ければよかったのにと思う。 猪木はどうだったんだろうね
「頑張れベアーズ」だと判断しかねるし、梶原映画はドキュメンタリータッチだったから未知数
晩年に主演した「アカシア」?での老人役だったかの表情は哀愁があってよかったが、映画は駄作
死神酋長役はマンガだからね〜 >>377
でも「プロレスラー」って肩書は必要だよ。大仁田も2度目の引退の後に役者・タレントで行くはずが現役の時ほどチヤホヤしてくれなくってまたプロレスに戻って来たし。それも何度も何度も。 いまだに馬場は優遇されてたと思い込んでるやつ多いな 入門した時、ジャイアンツ時代と同額の月給5万円を即決されたが翌月「試合もしてないのに多すぎる」とそれでも3万円に減額された
猪木は付き人にされ小遣い制 >>388
優遇されてないわけないだろ
力道山に殴られない、海外遠征はマンモス鈴木と同時期だが大木、猪木より早い
猪木とのシングルでは全勝、ワールドリーグ戦では同期の誰より早く白星挙げてる 他には馬場は新弟子の立場でも住み込みではなく、アパート住まいで道場通いを許されてたとか。
それは馬場の繊細な性格を力道山が考慮して、タコ部屋住まいだと辞めてしまうんでは?という話を読んだ事がある。
巨人軍の時はどうだったか知らないが、1人部屋の寮だったのかな? 今になって言えるのは、思っていたより猪木が力道山に目をかけられていたということであって、
馬場はこれまでのイメージ通り優遇されていたのは変わらんってことよ 馬場猪木のデビュー戦は当日の第7試合と第8試合、という
だけで特別扱いがわかる。 1960年9月30日 東京台東体育館(観衆6,000人)
日本ライトヘビー級王座決定予選-10分1本勝負-
第1試合・・吉原(8分4秒首固め)林
第2試合・・トルコ(1分51秒逆エビ固め)平井
第3試合・・珍(6分10秒片エビ固め)田中
第4試合・・大坪(4分53秒腕固め)竹下
日本ライトヘビー級王座決定準決勝-15分1本勝負-
第5試合・・吉原(両者リングアウト=抽選)トルコ
第6試合・・大坪(5分29秒エビ固め)珍
新人戦-10分1本勝負-
第7試合・・大木(7分6秒逆腕固め)猪木
第8試合・・馬場(5分15秒股裂)田中米
-30分1本勝負-
第9試合・・芳の里(5分32秒体固め)長沢
セミファイナル-45分3本勝負-
第10試合・・豊登&吉村(2-0)ジャクソン&ミチュール
オールアジア選手権-61分3本勝負-
第11試合・・力道山(1-1)リッキー・ワルドー >>396
日本ライトヘビー級王座決定戦で二試合闘う選手がいるから馬場と猪木のデビュー戦をインターバルとして挟むのならわかるが、王座決定公式戦を差し置いての順番は特別扱いだな。 猪木馬場のデビューの日にライトヘビートーナメントなんかやってたんだな
しかも準々決勝と準決勝の2試合か 力道山は大木金太郎をどうしたかったんだろうなあ?
馬場猪木の下の日プロ3番目にしたかったのか?
韓国にプロレスを広める要員だったのか?
アメリカで韓国系レスラーとして活躍してほしかったのか? >>396
馬場よりボンちゃんの方が第8試合とか稀少なんじゃねえの? BIの前座を勤める吉原
後の3団体の力関係がこの時点で現われてるな 昭和38年とかだと実は道場では力道山より俺の方が強かった
こっちは毎日やってましたからねって言ってたな 猪木が >>402
やたらと「道場では俺が」を連呼する猪木。
それって「プロレスは試合と道場では
違う」という、禁断の部分を言及したような
ものだな >>402
小佐野景浩と二宮清純の対談から〜
若手や後輩とのスパーリングは基本教えるためにやるので、若い選手に攻めさせるのが一般的
力道山も若い選手相手のスパーリングは「いいよ、やってきなよ」というスタンスだったと思う
力道山はあくまでも胸を貸していただけで、俺の方が強いと猪木が思い込んでしまった可能性もある
ただ、力道山は相撲上がりだから寝技や関節技は立ち技に比べると得意じゃなかったのもある 「この世界は客を集めてくれる奴が一番偉いんだ」(ヒロ・マツダ)
なんだけど当のレスラーがそう割りきれていないのもプロレスの面白いところ
日本独自かと思えばアメリカでもホーガンは、テーズ、モンスーン、マードックから
悪く言われていた >>403
当時は日本人同士が試合することがなかったから、当然の話だろ >>406
補足
力道山みたいなトップクラスの話ね >>405
誤解されがちだけど日本人同士の試合なんて当初からたくさんあった
前座試合なんかだいたい日本人対決 >>406
猪木は1963年時点で馬場、そして豊登、吉村と力道山以外とは全部シングルやってるよ。
馬場とは全敗なのに「道場では俺が強かった」と
言われれば、それは「それがガチ、セメントって
こと?」って思うわ >>409
もちろん猪木は力道山に負けている外人にも
リングではほぼ全員に負けている。
それで「道場では力道山より強かった」と
言ってたなら、ますます「え?」だよ >>409
ガチとかセメントって概念は当時のファンには浸透してないし
道場の練習の強弱と試合は違うってのが当時の考え方だよねって話だよ
そうじゃなきゃ当時の猪木の立場でこんなコメント表に出てくるわけもなく >>405
宿六は女房がいないと生存自体が困難になるのを知っているけど
わかっていながらそれを忘れて家庭では家長だの筆頭者だのと威張る
定年になると三行半、というようなもんか >>411
道場と試合が違うってのが
野球の「プルペンエース」、練習では調子が
いいんだけど本番では弱いみたいな意味では
取れなかったね。やはり「ファンの見ていない
ことろでの本当の実力では」というニュアンスで
取ったね。セメントという言葉自体は、昔から
門茂雄がちらつかせていた。 >>413
ブルペンエースとも違うな
当時の感覚で言うと、レスリングだけなら猪木が勝てるかもしれないけど
本番の試合で、力道山が空手チョップ使うなら敵わないよねみたいな
道場の強さが本当の実力って理解はレスラー間だけ
上にも書いたが、マスコミやファンが「ガチなら猪木のほうが強い」と理解するなら
こんなコメント表に出てこないだろ >>410
そんなこと言ったとしたらプロレスのイメージが益々悪くなること分かってんのかな >>416
嫉妬深いレスラーがよく言うのにね
戦前のプロレスはボックのような選手が多かったイメージがする
日本にプロレスを根付かせた力道山は完全にアメリカナイズされたスタイルにせず、日本人好みの真剣勝負の要素を許容する
場合によっては木村戦のようなこともあり得るプロレスを見せたんだと思う
視聴率を競うテレビの普及によりエンタメ化が進んだのは事実だが、いざという時はシュートも辞さないというか
昔はプロモーターに意図(他地区の人気者を潰すとか)があり刺客のレスラーに仕掛けさせるような事があったみたいだけど
テーズなんかは察知して返り討ちにしたそうだし、大事な商品、そんな掟破りのレスラーはすぐ干される。
あくまで制裁できる技術はトップを張るレスラーなら持ち合わせてないと無法地帯になるからね
まぁ、打ち合わせで成り立つ世界だから安心してプロレスという仕事ができるわけで、
もし暗黙のルールを破って相手に大怪我でもさせたら一体誰がその人の生活を保障するのか?なんだよね
真剣勝負を演出するならいいけど、今だったらMMAにでも行け!という話 ボックは戦前のプロレスから遠くかけ離れてる
高く持ち上げるボディスラムとかダブルアームスープレックスとかヨーロピアンアッパーカットとか全部相手の協力が必要なムーブだ