「あれは僕のアイディア。猪木を黙らせようとしてやったんだよ。
『オープン選手権』という名称にしたのは“対戦したがっている猪木さんに対しても
オープンな姿勢ですよ”という意味だから。それでガチンコの強い連中を集めてね。
僕と馬場、原ちゃんでヒルトンに籠って、“一番手はホフマン、次にマードック、
そしてレイス、よしんば猪木が勝ち上がってきたとしたら最後はデストロイヤーを
当てて…”とカードを全部考えていたから。
当時もデストロイヤーは強かったからねえ。
他にもオコーナー、レスリング、ジョナサンといった連中がいるわけだから、
どうやったって猪木は勝てないよ」
「どっちにしろ猪木が来れるわけないんだよ。
それから猪木は一言も何も言わなくなった。言えないわな。
“いつ、どこでも馬場に挑戦してやる!)と言っていたところに、猪木のために
用意してやった『オープン選手権』だからね。
こっちにしてみれば、“これに来れないとは何事か!”と」
「猪木だって、馬場の会社の興行にノコノコ出て行って儲けさせる必要もない
じゃない?そういうことをわかりながら、自分では“馬場とやりたい”と言って
いたんだから、“アホらしくて付き合ってられない”というのが
馬場側の感じていたこと。だから、黙らせるだけで十分だったんだよ。
でも、もし猪木を参加させていたら新日本の将来はなかったね」

ジャイアント馬場の初代フィクサー 元『プロレス&ボクシング』編集顧問 森岡理右