会社、学校内での自分のポジションに近いプロレスラー
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ライガー「ここで書いてるオッサンすげえ!詳し過ぎてやべぇ!」 阿修羅原 ラグビー世界選抜に選出されるほどの実績は今でいう五郎丸を軽く凌ぐ。
多くの商社の注目を集めたがラグビー界のつてで草津役員のいる国際商事
に就職をする。この時点で国際商事はかなり会社が傾いており原を営業マンとして前面
に押し出し国際商事の顔としてアピールすることで難局を回避し社の経営黒字化までを
もくろんでいたらしい。この少々見通しの甘い吉原社長の計画は東京十二銀行からそれなりの
融資を引き出すことには成功したものの原自身の準備不足実力不足、待遇の良くないベテラン
営業マンのジェラシーによりまったっく機能しなかった。結局原は現状打破の起爆剤には
なり得ず長期的視点のない経営ぶりに東京十二銀行も手を引き国際商事は経営破綻する。
社の中核社員らの多くは新日商事(のちに吉原社長も)に流れたが新日商事にアレルギーのあった
井上営業課長は冬木、菅原といった新入社員を連れ全日商事へ流れた。(鶴見は欧州遠征、
高杉は墨遠征後に合流)。原は郷里へ引っ込んだのだが全日商事の馬場社長は原の営業マンとしての
素質を買っており旧知の業界紙記者、門さんこと門馬忠雄氏を仲介に立て全日商事へ引っ張った。
いよいよ原にとっての新章が始まるのだった。 全日商事にに移籍してからの原は相変わらずの中堅ポジションで営業を担当、外人接待
での受けっぷりの良さは目を引いたが後から合流した木村課長を筆頭にした営業8課(別名
国際部屋)のいち構成員に甘んじていた(余談だがなぜか原は社長夫人に深く食い込んでおり
かなり高度なインサイダー情報を8課にもたらす役割も果たしていたとのこと)。
変身のきっかけは天龍課長との接近だった。24時間ハードに働き続ける天龍を目の当たりにして
「ラグビーで鍛えた体を持つ自分なら共に働ける」、熱き心が共鳴し二人は突っ走り始めた。
一切の妥協なく全力で飛び込み営業を続け業績をあげる「天龍革命」はすぐに営業エースの鶴田次長
にも飛び火し全社的なムーブメントとなり商事会社業界全体にまでその熱を波及させ
業界までも活性化してしまうほどとなった。天龍は業界の顔の地位をこの時点で築いたが原の
内助の功が大きかったのは周知の事実と言えよう 仕事は真面目全力一辺倒な反面、原の私生活は謎が多い。原を可愛がっていた井上係長も
「あいつは何も自分のこととかプライベートについては一切話さんから」と証言している。
ただ金銭面ではだいぶルーズなところがあったのはたしかなようだ。原の地元長崎で大契約
を取り付けてきたはいいがいざ納品しようとしたら納品先が架空の会社だった、というカラ受注
事件を起こした過去がある(この時は馬場社長が原の業績に免じ不問扱いにする温情を見せた、
まあ損金は恐らく給与から天引きしてるであろう)。
金に関するルーズさはこれ以降も続き黒い所にも借金を作っていたことが筋者が本社に
取り立てに来社したことでばれてしまい当然即解雇処分となった。
高位安定期に入りつつあった全日商事の業績には大して影響は出なかったが原解雇はその
イメージを著しく傷つけ天龍課長独立への種火としてくすぶり続ける結果となってしまった。
原は失踪するが後にSWSエンタプライズで復帰し天龍に介錯され営業マン人生にピリオドを打った。
原の借金は連夜の豪遊や後輩にいい格好するための散財が大きかったらしいが仕事ぶり以上に
私生活は不器用かつ強がりだったのかもしれない。 おつです
晩年は諫早市あたりの学校でラグビー教えてらっしゃったんでしたかな… 天龍独立の種火になっていたとは。。。!
阿修羅。
時間あいたらでいいので、
ミリオンダラーマンも、リクエストします! たしかに、社会人やってると
私生活と仕事ぶりはリンクしますねww 原解雇の後の馬場インタビューで「借金取りが会社や出先(キャピトル東急)までくる、
しかもそれが普通の人物じゃないんだから(解雇は)しょうがない」と言ってたが
どんな悪い筋から金借りてたんだろうと思う てか、筆者のかた、
少し業界にいましたよねww
なんぼなんでも、くわしすぎるw 過分におほめ頂いて恐縮至極ですがヨカタでございます
Gスピリッツとか回顧系インタビュー誌を好んで読んでるので出典はほぼそこですよ
中でも佐藤昭雄と鶴見五郎の語りは素晴らしいまでに発言や記憶のブレなどがなく
信用に足りるものだと思います なるほどww
あ、意外とジャンボ、テンルー、三沢さんは
未完ですよね
リクエストします もはや、果たして商社マンだったのかすら、
危うい超問題児w
剛竜馬、リクエストできます? お前らは今の後藤やヨシハシの立場だったらどうする? >>427
とりあえずじっと辛抱、自分からは動かず時がたち周りの変化を待つ 殿、またさらに、ポジションわるくなたん??
正直、ゴタツ以下の会社員だわ 全日商事外伝 サムソン轡田
リキ商店時代から業界にいた古参営業マンである。馬場社長が全日商事を立ち上げる際に
創立メンバーとして参画する。生来のお調子者で社内でうまく立ち回り番頭の下くらいの
ポジションを確保する。反面トンパチ気質でもあり高千穂先輩と豪州出張した際には機内で
模造刀を抜き身にして暴れ逮捕拘束寸前までいったこともある。
調子の良さと安請け合いで使い勝手が良かったため社長も営業と経理まで任せていた時期
もあったがずさんな仕事ぶりで売掛金に大きな穴をあける。前後して大型新入社員の鶴田を
取り込み独立を企てていたことが発覚し解雇処分を受け追放された。ずさんなのか
開き直ってたのか独立計画はばれたわけでなく当人が至る所で触れ回っていたというから
間抜けなのは明らかだろう。追放後は元々縁のあった裏社会に取り込まれフロント企業等で
暗躍していたらしい。高千穂社員曰く「ほら吹きだから同系統の小鹿さんや戸口とすごく
手が合っていた」とのこと。日テレ銀行から出向してた倉持行員は「全身からそういう
どす黒いオーラを放っていた、そういう営業マンはテレビとか表に出せませんよね、
営業マンは米良ちゃん(高千穂)のように快活でないと」と語っていた。
高千穂が明朗快活?とは思うが言わんとしてるニュアンスは伝わった。
最後は小指が欠損してたのは有名な話だろう 全日商事外伝 ミスター林
轡田のようなプロパー社員ではない。リキ商店の営業マンで海外駐在員として活動中
にリキ商店が倒産し帰国後全日商事に合流した。馬場社長としては不要な人材だった
ろうが業界の先輩ということで門前払いはできなかったのかもしれない。
営業マンとしての技量も高くなく勤務態度もあまり真面目ではなかった印象が強い。
そのためか馬場社長直々に人手不足気味の監査部移籍を進められそれに応じた。
監査部では樋口部長に次ぐno2の地位を得たが仕事ぶりは及第点に達していたとは
いいがたく数年後に人材余剰を理由にリストラされる。
以降業界の中小で監査を務めたがフェイドアウトした。
林と言えば有名なのは貰いタバコと全日商事時代最後まで若手寮に居座り共有の
冷蔵庫を私物化していたことくらいしか思いつかない。ただ若手の回想を読む限りでは
迷惑ではあったがいじめ行為をしたりなどの陰湿有害な人物ではなくマイペースの
度合いがやや過ぎた人だった、くらいなようである 全日商事外伝 ミツ平井
リキ商店の生え抜き弟子筋の筆頭格のような存在で「中堅幹部」の異名を取っていた。
若手営業マン育成と現場に出ていいかどうかを見極める大役を任されており今でいう
人事教育担当課長であった。リキ商店倒産後全日商事に吸収された残党の一人。
リキ商店元役職者級の全日商事での扱いは当然悪く多くが離脱したが平井は一切の文句
を言わず一兵卒として若手に混じり黙々と働き続けた。当然人事的な仕事は一切与えら
れることなく平の営業マンとして商社マン生命を終えた(リストラよりは一段階ソフトな
馬場社長の肩たたきに応じた模様)。
後年息子が全日商事に入社するも業界を揺るがしたパワハラ暴力事件の被害者になる
という不幸の連鎖が続いた ミスター林ww
社員寮を私物化するベテランてどこにもいますよねww
エース級だけど
橋本真也もそうだったとか フレアーとかレイスとか、
NWA系も、できますかね?? 越中だな、外様で仕事はまあまあ出来て、良く上に噛みつく 俺は冬木かな。
大仁田みたいなカリスマ的なリーダーがいる職場なんだが、そいつが本社との
折り合いが悪く、俺が代わりにリーダー職になったんだが・・・・・
そいつの影響力はいまだに強く、ハヤブサみたいな天才肌の若手もいて
なかなかうまくいかない エッチューは、
噛みついてるように見えて
実は前座のマッチメイクしてたようなw 全日商事、剛竜馬もリクエストしてよろしいですか?? 剛竜馬はリキ商店の入社試験を受けて仮入社もしていたというからかなり業界人としての
キャリアを誇る営業マンだ。本入社はかなわず国際商事に入社、一応リキ時代の下地があった
ため𠮷原社長はかなりの過大評価で剛を扱ったらしい。元々素質に乏しく商売の筋も良くはなかった
ことと中卒という若さのために跡から入社した年上後輩にガンガン抜かれその上可愛がりも受け当初
より悪くなっていく待遇に耐えきれず剛は国際商事を退社してしまう。渡米し個人セールスマンのヒロ
マツダに身を預けることでワンクッション置き新日商事に合流する。ここで国際と新日の間で悶着が
発生するが国際商事の契約書式がずさんであったことと給料未払いがあったこと、2社間の力関係等により
晴れて正社員になる
ワンクッション 社を移籍して最初のうちは藤波営業係長という素晴らしいカウンターパートに恵まれ
かなりの活躍を見せたが倒産した国際商事から木村寺西浜口といったかなり仕事のできる
先輩たちが移籍してきたことと同格だったはずの長州主任のまさかの大覚醒などで剛はずるずる
ポジションを下げ仕事も目に見えて与えられなくなっていく。最終的には島流し的にUWF商事
に転籍という憂き目にあう。さらにそこでも若手平社員の前田日明が覚醒、弟分の高田も続いた上に
扱い品目をセメントに絞るという社の方針が確立されたため居場所を失う。
結局Uを退社し全日商事に移籍、元国際商事が揃う営業8課に所属するが木村井上鶴見と手練れの
強者がひしめく中で存在感は発揮できなかった。その上長州一派が全日商事に課ごと移籍、
カルガリーセールスマンズなる仕事のできる営業ユニットも移籍してきたため余剰人材として真っ先に
高杉、菅原とともに指名解雇されてしまう。 解雇3人組は一念発起、パイオニア商事を立ち上げる。ニッチを狙った小口商取引は小回り
もきき当初は珍しさも手伝いそれなりに繁盛したがすぐに同じコンセプトの同業他社が乱立し
立場を失い者は解散してる。その後降りプロ商事をはじめ数度起業をしたもののいずれも失敗、
短命に終わっている。
付き合いの長い高杉は「剛は都合の悪い事は一切こっちに言わない、もちろん美味しい話も
全部ひとり占めする、そのうえええかっこっしいでナマクラなとこがあってちょっと上手くいって
百万単位のまとまった金が入ると露骨に仕事の手を抜き始める、腐れ縁だったけどちょっとねえ」
と故人に対してかなり厳しい評価を下した。先輩の木村も「省三(小林)と八木(剛)は許さない」
と死ぬまで口癖のように言っていたらしい。ここまでぼろくそ言われる営業マンも珍しい。
最後に印象的だった盟友高杉の言葉「剛はね尊大なんですよ、大仁田なんか売れたって腰が低くて
誰にもあたりが良かったけど剛はキャバとかで隣にちょっとブスな娘がついただけで露骨にいやな顔
して一言も口きかなくなるんだよ、あと新日商事と提携した時もいくらもらったとか
こっちに絶対言わないでちょろまかすんですよ、あいつが自分の立ち上げた会社追放されたのは(ゲイ説は嘘)
ちょろまかしがばれたからです。それとすぐばれる嘘ついて尻尾出すから鶴見さんは剛の事
タヌキって呼んでたよ。」自業自得の過ぎた人生だったかもしれない キャバのブス嬢ww
けっこーそういうとこも査定されていますよねw 馳浩は正直いって気に食わないタイプの営業マンである。
最初は専修大学ルートであろうかジャパン商店へ入社する。ほぼ同期に高卒で佐々木健介
がいたが朴訥な田舎の坊やをしり目に当時提携してた馬場社長に露骨にすり寄っていたと
いう証言が残されている。エリートらしくいきなり海外勤務をカナダで経験している。
商社マンとしての基礎はその時世話になった安達アシスト(有)の安達社長の影響下にあると
されている。ジャパン商店が全日商事との提携を解消し新日商事に合流した後帰国、
営業1課に配属されいきなり大仕事を任される華々しいスタートを飾っている。
新人にしては仕事をそつなく転がしこなしているのだがこの時点で「分不相応」に
見える、という意見は少数派ではなかったと記憶している。長州の加護下で高い下駄を
履かせてもらっていたのは間違いなかったと思われる。 その後は中堅として研鑽を重ね当時の新日商事の看板だった営業三銃士と対等に
渡り合う場面も増えてきて実力と評価のギャップを埋めることにも成功した。
だがここで馳の元五輪選手にして高校教師という大衆受けしそうな経歴に地元の
自民党森幹事長(当時)が目を付け引き抜き参院選へ出馬、当選の運びとなり新日商事
を退社する。だが早々に翌年馬場社長とパートタイムでの社員契約を結び全日商事の営業となる。
馬場社長逝去後に衆議院へ鞍替えし今は自民党主流派の古参議員として活動してる。
全日商事分裂の際は未亡人派に近い立ち位置を取ったとみられており後に新日商事の武藤元営業部長
が全日商事の株式を買い上げた際には仲介の労を取ったらしい。以降様々な場面に〜武藤絡みが多いか〜
にフィクサーとして顔を見せるが馳が出てくる時点で何となく景気も縁起も良くない、
と感じてしまうのは決して偏見でないと思いたい。
元教師らしく後進の指導にも一家言あるそうだが「SKよりこっちの方が遥かにひどい」
という証言も少なくない。またちょうどおひざ元の石川県アマレス連盟でトラブルが発生
しているが馳に飛び火することは必至、どう火消しするかその手腕に注目したい。 健介は範疇に入ってないというか入れたくないというかです アニマル自身が全日商事時代に重きを置いていないというかその時代への言及が
少ない感じです、やはり長州浜口コンビの新日商事飛び出す前までと90年の復活以降
に思い入れがあるんでしょうね、全日時代は長州を谷津に奪われたり思い出したくない
のかもしれませんね。まあ全日抜きで成功者なので省略させてください パトリオット、ちょいと怖いもの見たさでもありますがフルサイズでお願いできます?? パトリオットといえば塩分高めの印象がずっとつきまとう。最初の日本駐在では
別名義だったがとんだ一杯食わせ者以下の数合わせ要員で営業成績はほぼゼロに
近く何の印象も残ってない。余談だが同じタイミングで後のカリスマ商社マンとなった
レイヴェンも同じく別名義で駐在してたが二人とも塩営業だった。
92年に愛国営業マンとして再度日本駐在をした際は「マスカラスの再来」の声もあったが
それは期待しすぎ、ただ中堅どころとして一定の数字を上げるようになり弟?設定の
イーグルとのコンビ営業でポジションをキープ(更に三男?ラクロスも出現した)。
その後脳筋営業マンの小橋とのコンビは中々に機能するところを見せ駐在員の中でも
Aクラス入りを果たす。途中WCW商事に移籍するなどしたが再度全日商事駐在員として
活動再開、小橋とのコンビに塩分では負けぬエース駐在員が加わり営業5課が新たに
創設されるなど経営陣の期待も厚かったが直後WWFエンタプライズに移籍してしまい
全日商事との縁は切れた。ぎくしゃくしてこなれない、いかにも大味なアメリカン営業
スタイルではあったが個人的にはエースより素質は上、スパイビーあたりとどっこいだった
とみている。後年中古車ディーラーに転じたと聞いたが商社マン時代末期は薬物中毒がかなり
ひどくカルテ偽造などで逮捕歴もあったはずだ。 おお
パトリありがとうございます
ゴディもフルサイズ、リクエストします!
初期のフリーバースのアメリカンなキャラとか好きですねw 武藤敬司はもともと新日商事で営業三銃士の異名をとった腕利きの営業部次長で
最盛期には武藤がらみの取引が社の総売り上げの3割を超えた決算もあったそうだ。
創業社長を亡くし迷走中の全日商事だったがもう一方の雄も会長の老害的暴走、橋本
営業課長の解雇、長州人事担当役員一派の離脱など負けずに迷走中だった。
武藤次長は提携中で全日商事で多くの時間を過ごし仕事をこなす中で居心地のよさを
見出しつつあった上に当時社長だった馬場未亡人よりかなり好条件の株式譲渡を鼻先に
ぶら下げられたことで一派を率いて移籍を決断する。 移籍してすぐはかなりいい状況であったと思う。天竜相談役、渕人事部長、川田営業部長
とサポート体制も整っておりはた目にはとりあえず安泰かと思われていた。
ただ問題は山積、元子社長時代から引き継がれた旬の過ぎた海外駐在員への超高額の支払い、
オフィスの駐車場込みで月額300万円に届く家賃、高すぎるプロパー社員の給料などなど。
契約満了で天龍相談役は退き川田部長は給与未払いで徐々にフェイドアウト、渕部長は
嘱託契約になるなど武藤体制一本化は進む。株式譲渡の隙をついて怪しい人物が複数入ってくる
局面もあったが丸2年強で完全な武藤社長体制が完成した。一直線な小島課長を筆頭に
海外経験と実績のあるTAKA営業係長が優秀な駐在員をまとめ生え抜きの諏訪間営業担当も成長、
業務提携先の営業部隊である鈴木商店、健介商会、ヴードゥー人材センターが見事に融合機能し
たことにより武藤全日商事は名の通り総合商社として広いニーズに対応可能な全盛期を
迎えることとなった。 旬はあっという間に過ぎた感がある。武藤社長が陣頭指揮を執ることに多くを依存
していた現場は社長が体調不良で休みがちになると現場は早くも足腰の弱さを露呈し
数字が急降下、鈴木商店、健介商会との契約も終了し人材が流出する事態が続く。
ここでかなり地力を見せたのがヴードゥー人材センターで彼らの尽力もあり何とか
持ちこたえる。しかし武藤社長の長期離脱と武藤が連れてきた新社長が連続して
業界ゴロ体質満点だったことにより業績、同業他社との関係が激烈悪化しダメ押しに
ヴードゥー内部でのパワハラ事件が発生し命脈が尽きた。
ノア物産からの秋山営業次長一派受け入れ、かつて天才といわれたフリー営業マン
船木を受け入れたものの焼け石に水の状態、業績は悪化の一方でついに武藤一派は
新スポンサーを見つけw−1商事を立ち上げシュリンクを繰り返し今に至っている。
営業マンとしての武藤は歴史に残る才能の持ち主だったのは疑う余地がないが
社長業はあまりに荷が重く従来から垣間見せる丸投げ体質と人を見る目のなさはのちに
社長となった秋山に比べると数段下の適正と思われる。
が、武藤社長がいなければ15年以上前に全日商事が潰れていたのも確かである 武藤社長ありがとうございます!
また、次回でええですけど
TARUとブードゥお願いできます??
TARUの密かな元子信者ぶりは面白いというか 社員では最高でも、
社長、役員になるとアレなひとはリーマンでもいますよねw 三沢は高卒ながらそれなりの期待値をもって全日商事に入社している
1年遅れで入社した川田が「最初っから三沢さんとは給料の額でも差があった」と証言してる。
営業に配属された三沢は期待にたがわぬ働きを見せたのはさすがだった。当時の営業部は上が
つかえており万年主任ポジションの先輩も多く新人の仕事の仕方にもかなりの制限があった。
そんな旧態依然のくうきを一新したのが佐藤人事係長だった。聞く耳をあまり持たぬ馬場社長に
新入社員育成の重要性を説き認識させた。「できるんであればどのような方法で取引してもよし、
但しやる以上取引先に喜んでもらえ」という佐藤係長の指導で若手営業マンは一気に活気づき
業界紙などからも注目を集める。特にその中心の三沢、越中の活躍は目立ち今まであまり彼らを
気に留めていなかった馬場社長も二人の海外転勤にゴーサインを出した。(馬場社長の本音は自分の
付け人も兼任してた越中のことは生意気ではあるが手元において育てたかったようだ。
海外に出すのはあくまで将来性の段違いに高い三沢だけのつもりだったようだが海外経験の長い佐藤係長が
「一人だと仕事も取りにくい、二人なら困ったときも助け合える」と説き伏せペアで送り出した)
二人の行先は何故か定番の北米でなくメキシコであった。ここで半年ほど慣れぬ環境の中で
業務をこなしていたが三沢にだけ帰国命令が届く。もちろん帰国した三沢だが全日商事は半年でかなり
様変わりを遂げており自分を育ててくれた佐藤係長もすでにいなかった。 帰国後三沢はかつて新日商事で一世を風靡し伝説の営業マンとなったのち業界から突如
リタイアした虎田主任の替え玉として虎田を名乗り営業活動を開始、元祖が得意とした
立体的な物流からの納品なども模写して見せたが評価は「割と器用な男だな」程度どまりだった。
何とか現状を打破したい虎田(三沢)は営業課を縦断した社内派閥の営業決起軍を立ち上げ
先輩営業マンの鶴田天龍に挑むが自身が体調を崩し休職、残された面子はろくに数字をあげること
もできず派閥は社長により強制解散させられる。 しばらくして全日商事に激震発生、天龍営業次長がスポンサーを捕まえ独立する事態に。
営業部員の約3割が天龍の後を追うことになり全日商事は未曽有の危機に瀕した。
ここで三沢は虎田の冠を捨て一本立ちを宣言、失敗濃厚と言われていた直後の武道館商談会
を大成功に導いた。ここから社は一気に加速がつき鶴田営業1課と三沢営業2課の業績争いが
ヒートアップし全日商事は黄金期を迎える。日テレ銀行の借金も一気に片付け社員寮兼物流工場
の新設まで成し遂げた。鶴田部長が体調不良で休職しても川田課長が独立し2課を発足し
業績は高値安定を続けいわゆる四天営業四天王時代を迎えることになる。 四天王時代は一言で言うと度を越えた滅私奉公の時代でそれは天龍営業革命よりさらに
上を行く業務のハードさでさらにその状態が続いた期間も全然長く営業社員の健康を
静かに、だが着々と蝕んでいった。また四天王というと4人の持ち回り制を想像するが
全日商事のそれは全然違い常に軸は三沢営業部長でそこに残りの3人(プラス海外駐在員)が
順繰りに入れ替わり立ち代わり絡んでくるという不規則な形態だったため三沢は実質休息期間が
7〜8年与えられず働きづめだったと考えられる。体は悲鳴を上げていたはずだがおくびにも出さず
三沢は働き続けた。しばらくして四天王時代も安定から緩やかな下降線をたどるようになってきた。
寄る年波には勝てず馬場社長の手綱さばきもゆるみが出てきたころに元子夫人の現場介入が強まり始めた。 不満を漏らす社員の声をまとめたのが三沢部長だった。馬場社長にしてみれば後継者は
三沢部長を置いて他にはおらず何を焦っているのか、というところだったろう
だが三沢はその強硬姿勢を改めようとはせず社長に全権委譲を迫った。
馬場社長はそれに応じたが早晩三沢が社長業に根を上げその地位を返上してくるだろうという
深謀遠慮があったようだ。しかしその前に馬場社長は病に倒れかえらぬ人となる。
三沢は社長に就任するもそれはあくまで名目上で社の全権は筆頭株主でもある未亡人に握られた。
結局しびれを切らした三沢は独立の道を選択することになった。
今振り返るとあと数年辛抱できなかったものかという思いがある。独立後の三沢の社長としての
働きを見ると仕事ぶりは誠実なのは間違いないが上に立ち皆を引っ張っていく方向性やこれが
なんとしてもやりたい、という譲れぬ強い信念みたいなものはなかったように感じる。
ひたすら目の前の仕事を悔いを残さぬように全力で突き進んだ人生は業務中の事故で突然の終焉を
迎えた。全日商事系列のみでなく業界全体に与えた衝撃の大きさこそが三沢の存在感のなせる技だったと思う。
ではまた来年 四天王時代からまともな休みもなかったのですね
それでは練習に身が入らずあの体形になってしまっても仕方がない
全日商事シリーズ、お疲れさまです
また来年もこのスレでご活躍を… 雨は夜更け過ぎに雪へと変わるだろう
サイレンナイ
ホーリーナイ こうして見ると意外とリーマンにイチバン近い
スポーツ選手て、プロレスラーなのかも
しれませんよねw >>481
一年の締めとしてすごくナイスなコメント ご存じの通り最初冬木は国際商事に入社している。同期の菅原はいきなり営業部に
配属されたがひとめ見るに使えなささ満点なルックスの冬木は庶務に配属される。
庶務と言えば聞こえはいいが実態は用務員業務全般を担当する部署で上司はワカマツ主任
一人だけであった。ここでめげずに冬木は頑張った。大木韓国担当次長に目をかけられ
欠員が出た営業の穴埋めに抜擢されフレッシュさを発散し一定の仕事をこなす。
その矢先に国際商事倒産の報が届く。
身の振り方もわからず途方に暮れてる冬木に声をかけたのは井上課長だった、国際の
「新日商事へ使える人材を譲る」という方針に背を向けた井上課長は単身で馬場社長に
談判し自身に加えて米村主任、菅原、冬木も併せて雇用してもらえるように交渉し
それが受け入れられ冬木は全日商事に籍を移すこととなった 全日商事では営業部の補佐として活動、人事の佐藤課長曰く「変な癖はついてたけど
スジは悪くない」とまずまずの評価だった。外様の立場ながら海外駐在員にも抜擢される。
ただアメリカで仕事に恵まれずメキシコに流れ大した業績を上げれずに帰国したが
ここで営業の基本を学び直し本場のスタイルを身に着けたことが後年大きな貯金となっている。
時おりしも天龍課長の営業革命の風が吹き荒れる中川田と同時期に傘下入りを志願し
24時間365日働き放しの状態に身を投じる。イケイケの天龍課長原主任との間でうまく
バランスを取り単調になりがちな攻めの営業にリズムと緩急をもたらした功績は大きい。
だが原主任が借金からの失踪→解雇となった際天龍課長が右腕に抜擢したのは冬木でなく
川田だったことで自身の立場と天龍課長との関係が徐々に微妙なものに変質していくことになる。 天龍課長との関係があやふやなまま天龍の独立新会社設立に追随した冬木はSWSトレーディングでも
中堅営業から脱せぬまま過ごしたが新会社崩壊で有限会社WAR商店に移籍すると突如押し売りまがいの
理不尽商法を確立し業界の注目の的となる。規模の小さいWAR商店が業界の雄、新日商事と業務提携した
際には馳、ヒロといった理論は営業マンから「冬木が一番うまい、上手すぎる」という絶賛も受けた。
名が売れたのち冬木は独立し冬木商店を設立、同業の中小に自身を含めた人材派遣を行い業界を活性化させた。
先を読んで動く冬木はこの時点で業界中小を束ね合弁会社を設立し大手に対抗していくという
大構想を温めていたが病気が発覚しかなわぬ夢となってしまった。
国際商事入社直後の冬木は痩せていて声も小さく「はい…」しか言わなかったそうだ。
ある晩麻雀の面子が足りず仕方なく冬木を入れたら打ちながら大声でノンストップで
しゃべり倒したらしい、この時の光景を見ていた先輩たちは後年の冬木の理不尽大ブレイクを見て
「あいつはずっと猫かぶってたんだよなあ」と昔話に花を咲かせたらしい。 冬木大王、ありがとうございます!
麻雀、パチンコ、飲み会で豹変する若手いますよねw 現在の全日商事 最盛期の十分の一以下の売り上げ規模
秋山代表取締役社長 倒産寸前、なり手なしの時期に社長を引き受けた責任感はすごい
ノア物産時代は理論派ゆえ疎んじられていた感もあったが
人望、指導力、カリスマ性を備えていた高スペックな商社マンだったことも証明された。
反面冒険せず手堅い仕事に終始してるところに物足りなさを感じてしまうのは贅沢か。
渕取締役兼顧問 この人がいてこその全日商事、古くからの顧客を持ちまだまだ
楽隠居は望めなさそう。
大森常務取締役 ややきついとこのある社長の毒気を薄める作用を持つ。
実務はややおぼつかなくなってきたがネームバリューは高い。
和田監査役 創業家と全日商事をつなぎとめてるかすがいといって良い。
お飾りポジションだが総会前の監査に欠かせぬキーマン。 宮原営業統括課長 若くして今のポジションに抜擢されたときは大いに不安を
感じさせられたがなんのその、見事社長の期待に応えて見せた。
営業スタイルはひたすら受けオンリー、とかつての全日営業マンとはまた一味違う毛色。
特筆すべきは休み要らずの無尽蔵のスタミナ。前職がバリバリブラックとして有名だった
佐々木北斗商店だったことと大いに関係あるだろう。それゆえメンタルも強靭でまさに営業の鑑の趣。
諏訪魔営業1課長 宮原統括課長の覚醒後はどうもポンコツぶりが目立ってしまう。
ここぞというところで腰抜けだったりどうでもいいとこで張り切りすぎて
業務に支障が出るケガをしたりさせたり、と暴走迷走気味が続く。
かつては社を支える男と目されたこともあるだけにこのまま二流営業マンで終わってほしくない。 少しずつ柱が立っていますよね
野村とゼウスはどうでしょう?? あ、純粋な全日商事ではないかもですが、
高山、リクエストできます? 全日商事といえば今は秋山(元)社長が率いて悪戦苦闘している全日商事(有)が
あるが創業社長の未亡人親族がひっそりと?全日法要商事を立ち上げているから
紛らわしい。旧来の総合商社的性格〜海外取引は大幅減少したが〜を引き継いでいる
秋山全日商事に対し遺族派の全日法要は社名の通り仏事法要イベントにまつわる物品
販売およびイベントの開催に特化しており旧敵の新日商事の全面協力で馬場社長20回忌
法要を大々的に成功させた実績がある。ただ昨年晩秋に開催された、日本に医療用白マスク
を普及させた功績のある海外駐在員カートベイヤー氏の法要イベントに関しては
明らかにされてはいないがかなり大きいレッドインクを食らった、という業界筋の情報が
錯綜しており予断を許さぬ状況といえる。
またここにきて藤波長州天龍猪木馬場(親族)ら業界の大立者近辺で記念財団商事の設立が
発表されるなど混沌が加速している。秋山全日商事においては各方面とうまく距離を取り
両行な関係維持に努めることが予想されるがうまく立ち回ってほしいものだ。 あの人ら、馬場さんご本人とは血のつながりはないんですよね…なんとも リックフレアーといえば業界で知らぬ者がいない伝説のセールスマンだ。
何か画期的な新製品を開発し大ヒットさせた、とかではなくフレアーの扱う商材はあくまで
普通の商品でしかない、代表的なものと言えば足4の字マッサージ器だろうか。これも
60年代にはバカ売れしたがはっきり言って80年代では時代遅れ流行遅れの郷愁哀愁が漂う商品だった。
それ以外の扱い商品は今でいう100均で売ってるような小間物ばかりでしかない。
これらをコツコツ地道に足で行商してまわったのがフレアー商店のスタートだった。
ただそういう今でいうところのオールドスタイルの同業が当時大勢いたのは想像に難くない。
なぜフレアーはその中で生き抜き当時の全米セールスマンの頂点と言えるNWA商事の看板
セールスマンにまで上り詰めたのか?秘訣はアメリカ人らしくもないフレアーの秘めたる気質、
「気働き」という浪花節のようなものだった。ふつうは品物を売って代金を回収して取引は終わるが
フレアーはそれに倣うことを良しとせずアフターケア的にご機嫌伺い、時にはかつて売った器具
を客先へ出向き磨くような行為さえ厭わなかった。「常に代金以上のものを提供する、そうすれば
買い替えの時また自分から買ってもらえる」ということをきっちり実践してみせた。
評判は日本にも届き全日商事との取引も手掛けて商品販売においては土下座懇願までやって見せ
「NWAのトップセールスマンはここまでやるか」と全日商事の営業マンを驚かせた。
NWA商事倒産後もwcw商事、WWFエンタプライズと渡り歩いたが常に第一線をキープ、
またどこの商社でも持ち味の「気働き」ぶりは全開で後進の「お手本」として活躍を続けた。
全日商事と仕事をしてた頃(おそらく彼の全盛時)は残念ながら馬場社長は営業の一線から手を
引いており真の意味での「カウンターパート」不在だったのが悔やまれる。
ただあの頃の土下座した相手に30秒後には大量の商品を買わせている役者ぶりは
無形文化財にしたいくらいの見事な芸であった。 フレアー様ありがとうございます!
これからも期待!! グレート小鹿はリキ商店時代からの業界古参社員だ。いにしえの頃から仕事ができる、
というよりは立ち回りのうまさでのしてきたという印象が強い。リキ商店末期は若頭
と言ったら大袈裟だが若手を取りまとめる若衆代表、主任クラスの立ち位置だったはずだ。
猪木派の新日商事、馬場派の全日商事、それぞれ一派が離脱した際に最後までリキ商店に
残った社員の中では韓国籍で客分扱いだった大木を除くと一番の格上だった。
結局全日商事に吸収されると小鹿は実力を発揮、「リキ商店の奴らは俺がまとめてますから」
と馬場社長に熱烈アピールし吸収組の中で一段高いポジションを手にする。おそらくここらで
残党の中で立場が悪くなりアマリロのファンク商店に研修に出てる。(小鹿は「社長が残党の
結束を切り崩す為に俺を海外へ出して扇の要をなくした」と言ってるがあくまで自己都合だろう)
アメリカではテキサスを皮切りに空手用品などのオリエンタルグッズの売り込みに成功しそこそこ
の評価を得る。また在米中に食べたケンタッキー・フライド・チキンの味に感動し日本に商売を
持ち帰ろうとし、英語もろくにしゃべれないのにKFC本社に商談を持ち掛けるという利にさとい一面も
垣間見せている(タッチの差で数か月前に日本での販売権は別の商社に販売済みだったとの事)。
帰国後は中堅営業マンとして一定の活躍をするが立ち回りや交渉力を買われ総務方面の
(汚れ)仕事〜売掛金の回収、地方販売会開催の際の挨拶仁義etc〜へとシフトしていく。
社長の秘書的な仕事をすることもあったようだ。 小鹿にとっての転機は永源社員の移籍だったと思われる。同じ内容の仕事を
倍以上の要領の良さをもっていとも簡単にやってのける永源に社長はこころを奪われたのだろう
事は想像に難くない。営業兼総務、どちらも永源が居さえすれば効率の低い小鹿は不要、
その流れで小鹿は退社し結局は大日本商事というベンチャーを立ち上げ紆余曲折あったが
今に至っている。現在も会長職にありながら若手商社マンに混じり昭和の営業テクニックをチラ見せ
しつつ活動中だ。
小鹿は馬場社長の懐刀を自認していたが馬場社長は移籍組である小鹿をそこまで信用しては
いなかったのではないか?特に元子未亡人からの信頼は薄かったように感じるが
今となっては小鹿の発言のみが事実、長生きも悪くないと小鹿は思ってるはずだ。 宝塚が再度休演発表しディズニーも休園延長、ちょっと今度の後楽園まずい気配だな 小鹿、ありがとうございます!
またぼちぼち更新なさってください あ、あと濃い全日ファン大好き
ミリオンダラーマンも! 世界の中心、ビッグアップルニューヨークに拠点を置くWWF商事が各州に古くから
根付く地元ローカルのライバル商社をことごとく駆逐し傘下に吸収し全米統一を
なしえた主要因の一つといえるのが営業マンアンドレの存在とその仕事ぶりだったことに
疑いの余地はないだろう。だが記録破りの大仕事大契約を立て続けに行いその報酬は十二分
に受け取り金銭的困窮と無縁なはずのアンドレが提携先の新日商事になぜあれほどの回数
来日駐在を繰り返したのか?という疑問がずっとあった。(国際商事時代の来日に関しては
割愛させて頂きます。)
NYの出来高日給に比べれば新日商事は一流といえど払える給与はアンドレにしてみればたかが
知れてるレベルだろう、何よりハードスケジュールの隙間を縫って来日した理由、それは
想像にすぎぬがハードワークの米国での生活をリフレッシュ、リセットするためだったのでは
ないだろうか。親しい知人友人に会うためもあったと思うが日本での駐在はアンドレにとって
リゾートでの休養だったのだと想像する。特別待遇でちょこっと仕事してあとは美食三昧、移動の
心配も何もない。そして新日商事はある時点まで極東のリゾート地として機能していたのだと思う。
だがある時から今まで使用人のごとく自分に頭を下げてきた人間の対応が変わってきた、若手社員
の急進派の中にはアンドレを転ばせて自分の有能さをアピールしようとする不届き者まで
出てきたうえに新日商事はそういう輩の存在を容認している。もうアンドレが新日商事に出向く理由は
なくなってしまった。 90年大に入って元全日商事の営業マン佐藤昭雄の仲介により全日商事とWWF商事
の提携→大商談会が東京で実現し大きな業界の話題となった。成功に終わったイベント
の中でも大収穫といえたのは馬場社長とアンドレの意気投合だろう。
以降アンドレは全日駐在員として定期的に来日を重ねるようになった。アンドレ駐在員を
ボスと慕う旧知のハンセン駐在員がいたことも大きかったのだろう。全盛期のようにバリバリ
仕事をこなすことは不可能だったがアンドレが駐在員として所属してるだけで全日商事には
追い風が吹き業績も長い堅調上昇が以後続くことにもなった。
自分の衰えをアンドレも理解しており新日商事時代のようにエゴをむき出しにして見せたり
虚勢を張り威張り散らすこともなくなった。
「仕事ができないんだからサラリーは下げてくれて構わない。ただ出来たらその分
回数を読んで欲しい。」と馬場社長に自ら申し入れたというエピソードがある。
だがいい時間は短かった。アンドレは間もなくして故人となってしまった。
アンドレにとって安住の地、代替リゾート地として全日商事は十二分に機能したと思いたい。
全日商事と新日商事の差は外国人駐在員への尊敬の念の有無だったと断言していい。 ブロディは生まれついてのフリー気質の商社営業マンだった。
さきのアンドレとは違い安住の地を探そうなどという気はさらさらなかったように見える。
ただ物事に終わりが来ることを理解しておりそれ故に自分を1ドルでも高く買ってくれるところを
絶えず探し求め世界中を流浪したのではなかったろうか。
ブロディの仕事でまず優先されるのは自分がトップであるというエゴが満たされることだろうか。
全日商事に駐在員として初来日したときはやたらと自分の有能ぶりアピールを最優先させ
仕事自体はかなり乱雑でゴチャゴチャした結果になることが目についた。
だが本人もそれに気づいており目利きの佐藤昭雄の「出世したいんならガチャガチャした仕事
じゃだめだよ」というアドバイスを受け入れ2回目以降の駐在では荒っぽさの中にも知性を感じ
させる緻密な仕事運びをするようにスタイルを徐々に日本流にアジャストさせてきたのは驚き
をもって注目された。インテリジェントモンスターの異名はここら辺を評しての二つ名といえよう。
だが文句の付け所のないいい仕事が評価される反面エース駐在員とよばれるにはなぜか若干売り上げが伴わない
という弱点はあったようだ。 全日商事がジャパン商店と提携し営業の花形部署が日本人に独占されたあたりでブロディ
の流浪癖が運悪く目を覚ます。新日商事に移籍しそこでもトップ駐在員として八面六臂の
活躍を見せたが全日商事ほど外国人駐在員に裁量権は与えられてなかったようで仕事を
ボイコット→離脱というこれ以上ないバッドエンドを迎えた。旧知のエリック製鉄所の社長
の口添えで全日商事にuターンすることとなった。給与は大分下がったという話だったが
トラブルメーカーの面影はなくなり大きい仕事もきちっとこなす頼れる男に変身したかの
ような印象を与えた。1課鶴田、2課天龍、駐在1課ハンセン、駐在2課ブロディ、と
面子が揃いさあこれから、というタイミングで届いた「ブロディ駐在員プエルトリコで客死」
の一報。
事件当時と違い現在では被害者ブロディを擁護するような論調は残念ながらほとんどない。
自分を1ドルでも高く売る男はヤクザなプエルトリコ商社界でも一歩も引かずに
強気の交渉をし自分のプライドを最優先し気づかぬうちに相手の面子すら潰してしまった
のであろうことは想像に難くない。
全日商事の未来図があの時大きく変わったのは間違いない。 アンドレ&ブロディ有難うございます!
どちらも読みごたえ抜群です! デビアスの商社マンとしてのスタートはアマリロの老舗、ファンク商店だった。
全日商事から天龍が研修生見習いとして派遣されていた同時期に仕事をスタート
させている。デビアスは商社マン2世ということもあってか最初から地味ながら
新人離れした仕事ぶりで注目を集め「将来のトップ営業マン」候補であった。
デビアスの仕事について同業者が口をそろえて評するのはその「シルクのような
なめらかさ」だ。一切引っかかるところがなくスルッとやさしく進行していく
イメージだろうか。天龍も一緒に仕事した際に「キャリアは一緒なのに全面的に
リードしてくれて気づいたら終わってた。」という感想を残している。
NWA商事のトップ営業マンとしてまさにふさわしい素養のあったデビアスだが
残念な事に斜陽化傾向にあったNWAは時代に迎合し手堅い仕事をこなす職人より
見た目に華があり一見受けのよいリックフレアーやダスティローデスのような派手な
営業マンを重用するようになっていた。こうなるとデビアスの仕事場として日本が
選択肢に加わるのは当然の流れで全日商事に駐在員として参画することになる。 全日商事でのデビアスの仕事ぶりは本国と変わらぬ堅実ぶりで先輩格のハンセン駐在員の
相棒としていくつもの大仕事を的確にサポートするもピンでの大活躍には至らなかった
感じで万年no2といったところが大方の印象だったと思う。
80年代中盤にはWWF商事に転出しここで職人仕事を一旦しまい込みタキシード蝶ネクタイ
着用で商談に臨む金満営業マンキャラを前面に押し出し大ブレーク。全日商事時代には
おくびにも出さなかった口八丁の交渉術でトップ営業マンの一角として長らく活躍を続ける。
90年代に入り一時期全日商事に復帰しまたもハンセン駐在員の相棒として活躍を見せたが
それも短期間で終わりWCW商事へ移籍しnWoセールスグループに相談役格として加入し
活躍を見せたが体調悪化などもあり宣教師に転身し今も布教活動を続けているようだ。
個人的にデビアスに感じるトータルな印象は「のっぺらぼう」である。スムーズ過ぎて摩擦
が一切起きない、やはり短所だとしても多少は引っ掛かりがある営業マンのほうが
記憶には残りやすいのだろう。 ありがとうございます!
もうほぼほぼコンプリートですけど、
まだ続くと有難いです! 自営なんですが外出自粛が浸透してきたのかけっこう週末はヒマなので
馬場社長に行きたいと思ってます あ、あといちおー全日商事の高山、リクエストお願いできます? 「馬場社長はあれだけ長い期間アメリカで大活躍してたわけだからもっといろんな
ことを知り尽くしてると思ってたけどそうでもなかったんだよな」
全日商事馬場社長の懐刀として大いに権勢を振るった佐藤昭雄元人事課長はそう言った。
リキ商店の若手ホープ、エリート候補として提携先のアメリカ、東郷企画に出向した馬場は
いきなり入り口の西海岸で大口の商談を立て続けに成立させその評判は米国中の商社に広まる。
取引は小口なし、大ロット専門でしかも仕事場所はロス、シカゴ、デトロイト、フロリダ、
ニューヨーク、と大都市を回るだけでスケジュールが週7日埋まるようになった。
やり手の東郷社長、馬場を補佐するアトキンス秘書の加護もあったが営業マン全米トップ10に
馬場はおそらく入っていただろう。
馬場の業績はかようにすごいもので取引相手もサンマルチノ、デスト、Bロジャース、と
超一流のディーラーばかりだった。(その上彼らからも取引相手として高い信用を得た。)
だからこそ馬場は下から、小ロットから少しづつ積み上げていく仕事の組み立てを
知らないし、一流のディーラーしか相手にしなかったため地方に数多くいる山師のような
一癖も二癖もあるディーラーと交渉する苦労もしてないから本当のアメリカ商社の業務が
どういうものであるかあまりに知らな過ぎた、というのが佐藤の見たてでしかもそれは
正解だった。周囲に金の雨を降らせ行く先々でvip待遇を受けたアメリカ勤務は「リキ商店
創業者の死」の報を受けたことにより終わりとなった。マジックアワーが終わった瞬間でもあった。 一回目の米国研修が終了し帰国した時点で創業者のリキ社長の仕事力全般が落ちてる
のを馬場派見逃さなかった。馬場が米国で稼いできたドルを貸してほしいという申し出は
受けたが借用証を書かせることは譲らなかった。この時を境に社長と馬場の関係は
「おまえ」「先生」から「馬場君」「リキさん」に変わったそうだ。
社長の死により2度目の米国研修から戻された時点で場場は会社の稼ぎ頭となった。
役職は営業課長ながら日テレ銀行の後押しもあり会社の柱として売上の4~5割強を
稼ぎだしたと言われている。リキ商店は今まで以上に高業績を上げ向かうところ敵なしの
状態だったが好事魔多し、さらなる儲けをもくろんだいわゆるダラ幹がメインバンク
を二つにして二重に融資を受けおいしい思いをしようとNET銀行と取引を開始する、
これにより態度を硬化させた日テレ銀は一応矛を収めたもののリキ商店の未来に愛想を
つかし水面下で馬場課長独立計画に着手し始める。一方NET銀行も一足先に独立した
猪木元係長の設立した新日商事バックアップを決めリキ商店は結局両銀行から切られる
運命が決定的となった。 馬場社長の独立に当たりメンバーは元々の側近であった駒大熊轡田佐藤に日テレ銀行の
希望で百田光雄、海外取引先も駒の尽力でアマリロのファンク商会と提携が可能となり
ドリーシニア社長の後押しで世界商社連合(NWA)にも加盟し準備万端の会社設立となった。
もちろん日テレ銀が背後に控えているとはいっても国際商社に不可欠な海外取引の軽費税金は
嵩み馬場派夫人の実家からの経済支援も仰いでいる。大卒のホープ鶴田友美の入社にあたっても
かなりの実弾を使っており社員の待遇は独立時に約束された条件と食い違っており
この時点で生え抜きと社長の間に溝が生じたと言われている。とはいっても70年代は
社長であり営業部長も兼任してた馬場の営業業績で全社員を食わせていた時代だったといえる。 先発の新日商事の後塵を拝していた全日商事がついにヒット商品を開発したのが
70年代末、テキサス回転式洗濯機と肉用フォークにアラビア式火炎放射器、夏場には
メキシコ虫除け用マスクと大ヒットで飛ぶように売れはしたが全て外国製の輸入品ばかり
という状況であった。ヒットはしたが海外取引先への依存度と支払いは大きくなる一方で
経理状況は危険水域に達していた。ここで日テレ銀が強権を発動し馬場から経営権を簒奪
した上で以前からキレ者の片鱗を見せていた佐藤昭雄を人事権経理部長に抜擢し会社に
お金が残るような経営に方針を転換、銀行から出向した松根社長との二人三脚で改革を断行
決してリストラなどせず成功報酬なども導入し「馬場抜き」でも会社が回るよう日々刷新を
続ける。高千穂主任が帰国した際にオリエンタルグッズブームを巻き起こし国産品でも利益が出る
体制は着々と築かれ鶴田天龍が営業1,2課課長に昇進しジャパン人材派遣との提携など
80年代中期は業界の中心に全日商事がドカンと座っていた。 昭雄が実権を握っていた時代の馬場は筆頭株主でかつ会長職にあったが「置き去りにされた」
感情を持っていたと思う。だが家庭の事情で佐藤部長が帰米すると一気に巻き返し
ジャパン人材派遣と提携、2年後に解消になると一旦会社は創業時のように米商社との
大型取引に活路を見出そうとするが天龍課長が大胆な働き方改革により会社は正反対の国内需要を
掘り起こす方へ傾未「未来の社長」鶴田課長もそれに呼応、業績は一気に上がり日テレ銀の
借金も返済が進み馬場は社長へ返り咲く。この時点で社長は現場から一線を引き社員の自主性を
尊重するようになり業績への好循環を生んだ。90年代に入って早々天龍部長一派の大量退職という
難局も若手の三沢主任のまさかの活躍で乗り切りますます盤石な時代を迎えることになる。 三沢川田小橋田上と言った気鋭の若手営業マンが最前線で活躍する状態が続いた
90年代は社として安定期に入り馬場社長もその高収益ぶりに笑いの止まらない時代だった。
反面アメリカの商社を手本に様式美や型を尊んだ古き良き営業スタイルは消え去り
根性と執念、精神論で押しまくる営業スタイルが主流となり外国人駐在員はそれに遅れがち
になり残業休出の連続で主力たちの体調不良も目に見えて増えてきた。
日常生活にさえ支障をきたすほどのハードワークの蔓延、しかしそれこそが全日商事の躍進のキモ
であり惨状をわかっていながら路線変更の鶴の一声を発せなかった馬場社長の責任も大きいと思う。 結局業績が緩やかに下降線を描き始めたあたりで馬場社長は病に倒れその後を見ずに
逝ってしまった。
馬場社長の思い出話というとケチというキーワードが出てくるのが常だが当時国保が当たり前
だった商事会社界で密かに厚生年金加入をしていたなど評判に反し行く末を考えていた物証も
出て来ている。
馬場の社長でなく営業マンの実績は誰が何と言おうと今の商社マンでは決して手の届くこと
のないアンタッチャブルレコードの域に達していると断言できる。 馬場社長編、ありがとうございました!
読み応え抜群です >>566
昭和の全日本プロレスとか国際プロのスレを読むとけっこうその手の話題が
出てます、あとなぜかSWSスレでは頻出というかもう定番のお題になってます >>566
>>568
自粛期間なのでぜひ「実録国際プロレス」「1964年のジャイアント馬場」
「夜の虹を架ける」、この3冊、御一読をおすすめします
特に「実録〜」は基本国際プロの話なのですが全日と深く提携していたため
全日本絡みの話題も多く何回読んでも興味深く楽しめます、3冊で計2000頁超の
ボリューム、GWもこれらがあれば巣ごもりも退屈とは無縁と断言できます 全日商事大学卒入社一号だったのが鶴田。中卒よくて高卒の多い商社の世界だけに
業界内外から大いに注目を浴びた。元より同業他社も鶴田には注目しており争奪戦が
水面下で繰り広げられたが全日商事以上にバックの日テレ銀行までもが「将来的に
銀行業界にスライドすることもできる」という身分保障手形を切ったことにより入社が決定した。
当時馬場社長の右腕と言われていた駒人事課長がつきっきりで1か月礼儀作法の基礎だけ教え
すぐに取引先だったアマリロのファンク商店に研修に出される。
リキ商店から行動を共にした馬場社長の側近に中には鶴田の特別待遇に不満を感じてる者も
いたらしいが「会社の将来の発展のための先行投資、いずれ鶴田の仕事の余禄で俺たちは
食っていくんだから口出しは一切まかりならん」という人事課長の覚悟がそれらを圧倒した。 ファンク商店に赴任した鶴田だがそこでも商社マンとしての実力が飛びぬけて高く
苦労とは無縁の生活を送ったようだった。師匠ドリーの持てるテクニックを恐らく
吸収しつくし(消化はしきっていないが)帰国した鶴田に与えられたのは「社長特任
営業」のポジション、業界未経験なのに全ての先輩を飛び越えいきなり実質の専務待遇
となった。実際鶴田は与えられた仕事をそつなくかつ難なくこなし続けた。スタイルとしては
のらりくらりと自分のペースは崩さず多少は相手にも合わせて大成功はないがその分一切失敗
と認定されるようなものもなく正にアメリカン営業の王道を行くものだった。
馬場社長としてはこの有望株が外に興味を持つことを極度に警戒し特別待遇を与え続けた。
社員寮兼研修所を鶴田が買おうとした土地に建てさせ鶴田に賃料を支払う形をとったため
鶴田は自己資金ゼロ円で砧の200坪の土地を手に入れることができた。十数年後に自宅建設
する際その土地を2~3億円で売りぬいたという後日譚も付いた。
それ以外にも関連子会社の重役に鶴田を登用しがんじがらめのガードを敷いたのは有名だ。
そういう状態が10年以上続き内外に知られる一流の営業マンになった鶴田だが
「鶴田ならばこれ」という大きい仕事を成功に導いたことはほぼなく善戦営業マンと陰口を
叩かれ舐めた扱いを受けることもあったがそういうことを一切気にしない鶴田にとって
そういう声は残念ながら発奮材料にはなり得なかった。 ジャパン人材派遣との提携、超大物営業マン輪島の中途入社という震度7級の
事象があっても鶴田の立ち位置と仕事への向き合い方は変わらなかった。
第一線を引くと公言しつつ全く引くそぶりを見せない馬場社長の地位への執着ぶりも
鶴田の「現状維持で腹六分目」なスタイル固定化に拍車をかけた。
何かが変わったきっかけは意外なとこにあった。年上の後輩である天龍営業係長が
スタートさせた働き方改革だった。「仕事に一切妥協せず残業休出は朝飯前」という
そんなことやっても全く報われない、と思われていた仕事スタイルが中堅営業マンの間で
徐々に広まった。今までの鶴田だったら「どうぞご自由に。俺は俺でやるから」という
事になったろうが何故かこの時は足を突っ込んでみた。反響は社内のみならず業界全体に
伝播し新しい仕事スタイルの中心に天龍と共に鶴田も立つこととなった。
社の業績も上がり始めメインバンクに残って債務も徐々に減り始め創業以降で一番いい時代
を迎えることになったがその絶頂期に天龍課長はヘッドハントされ新興商社へ流れて行ってしまう。 天龍課長派の抜けた全日商事は一気にガタガタになる、大方の予測は悲観的だった。
「ここはさすがに鶴田課長(実質専務兼副社長)が一肌脱ぐのか?」という待望論も
当然あったが動くべき時には山の如く動かないのが鶴田たる所以。
三沢主任ら若手社員が鶴田に業を煮やして立ち上がり大きい仕事を手掛けはじめ一気に
窮地を脱することに成功する。面子が立たない鶴田(営業部長に昇格)はいままで坊や扱い
して来た三沢らの所まで階段を降り対等に競い合うことを選択せざるを得なくなっていた。
ここで光ったのは三沢らの若さ以上に今まで目に見えなかった鶴田の仕事に対する異様なまでの
力強さとあり得ぬまでの安定感だった。「やはり会社を救ったのはきっかけは三沢だが
最終的には鶴田だった。」という評価が定着したところで今まで伏せていた持病の肝炎が悪化し
営業の一線を退くことになってしまったのは残念過ぎた。以降嘱託監査担当として出社機会は大幅に
減ってしまった。そして馬場社長逝去後退社し大学教授としての活動を本格化しようとした矢先
肝炎がさらに悪化、移植手術の機会を求めて訪問したマニラで客死してしまう。
馬場社長は後年鶴田の若い時分に特別待遇を与えすぎたことをかなり後悔したらしい。
自分の後継者にはなり得ない愛弟子への落胆の思いがあったのは想像に難くない。
だがそれが要因で規格外のスケールの商社マンに鶴田が育ったことも事実だろう。 天龍は相撲財団でそれなりの地位までのし上がった実績があった。一般会社で言うと
部次長くらいのポジションだろうか。財団内の揉め事に巻き込まれ新天地を求め
全日商事へ再就職したのは業界でもかなりの話題になったのも財団に残ればまだまだ
役員会入りのチャンスもあるかもとみなされていたからだろう。
注目新人として一足先に入社し早くも役員待遇までこぎ着けた鶴田は天龍にとり比較対象
であり目標でもあった。だがすんなり業界の水に馴染んだ鶴田と比べ天龍は前職の型と経験
が大いに邪魔をしどんな仕事をさせても様にならずはた目にも先が思いやられる不器用さだった。
即戦力をもくろんでいた馬場社長にしても当てが外れたようでその証拠に何回もアメリカ駐在に
放り出されていた。また天龍も天龍で何かを掴んで帰ってくるかと思いきや進歩ゼロで手ぶらの
帰国を繰り返した。また都合悪く(良くなのか?)アメリカはそれなりのバブルで
中途半端な外人商社マンでも商談にありつけてしまいそこそこ稼げたため日本で駄目→アメリカに
逃避しクビになるまでのんきに行商→帰国、というだらしないループにはまっていた状態だった。 天龍が目を覚ましたのは何度目かの米国在中時代、先輩社員の高千穂主任と行商してた時の
何気ない会話で天龍が「こっちで女見つけて結婚して食ってこうかな」とこぼしたところ
主任に遠回しに「お前にゃ無理、日本でやれ」と言われたことだったそうだ。
流されるがままの日々を反省しアメリカ仕込みの商談テクニックをきちんとマスターして帰国したのは
5度目にしてはじめてのことだった。帰国後はロビンソン駐在員の欧風営業術も身に着け
さらに掟破りと言われてた新日商事の大ヒット商品だった後頭部用(延髄切り)ハサミ
や卍式マッサージ器を躊躇なくパクりそれらのジェネリック版を図々しくも堂々と売り出しそれなりの
売り上げを記録する。さらに業務提携でやって来たジャパン人材派遣のハイスパート押し売り
への対応も身に着け自身も時にハイスパート商談をやったり一気に営業マンとしての幅を広げることに成功し
ライバル鶴田課長へ肉薄していくようになる。「全日商事第三の男」と言われていた天龍がついに
覚醒し数字をあげ上を狙い始めた。 ジャパン人材派遣が新日商事にUターンして全日商事の空洞化が懸念されたが
天龍係長の提唱した働き方改革で一気に熱を取り戻し社の業績は右肩上がりになった。
だが社外の評価に比べ上昇しない社内評価にイラつきを感じていた天龍に渡りに船の
ヘッドハントの声が掛かってしまう。これに応じていなければ全日商事の次期社長は
意外と天龍だったのではないか、という関係者の声は大きい。
新天地の商社は資本金が大きいばかりでオリジナリティに乏しく、また寄せ集めの商社マン
たちの足の引っ張り合いに終始した印象が強く早々に業務破綻の憂き目に。
その後ロマンス商事を立ち上げるも経営に行き詰まりフリー商社マンとして活動ののち
三沢部長らの抜けた全日商事の危機的状況にワンポイントとして参加、武藤社長時代へ
バトンをつないだ。今は引退し業界近辺でPR活動に専念している。
80年代後半の全日商事の顔というより業界を象徴する顔であった。 ブッチャー、希望いたします!
幸せなリーマン人生でしたね 80年代後半から90年代中頃まで後楽園に通い詰めたんですが選手入場口は当時
今以上にしょぼくてちょっとした風や人の出入りで簡単にめくれるカーテン1枚で
仕切られてた。しょっちゅう中が丸見えになるんだけど試合を終えたブッチャー(当時
全7〜8試合中の3〜5試合目出場が主)が襟付きのゴルフシャツとスラックスに着替えて
何をするでもなく通路の長椅子にじっと座ってる、という光景を目にした。
アメリカでは肌の色ゆえ人気大物選手なのに控室に入ることをためらっていた、と聞いてたが
一見そういうのと関係ない日本でも何かがあるのかとショックを受けた記憶があります。
それこそブッチャーだから第一線でなくなってもドレッシングルームのボスなんだと
単純に思ってた。 2000年代に隆盛を極めたk1商事のボブサップ駐在員は業界外でも有名になったが
全日商事のブッチャー駐在員はそれ以上に世間に届き長期間に渡り金の雨を降らせ続けた
駐在員no1だったのではないだろうか。
リキ商店の駐在員から全日商事にスライドし日本での営業活動を本格化させる。
ごちゃごちゃ動き回りその意外な速さに驚く間もなく気がついたら商品を購入させられている、
正に的屋の啖呵売のような商談スタイルは日本人のハートをがっちり掴む事になる。
営業マンとしての振る舞いはかなり粗野だがあのチャーミングな瞳もまた日本人を
長らく魅了し続けた秘訣なのだろう。駐在員天国と言われた全日商事でファンク商店系の
駐在員が増えても彼は売上no1だった。肉切りフォークと鋭い(毒)針は性能もよく大大ヒット
商品となった。またブッチャー駐在員の息が長かったのは馬場社長という実に手の合う
カウンターパートがいたことも大きいだろう。
だが売り上げがちょっと下がったところで新日商事に移籍してしまったのは意外ではあった。 当時の新日商事は猪木社長のワンマン時代の末期であり駐在員の自由度は全日商事に
比べかなり低くブッチャー駐在員はかなりワリを食ってしまったのではないだろうか。
ここではとびぬけた業績を残すことはできなかった。ただ地方へ出張すればその知名度は
駐在員中ダントツで地方バイヤーからのご指名は猪木社長以上でもあった、という証言が
残っている。特に夜の接待でも座持ちが良く会社への貢献度は倍増したブッチャーの給与を
考慮しても十分に元が取れるレベルだったそうだ。
数年後全日商事に復帰、全盛期とは違い中堅駐在員として担当案件を堅実にこなし
誰からも愛されるポジションを得てこのまま、と思った矢先全日商事を離脱し中小の新興商社で
エース駐在員としての活動を選ぶことになった。昨年冬に馬場社長の20周忌に合わせて駐在員
引退セレモニーも大盛況のうちに執り行われ完全に業界から足を洗った形となる。
日本での活動はさぞ自由だったと想像してたが人種差別は駐在員間で残念ながら存在していたようだ。
また日本でがっぽり稼いでいる彼への妬み嫉みもあったはずだ。
乱暴な商談の隙に垣間見せる悲しい表情はいまでも見返すにつけそういう悲しい現実を無言のうちに
語ろうとしていたのではないかと思える 馬場社長20回忌とブッチャー引退セレモニーは素晴らしいイベントでしたね
筆者のかたは参加されましたか?
NHKニュースにもなっていたような…… サムライTVで視聴してました
いきなりの猪木、リングサイドにはずっと坂口(と馳)、昭和の全日本が
完全に終了したんだなという寂しさはあったけど素晴らしい会だったと思います
思ったほどお金の匂いのしない興行でした →お金の匂いのしない
馬場社長関連のイベントは、
そういうタイプが多いですよね
社長のお人柄ですかね 「ニーズが全くない、というニーズ」という不思議なニーズがあったのが谷津嘉章だ。
新日商事に大物新入社員として入社後にアメリカ研修に行った際に全日商事の面々と
交流があったらしい。ジャパン人材派遣に出向後頭角を現し営業副部長として活躍し
全日商事と提携後は鶴田天龍長州と共に日本人営業マン四強の一角に食い込む。
ジャパン人材が全日商事と提携を解消した際には新日商事へのUターンに同行せず
永源経理係長と共に残留、この残留は対面を重んじる馬場社長をたいそう喜ばせ一説には
2000~3000万のりんじぼーなすが出たと言われている。(鶴田天龍も同額程度を支給されたらしい。)
一課長補佐として鶴田を支え隣の二課で発生した働き方改革に対抗し全日商事隆盛の礎を築いた。
傍からは順調に進んでいるように見えたが谷津は外様傍流であることに限界を感じていたらしい。
天龍課長独立に際し谷津派だった仲野、高野俊、高木らはいち早く天龍の新会社へ流れてしまった
こと、高校の後輩だった三沢川田の台頭により自身の居場所が日当たりが悪くなってきたことなどが作用し
谷津も天龍の独立にまさかの合流をしてしまう。以降流浪を繰り返し自身の会社設立もあったがうまくはいかず
業界をリタイヤしている。
現在は持病の悪化で足首切断が話題となった。本人はいたって元気のようで特に口は
現役時代以上の絶好調をキープ。業界紙の回顧インタビュー企画では常連中の常連で
話の度に大きくなる数字や過去の自身の証言に反する新事実が常に蔵出しされるなどサービス精神は
元商社マンの中ではナンバー1といって良い。「あの下衆な語り口はもはや芸、読むのが癖になる」
というマニアも取り込むほどしゃべりの人として引く手あまたのようだ。
来年に延期された五輪聖火ランナー(群馬県、スポーツ、身障者枠)としても注目されてる。 「勢いはあってかっこよかったけど実際ジャパンは長州はじめ仕事が下手くそだったね」
佐藤昭雄人事課長は後年そう総括した、理論派の佐藤の発言は信憑性が高い。
当事者だった谷津課長補佐も「俺たちはガーっといって一方的に短時間で商談決めちゃう
新日商事の流儀を持ち込んだけどそれだと商品が売れないんだよ全日じゃ。受けて攻めて
シーソーみたいにやって商談転がさないと駄目だった、手ごわいなって思ったよ。それで
少しづつ(全日商事の流儀に)寄せてった感じだね、あっちも合わせてくれたし。」
と語ってる。
さて本丸の馬場社長はどう評価したのだろうか。
期待にあふれた提携前は「ジャパンの奴らは背が低いからオフィスのデスクと椅子を
10センチ低く下げてやれ」という指示を総務に自ら通達するほど前のめりだったらしい。
実際提携後売り上げは上がったらしい、だがジャパン人材に支払う提携料が高額(日テレ
銀行から月ごとに受け取る配当金の10%、のちに15%)だったため利益は増えなかったそうだ。
それとジャパン人材のキーマンと言われた大塚統括部長が想像以上に有能だったことも
馬場社長に「下手すると軒先を貸したつもりが母屋を乗っ取られる可能性が」という不要な疑心暗鬼
に陥らせてしまったことで相思相愛は冷めるのも早かった。
主たる営業マンへの馬場社長の評価はどうだったろうか。
浜口係長は一番評価が高かったのではないだろうか。器用ではないが引くところはちゃんと引き
パワー全開の明朗快活な仕事ぶりは全日商事営業マンに見習わせたい、とまで御大に言わしめた。
ヒロ部員は当然高評価、細かい仕事をコツコツ基本に忠実にこなす仕事ぶりに信頼は厚かった。
意外なところでは栗栖、保永らヒラ営業マンが高評価を勝ち取った、二人ともどちらかというと
自分を殺し相手のいいところを引き出す手堅い仕事ができたし決して不器用ではなかった。
意外な低評価は小林、ベテランで経験値も高いが相手に合わそうとせず頑なに自分の仕事を
崩そうとしなかった意固地さが原因だろうか。カーンや寺西、永源と言ったベテラン勢とは
昔からの付き合いもあり信頼関係があったようで特に言及はない。
長州について語ろうとしないのは「まあそういうことなのだろう」と納得する以外ない。 ヒロさんは、『ジュニアのハーリーレイス』と評されたらしいですよね 阿修羅かなとも
縁の下を支えた影の実力者だったが
決して幸せにはなれなかった学校でも社会でも 阿修羅原だねやはり。あの人の立ち位置しか思い浮かばない。 元子全日、そして武藤全日の
影の立役者、TARUとかってリクエストできます? オカタさん
二代目ドラ息子社長でオーナーのお気に入りだからたいして仕事もせず重役出勤で役職ついてていいとこどり
周りがヨイショしてくれてまさに僕と同じですw 沢山ホラを吹いたり、自分のやったえげつない事を人になしつけたり、いい加減で
適当な書き込みをしてる奴がおる。 しかもウンチとセックスが大好きな変態野郎。
その人のブログはこちらで、 あだ名はサボ辻、ホラ辻
https://www.facebook.com/tomokazu.tsujimoto.3 創業社長の未亡人が経営権を握り迷走を極めた全日商事だが資産が枯渇しかねない状況
に至って未亡人社長は保有株式を新日商事のトップ営業マンだった武藤営業部長に売却、
新体制のいわゆる武藤全日商事がスタートした。
武藤新社長が手を付けたのは旧体制から悪しき伝統として受け継いだ高固定費を見直す。
社は一等地六本木から引っ越し給与の高い外国人駐在員をバッサリ切った。そのかわりに
安価かつ仕事のできる人材を派遣会社から大勢雇い入れ風景は一新されていく。
wwe商事勤務経験のあるTAKA営業員はレイオフされたかつての「できる」仕事仲間を
供給し一人親方的な会社だったダイヤモンド人材バンクからは健介社長が助っ人的に
長期出向、チンピラ風のnozawa社員も鈴木みのる、高山といった業界きってのフリー
を仲介、と創業社長時代に引けを取らぬ要員が集まり上々の業績を上げた。
中でも白眉は登竜門人材センターを解雇されたTARU、YASSHI、近藤らの札付き営業マン
ユニットの大活躍だった。社長はじめ正統派のしごとを得意とする人材が多かったが
この札付き営業ユニットは汚れ仕事裏仕事を一手に引き受け営業のバランス調整と拡幅に
多大な貢献を果たした。汚れでありながら確かな仕事ぶりで顧客の支持はうなぎ上りとなる
捻じれまで引き起こして見せたのだから大したものである。リーダーのTARUは仕事ぶりは
年齢や体調による波があったが人材育成に関しては武藤など足元にも寄せ付けぬ才があった
と思われる。伸び悩んでいた諏訪間、小島、宮原、ドーリングと言ったのちの屋台骨を支える
面々がTARUの下で研修を受け全員が見事に新境地を切り開いている。
その後社内での暴行事件で社を追放されたが謹慎期間ののち現在はゼロワン商店の屋台骨を
支える活躍を続けている。
TARUの助力がなければ武藤全日商事は3〜4年は早く白旗を上げていたと思われる。
前科とその他毀誉褒貶諸々のためこういう傑出した人材が業界のメインストリームに
なり得なかったことはつくづく惜しい 諏訪魔とジョーは、たしかにTARUのお陰?で大成しましたね! ジャイアントバーナード
ジャマール
とかて入りますかね?? WCW商事を一飲みした業界の巨人WWE商事がウォール街で上場してからは
業績が下降線をたどりそうになると過敏な反応を見せるようになり→即人員整理
というカードを切るようになった。働いてる従業員にしてみればたまったものではないが
優秀な人材が市場に投げ出されるわけで全日商事のような海外駐在員を必要としてる
商社にとっては悪い話ではなかったかもしれない。
もっともアメリカ人駐在員にとっても全日商事で仕事をすることは給与は下がるだろうが
それでも米国中小商社よりは条件が良く移動は楽ちん、泊るところも治安も心配なく
口に合えば食事もおいしい、上手くやれば旦那もつく、と悪いものではなかったはずだ。
中でもバーナード、ジャマール、ディーロ、ダッドリーズ、リコ、あたりは
「こういうできる人材を平気でクビにするWWEは見る目がなさすぎる」とも思ったが
実のところバーナードクラスでも正社員として契約してもらえないくらい高レベルの
競争がWWEにはあり陣容が充実しきっていた時代だったのだろう。
彼らの基本がしっかりしていてかつ洗練された仕事ぶりを見ることができたのは幸運だったといえる。
上から目線で恐縮至極だが彼らになかったものは日本で食っていく覚悟だったと思う。 WWEって、上場してから下降線だったのですね……
ロック様、ストンコがいなくなったのがでかかったか それに合わせてビンスがXFL立ち上げとかで忙しくなってストーンコールドの
相手を毎週できなくなったことも大きいですね
あの会社のエースは他でもないビンス、シェイン、ステフ、リンダ、ビショフら
全員でもその穴は埋まらなかったという印象 XFLはビンスにとって採算度外視の究極の夢の事業なのかね
NFLがあって勝算なさそうなんだけどアントンハイセルみたいに金をぶち込んでるな
2回目もコロナでポシャったし >>619
一年で潰れた
マスコミが嫌がらせしたのもあったけど、レベルも低かった テリーゴディ、
ダイナマイトキッド
リクエストいたします! 自粛解除でちょっと立て込んでるのですいません、いずれ りょうかいです!
期待して待っております
お体に気をつけて テリーゴディは10代の若さで商事会社フリー営業マンとしての活動を開始した早熟派。
フリーバーズという営業マンユニットで田舎を荒らしまわり実績を積みテキサスに定着する。
ここでゴディの才能に目を付けたのが米国で営業マン修行をしていた佐藤昭雄だった。
佐藤はゴディの実績を認め、さらに潜在能力、性格の素直さは日本の営業向きであると見抜いた。
佐藤が帰国後人事課長に昇格するやゴディを招聘、佐藤の予想通りファンク兄弟の穴を埋める活躍を
見せる。先輩のハンセン駐在員と組ませたことで日本の営業流儀を短時間で学習できたことも大きかった。
80年代後半には駐在員四天王としてハンセンゴディウィリアムススパイビーは大活躍、序列はハンセンに次ぐ
no2を確立、ポストハンセンはゴディだろう、というのが大方の見方でもあった。
またウィリアムス医師とのコンビは90年代の最高峰と言われてるがそれはウィリアムスが
ゴディから多くを学習したからゆえだろう。素直な性格だからなのか時には明らかに格下相手に契約を
取りこぼすこともあったがほぼ完成形の営業マンといえた。だがさあここからトップに、という
タイミングで体調と共にメンタルも悪化し全日商事との関係が切れてしまったのは残念過ぎた。
手の付けられぬ酒豪で歌舞伎町のヤクザ経営の店を破壊したりする反面、馬場社長に太り過ぎを
指摘されると次の来日時にはきっちり落としてくる聞き分けの良さも持ち合わせていた。
豪傑にみえて繊細なハートの持主だったのだろう、本当に彼の離脱が生んだ損失は大きすぎた。 WWF商事で活躍したのちダイナマイトキッドは盟友のDBスミスと共に突如
全日商事へUターン再就職を果たした。仕事ぶりは失礼ながら「昔の名前で」
こなしている感じではあったが営業ノルマはゆうにクリアしていたはずだ。
スミスはともかくキッドの体調が本調子でないのは来日の度に見て取れた。
正直従来の大口取引をこなすのにはかなり無理がありハンセンゴディウィリアムススパイビー
の駐在員四天王に食い込むような状態ではなかった。だが運のいいことにマレンコ兄弟ら
小口取引を主体とする外人駐在員のニーズが高まっていた時期だったためキッドも
小口取引部門に参入することとなった。複雑な契約条件でスピーディな納品が求められる
小口部門でキッドは息を吹き返しそのトップに君臨する。インテリ肌なダグファーナスが企画書を
まとめ馬場社長に上申したと言われる英国産犬を特急のスピードで米加で販売するタイアップ企画
も大当たりをとった。
スミスがWWF商事に復帰後はジョニースミスをパートナーにして仕事を続けたが
回転の速い小口部門の中で次第にキッドは取り残されていき体調悪化の為引退する。
その後復帰するも仕事用スーツのぶかぶかな感じが体力の衰えを感じさせ見ていて
つらくなるような仕事ぶりが常態化してしまう。結局全日商事との関係はフェイドアウト
してしまうのだが。
正直生活に困ったのだとしても引退後はこの業界に戻るべきではなかったと思うし
その時代の姿は思い出したくない。
ただその貢献度は非常に高いと思う、経営悪化していた全日商事が89年から後楽園商談会を
毎回完売させ10年以上その状態が続いた、その第一歩はキッドあってこそである 久しぶりの更新ありがとうございます!
ぼちぼち続けてくださいませ! 面白い発想だねー。
レスラーをビジネスマンに例えるとは。 あ、あとハンセンリスペクトのジョーもカッコいいですよね! ジョーはすごくいいし今でもまだ十分伸びしろが残ってると思うけど現状ちょっと
太り過ぎた気がしますね。難病克服しての復帰は感動だったし多くのファンの琴線
に触れたと思うけどちょっと以降そこに甘えすぎた感が無きにしも非ず。たしかに
開頭手術を経てリングに上がってるのはすごいんだけど さジミースヌーカ
顔はイケメンだが挙動がキモいので怪奇派にされている 全日商事にとって新入社員スカウトは鶴田、秋山以来となったのが諏訪間幸平だ。
大学卒で実績あり、ネクストジャンボとまで期待されたが入社後は大いに伸び悩んだ。
原因としてはいきなり第一線の営業1課に配属されたが有力なプロパー社員がおらず
一癖も二癖もある外部からの出向契約社員(佐々木商店、鈴木商会、ヴードゥ人材など)
が縄張り争いを繰り広げてる狩場と化していたことだろう、しかも契約社員が皆やり手の
腕利きばかりだったのも十分に新入社員を委縮させたことであろう。
もう一つは武藤社長(当時営業部長を兼任)があまりに放任主義すぎたことであろう。
現在の諏訪間からは想像もつかないが彼らにいいようにあしらわれていたのが入社直後の
姿だった。
転機は見かねたヴードゥ人材の責任者だったTARUが許可を得て声をかけて指導を始めたことだった。
TARUとYASSHIという細かいとこに目配せできる職人営業マンと組むことにより
細かいことを気にせず自由に営業できる環境を得た諏訪間は水を得た魚状態でメキメキ
頭角を現す、ついでに大型営業マンがないがしろにしがちな営業の組み立てのディティールも同時に
学び地位を確立するに至った。 ヴードゥ人材と袂を分かって以降はラフで長期戦を得意とする大型案件営業マンとして
一人立ちするが今度は全日商事が傾き始める。武藤社長が窮余の策で連れてきたスポンサー
兼社長はかなり出鱈目な人物で資金も持ち合わせていなかったばかりかガチ営業という
わけのわからぬ方針を打ち出し社はおろか業界までもかき回し全日商事は八方ふさがり、
ノア物産から営業2課が丸ごと転籍してきたが間もなく武藤社長一派が新会社を設立し離脱、
出鱈目社長もフェードアウト、秋山一派から離脱者が続出した窮地に諏訪間は踏ん張りをみせ
業績が最低の状態を何とか支え続けた。
会社は秋山社長のもと規模を縮小し持ちこたえ首の皮一枚で持ちこたえた。
いよいよ諏訪間の時代となるところだったが大抜擢の宮原(佐々木商会より転籍)が新日商事の
カリスマ棚橋ばりのナルシス営業で一気にシャの顔となり現在に至っている。
諏訪間が踏みとどまったからこそ全日商事の系譜はなんとか途切れていないのは事実。
ただスケールは大きいがいつまでたっても一人で仕事をこなすシングル営業には大きい不安が付きまとう。
現状でも真の意味で一本立ち仕切れてない歯がゆさを感じる。時に大爆発し大きい成果を上げる時もあるが
安定感がない。ただその分気の利くパートナーを得ればかなりの安定感も発揮して見せる、
いまだ漂う身管制官が諏訪魔の魅力なのだろう おお
久々ありがとうございます!
諏訪魔よい選手ですよね! 全日商事といえばが多いのが特徴で業績が常に上回っていた新日商事でさえその点では
負けていた。だが時代は流れ駐在員の質こそ高止まりしていたが90年代はメンツの固定化が著しく
駐在員というよりは常駐外国人社員という感じになっていた。
2000年代馬場社長逝去後はその代名詞といえたハンセン駐在員の退職、分裂騒動、業績低下などにより
駐在員の質量ともに目減りしていくこととなった。
社を継いだ武藤社長時代には人余りのWWE商事からフレッシュな駐在員が供給された時期もあったが
高額な給与、旅費滞在費に見合う業績が上がらず更に駐在員市場はシュリンクしていった。
そんな時期に研修生として見習い駐在員として来日したのがジョードーリングだった。 ドーリングは線はやや細いが長身でいわゆる全日商事駐在員の系譜だった。
武藤社長の手厚い加護の下ドーリングはメキメキ頭角を現す。不器用ながら日本流の
仕事を身に着け業績を上げていく。ハンセン駐在員の面影を見た関係者も多かったはずだ。
ドーリングにとって不幸だったのはまずライバルが不在だったこととお手本となる先輩駐在員
が居なかったことだ。ベンチマーク的存在がいなかったため評価がいまいち定まらなかった感は強い。
そして何となくエース駐在員として活動を続けるが大震災や社内での暴行事件などで
業績が悪化する中ドーリングの存在感は薄れていき会社の経営陣が2度3度変わるどん底期に
戦線復帰が発表されたが今度は悪性脳腫瘍を発症という運のなさ。
病気を克服して駐在員復帰し最初の1年位は目を見張る活躍を見せたが徐々にルーティンワークを
無難にこなすサラリーマン然としてきてしまったのは何とも惜しい。
昨年末あたりから全日商事内部で動きがあり秋山専務(待遇)が退社し同業他社へスライドしている。
ドーリングの来日も世界的なコロナ禍でストップしてしまってる現状だ。
正直ドーリングは武藤社長が遺していった数少ない優良資産と思う、再来日を強く希望したい。 佐々木商店での丁稚からノア物産に出向したあたりで存在が認識されたのが宮原だった。
仕事ぶりは特に記憶にないが可もなく不可もなくという感じだったと思う。
voodoo人材派遣で揉まれ佐々木商店を退社し全日商事にスライド移籍となる。
全日商事でも若手中堅の一人として特に目立つ活躍はなく失礼な言い方をすれば員数合わせ
要員の域を出ることはなかった。
当時全日商事は営業成績が低迷し優秀な人材の退社が連発するなど経営危機的状況に直面していたが
ここで秋山社長が大抜擢したのが宮原だった。20代半ばの若手をいきなり営業課長に格上げし
緩やかながら数字が回復傾向を見せるという奇跡が起きた。 営業エースになってから早4年強、全日商事=宮原営業課長という時代が続いており
実質営業部長と言っても過言ではない。宮原のすごいところは休日も休まず営業活動を
行っておりここらあたりは新日商事をX字回復させた棚橋営業部著とダブるところがある。
ただ仕事の組み立てに関しては宮原は棚橋の模倣でなく独自の方程式を確立下と言い切っていいだろう。
その特徴は限界近くまで手数を削っておりひたすら受けるがままに徹するのが基本、
絶妙なのはごく自然な離席というテクニック、1〜2分せきを外し部屋の外を歩き回り呼吸を整え席に戻ると
なぜか宮原のターンに流れが変わってるという大技といって良い。三沢部長もよくこれをやっていたが
宮原ほどには切り替えが上手くいってなかった(三沢の商談相手が今以上にタフだったせいも大きいが)。
超大口の商談成立の機会はいまだないが小〜中口の商談を手堅くまとめる安定感はもっと高く
評価されてもいいのではないだろうか。
秋山社長が降格からの人事権剥奪で退社しておりコロナ禍の続く中全日商事の先行きはかなり
視界不良と思われるが願わくば宮原課長中心に団結し手探り状態でも前に進んで欲しい 宮原ありがとうございます!
ヘッドバッドwが有力商品の一つなのも面白いですよね やはり興味深いスレ
筆者のかたはどのレスラーに一番近い人生を
歩まれたのだろうか 正直なところ秋山元社長がtajiriとの社内抗争に敗れDDT商店に移籍したことで
昭和からの全日商事はひとまず閉幕したのかなと感じております。
新経営陣としては「流れは連綿と続いてる」と主張するでしょうし、それゆえの
最近干されてた渕相談役のとってつけたような急な(首都圏限定)復帰なのでしょうが
私儀、完全に心が離れてしまいました。
もちろん今後も全日商事の躍進を期待しますが。
いままでご過分なお褒めのお言葉を頂きましたことに感謝します。駄文に永らくお付き合い
頂きありがとうございました。正直楽しかったです。
またどこかで 猫の手も借りたい空前絶後の人材難の時代の全日商事にスルッと入社したのが浅子覚。
同期入社に井上雅央がいる。即戦力として営業に配属された。厳しい物言いになって
浅子には大層無礼と思うが正直天龍課長一派の退社がなければ入社は認められなかった
と思う。新日専門学校卒の履歴は嘘なのではないかと思うくらい技量的にパッとしなかった。
秋山大森といったエリートが後輩だったことと同期の井上が殊の外経験が浅いなりに器用に
仕事をこなすタイプだったことがそういう厳しい見方に拍車をかけてしまったという
不運な部分があったことも事実ではあるのだが。
だが浅子に運が向いてきたのは労災で第一線を引こうとしてた菊地部員のポジションが空き
三沢営業部次長に引き上げられたことであろう。
かなり無理はあったが三沢小橋の決める超大型契約の細かい部分の詰めを不器用なりにこなし
チームとしての機能向上にそれなりに貢献を見せた。
その後トンパチ駐在員として知られたダニークロファットとの力仕事中に大けがを負ってしまう、
けがから復帰後は小口仕事に専念するが経験を買われ高山大森の雑な大口仕事専門の
営業ユニットに尻ぬぐい役として加入し一定の存在感を発揮した。
後に三沢部次長の独立に追随し新会社でも同ユニットを継続、だが持病の首のけがの悪化で
退社、その後ノア物産の産業ドクターに転身し自身の医院も開設独立し今に至る。
最後にまた厳しい物言いで申し訳ないが早期の退社は浅子にとって結果的に幸運だったのでは
なかったろうか。現役営業マンとして仕事を続けていても正直同期の雅央を上回ることすら
ずっと不可能だったと思う、人には収まるべきポジションがある、リストラ倒産を
味合わずに済んだことは浅子にとって僥倖だったはずだ 更新、ありがとうございます!
そういえば、キマラ駐在員も亡くなってしまいましたね。。 浅子の人生、ポジショニングて、
上手いのかもしれませんね。。。! 後輩で同サイズの金丸丸藤小林あたりと比較すると本当に入社した時代がよかったですね ファーナス&クロファット、
リクエストいたします!
まだまだ発掘できそうなww 世界にネットワークを誇った全日商事(欧州は弱かったが鶴見井上で補完)だが
アジア方面はパッとしなかった。そのアジア方面を一気に活性化させ商売ベースで
ペイできるまでに持ち上げたのがファーナスとクロファットのコンビ営業だった。
クロファットはもともとUWF商事や元国際商事のワカマツさんが仕切った「増殖する
営業マン」という触れ込みのマシン営業軍団に参加したりとスケールは大きくないが
対応力のあるオールラウンド営業マンとして地味に注目されていた。
一方ファーナスはお試し駐在のような形で初来日し荒削りながらスケール感のある
仕事ぶり、中でも打点の高い一発売り抜け芸は関係者を驚嘆させた。
翌年にはそろって日本に駐在、仕事で組むことが増えコンビ営業に転身していく。
クロファットが商談の流れを握りファーナスがドカンとかまし細かい部分をクロファット
がフォローし相手を丸め込む。「アジアに敵なし」の呼び声は嘘でなくその方面では
他者の追随を一切許さなかった。この二人をきっかけに全日商事の駐在外国人はスケールは小さいが
コンビで営業、という形が増えていく先駆けとなった。
惜しむらくは駐在員も上が詰まっており世界を舞台にするトップ営業に食い込み切れなかった
事だろう。仕事が終わると読書にいそしみ節制した生活を送るファーナスと毎晩
飲み歩きパーティ三昧、前借常習で給料がゼロだったこともある無軌道なクロファット、
晩年のキッドスミス、マレンコ兄弟、ファンタスティックス、名コンビ営業は枚挙に
いとまがないが全日商事のベストを選ぶならこの二人しかいないと断言したい
ピンでの活躍〜特にファーナス〜も見たかったが見果てぬ夢ということで 意外と、
テリーとドリーやってませんよね
ファンクス、リクエストします! ファンクスは馬場社長同様最後の最後に取っておきたいのできょうしゅくですが何か他のお題
を出していただければ 常に高い期待値で見守られていた駐在員のダニースパイビー、全日商事に初めて
呼ばれた時点で36歳とややとうが立っていた(業界入りも32歳と遅い)ことが
結果として商社マンとしての自身の旬を短くしてしまった主因といえる。
押し出しの強いルックスゆえか与えられたポジションは悪くなかったし日本では
廃れていた殺虫剤を商材としコツコツ売り込み今に続く定番ヒット商品にまで
仕立て上げた功績はもっと評価されてもいいと思われる。
短期離脱ののちハンセンゴーディウィリアムスのトップ駐在員の座に割り込み
駐在員四天王の一角に君臨したが経験の浅さゆえの基礎のもろさが露呈し
自身の格をずるずると落とし二度目の離脱後は日本商社界に戻ることはなかった。
忘れがたい記憶は武道館での大商談会で未知の超大物スティング駐在員を読んだとき。
商社マンの格的にスパイビーが引くのが当然と誰もが〜むろん馬場社長も〜考えていたが
「次にいつ日本に来るかもわからない奴に引くわけにはいかない」と言い切ったプライド、
それを呑んだスティングも大人だったがそれ以上にスパイビーの「日本で成功したい」覚悟
を感じ取ることができた。
後年渕元人事部長が「スパイビーは良かった、ただ時代がよくなかった、馬場社長が元気な
頃だったらカウンターパートとして使えたはずだよ」とスパイビーを評価している。
馬場社長に渕、さらに衛生白マスク販売で財を成したロスのデストロイヤー氏に気に入られ
娘と結婚にまでこぎつけた(のちに離婚と聞くが)のを見るに大物に好かれる何かが
あったのだろう。商社マンを辞めたのちは地元で建設業を営んでるということだが
健康上他愛は芳しくないという説も耳にする。
自分としては鶴田課長、天龍係長(ともに当時)との絡みをもっと見たかった。
全日商事社史に確かな一頁を残した忘れがたき人物だ。 スパイビー好きとしては、
高評価なのが、嬉しいです! 商売敵の新日商事に寝返るも結局詫びを入れて全日商事駐在員に復帰したブッチャー、
復帰後は特大取引を手掛けることはなくなったが全盛時の顧客をしっかり掴んでおり
営業上の数字を落とすことはなかったが営業パートナーをうまく固定することが
できていなかった。ピンでの営業は年齢的に無理がきかず細かいお膳立てをきちんとこなして
くれる駐在員が必要なのは誰の目にも明らかだった。
ブッチャーの営業パートナーというと一見華のあるそこそこいいポジションに見えるが
実はそんなことはなくあくまで自分を殺しひたすらブッチャーを立てるという若手にとっては
割の合わないポジションといえた。そこらを素早く見抜いたTNT、レンジャーロス駐在員らは
評価が高かったがすぐに離脱してしまった。
そこで全日商事が引っ張ってきたのがキマラ(2号)だったのであろう。来日を重ねるごとに
際立つ風貌とは正反対の仕事の細かさ正確さ、そしてそれ以上に健気なまでの滅私奉公振りが
醸し出す哀愁に当時の顧客は愛着を覚えてお気に入り営業マンのリストに加えたはずだ。
ブッチャーの離脱に伴い泉田社員とコンビを組み年末大商談会にも参加するなど
活躍したが最後まで独り立ちすることが叶わなかった不運な営業マンだったといえよう。
正統派駐在員にスタイルチェンジするチャンスもあったのだがその機会を上手く活かせなかった
ことが悔やまれる。 いいやつ、ディートン
フルサイズでリクエストします! このスレ、すごい良スレになってたんですなあ、びっくり
そんな自分は、キングダムエルガイツの人かなあ… 記憶が定かでないのだがジョーディートンの初来日は当時日テレ銀行主催で毎年
行なわれていた「取引先対抗草野球大会」に全日商事が出場する際、「140qhの球を
投げる駐在員がいる」という評判を耳にした馬場社長がとりあえず招聘した、というような
経緯だったと思う(兄弟のホスと混同してるかもしれませんがお許しください)。
営業マンの実力度外視ではあったがことのほかディートンは日本の水に合っていた。
派手な活躍こそないものの小さい商談から大型契約までをそつなくこなし常連駐在員としての
地位を確立する。特に中期はビリーブラック駐在員とのコンビでアジア方面の取引を
活性化し「やりようになっては十分商売として成立するアジア市場」確立に一役買った。
後期は総務系のうるさ型ベテラン社員らとの見事な連携仕事も披露しまるでそこにいるのが
当たり前のような存在になったが社の軸が営業四天王の業績争い一本に極端に絞られたこと
で徐々にフェードアウトしていった。
空白期間は20年以上にわたったが全日商事の顧客から忘れられることはなく
何かにつけてその名は語り継がれた。昨年の馬場社長没後二十周年パーティに車いすの
ブッチャー(近所に住んでる?)に帯同し久々に来日、時間は短かったがキレのある
動きを見せ健在ぶりをアピールしたのは記憶に新しい
正直なとこ、インディ系商社が招聘を真剣に検討してもいいだろうというくらいの健在ぶりだった。
母国では単発的な活動を継続してるようで末永く頑張ってもらいたい。
さて最初の草野球大会だが当時の業界紙を読んだ記憶によればディートン140qhはさすがに
大げさで115qh前後の計測だったらしい、ついでにコントロールが悪く監督を務めた
馬場社長にすぐ降板させられてたはず、いいやつというよりにくめないやつである 評価の難しい駐在員ですが、
バードガン、リクエストします! ムムム、確かに過去最高レベルで難しい(というか思い入れと思い出がほぼない)
ちょっと厳しいのでとりあえずリッチースリンガーなんかいかがでしょう?
近日中にまとめてみます 恐らく90年代のエース駐在員はテリーゴーディがハンセンにとって代わるだろう、と
いわれていた時代にゴーディの甥っ子としてのコネを活かし全日商事見習い社員になった
のがリチャードスリンガーだ。
かなりの血統と思うがスリンガーは後年のマウナケアモスマンのような特別待遇はなかった
と記憶してる。甥っ子とはいえ資質は叔父と正反対、こじんまりとした小技と足で稼ぐ小さい
取引をコツコツこなしていく。時にゴーディウィリアムスの殺人魚雷営業に交じり
トリオで仕事もしたが格下感は否めず取引先にもそこを付け込まれるというパターンが
多かった印象だ。さらに叔父のゴーディが体調を崩し全日商事からドロップアウトする
という事態が発生したがそこを根性で乗り切りスリンガーは見事見習社員でなく
駐在員として全日商事に定着する。
さらに大物駐在員しか参加できぬ年末大商談会にトレーシースマザーズとのコンビで
参加、売り上げ成績は最下位だったがあらゆるタイプの仕事をそつなくこなすユーティリティ
プレイヤーとしての地位を確立する。
スリンガーは馬場社長からは目をかけられなかったがその仕事ぶりを買ったのが三沢営業部長
だった。(渕人事部長と二人で米市場視察でテネシー州メンフィスを訪問した際現地で
スリンガーがいろいろと骨を折ったというのもあったのかもしれないが。)
三沢部長は独立に際してもスリンガーを「新会社に欠かせぬ駐在員」として白羽の矢を立て
確保している。期待通りノア物産でも中堅としての職責をきっちり果たす手堅い職人ぶりを
見せたが体調の悪化もあり徐々に日本からフェードアウトしていくことになった。
素材もよかったし何より叔父の影を全く引きずってないところがかえって駐在員として
長く続いた理由の一つだったと思う 馬場社長と三沢部長で、
経営観が全く違いますね。。 ジョージハインズとか
ジムスティールてお願いできます? ジョージハインズ(ジャッキーフルトン)のイメージはアジア地域活性化要員として
活躍してた兄ボビーの営業ユニットのおまけ人員というイメージが強い
兄と違い雑で荒削りな仕事ぶりではあったがそこはかとなく漂う未完の大器感はあった。
そこらへんが馬場社長にプッシュされた理由かもしれない。
当時人気急上昇中だった星条旗柄のアパレル販売を得意にしてた愛国営業マンパトリオット
の子分格として覆面営業マン、ジイーグル(ダイーグル説あり)として活動する。
結局のところ可もなく不可もなくの中堅営業マン止まりで終わってしまったのは
もったいなかったがマンネリな面子といわれながらも駐在員のクオリティが異様に
高かった時代ゆえ致し方のないところだったのだろう。
今と比べるのは今の全日商事に酷だがハインズの技量は最近までエース駐在員といわれていた
ジョードーリングより明らかに上と思う 申し訳ないですがデストロイヤーはサマーアクションシリーズにやってくる
前座のおじいさんとしての姿しか見てないんです
それと仮面貴族兄弟は取っておくとしてもう一声! テンタとハクも全日系ですかね?
色々伝説のある二人ですよね… 大相撲商事の新人駐在員琴天山はかなり将来を嘱望されていた
だが古くからの独自の商慣習や全寮制の生活になじめず研修の段階で突如退社
してしまう。ここで色めき立ったのが全日商事と新日商事だった。両社の勧誘合戦
が始まったが当の本人はそんな騒ぎも気にせずに「両方の職場を見て働きやすい方へ行く」
と宣言。その通りに両社の職場見学を敢行してみせた(しかも通訳付き)。
元々相撲商事と関係の薄かった新日商事は琴天山の上段な態度に立腹しいつにも増し目いっぱい
ギスギスした職場環境を見せつけた(入社の脈無しと分かっていた節が大いにあるが)。
対し全日本の馬場社長はフレンドリーな職場を前面に出し琴天山を獲得した。
入社後はカナダ時代の職歴を生かして営業の最前線で活躍した。日本の仕事の流儀に
不慣れな面もあったが体躯どおりの細かいことは一切無視したスケールの大きい仕事ぶりで
鶴田課長天龍係長らの営業トップどころに交じって堂々とノルマをこなした、が
より上のステップを目指していたテンタはビッグアップルへ転出する。そこでも短期間で
トップ営業マングループに出世、世界一の営業マンとだれもが認めるハルクホーガンとも
トップ営業の座を巡り相対した。世界に名を知られる商社マンの地位を築いたが
健康を害し活動はシュリンクしていき若くして鬼籍に入ってしまった。
もし全日商事に残っていたら駐在員トップの座をハンセンから奪っていた可能性もあったろう。
新日商事を席捲したビッグバンベイダーのような怖くて強い系の怪物駐在員になっていたかも
しれない。トップどころと仕事するときの真剣な表情とベテラン商社マンに囲まれ仕事する
ときのチャーミングな笑顔のギャップにやられた顧客は多いはずだ テンタ、期待されていましたよね、ありがとうございます
キングハクも、希望いたします! いちおー参戦している、
タイガージェットシンとか、ありです? タイガージェットシンはフレッドアトキンスの弟子筋なので馬場社長の兄弟弟子と
いうことになるのだろうか。地元トロントで営業マンとして名をあげ最初は新日商事
駐在員として活躍し、新日商事が業界no1売り上げの会社になることに大いに貢献した。
自他ともに認めるno1駐在員であったがハンセンホーガンといったニューウェーブの台頭
と猪木社長が全日商事no1駐在員のブッチャーを引き抜いたことで真は全日商事への移籍を
敢行した。ターバン、竹刀(サーベルや清掃モップも)は変わらずヒット商品となったが
猪木社長ほど馬場社長とは手が合わなかった印象が強い。フリー営業の上田と息の合った
コンビ営業などで一定の活躍は見せたがブッチャーの全日商事復帰もあり影が薄くなっていく。
シンが全日商事で光ったのは大相撲商会から移籍してきた和島社員のOJT指導員を
担当した時であろうか。前職では役員待遇まで上り詰めたなにもできない中年新入社員 何もできない中年新入社員をこれ以上ないめちゃくちゃな暴力指導で想定以上の
スポットを当てさせた。輪島も多くは語らなかったがシンのおかげで営業職の何たるか
を理解したはずである。以降は駐在員としての来日回数も減りブッチャーとのコンビ営業
からのお約束の決裂ののち新日商事にuターンし水を得た魚の如く猪木のカウンターパートとして
大活躍を見せその後中小商社を転々としすべての会社でエース駐在員として活躍し
ハッスル商事あたりを最後に業界をフェードアウトしてるがシンファンの顧客は日本に多いので
今後もいろいろな形で姿を見せてほしいものである
個人的な全日商事時代の印象に残る活躍としては落ちこぼれ国際血盟営業軍団に加入した時の
テクニカル商社マン鶴見とのタッグ営業、ブッチャーとの極悪タッグ営業で参加した
武道館での年末大商談会で自然発生したシンコール、通称シンシン七拍子は忘れがたい。
あれは間違いなく当時噂されていたシンの新日商事uターン説に対する全日商事顧客の
惜別のラブコールだったと確信している。 シン、興味深いですね
あ、輪島関、フルサイズでお願いいたします!
短いですがインパクトの大きい社員だったと思うので。。 >営業職の何たるか
プロレスラーの必要な部分だと思います 三沢さんとは別に、
二代目タイガーマスクとか、ありです? タイガー二代目は独立さすほど内容がなさそうなので輪島やらせてください 大相撲商事時代から業界も外まで知られた有名人だった輪島、中卒たたき上げが主流
の会社で異色の大学卒、平社員でいたのはたったの4か月で即役付き、あっという間に
課長部長と駆け抜け役員待遇を手にした。どんな無理筋でも契約を取り付ける「黄金の左」
は輪島の代名詞でもあった。平のころからリンカーンを乗り回し営業したように奔放な振る舞い
は重役になってからも変わらず身内の借金の担保に会社の持ち株を充てたことが発覚し退職した
際は一般紙でっも取り上げられるほどの話題となった。
この退職騒動と前後して大学の後輩で一足先に全日商事に転職していた石川敬士が
声をかけたところ話はとんとん拍子だったそうだ。(もちろん輪島ほどの業界大物だけにバックには
永田貞雄(伝説の興行師)と五木ひろしの兄、金沢の老舗料亭の大旦那など一筋縄でいかぬ面子が
ついていたがそこは日テレ銀行と馬場社長が筋を通し話を穏便にまとめた)
スムーズに交渉が進んだのは輪島にとって石川が十分に信頼しうる人物であったのが
大きかったのだろう。転職記者発表ののち輪島は商社マンとしての基礎を学ぶため
渡米する。 石川の証言によると輪島は転職することにかなり真剣に取り組んでいたそうだ。
ハワイで訓練中から洗濯は自分でやり鞄も自分で運び路線バスで移動したらしい。
秘書が10人以上いてレストランでのオーダーさえ時分でしたことのない男がそこまで
やるのか、と。また交友関係の広い輪島はハワイにも多くの顧客を抱えていたそうだが
お座敷には一切応じなかったそうだ、裸一貫は口先だけではなかった。
帰国後業務を開始した輪島だが確かに最初の1年は「相撲商事の輪島」の名前で数字が
ついてきた。馬場社長はじめ同僚の配慮もあり歯車は順調に廻っているように見えたが
まずは拙速な復帰に体が悲鳴を上げ休業、この時に社の売り上げが全く落ちなかったことで
輪島に対する周囲の空気が変わったようだ。 休業明けで復帰した輪島を待ち受けていたのは働き方改革を旗印にきつい当たりの
営業で躍進中の営業2課の天龍課長だった。大相撲商事→全日商事と同じ経歴の天龍課長は
「相撲商事の重役がこれっぽっちで音を上げるわけがない」と輪島にえぐい揺さぶりをかけた。
天龍なりの愛情と元相撲商事としてのプライドの発露であったとは思うが「そこまで働かせたら
輪島が過労死してしまう」というラインぎりぎりまで攻め続けた。
結果2年ちょっとで輪島はひっそりと退職することになるが入社の時と違い全く話題にならなかった。
石川が退職について「馬場社長が輪島さんの引く手あまたぶりに嫉妬したというのがあった、
社長のさじ加減一つでどうにもなるのに輪島さんの努力を認めず最後の1年は扱いがどんどん悪く
なっていったから自分はやる気をなくしてしまって退職を決意したらそこに輪島さんが
のっかってきた」という真相を明かしている。
輪島転職は全日商事社史的に扱いが小さいが会社が利益体質に転換できた下地を作ることに
図らずも貢献したはずである。 大森さんとエッチューも、フルサイズでリクエストいたします! ありがとうございます!
色々とエピソードの多い二人だから期待 越中詩郎(改訂版)
全日商事入社後は九州三羽烏の直の下ということになるのだろうか
だいぶ間が空いてるのは多くの入社希望者が研修の段階で厳しさについていけず
辞めてしまったから。
最初に越中にあてがわれた仕事は馬場社長の付き人だった。本業では力プロ商店からの
ベテランである大熊小鹿という手練れの営業マンにしごかれそれ以外の時間は社長付き、
地方出張では荷物持ちにゴルフの付き添い、たまの長い休みはハワイに同行、と
休まる時間がなかったであろうことは想像に難くない。さらに独身寮の寮長職も兼務
するなどよく過労死しなかったというレベルかもしれない。まあ寮では暴君として君臨し
三沢冬木後藤川田というのちの業界著名営業マン相手に博打で小遣いを巻き上げたり
皆でプールしてる食費で野球用具を買ってしまい草野球を強制するなどうまくバランスを
取ってはいたようだ。意外ではあるが越中は頑固で生意気なところがあり馬場社長には
全く好かれてなかったらしい、前任者の大仁田が養子縁組まで持ち出されたのとじつに
対照的ではある。(新日全日国際の三大商社が合同で開催した武道館夢の大商談会に越中は
参加予定だったが当日馬場社長の一存で参加取りやめさせられているのはそのためといわれてる)
そんな越中
にとって希望の光となったのが後輩社員の三沢と佐藤人事係長であった。 若手社員は基本的な小商いしかやってはいけない、という伝統を破り「できるんなら
やってもいい」という方針を打ち出した佐藤係長により若手の営業が変わり一気に
活気づいた。また佐藤係長は「越中なんてずっと俺の付き人させときゃいいんだ」といって
はばからぬ馬場社長に自身の進退を賭して「若手の最前線の登用と積極的な海外駐在」を
ことあるごとに進言、聞く耳を持たなかった社長を説き伏せ越中の海外駐在を認めさせた。
さらに海外事情に誰よりも詳しい佐藤は「一人で行かせても仕事にならないけど二人なら
なんとかなるしいざという時に助け合える」と三沢とペアで海外駐在させることを
馬場社長に了承させた。
メキシコに赴任してからの一連の流れはご存じの通りだ。
新日商事に移籍した越中は何度断られてもひたすら耐える営業で一世を風靡、「ド演歌営業マン」
の地位を確立し長州人事部長(のちの重役)に見出され人事部の要職まで上り詰めた。
馬場社長が嫌った頑固さと生意気さは新日商事ではプラスに転化したのだろう。
後この時代の全日商事を振り返るに目立たない役職ではあったが佐藤人事係長は全日の
キーマンであったことは間違いない サムライシローGJです
大森さんも、フルサイズ希望です! 大森と言えば全日商事にしては珍しく推薦コネなしの大学卒の商社マンだ
ほぼ同期の秋山と比べると学生時代の実績はないに等しいがその恵まれすぎた外見は
「もしや?」と周囲に思わせるに十分なほどいいものを持っていた
入社前にライバルである新日商事系の浜口商社マン養成所に通っていたことがばれ
馬場社長の評価をちょっとばかり下げたが浅子、雅央といった先輩に先んじ営業の
最前線へ駆り出されることになった。
営業ではちょっと大きな仕事を単独で任され→大失敗の繰り返しで数年を過ごした感がある。
とにかく要領が悪くやるべきことを省略してしまいやらなくていい余計なことを重複して
やったりとみている方が胃がキリキリしてくるような仕事ぶりだった。それでも大きな
仕事をふられ続けたのには社長の期待値の大きさと愛情がうかがえたが本人的には先輩からの
妬みなどもあり楽ではない時代だったとは思う、営業1課2課をそれぞれ仕切っていた
三沢部長や川田次長からすると歯がゆくて仕方ない存在だったことは容易に想像できる。
特に三沢部長とはこの頃から「合わないんでないか」と思わせる点が見受けられた。
そんな大森の転換点は業績が下がり始めたことに危機感を覚えた馬場社長が同業他社からの人材移動
を解禁したことから始まった 金沢の老舗旅館出向を自分から逃げ出したのが最大のあやまち UWF国際商事から転職してきた高山とコンビ営業をはじめてから大森は一皮も二皮もむけた
今までの遠慮しがちで消極的だった営業姿勢は180度変わり押し一辺倒、ほぼ押し売り
に近い圧迫営業でガンガン売りまくりガンガン買い叩いて利益を上げるようになった。
馬場社長の理想とする営業マン像からはかけ離れたスタイルではあったがリアリストである
社長はそのスタイルを認めずとも黙認し好きにやらせたことで二人の快進撃は続いた。
しかしターニングポイントはすぐにやってくる。社長逝去。会社は二つに割れ大森は
圧倒的多数である三沢派につき新会社設立に参画する。
新会社では最初はコンビ営業は先輩の浅子を交えトリオ営業となり一層メリハリの利いた
押し売りで高稼働を見せたが高山がアメリカ最先端の規制の全くない総合商取引方面に
ウェイトを置き始め大盛りの立場も不安定となる。気分一新しアマリロのファンク商店の
ドリー社長の手引きでNYのWWE商事に留学するなどしたがそこでノア商店の社員でありながら
同業他社への転籍を試みる動きを見せたため三沢社長との関係が悪化し裁判沙汰寸前まで揉める
ことになりノア商店を退社し伝説のワールドジャパン商事など同業他社を渡り悪く事となる。
ノア商店の三沢社長からすれば大森は「大学出て正論吐く割に使えない奴」だったろうし
大森からすれば三沢は「仕事のできる先輩だけど仕事以外がだらしない」というところだったんだろう
結婚し異業種に就いた時期もあったが最終的に大森は秋山社長時代に全日商事に再就職し一時は役員入りも
うかがうポジションにまで上ったが現在の商社はとにかく時計の針の進みが早い、大森は
平社員として閑職ながらまあまあ幸せそうに仕事をこなしているように見える
今となっては馬場社長時代の全日商事の残り香を感じさせる貴重なベテラン社員となった。
ただ見るにつけ健康状態はあまりよくなさそうなので大事にマイペースで仕事をしてもらいたい 馬場社長のよさですよね、
リアリスト、数字出せればモーマンタイ ちょいと時代飛びますが
タイチとかも入りますかね? そのようで
最期に大好きな鶴見五郎改訂版行かせてください マスカラス、ドスカラス、
ドリー、テリーがまだですぞ とりあえず鶴見五郎〜その後、をいかせていただきます
中途入社ながら全日商事では馬場社長に「困ったときの鶴見」とまで言わしめるほど
重宝された。欧州やメキシコの商社を渡り歩いて身につけたたしかなスキルを持ちつつ
それをひけらかすことなくプロパー社員たちを立てることに徹した鶴見の仕事ぶりは
周囲の評価も高かった、が社の業績が安定上昇トレンドに転じると外様の鶴見は徐々に
仕事が回ってこなくなり天龍課長の独立にかつての商売仲間だったワカマツ用務員(国際
商事での職責、新会社メガネ商事では取締役人事統括部長→用務員)が噛んでいること
を知り直談判でメガネ商事へ移籍する(嘱託契約だったこともあり全日商事とは円満に近い
格好で契約を終了してる)。
メガネ商事ではさして目立った実績はないが営業担当ながら若手社員の教育の適性を
認められ人事方面で腕を振るった。鶴見の指導力は評価が高く当時の新人商社マンたちも
「教え方がダントツで上手だったのは鶴見さん」と口をそろえている。
メガネ商事は主導権争いの内紛で早々に事業を停止したが残党のナガサキ人事課長、
大相撲商事からデューダしてきた維新力らとNOW商事を立ち上げる。
ここでも主に営業より新人育成に尽力する。ただ小規模な商社なのを顧みず
シン駐在員(サーベルとターバンの輸入販売)、上田駐在員(出刃包丁の輸出入)といった
ギャラは高いがピークを越えたフリー商社マンを雇うなど無理が過ぎ早々に事業破綻する。 ここであきらめなかったのが鶴見の国際商事魂の真骨頂と言える
生来のアイデアマンだった鶴見は商社運営におけるコストの見直しに手を付ける。
今までの商社の慣習では新人商社マンを独り立ちさせるのに5〜10年(下手すりゃもっと)
掛かっていたところに着目、根性論ノルマ抜きで短期間でひと通りの作法から仕事術を
徹底的に教え込むという促成栽培法を確立し時間とコストの無駄を大幅に圧縮して見せた
また商品についても家内制手工業の手法をリバイバルさせ自社製造に切り替え仕入れコスト
をほぼゼロまで抑え込んで見せた。流通販売も社長を先頭に自社で賄い利益率も大幅に改善
されていった。事業規模は極めて小さいが「こういうやり方もある」という鶴見社長の経営指針
は後進に大きな影響を与え、また戦後から同じ手法で経営を続ける業界大手にも
一石を投じる形となったはずだ。
近年は体調がすぐれないという噂を耳にするが語りに関しても技巧派の鶴見社長の
益々のご活躍とご健勝をお祈り申し上げて筆をおきたい 鶴見五郎ありがとうございます
次回も楽しみにしております 【呪】コンビニにマスクしないで入ってい来るやつ呪われろ【呪】 マスカラスドスカラスと
テリー、ドリー希望します! ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています