【アトキンス】BI砲を考える3【クラウザー】
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未来日だった「まだ見ぬ強豪」
イワン・プトスキー/マグナムTA/キングコング・コジャック…
軽量級では、エル・サント/サングレ・チカナ/エル・マテマティコ…
期待されても残念なマーシャルボーグやローンホーク、シコデリコもいるから
興行団体としては賭けみたいなものかな、、 一番残念だったのは、バディ・ロジャースとアントニオ・ロッカを
現役時に呼ばなかった(呼べなかった)ことだな。 レッド・マクナッティ時代のIコロフや、ジノ・マレラ時代のGモンスーン
コシロ・バジリ時代のアイアン・シークにハンセン、ホーガン、バックランド、ベイダー
初来日後に米マット界で大ブレーク、もしくはビッグタイトルを獲得したレスラーの事を
「日本帰りは出世する」なんてフレーズもあった。
(厳密に言うと、そのレスラーは違うと言われそうだけど) ロッカはレフェリーとして来日した事はあるが、ロジャースはプロレス関連で来日した事は無かったんだっけか ロッカは蔵前で、トイレで大便をてんこ盛りに溢れさせて壊したらしい
相撲協会から以後、出禁を通達 未来日ではないけど、ウイルバー・スナイダー(来日3回)はもっと見たかったな。 73年の世界王座争奪戦で馬場に1敗1分けだったから
Cカーニバルに出てもよかったな
スナイダーのコブラツイストで敗れた猪木が、Sマイヤースの指導でコブラをマスターした話は好きだな スナイダーも息子がレスラーだったよね
まったく妄想の世界だけど、親子コンビでタッグリーグが開催されたらw
ファンク・バレンタイン・ガニア・ヘニング・エリック・サンマルチノ・オートン・スナイダー・キニスキー
あと、デビアスは義理の親子だっけ? もっと時空を超えてなら、ジョナサン・ボックウィンクル・マードック
それに力道山親子なんかも見たいなぁ 両国のトイレは小錦サイズに合わせて大きくて有名だけど
蔵前はどうだったんだろう 68年の1月9日は前日大雪の為に広島入りができず
インタータッグ選手権をすっぽかした猪木が馬場に詫びを入れたとされてるが、猪木の単独行動を一番非難した大木に禍根を残し
国際プロレスへの移籍騒動まで 変なところで送信してしまったw
まあ、猪木の単独行動はダイアナ夫人(或は、娘の文子ちゃん?)の急病説とも言われているんだが...
大木が非難したのはインタータッグの猪木の代役に立候補したが吉村に却下されたかららしいがw 大木は、1973年10月蔵前で、ファンクスのインタータッグに
馬場が挑戦する試合も、自分がパートナーに指名されると思ったが、
キャリア半年の鶴田に取られ、やる気を失くしたそうだ。
日プロから新日に掛けて、馬場、猪木、大木、吉村、坂口、
この5人で、10チームが編成できるが、その中でタイトルを
取っていないのは馬場&大木組だけ。
馬場&猪木=インタータッグ、馬場&吉村=インタータッグ、アジアタッグ、
第二回NWAタッグリーグエントリー、馬場&坂口=インタータッグ
猪木&大木=アジアタッグ、猪木&吉村=アジアタッグ、
猪木&坂口=第二回NWAタッグリーグ優勝、北米タッグ(新日)、
大木&吉村=アジアタッグ、大木&坂口=インタータッグ、
吉村&坂口=アジアタッグ。
馬場&大木だけが、なにもない。 エースと2でインタータッグ、2と3でアジアタッグというパターンが多い。
馬場と大木ではタッグ王者するにはふさわしくないくらいの格差があったということだろう。 タッグマッチの面白さで見た順位づけをすれば、次のようになるかな。
1 馬場&猪木
馬場はスタンドとパワー主体、猪木はグラウンドとスピード主体でファイトスタイルがかぶらず、変化に富んだ試合を楽しめる。
2 馬場&吉村
両者のファイトスタイルがかぶらず、吉村がつぶれ役を担ってくれるので、スリリングな試合になる。
3 馬場&坂口
両者ともスタンドとパワー主体でファイトスタイルがかぶるが、坂口が馬場を立て連携ができるので、両者の体格を活かしたスケールの大きいファイトを楽しめる。
4 馬場&大木
馬場はキック、大木は頭突きと、両者とも打撃技を主体としてファイトスタイルがかぶることに加えて、大木が馬場と張り合っていいところを見せようとするので、タッグマッチとしての見せ場が少ない、単調な試合になる。 先輩後輩同期でコンビを組んでいるけど、吉村坂口の一歩退いた貢献が大きいね
性格的に、猪木大木のコンビネーションには問題なかったのかなぁ?
でもまあアジアタッグ王座を保持していたから、大木も馬場より猪木にシンパシーを感じていた部分もあるのかな 猪木・大木のコンビはファイトスタイルがかぶらないけど、大木が自分の見せ場を作ろうとするから、タッグチームとしての面白さには欠けるだろうね。
大木はシングルマッチ専門のレスラーかな。 >>314
>猪木大木のコンビネーションには問題なかったのかなぁ?
私はギリギリ、1969年7月の対バーナード&ストロハイムの
防衛戦を見たが、、普通に戦っていたように思える。
でも、‘69年1月、吉村がアメリカ視察のため、アジアタッグを返上し、
2月に猪木&大木が王座に就いたが、2回の防衛、わずか5カ月で大木が返上。
その理由は「アジアヘビー級王座の防衛に専念するため」だが、
猪木と組む前から、同王座を保持、防衛していた(68年11月〜)。
やはり、その時から後輩の猪木がワールドリーグ優勝、NETテレビでも
エース格。大木としては面白くなかったんだろ。 馬場本人は
「もし日本プロレスの頃に戻れるなら吉村さんか坂口とタッグを組みたい」そうで
ベストタッグパートナーは吉村だそうだ まぁ猪木にしても、大木にしても日本プロレスの
ベストタッグパートナーは吉村だと思うよ。 >>316に自己レスだが
>‘69年1月、吉村がアメリカ視察のため、アジアタッグを返上し、
アメリカ視察のため、これも、単なる名目で(1年も半年も滞在していたわけではない
2月〜3月初めのダイナミックシリーズを欠場しただけ)、もうタイトル戦線から
引退したかったのだろうね。
それで、猪木&大木のアジアタッグ王者が誕生したが、すぐに大木が返上。
またタッグ王者に返り咲いて、老体に鞭打って、オースチン&アトミック、
さらにドリー&レイス、キニスキー&レイス、ドリー&マードックといった
強豪チームと防衛戦を行うはめになった(^^: >>319
吉村が新春シリーズ中に唐突にタイトルを返上して渡米したのは
東郷の新団体旗揚げの動きを抑えるためとも言われてる
特に帰国直前の坂口を引き抜かれることを警戒したらしい
3年前の猪木略奪事件の教訓があったんだろう 大木も68~69年頃には大韓プロレス協会もあった?から
いざとなったらね・・・ 力道山、豊登、馬場、猪木、大木、坂口といったエースや未来のエースを引き立てた吉村の存在は凄いなぁ
とはいえ、内心は主役になりたかっただろうにね。
自己主張しないレスラーは評価されないといわれるが、吉村の場合本人の意思とは関係なく、周囲が感じる存在感があった(己の役割をわきまえていた)
自己主張の一つにマイクパフォーマンスがあるが、あれは誰が始めたのか知らないが"負け犬の遠吠え"のようで嫌いだなぁw >>322
マイクアピールは猪木だよ
次いで早かったのがラッシャー木村 ラッシャー木村は鶴田との試合後だっけか
「本当に私はついてないですよ」とか言ってたような >>322
吉村は巡業の金庫番をやるのが最優先で、リング上の主役なんてどうでもよかったのでは。 >>318
亡き竹内氏によれば吉村自身のベストパートナーは大木だとか ジェラシー渦巻くマット界だから、エース交代がまともに行われたことはなかったよね。
絶対的エースでワンマンだった力道山が急逝し、棚ぼた的にエースが回ってきた豊登。
エース兼社長になるも、ギャンブル狂が災いして会社の金を横領し(ほぼ)追放処分。
インターベルトを巻いた馬場がエースの座に(豊登次第でスムーズに馬場政権になったのかも疑問だが・・)
その後、馬場時代を経てBIの対立から猪木クーデター未遂で追放→猪木・馬場の独立→日プロ崩壊
新日・全日時代になってもエースがスムーズに交代したとは言いがたいよね。 馬場から鶴田に完全にエース交代したのは鶴龍対決がスタートしてからの印象 昭和40年のプロレス界の流れを見てると
豊登から馬場へのエース交代は社長交代劇とは関係なくスムーズにいったと思うな
日プロだっていつまでもWWA王座を持っていられると考えていないだろう
豊登は他のエース級の選手と違って変わったところがあるから
リング上のトップにはそれほど固執してない
東プロ時代もまだまだネームバリューが残ってる時期でも
エースの座は猪木に譲ってるし 馬場のインター戴冠後にアジアタッグの防衛戦をやってたらどういうコール順だったのかな >>329
豊登は誰かに稼いでもらって、自分はその上がりでギャンブルしたい人らしかったからね 65年11月に馬場がインター獲得。
その後12月の試合は馬場がメイン、豊登がセミで
定着してるから、この時点でエース交代だね。 外人だとマードックも
「トップに立つと責任重大だし大関関脇クラスの方が気楽でいい」と
思っていた節があったそうだ 後の馬場自身はPWFをハンセンに奪われた後に鶴田がインターやAWAを取っていてもインタータッグでは自分が上だった 各地のプロモーターの意向もあるし、どこかの時点でキッチリエース交代!とはいかないだろ 豊登は自身が可愛がっていた猪木をエースにしたかったらしいけど
日本テレビの方が馬場にエースを変えるよう働きかけていたらしいね。
まあ、社長業を芳の里に押し付け日プロの金庫から金を持ち出してはギャンブルにつぎ込むんだから日本テレビが不安視するのも当然だし、馬場の方が金の成る木だからね。
豊登が更迭される時には相撲時代からの盟友芳の里はかばったみたいだけど、経理の遠藤は自らも芳の里の目を盗んで金を流用していたことを豊登が使い込んだとして処理していたというんだから・・
ギャンブル依存性の豊登、どんぶり勘定の芳の里、力道山とも金銭トラブルがあり児玉や田岡の意向で日プロ新体制に入り込んだ遠藤、この3人はどうしようもないw
日プロが崩壊した一番の戦犯は、ダラ幹の中では最古参の遠藤だと思うんだけど、
彼は日プロ所属じゃなくてフリーなんだよね。 >>329
東プロの猪木と豊登は旗揚げ時分の第一次Uの前田とR木村と被る
年齢差や体型から
猪木→前田
豊登→R木村 東京プロレスは蔵前で旗揚げして大成功だったらしいが
当時若手で凱旋帰国したばかりの猪木に集客力はないよな
豊登人気で客が集まったのか?それともプロレス自体の人気が凄かったのか >>338
豊登を見に来て猪木を見て帰ったというのが当時あったとか >>337
ラッシャー木村は人柄も経済観念も堅実で、豊登とは全然違うだろ 78年に馬場がPWF王座から転落し、カマタ→ロビンソン→ブッチャーと移動しているけど、カマタ王者時に鶴田に一度ベルトを巻かせエースの座を経験させてもよかったんじゃないかな?
その後はロビンソンかブッチャーに敗れ、馬場が返り咲くというシナリオでも
80年のカーニバル優勝を期に本格的な鶴田エース時代
馬場はタイトル戦線から撤退(引退しなくても一歩引く)
猪木の場合ハイセル事業が順調ならIWGP前後に引退
それまでに前田か高野辺りを後継者として育てていればよかったと思う。
藤波長州は、エースとしては小粒なイメージなんだよな、、
BIの時代が長過ぎた気がする。 >>342
あの一連の移動劇は馬場の個人ベルト的だったPWFを公開するといった感じもあった
逆に猪木に渡ってから全て猪木絡みだったのがNWF >>342
1980年前後、馬場にはNWA世界王座に挑戦するなど、全日のエースを務める気持ちがあったし、地方巡業に出ると、鶴田に自分ほどの観客動員力があるとみていなかったようだから、この時期に鶴田への交代をするつもりはなかったのではないでしょうか。 >>344
それでも80年では春冬連覇を許すなど一応の配慮も見せている >>342
巻かせるのは時期尚早とも思えるが挑戦はあってよかった、いやするべきだった。
ロビンソンから獲れなくても無理ないし鶴田はまだだめだな、とまでは思われないしね。
ブッチャーならベルト移動するような決着はつかないだろうし。
それぞれの初防衛戦で王座が移動してるからたらい回し感が強くなったが
それはいいことではない。 >>346
ロビンソンはカマタのリターンマッチを退けている >>347
確かに、ロビンソンはジャイアントシリーズでカマタのリマッチ受けて
ツームストーンで初防衛してるね。
ブッチャーも同シリーズ東大阪大会で馬場の挑戦を退けている
ロビンソンvsカマタのリマッチは完全に忘れていたw(テレビ中継あったかな?)
>>344
現実はそうだけど、理想としてはそうあって欲しかった。
駒選手がコーチとして健在なら、ジャンボの錯乱ももっと早かったと考えたりもする。
ただ、77年末の轡田クーデター事件に巻き込まてから馬場が鶴田を囲い込んでしまって、そもそも野心のなかった鶴田が精神的に参ってしまうんだよね・・
関係ないけど1964年の今日はBI師匠対決の日
セントルイスでゴッチがアトキンスを破っている。(スレタイ対決) >>348
カマタやロビンソンでは駄目だがブッチャーなら挑戦出来るって感じかな
とにかく四代全てが絡んでのPWF戦線だったわけで >>338
俺もそれは不思議に思ってる。
日プロ出戻り前の猪木に一般層へのネームバリューは無いはずだし。
バレンタインだって知られていないだろうし。
よくテレビ無しで、旗揚げ戦や大阪球場を満員に出来たな。
>>339
豊登って当時は人気があったんか。
力道山没後はすぐに馬場のエース時代だと長らく思っていたけど、豊登時代もあったようだね。
「ジャイアント台風」でも暫くは馬場は豊登の後塵を拝していたようだし。
昔の馬場のコメント「俺はパンを食えるけど豊さんは食えないからなぁ」って、ナンバー2に甘んじている忸怩たる思いを表しているね。 >>350
>1964年にジン・キニスキー、1965年にフレッド・ブラッシーを破り、春のワールドリーグ戦連覇を果たした。
この2年間は豊登エース時代だったんじゃないかね
だとしたらかなり知名度はあったと思う >>350
蔵前旗揚げ戦の売り上げのほとんどを
豊登がギャンブルにつぎ込んでいたんだよな
最初は当時のプロレス人気や豊登のネームバリューで何とか興行できたものの、開催しても不入りが続き中止も相次ぐことに
TV中継がないのが致命傷だった >豊登って当時は人気があったんか
ゴジラが映画の中で豊登のマネをしたくらいだから >>350
大阪球場は豊登の思いつきで急遽決まったため、準備不足で観客動員は振るわなかった筈 >>351
デストロイヤーからWWAを取った時は記録的な視聴率だったとか 力道山のパートナーだった豊登は、人気、知名度はあっただろうが、
1964年〜65年の日本プロレスを支えた、もう一本の柱は、やはり
G・馬場だっただろうね。豊登一人だったら、(吉村、芳の里がいても)
プロレスが存続していたかどうかは分からん。 >>358
この時期の日本唯一の王座だったアジアタッグ >>359
アジアタッグは1964年2月、馬場の帰国前に豊登&吉村が争奪戦に
勝って獲得したが、もう5月には、キニスキー&Cハリケーン組を
経て豊登&G・馬場組に移った。
で、64年の12月に豊登はデストロイヤーを破りWWA世界老い者になったが
翌2月と5月にデストを相手に防衛しただけ。
さらにロスでは、別のWWA世界王者がいる(ルーク・グラハム)ので
9月に統一戦をやったら、1戦目は勝ったが、2戦目、反則負けで
移動はないと思ったら、取られちゃった。
実は、その前6月から馬場をインターナショナル王者にしようと動いていた。 タッグはシングルほど縛りが無いという利点がここで生きたという印象
初期のアジアタッグ男は間違いなく豊登だった >>354
どの映画?
キンゴジでキングコングがやったような気がするがどうだったろう。
>>357
ベストヒットUSAの小林克也が自身のバンド曲で
かぽんかぽんかぽん、なんていう合いの手を入れてる >>362
小林克也の世代には、意外と豊登ファンは多いんだよね
ナンバーワンバンドで克也氏が「パコン(カポン)、パコン」と絶叫しているw
1971年の今日は、サンマルチノがコロフに敗れてWWWF世界王座が移動した日
サンマルチノvs豊登の怪力対決も見たかった
あと、1981年1月18日の馬場vsガニアも日プロ時代に見たかった >>363
今でも後楽園でスターウォーズを聞くとガニアの入場を思い出す >>358
力道山亡き後
「日本プロレスは豊登、馬場の二枚看板で売っていく」という方針で
リスタートしたって話だね
豊登が追放されたのは相撲関係者ですらビビるほどの
ギャンブル狂とデタラメな金銭感覚
猪木によると東京プロレス時代ですら
「ギャンブルによる借金は5千万円近くあり、事実上東京プロレスの負債に回された」
そうだ 豊登はWWA世界は獲ったけど、アジアタッグで力道山とTWWA世界タッグで杉山と
連続10回以上防衛してるんだよね
「プロレス&ボクシング」1968年4月号のレーティングス(人気ランク)でもベスト3に入っている
content://com.android.chrome.FileProvider/images/screenshot/1611021804513779284743.jpg 小鹿とか上田にそんなに投票する人いるかな?興味深いけど捏造くさいね。 「月刊ゴング」1969年6月号のレーティングス
https://livedoor.blogimg.jp/norarinhouse/imgs/d/6/d683e715.jpg
この年NWA王座はキニスキーからドリーに移動しているけど、まだランキングには入ってないね。
「レスリングレビュー」ではロビンソンがジュニアヘビーに入っている
馬場の1位は変わらずだが、猪木が肉薄している。 ポピュラリティとアンポピュラリティってなんか新鮮な響きだな
当時はベビーとかヒールとか使ってなかったんだろうけど
猪木はゴングでは上位だけどアメリカでは全く知られてないってことなんだな >>366
力道山が豊登にアジアヘビーを譲ってたらどうだったのかな >>360
ワールドリーグに豊登が二連覇した
次のシリーズで、豊登がデストロイヤーに
WWA王座を反則負けで防衛。
同じシリーズでインター争奪戦が始まり、
馬場がデストロイヤーと引き分けの後、1ー0で
勝利。
という微妙に政権交代への布石が始まってるね。 >>369
ゴング6月号というのは、4月下旬の発売だったが、
この後、猪木がワールドリーグに優勝し、ポピュラー部門1位になる。
そして秋頃は、ミル・マスカラスがロビンソンを抜いて3位に。
アンポピュラー部門はクリス・マスコフがトップになるが、
反面、マルコフが好きだ!というファンもいて、ポピュラー部門の
22,3位にランクされていた。
で、アンポピュラー、ポピュラーの両獲得数を足すと、ポピュラー部門1位の
猪木の表を上回った。つまり69年の秋頃は、クリス・マルコフが一番、
ファンの注目を集めた選手と言うことになる。 不人気ってのは今でもそうだろうけどMost Hated って使うと思うけど、昔F1の片山右京と
ミハエル・シューマッハが対談した時に"I hate you,"と右京が言ってシューマッハが
それを気にしてたらしいね。
あんまり使わない方が良い言葉なんだろな。
http://imgur.com/v9xE8B9.jpg >>372
世代交代への布石となると鶴田がレイスからUNを奪還したら今度は馬場がPWFを取られたのもそうかな >>369
8位 アスラム・ペールワン・・・
アメリカのファンの間ではどんな認識だったんだろう 古本屋でその頃のゴングを買ったら
「アクラムベールワンは誰だ」という特集があった。
ベールワンの正体はタイガージートシン、
もしくはヒンズーハリケーンではないかと
推測記事が載っていた。
ちなみにそ掲載されたヒンズーハリケーンの写真は
まぎれもない、タイガージェットシンそのものだった。 このへんややこしいよな
猪木とやったのはアクラムでボル(ボロ)ブラザースの一人
このレーティングに載ってるのは同じパキスタンのレスラーだがアスラムと同じ一族ではない
さらにボルブラザースにはアスラムがいたりするw あれ?書いてて混乱してきたアスラムはボルブラザースだったっけ?
調べてこよう >>358
豊登は馬場が第一次武者修行から帰国し
日本中で旋風を巻き起こしているのに嫉妬と危機感を覚え
大木をけしかけ馬場に怪我をさせる計画を企てるが、
酒の席で噂が広まりアトキンスに逆に制裁される騒動まで起こった。
>>372
インター争奪戦、馬場は最初アメリカでの実績で資格は十二分にあるから
無条件で王者でいいと主張したが豊登は「馬場ちゃん、会社には会社の営業方針というものがある。
唐突にタイトルを復活させるより秋まで機運を盛り上げていった方がファンも納得、
プロモーターも喜ぶ」と諭したらしい。
>>384
かつてスタニスラウス・ズビスコと対戦したグレート・ガマの末裔が
ボロ・ブラザースと言われているね
猪木vsアクラム戦が凄惨な結末になり、第2戦で対戦する予定だった
兄アスラム戦は中止になった。
ちなみにアスラムは1963年ラホールで遠征してきたブッチャーバションと対戦(勝敗不明)
アクラムは引き分けている。 [追記]
第一世代
兄→グレート・ガマ
弟→イマン・バクシ
第二世代
バクシの息子達(ボロ・ブラザース)
長男→ボロ
次男→ハッサン
三男→アザム
四男→アスラム
五男→アクラム(猪木と対戦)
六男→ゴガ(永源と対戦)
第三世代
ナッシム(ボロの息子)
ジュベール(アスラムの息子で79年猪木と対戦)
トニ(ゴガの息子) >>385
アトキンスが豊登に対して怒って
試合中に豊登の肩を脱臼させたんだよね
脱臼って痛いからな >>385
ゆっくり日本の女子プロレス史の動画見た? >>385
資格戦で一番見たいカードはやはりトーレス戦かな
あの馬場の巨体にコブラを掛けただけでも凄い >>367
芳の里に198票も入っているのが謎だな。1968年なら殆ど試合してなかっただろうに。
山本小鉄が入っていないのも不思議。この頃、日本にいなかったのかな? >>390
芳の里は、すでに1966年1月に現役引退。
山本小鉄と星野勘太郎は、67年1月にアメリカ遠征、9月に帰国。 >インター争奪戦、馬場は最初アメリカでの実績で資格は十二分にあるから
無条件で王者でいいと主張した
これって馬場本人が主張したの? 馬場の性格からしてあの時点でそんな主張を
するかなあ。馬場推しの幹部からそう聞かされてその気になってたのかな。 >>391
1966年1月21日リキスポーツパレスで星野と山本が初タッグ
ヒライ&田中忠治組と20分時間切れ引き分け
翌年のアメリカ初遠征、テネシー地区でオニ&オキのヤマハブラザーズを名乗る。
1979年1月21日、結成13周年のこの日
草津&浜口を破りIWA世界タッグを獲得
ヤマハにとって今日は記念日だね。
>>392
64年に馬場が帰国を選んだ理由が、近い将来のエースの座と力道山に貸した借金(約3千万円)の返済を約束されたから
それに、馬場推しの幹部というか当時の日プロの興行を仕切っていた山口組三代目、田岡組長が
豊登がエースではチケットが売れないから馬場帰国命令を出したと言われている。
この事が馬場を強気にさせたと思うし、むしろ当然と思っていても無理はないけどね
この頃、初の海外遠征に行く猪木に餞別として700ドルを渡し
後に猪木が「あれは涙が出るほど嬉しかった」と語っているね。 プロ野球の先輩後輩って今は完全に年齢らしいが
昔は入団した順だったとか
馬場は長嶋茂雄より年下だけど入団は先
この二人はどんな関係だったんだろうな
馬場はONの収入聞いて「そんだけしか貰ってないのか」と言ったそうだが >>392
>アメリカでの実績
3大世界王座連続挑戦かな?
やはり、いきなりインター王者に認定するのは抵抗があるね。
少なくともブルーザーあたりの大物と「決定戦」だけはやるべきだろう。
争覇戦でも、デストロイヤーはその資格十分だが、
アサシンズAとかアルバート・トーレスとかどうなんだろうね?
あとザ・ブッチャーことドン・ジャーディンか? 馬場・猪木の後輩を調べてみた。
1960年…馬場、猪木(9月30日)
1961年…上田馬之助(5月4日)、星(12月22日)
1962年…北沢幹之(1月22日)、大熊元司(6月3日)
1963年…グレート小鹿(5月9日)、山本小鉄(7月19日)、ミスター高橋(詳細不明)
1964年…高千穂明久(10月31日)
1965年…ラッシャー木村(4月2日)、マサ斎藤(6月3日)
1966年…サンダー杉山(3月4日)、グレート草津(3月21日)、永源遥、寺西勇(10月12日)
1967年…マイティ井上(7月21日)、ストロング小林(7月27日)、坂口征二(8月5日)
1968年…ヤス藤井(1月?)、キムドク(8月30日)
1969年…木戸修(5月8日)、アニマル浜口(9月20日)
1970年…佐藤昭雄(11月13日)、百田光雄(11月17日) ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています