【アトキンス】BI砲を考える3【クラウザー】
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
>>89
あのベルトを最初に使ったのはオコーナーで日本に最初に持ち込んだのはキニスキー
しかし実際に防衛戦をやったのはドリーだからな あのベルトは、バディ・ロジャースが一番似合っていたと思うな。
次のNWA赤ベルト、レイスは巻いてないんだよね‥
っていうか、ブリスコしか巻いてない。
https://livedoor.blogimg.jp/toukon_tetujin/imgs/9/9/9912eab8.jpg >>93
それだけに当時のロジャースに挑戦出来た馬場が生涯の誇りと思うわけか >>91
最も長く、あのベルトを締めていたのもドリーだね。
(4年3か月) ドリーのNWA長期政権時代に挑戦した日本人レスラーは、
猪木・馬場・坂口・鶴田・木村・(大木)‥‥
他にも海外修行中や遠征中に挑戦したレスラーはいそうだなぁ〜 >>96
木村はテレビマッチでジョバーをやっただけで王座に挑戦はしていない。 >>98
70年2月21日に挑戦した事になってるけど、ノンタイトルだったの? [1970 wrestling titles com. ]
02/21 St. Jospeh, MO (TV)…Masao (Rusher) Kimura (non-title?) W
本当だ!ドリーの70年防衛記録調べると、テレビマッチのノンタイトルぽいね 【NWA王者ドリーファンクJr.に挑んだ日本人レスラー(大木を含む)】
1969年
シャチ横内(4.15)小鹿信也(11.20)アントニオ猪木(12.2)ジャイアント馬場(12.3)
1970年
木村政雄(2.21)…ノンタイトルの可能性
ヒロマツダ(5.16)キムイル(6.14)キムイル(6.19)ヒロマツダ(7.8)アントニオ猪木(8.2)
坂口征二(10.15)坂口征二(11.11)ヒロマツダ(12.30)
1971年
坂口征二(3.27)ヒロマツダ(8.9)ヒロマツダ(8.14)坂口征二(12.9)
1972年
なし
1973年
鶴田友美(5.20) >>102
>1969年小鹿信也(11.20)←これNWAタイトル戦?
確かに、小鹿はその頃、ロスのトップヒールだが
ドリーに挑戦できたかな?
この頃、ドリーはロスでマスカラスとB・オースチンの挑戦を退けたのは
日本でも報道された。
それと、グレート小鹿は71年暮れのシリーズでドリーと45分3本勝負を
やって0−2(それも2本ともフォール負け)をした記録を見た記憶があるんだが。 昭和44年(1969年)11月20日(木曜日)
米国/カリフォルニア州ベーカーズフィールド/ストレリッチ・スタジアム
□シングルマッチ/ノンタイトルマッチ(3本勝負)
ドリー・ファンク・ジュニア(勝ち)グレート小鹿
※D・F・ジュニアはNWA認定世界ヘビー級王者で、G小鹿はNWA認定ビート・ザ・チャンプ・テレビジョン王者。 >>103
〜wrestling titles.com The Records of Championship Matches 1969〜
11/20 Bakersfield,CA Shinya Kojika w
このように記されていたんだけど、104氏が書かれているのが正確みたいですね。 アトキンス道場出身の馬場やシンはセメントを叩き込まれた。
だから馬場やシンはセメントは滅法強い。
そんな事を言われていたな。 アライアンスからの歴代NWA王者だけど、幻のチャンピオンも入っていたw
https://youtu.be/X3orNW2-RXg >>103
>グレート小鹿は71年暮れのシリーズでドリーと45分3本勝負を
やって0−2、それも2本ともフォール負けをした記録を見た記憶があるんだが
自己レス
1971年11月30日【京都】 ○ドリー・ファンク・ジュニア 対 小鹿● >>108
1971年12月6日【茨城】○テリー・ファンク 対 グレート小鹿●
この試合はテレ朝chクラシックスで見たけど、小鹿に良いところなく
若きテリーのシュミット流バックブリーカー一発でフォール負け そんな小鹿は、力道山最後の弟子なんだね。
マスカラスと抗争していたロス時代や、テキサス遠征時のカン・フー・リー
何かと海外マットでの処世術には長けていたみたいだけど
全日本では長年アジアタッグの顔、アンダーカードの主役という感じだったかな >>110
日プロでの最後のアジアタッグ王者でもあったわけだし 小鹿は69〜70年にロスで大暴れして
マスカラスのアメリカス選手権やタッグ王座も奪った。
で、70年秋のNWAタッグリーグで吉村とのタッグで
参戦すると聞いて、他のチームに比べ選手の平均戦闘能力は高い。
優勝するのではないか?とまで言われたが、、
やはり、あのキャラは日本では受けなかった。
まぁポジションとしては先輩のヤマハやミツ・ヒライの上だったかな? 上田のように徹底的にヒールファイトをやれば良かったが、
あの時代では受け入れられないだろうな〜
小鹿も日本では(カッコ)良く見られたかっただろうしw
観たことないから何とも言えないけど、アメリカマット界での悪役といっても
日系レスラーがよくやるような小狡いヒールなんだろうね
愛想よくして油断させ、レフェリーの目を盗んでとか… 海外の実績的には小鹿が上だったろうが結局は体格もあってインタータッグは上田に譲らざるを得なかった感じ 小鹿は扱いは中堅だったけど、結構メインエベントの出場も、テレビマッチ登場も多かったね。
星野山本より大型で、当時の上田よりも派手さはあったからか。 漫画タイガーマスクでは馬場、猪木、大木、上田、小鹿で虎の穴へタイガー救出に殴り込み 馬場>猪木>坂口>小鹿>その他
という印象。
猪木追放時の有名な写真では
そりゃ先輩ってこともあるし
小鹿が真ん中にいて坂口より全然雰囲気出しているのが印象にある。
例の桜田らに命じた猪木リンチが実際になされていたら?
・・・なんて思うこともあるが、
まさか不具にはしないだろうし
結局歴史は殆ど変わらなかったのでは
と想像する。
「どうってことねえよ。
先にイイのが当たったてだけのことで。
むしろ1人で来なかった、
素手で正面からこれなかった、
不意討ちってことが
いかに彼らが俺を怖れていたっていうか。
それに俺は私情でケンカなんてしないしね。
それこそ俺が馬場さんにしたように挑戦してみろというか。
まあ、顔じゃないってのは彼らもわかってただろうし、
彼らも命じられてやっただけ。
今は何とも思ってないですよ。
自分も彼らも若い熱い時代に必死に生きていたということですよ」
アントニオ猪木(談)
・・・とか(笑) >>121
これを見た小鉄が激怒して以後は星野を赦さなくなるんだよな >>122
永源はこの後に新日に移ってジャパンが崩壊したら全日所属になって
馬場に大事にされていたのが凄いよなw
なんなのこの人 >>123
星野は、やや神妙な表情、坂口が一番喜んでいるよ(苦笑)。
次が桜田かな? 後に星野が新日本に入った時も入団会見に同席していない “会社乗っ取り”の汚名を着せられた猪木の追放だから
詳しく事情を知らない連中もいただろうね‥
嫉妬の世界だから、人気者が抜けて自分の格が上がると思うものもいただろうし
猪木派の星野が神妙な表情になるのもわかる。
小鉄が猪木の秘密を握っているというのも、この頃の話じゃないのかな?
よく分からないけど… >>124
タニマチをたくさん抱えていて、集金能力が高いから、新日、ジャパン、全日、どこでも重宝されるんだよ。 永源の人脈の広さは、大物政治家からヤクザまでだからな…
日プロのセコンドでいつもテレビ中継に映っていた若手時代の印象が強い >>132
永源の引退の時に渡哲也や西城秀樹が来たからね
WIKIにいかに人脈が広かったか書いてあるね >>132
小田原の件が問題なのは百戦錬磨のはずの永源がなぜあんな最悪な代物を見抜けなかったかなんだよな
それで株を大きく落としてしまった > 海外修行(遠征)に行ったのは戸口・星野・安達・永源
林ハブるなよ、別にいいけど >>132
>日プロのセコンドでいつもテレビ中継に映っていた
1971年、ワールドリーグでデストロイヤーと抗争していたね。 >>136
豊登に林牛乃助と命名されたんだよねw
前座を湧かせるコミカルファイトは永源と通じるところもあったらしいが
レフェリー時代にフレアー対カブキのNWA世界戦を裁いたのがハイライトかな。
一度ファミリー軍団で試合しているところを見たかった 石川の全日本ラストマッチの相手は永源・大熊だったんだよな >>139
最強タッグに出てなかったからなあ。
通常のシリーズだったら外人とかもっといいカードに出てたろうに。 全日本時代の石川の一番は輪島と組んで武道館で馬場・三沢タイガーとやった時かな 石川孝志は基本に忠実で器用に何でもできる技巧派だけど、華がなかったから
もっと感情を出すとか上に牙を剥くとかすれば良かったと思うんだけどね
全日本入りを希望したが、角界との軋轢や引き抜きと思われる批判を避けるために
馬場は石川にフリーの形をとらせ修業先にファンクスを紹介
アマリロのボブ・オートンJr.戦(77年11月)でデビュー
78年10月の国際プロ『日本リーグ争覇戦』に参戦し、79年全日本入団とある。
馬場のことは師匠というよりボスという感じだったのか、最初に引退するときも
輪島との絆を優先してるように思えた。 石川デビューはリップ・ホーク戦ってなってるぞ
その数日後に対戦したのもオートンJrじゃなく親父の方だし 石川は最強タッグ出たかったみたいだね。
出ても白星配給の最下位は目に見えるが。
っちゅうか石川の話でこんだけレスが続くって凄いな。 新日で猪木のボディーガードといえば藤原が有名だが
永源もそうなんだよね。
76年パキスタンの猪木vsアクラム・ペーンワン戦でも藤原・小沢と同行し、
ボロ・ブラザースの六男ゴガ・ペールワンと5分6Rで対戦している
(4R37秒ゴガのフォール勝ち)
もちろんメインのようなシュートマッチじゃないが‥
https://blog-imgs-98-origin.fc2.com/m/u/r/murasakilg/002_R_201612022332345fa.jpg
79年2度目のパキスタン遠征(対ジュベール戦)にも木戸と永源が同行
猪木vsウィリー戦でもセコンドで猪木をガードしてたのが永源だった。
東京プロレスからの付き合いだから、猪木の信頼も厚かったと思われるが
後半のキャリアは馬場に尽くしているんだよなw >>146
85年も活躍からいったら申し分ないんだけど、パートナーがいなかったからね。
88年も輪島・石川で出せばいいのに、カブキ・輪島にする馬場の意地悪さ。。 1973年12月25日(現地時間) テキサス州アマリロ・スポーツアリーナ
インターナショナルタッグ選手権 〜60分3本勝負〜
ザ・ファンクス(1−1)キラー・カール・コックス&カン・フー・リー
3本目ノーコンテストでファンクスの防衛
この時期の遠征は小鹿が日プロ残党だったからなのかな? >>149
アマリロでのインタータッグとなると鶴田・ハンセンの挑戦が目立つ 実質、日本で設立されたタイトルで海外に流失して
そこで防衛戦が幾度も行われ定着したのはインタータッグくらいだね。
あと、大木の韓国でのインターもそうか?
インターは、元々、テーズ時代は、アメリカでのタイトルだからちょっと
違うな。馬場がPWFベルトの一本をアメリカでの防衛専用にドリーに預けたら
ドリーはそのベルトでタイトル戦をやったという話もあるが、別にPWFという
タイトルで行ったわけでもないようだから、これも違う。 >>151
インタータッグ王座はサンアントニオで師弟コンビが奪回するまでに
鶴田&ハンセン組、馬場&パクソン組、馬場&カンフーリー組と
何度かパートナーを変え挑戦しているんだね。(馬場パク組は観たかったw)
この王座も、馬場&吉村組が獲得する以前の歴代王者が不透明で
ややこしいのは、インターシングル王座のタッグ版じゃないことなんだけど‥ 発想としては東京プロレスがアジア以上の名称のタッグ王座を作るのに先手を取るという物だったらしく当初はビジランテスが王者として乗り込んで来る予定だったらしい インタータッグも、ゲーリング・パドーシス組でまだよかったよ
ビジランテスなんて第3回NWAタッグリーグで全敗だったヒッピーズが正体だろw ビジランテスは
夏のシリーズの途中でゴッチが怪我をして
ビッグマッチ要因がいなくなったから
急遽呼ばれたのかと思ってた >>153
1966年、ゲーリング・パドーシスが持ち込んだインタータッグは
ベルト制作も含め、完全に日本の「お手盛りタイトル」でしょう?
同名のタッグタイトルが全米にあり、ザ・カンガルーズも保持していたことが
あるようだが。日本の同タイトルとのつながりはなさそう。
まぁ権威付けでしょう。藤波のWWWFジュニアがジョニー・デフォジオ、
同インターがアントニオ・ロッカにルーツがあると言っているのと同じ。
まだ、こっちの方がWWWFでつながっっているが。 だいたいゲーリング・パドーシスってインタータッグ王者である前に
アメリカでタッグを組んでいたの?というレベル。
マニアの人が調べたら、日本遠征の前にロスで数試合行った記録があるとか。
まぁ、全くの即席チームだったら、ボロが出るから、軽く慣らし運転は必要だね。 >>159
その意味では後のパワーズ・パターソンの北米タッグも同じか お手盛りの王座でも、ベルトの価値なんて保持者によって上がったり下がったり‥
ヒーロー力道山やBI砲が、視聴率30%の高度成長期に熱狂させたのがよかった。
73年に下がりまくったけどね >>161
その年のハイライトはやはり秋の蔵前タッグ戦争だな
それで国際のワールドシリーズが埋没 テーズ&ゴッチ組が発表されたときは
さすがの馬場も「その発想はなかった」と関心したとか >>154
>(インタータッグ王者として)当初はビジランテスが王者が
>乗り込んで来る予定だったらしい
でも、ビジランテスは非力だから外され、ゲーリング・パドーシスの
急造チームが選ばれたわけだな。
猪木がUNを奪取する時も、時の王者はレイ・メンドーサだったが
彼は軽量ということでジョン・トロスに王座を移し、猪木が獲った。
UNというのはヘビー級の王座ではないんだな。
バックルには「Heavy Weight]という文字はない。 >>164
当初は東京スタジアムでインタータッグ戦をやるはずだったのかな
結局は互いのタイトルに挑戦し合った後にダブルで決着させたが TPG両国暴動の日だね
猪木と暴動というと、66年東プロの板橋暴動(リング焼き討ち事件)が最初かな?
冬の野外で1時間以上待たされの中止発表だから、そりゃ怒るよな〜
比較的穏やかな全日マットでも、毎回決着がつかない鶴田vsハンセン戦の後楽園大会で
あわやというのがあった。 >>166
全日本が完全決着に移行したのはあれが直接の切っ掛けかな
後楽園での鶴田とハンセンとなるとその三年前にもAWA絡みでやってたか
当時はついでって感じだったが実はあれが鶴田の初のPWF挑戦 “鳥人”ダニー・ホッジ逝去‼
1955年アマレス全米選手権優勝
1952年ヘルシンキ五輪5位入賞
1956年メルボルン五輪銀メダル獲得
1957年ボクシングゴールデングローブ全米王者⇒プロボクサー転向(約1年)
1967年東プロ&国際合同興行『パイオニアシリーズ』初来日
第1戦1月5日大阪府立体育会館でヒロマツダと60分ドローでNWA世界ジュニア王座防衛
1968年TBSプロレス『オープニングワールドシリーズ』
1月24日台東体育館でLテーズを破りTWWA世界ヘビー級王座獲得
1969年日プロ『新春チャンピオンシリーズ』
1月9日広島県体育館でWスナイダーと組みBI砲を破りインタータッグ奪取
1974年全日本プロレス『サマーアクションシリーズ』現役最後の来日
7月5日後楽園ホール開幕戦で鶴田と30分時間切れ引き分け
7月25日日大講堂で対戦した高千穂明久戦が日本最後の試合
ホッジ(13分47秒エビ固め)高千穂 このスレとしてはやはりBI砲とのインタータッグ四連戦かな ↑↑
1955年と1952年が逆だったw
他にもアマレスでオクラホマ州、AAUチャンピオン制覇している
(1932〜2020)88歳の生涯 >>163
それの換骨奪胎的でもあるし二番煎じのようでもあるが
ブッチャー+シークになったのかもしれず 【BI砲対ダニー・ホッジ】
1969年1月3日 蔵前インタータッグ選手権
△馬場&猪木(時間切れ引き分け)ホッジ&スナイダー△
1月9日 広島インタータッグ選手権(王座移動)
●馬場&猪木(1−2)ホッジ&スナイダー○
2月4日 札幌インタータッグ選手権(王座移動)
●ホッジ&スナイダー(1−2)馬場&猪木○
2月11日 秋田インタータッグ選手権
○馬場&猪木(2−1)ホッジ&スナイダー●
11月28日 蔵前インタータッグ選手権
△馬場&猪木(時間切れ引き分け)ドリー&ホッジ△ >>171
ブッチャーとシークはアメリカでも組んでたし
日本での初合体はむしろ同じ年でのシンと上田の合体の影響を受けた感じも 来日したパドーシスとゲーリングが控室で真新しいベルトを渡されるシーンを想像したら
笑えるが、ベルトは前もって渡してあったのかな
新日旗上げシリーズの開幕戦でゴッチがマイク・コンラッドに「おまえはブルックリン・
キッドだ」と初めて告げるような間抜けなことにはなってないと信じたいが >>172
最後の試合はドリーの来日第一戦でもあるんだよな
ホッジが猪木をジャイアントスイングで回す写真を見た記憶も 流智美の本にホッジが猪木をパンチでKOしたとかあったが
それってシングルマッチ?
試合結果もKOということになってるんだろうか >>176
ホッジが猪木をパンチでKOというのは東プロ説と日プロ説があるが
来日記録を見てもノックアウト勝ちは見当たらないなぁ
おそらくタッグマッチの試合の流れの中で、そういう場面があったんだろうね‥
72年ホッジvsガービン兄弟のハンディキャップマッチ
https://youtu.be/PWBr7paiVl8 猪木は遠征時代にオクラホマでホッジの王座に挑戦した事があるとか >>177
どうせ、また適当に話を膨らませたんだろw
日時も場所もはっきりしない話を
さも見てきたかのように語ってる奴は
本当に憐れだなw >>179
あったとしてもホッジのパンチで猪木がダウンして、
ちょっと試合が止まった程度でしょうね。
ホッジは、ボクシングでもプロの飯をくったことがあるんだから
プロレスラー猪木がそれを食らったらKO寸前になるよ。
でも、プロレスでは厳密に言えばパンチは反則。
褒められた話ではない。
なら、ボクシングの試合でプロレスラー上がりの選手が
相手にタックルを食わらせて、あるいは空手上がりの選手が
キックで相手をダウンさせて評価されるのか?という話。 >>179 >>180
選手が売れるとマスコミも潤うから、その手の創作は多いのも確か
(梶原・門・桜井…)
それで夢を見せてもらったから良いけど、騙されてもいたw
ただホッジの実力は、万人が語っているから本当だろうね。 ホッジならやりかねないというリアリティーがあったからだろうな
それこそゴッチのロジャース襲撃みたいに ホッジは意外にも
当時の大物外人の中で
馬場には一度も負けていない インタータッグ王者になりそこなったビジランテス
(ボビークリスティ&ジェリークリスティ)が
翌67年にカナダカルガリー地区のインタータッグ王者になっていた。
https://www.wrestling-titles.com/canada/ab/stampede/ab-int-t.html
ビジランテスは(日プロ時代)、アジアタッグ最弱の挑戦チームと言われたらしい。
最弱のインタータッグ挑戦者はBブラジル&Hジェームスかな?
インターシングルは、スパイロス・アリオン?
アート・ネルソンというのが分からんのだが。 >>184
ブラジル・ジェームスは全日本でも師弟コンビのインタータッグに挑戦してたんだよな >>184
自己レスだが、
日プロ時代、馬場へのインター最弱挑戦者、
0−2のストレートで負けたのは、決定戦のブルーザー(2本とも反則)
以外では、1971年のC・マルコフだけだね(1本目反則、2本目フォール)
アリオンでさえ1本馬場から取っているのに。
猪木のライバルのマルコフにストレート勝ちすることで、自分を優位に
見せたかったという説もあるが。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています