会社、学校内での自分のポジションに近いプロレスラー
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カブキ
外様の地味キャラが開き直って大暴れしたら
なぜか役員にウケて色んなプロジェクトにバッテキされた。
役員、上司、先輩とは仲いいが同期の飲みに誘われない。。。 >>247
丸藤以降は3行くらいしか書くことがないわ、今本田多聞とかどうかなと思案中です あ、秋山、まだフルサイズでは
やっていなかったはずですよね! 秋山潤(準)全日商事としては鶴田部長以来の青田刈り入社を果たした期待大の新入社員だった。
期待通りいきなりの営業配属で先輩に混じってバリバリ一線で仕事をこなした。
馬場社長が「未来の会社を牽引する人材」と公言し、また自ら幹部社員の心得や振る舞いも教え込み
仕事ができすぎるゆえのスランプや壁に悩んだ時期もあるが概ね順調な成長を見せた。三沢部長と仕事上
組むことが多かったが言葉少ない三沢より隣の三課課長で何かにつけてエリートの秋山に難癖をつけ
喧嘩を吹っかけてくる川田から仕事の勘所を学んだようである。先輩社員である浅子、井上、泉田あたりを
あっさり追い抜き同期入社で伸び悩む大森とは圧倒的な差をつけ係長に昇進、渕人事部長の采配で大抜擢をうけ
営業成績若手No1の小橋課長が仕切る新設の営業四課に移動し小橋と仕事をするようになったが
思えばここが秋山にとってのサラリーマン人生の分水嶺だったと見る向きが多い。 小橋課長は24時間365日仕事を続けるワーカホリックの典型で一切のデータを無視し
執念と根性と汗と涙で大口契約を力尽くで分捕ってくる剛腕営業一本やりだった。秋山は
本来頭脳派で、前年実績、為替相場、市場の需要、取引先の財務状況を読み切り少ない手数で
契約にこぎつけるスタイルだったが小橋課長と行動を共にするうちに次第にその色に染まって
しまった感があった。会社が収益記録を更新してる最中で馬場社長もその点には目をつぶっていた。
救いは秋山本人が「いつまでもこの営業スタイルを続けていたらどこかで破綻する、新しい手法も
いずれ必要になる」と自覚し自己研鑽を怠らなかったことだろう。秋山はこの時点で小橋課長だけでなく
三沢部長、田上課長、川田課長らの営業四天王の身を削る営業スタイルに限界がくることも
予見していたようだった。 馬場社長逝去後のノア物産設立に参画した秋山は営業統括企画部長の職に就く。
三沢社長の「自由にやれ」の声を信じた秋山部長は今まで4回5回6回とぎりぎりの値段
を提示して更に値下げした見積もりを繰り返しエンドレスに繰り出す2,9商法を改めて
緻密なデータ分析によりはじき出した必殺の数字一発で勝負をつけるスタイルに切り替えた。
当初は新味もあり受け入れられた新スタイルは従来の商法に慣れ切った顧客にすぐ飽きられ
売上に影響が出たため小橋専務ら守旧派が復権し従来のスタイルにあっという間に戻ってしまった。
秋山部長は学生時代のネットワークを駆使し新日商事の永田主任と禁断の業務提携を執り行ったり
新しい風を吹かせようとしたが黙ってみていた三沢社長派の反感をかなり買ってしまったようだった。
ノア物産では後進の育成もうまくいかず秋山が手塩にかけて育てた社員が揃ってのちにリストラ対象
になってしまうなどの悲運もあった。三沢社長が事故死した後は営業を外れ人事付き部長になるも
社の業績は右肩下がりとなり、心機一転、総会屋が介入していた末期の全日商事に出戻るという大博打
をうつ。誠実、堅実な人柄ゆえか上手く総会屋一派を追い出し小口株主の協力を仰ぎ
現在全日商事の立て直しに奔走する日々だ。ぎりぎりの小所帯で現在は秋山社長の唱える効率よい営業が
機能しており更新も育ちつつあり若き営業部長宮原は業界注目株として脚光を浴びている。
現在の悩みは筆頭株主がしゃしゃり出て営業に首を突っ込んでくるあたりか。ここいら辺を
秋山社長がどうハンドリングして見せるかに静かな注目が集まっている。 白石オーナーが総会屋になってしまっているwwwww 初期ノアの秋山のフロントネックロックはカッコよかったですよね
MMAの技を全日系の選手がカッコよく使うのは非常によかった
後年、VS武藤戦で切り札的に使っていたのは本当に素晴らしい 初期ノアの秋山のフロントネックロックはカッコよかったですよね
MMAの技を全日系の選手がカッコよく使うのは非常によかった
後年、VS武藤戦で切り札的に使っていたのは本当に素晴らしい おお
筆者は現在見る団体は
秋山全日と大日と大仁田関連とウルトラセブン関連と見た
あとは田上の店、川田の店、カブキの店とか >>260
サムライ加入してるんで放送されるものは格闘技とDDT以外は見手ますね
生観戦は思い立ったら当日券でもゆったりみれる全日本が多いです >>261
田上の店、川田の店、カブキの店にはよく行かれるのですか??
自分も、今度ライガーの引退試合で久々に上京しようと思うので、
どれかには行ってみたいかなあと 田上の店以外は各一回ずつ行きましたがカブキの店は移転前の方ですね
田上の店は行ってみたいですねええ、ついでにシンの親戚のカレー屋さんもはしごしたい 全日商事のかた、アポロ菅原お願いできます??
近況がまったく分からないので、気になりますね アポロって存命なはずなのにGスピリッツの国際プロインタビューとかにも
出てこないんですよね 本田多聞 履歴だけ見れば過去最高値の大型新入社員だった。鶴田部長の系譜に連なり
部長も入社当時の本田をかなり気にかけていた。「俺みたいに幕下付け出し
でやるより一番下からスタートしたほうがいいな、その方が味方も仲間もできるよ」という
アドバイスは本田にとって非常に有用であったと思われる。本田はそれこそ雑巾がけから
年下の先輩に交じって汗を流した。経歴を鼻にかけることなどなく謙虚かつ寡黙に黙々と
作業をこなすのだがどうにも要領の悪さばかりが目についた。二度手間はおろか三度手間も
多く1の熱量でこなすところを3かけてバテてしまうケースが多く営業で独り立ちする
のにかなりの時間を要した。 営業に配属されてからもその真面目さと裏腹に不器用な面が目立ってしまい
最終的に全日商事在籍時には一本立ちを果たせず補佐役がせいぜいだった。
三沢部長の独立→ノア物産設立に参画してやや潮目が変わった気がした。
三沢社長の決断で業界内では絶対交わらない水と油といわれてた橋本真也CEO率いる
ゼロワン本舗と禁断の業務提携を交わした際敵陣に井上雅央営業係長(心得)を伴い
乗り込んで無理筋交渉を仕掛けてきた橋本CEOに一歩も引かずイーブンに渡り合った
のは本田の真骨頂だったと言える。(井上は交渉中に卒倒し病院送りとなった)
以後小橋専務が実権を握る時代になってからは中堅としてポジションが固定し
ルーチンワークをこなす日々になってしまったのはあまりにもったいなかった。
三沢社長急死後の経営不振の流れの中リストラ宣告を受けることになる。
永遠の未完の大器のままフェイドアウトし現在は学習塾を経営しちびっこの指導に
当たっている。本田の愚直なまでの熱心さと真面目さが報われてほしいと切に願いたい。
また現在でも自身がボーカル兼リーダーだったベタなパンクのカバーバンドの活動は
継続しているのだろうか 多聞、バンドのボーカルしてたんですねwww
おお、破壊王とも渡り合ったのは
かなり濃いノアオタでも忘れているのでは??
多聞の育成失敗はなんとなく谷津さんにも被るかも 全日商事のかた、
あまり面白い社員ではないですが
マサオもお願いできます?? 井上雅央 社の売り上げの4割を一人で稼ぎ出すとまで言われていた天龍課長の独立
のダメージは馬場社長が想定したような大きな穴にはならず、逆に鶴田部長の
営業一課と三沢課長の営業二課の激しい数字争いによりあっさり前年実績をクリアしてしまった
のは嬉しい誤算だったと言えよう。ただ問題がなかったわけではない、社員総動員体制で職務を
回してる状況で圧倒的に不足していたのが下働きだった。ここで新人採用の条件をやや下げ
入ってきたのが浅子覚と井上雅央の二人だ。井上は山梨県人会のつてで鶴田部長経由で入社した。
その証というかお守り替わりが鶴田部長から受け継いだ星柄のネクタイで井上も誇らしさと恥ずかしさ
の入り混じった様子で着用してたのは広く知られていた。同期の浅子と雑務に励んだが
リクルート活動を強化した全日商事には泉田、秋山、大森、本田という期待値の高い
学卒新人が直後に続々入社し二人はもれなく後輩4人に抜かれるという屈辱を味わってる。 二人は営業に回され、浅子は三沢次長の二課、井上は川田係長の三課配属となる。
営業といっても主な仕事は川田係長の鞄持ちが多く中々一人前の仕事を与えられることなく辛抱の日々が続く。
ポスト鶴田部長時代に入り渕人事部長が腕を振るう時代になってもあまり大仕事には
恵まれなかったが評価は低くなく、持ち前の柔らかさと腰の低さ、あたりのソフトさ
は認められており、この頃体調が思わしくなく仕事に影響が出ていたベテランの井上海外業務
渉外担当主任の代わりに新規の海外小口取引先を様子見的に担当する役を任されたりもした。
馬場社長逝去後の三沢部長独立に賛同しノア物産に移籍し秋山人事部長の推薦で
大取引担当に抜擢されるなどしたが結果を残せず万年主任のままリストラ退社という結末を迎えた。
結末を迎えただ全日仕込みの腰の低さと当たりの柔らかさは需要が尽きず業界に残りフリー営業マンとして
活動中。自身をリストラした会社などとはまず関わりあいたくないものだが気にせず
ノア物産の要請にも応じてるところあたりに雅央の人柄を垣間見る事ができる。 おお
確かに普通の社会人でも
リストラした会社とは縁切りたいものですよね
マサオ、そこはちょっと不思議かも ちょいとレスラー(営業)じゃないので
むずいかもですが、
京平と龍、あとジョーさんとかもお願いできますかね??
例えづらそうですが。。。 ちょいと、全日商事臭が少ないですが、
大仁田と高山、お願いできます?? おお
ちょいとスレが止まってしまった
全日商事まだみてみたいなー 元子時代 馬場社長逝去に伴い三沢営業部長が社長に就任することとなった。
業績が高止まりから緩やかに下降線を辿っていた全日商事にとってはピンチ
だったが悪しき古慣習を一掃、刷新、の大チャンスでもあった。だが夫の死により頑なさ
を増した元子夫人は平取ながら筆頭株主の権限で三沢社長の社内改革にことごとく待ったを
かける事態が頻発し事は一向に進まぬどころか退行気配が強まり閉塞感の蔓延というかなり
悪い状況が続いてしまった。
年7回行われる日本武道館での見本市兼即売商談会は社を挙げた一大イベントであったが
内容のマンネリと旧態依然な商品ディスプレーの改善を三沢社長は強く主張したが夫人の
「それは夫のやり方ではない」の一言で片付けられたあたりで三沢社長も独立を決心したようだ。
約款上代表取締役社長は簡単に辞任できるものではないが元子夫人も脛に傷がないわけではなかった。
高利益を上げているアパレル部門の子会社の(有)全日巨大サービスの利益を赤字の本社に還元せず
自分の口座に入金させている公私混同がまさに夫人の権力の源泉でもあり泣き所でもあった。
この件を不問にすることと引き換えに三沢社長一派は独立を果たす。 ここからの夫人の動きは目を見張るものがあった。業界の巨人ももはやここまで、の大方の
予想に逆らうかの如く残留した渕人事部長、川田営業課長を役員に昇進させハワイ在のモスマン
駐在員を軸に自ら代表取締役社長となり社継続を宣言、さっそくかつて袂を分かったジャパン物産の
大塚部長に連絡を取り営業マンの頭数を確保し営業活動を継続する。更には隠密行動でフリー営業マンの
天龍を役員待遇で復職させるという荒技を繰り出し「元子社長は侮れない」という空気を醸成することに成功する。
その上同時進行で永遠の敵と言われた新日商事の当時の本流だった長州人事担当取締役ーゴマシオ広報部長との
パイプを通してしまい業務提携も開始される運びとなった。ここでの白眉は野心家のゴマシオ部長に社長の座を
ちらつかせ提携の都度有利な条件を引き出し続けることに成功したうえ、その気にさせたところで
好条件での友好的買収を持ち掛けてきた新日商事の武藤営業部次長に赤字会社を売りさばいた
事であろう。その後の全日商事の顛末はご存じの通りトラブルと規模縮小を交互に繰り返し今に
至っている。夫人を「女が口出しすると国が傾く」の実践者であるとみる関係者は多いが
夫人が社長だった時代の得体のしれぬカオスぶりと熱量、反体制ぶりを懐かしむ者も
一定数存在し鬼籍に入られた今、再評価の声が高まっている。「3回忌までは私財を食いつぶしても
絶対会社は潰させない」、業界に二度と出現しないと断言できる愛すべき女傑である おお
川田が健介に勝ったり、
VS新日で優位にことを進めれたのは
ゴマシオ部長に社長をちらつかせたからだったのですね 元子最後の意地、
ハンセン引退ドームはやっぱ私財もあったんですかね
ハワイに豪邸とか勝ち組すぎるww 女の意地というのはすごいと思います、大量離脱があった以降のシリーズは
すべて赤字だったと思う
3回忌の武道館はびっしり入ってたけどよく最後まで武道館を手放さなかったと思う 最期まで元子シンパ
→殺人医師、曙、ケア、TARU、ジミー鈴木、京平
かなりクセのあるメンツですよねww
ヤ〇ザチック、暴走族チックなひとが多いかも スティーブウィリアムスが馬場の何回忌だったかに呼ばれてないのに
わざわざ自費ではるばるやって来た、というのはいい話 木村健吾
とりあえず主戦力の一人としてメインの仕事は任されているが、
全体的に見ると足を引っ張るのが俺。 ダメ社員の代名詞のように健吾がでてくるけどその実態は社内本流の坂口派の番頭格で
歌唱力と腰の低さで藤波長州なんかより段違いで座持ちが良く取引先接待要員として欠くことの
出来ぬ存在だと思う、かといって仕事ができないかというとそんなことはなく十人並みにはこなしてる
という印象がある、マイティ井上からポリスマン的な要素を除去すると健吾になるのかな 大熊元司 リキ商店時代からの馬場の側近であった。
リキ商店の幹部連の乱脈経営に見切りをつけ新会社である全日商事
立ち上げにも創立メンバーとして参加する。メイドインUSAの商材輸入をリキ商店
に妨害されるというピンチがあったがタイミングよくアメリカで単身移動販売をしていた
大熊がリキの息のかかってないアマリロのファンク商店の創業者ドリーシニア社長に
気に入られてその後10年以上にわたり輸出入の太いパイプを構築するきっかけを作る
という殊勲をあげている。本来なら幹部候補生として帰国後はそれなりの地位についても
不思議ではないが人材不足の時期と重なり営業に配属される。 営業では愚直なまでの力と恫喝一本で押し切る商法を得意とし一定の業績をあげる。
中途入社の小鹿とのコンビ営業も同様のスタイルで中堅社員エースの地位を確立した。
ただ人柄が優しいのか不器用なのか仕事がうまくいってもはたから見ると小鹿がコントロール
してるような印象が定着してしまい大熊=頭脳労働には不向き、というレッテルが貼られてしまう。
そのせいなのか大熊自身は実績を積み幹部コースに編入されるのを待ちわびてる節があったが
馬場社長は翻意したかのように大熊を現場に置き続け経営陣に引き上げなかった。
それらのストレスか元々多かった酒量がさらに増え体を壊し唐突に逝ってしまった印象である。
社史のなかでそれなりの章を割かれてしかるべき人物だが語られることは少なく
後輩から聞こえてくるのはその酒癖の悪さばかりなのが現在の評価であるが確実に全日商事の
顔の一人であったことは間違いない。外様的な存在の長州元営業課長やハンセン駐在員の口からは
思い出として「全日商事でナンバーワンのタフネゴシエーターは大熊だった」と名前が
上がったりもする。この人の顔とグリコポーズを見ると全日商事の華やかなりし時代が
蘇る、という感慨に浸っている関係者は多いはずだ。 クマさん、ありがとうございます
なかなか
ラッシャーとかもお願いできます?? ラッシャー木村 双六のような人生のふりだしは老舗の国際商事だった。大口取引先
を失って以降の国際は低空で迷走を続けており人材流出もあり消去法
で営業部長に抜擢されたのが木村だった。地味にかつ確実に仕事をこなす職人的なイメージ
が強い木村だが実のところいち営業としては及第の数字をあげるのだが営業部丸ごと、ひいては
会社を潤すほどの大仕事は全く出来なかったといえる。全日商事の提携においても若手の
鶴田主任がカウンターパートにあてがわれ馬場社長を交渉の席に引きずり出すこともかなわず
うまみのある部分はすべて全日商事に取られてしまったのは木村の限界値を示す好例と言えよう。
資金繰りが苦しくなるなかアイデアマンの吉原社長が金網、チェーンなどの鉄鋼製品に商機を見出し
独占販売を開始するなど全日と新日の二大商社の隙をついて延命を図るが長続きは
せず国際商事は倒産、社員はそれぞれの道を歩くことになった。 木村は浜口寺西を伴い新日商事に移籍する。当初は大物の移籍が業界内でセンセーション
を呼び営業成績も上がったが賞味期限切れもことのほか早く子会社のUWF物流に左遷され
最終的に全日商事にたどり着く。ここでも余剰人員になりかけるも「隠れた超有能営業マン」
の異名を取る旧知の鶴見社員のサポートもありしぶとく生き残る。天が木村に微笑んだのは
何と言ってもその後馬場社長の懐に飛び込んだことがきっかけだった。寡黙な男同士立場を超え
意気投合、「馬場社長に接触したくばまず木村」という鉄壁の流れが構築されその絆は馬場社長
の逝去まで続いた。
以後ノア物産に参加するも木村の営業マン人生は実質馬場時代の終焉と時を同じくして幕が
降りていた、とみるのが妥当だろう。
「木村を悪く言う関係者はいない」といわれるほど業界では珍しく敵のいない好人物だったという
評価が定着してるがかつての国際時代の部下〜米村、寺西、剛、高杉、菅原、鶴見、
原ら〜がリストラされるのを見殺しにしてしまった罪は永劫消えないだろう。
木村の立場で何とか口添えしてやれなかったものか、とは思う。
ただ裏切り同然に新日商事に移籍した際の契約金を丸ごと吉原社長に渡したのも
木村である、場面場面で本人なりの言い分もあったはずだが愛する家族にすら何も言わず
に墓の中へもっていってしまった男は損得への執着が薄い人物だったのだろう。 ラッシャーすげえです
筆者のかたはお好きな作家とか誰なんです??
なんだか三島とか昭和のガチ作家の文体ぽくて
かなり味わい深いですw 三島由紀夫は戯曲が好きです、特にサド侯爵夫人と鹿鳴館
後は井上靖、シェークスピア う〜ん
昭和のプロレス者は文学、映画好き多かったのも理解できますw 永源遥 取引先の意向一切無視で短時間で強引に契約を取り付ける、という斬新な
ハイスパート商法で業界を一世風靡した新日商事の長州営業課長が全日商事
に掟破りの移籍を結構した際にその一員としてついてきたのが永源だった。永源は猪木社長の
ベンチャー、東京商店を振り出しにリキ商会、新日商事と渡り歩いた業界の古参でもあり
長州グループの中では真っ先に馬場社長の懐へ飛び込んだ。キャリアも長く営業マンの腕も
万人が認める実力の持ち主であったがそれ以上に事務能力、折衝能力が高いことを旧知の馬場社長
は知り抜いており永源を総務に配属する。そこで永源は実力を発揮、それなりにこなすが
仕事が大雑把でミスも多かった小鹿総務部長の椅子をあっさり奪い取ることに成功する。
暇な時期に営業をやらせればその人たらしぶりをいかんなく発揮し数字をあげるため
馬場社長の懐刀的な地位を得るのに時間はかからなかった。馬場社長がプロパーに気を
使い永源の役職を総務課長以上にすることはなかったが実質の番付では役員同然の
所まで上り詰めることに成功している。長州らが新日商事にUターンする際もいち早く
馬場社長に忠誠の意を示して見せ離反組の情報収集を行う等フットワークと立ち回りの
良さを周囲にいやと言うほど見せつけた。 馬場社長逝去まで永源の地位は盤石と言えた。特筆すべきは社内の若手に対しても
自分の手柄を主張することなく相手を立てることを第一義として貫いた事だろう。
役得が非常に多いポジションに長くいたためそこいら辺の気前はたいそう良かったらしい。
三沢社長時代になるやここでも変わらぬ存在感を発揮しノア物産設立に際しては
総務の枠を飛び越え金庫番としての立ち位置も手中に収める。三沢社長の腹心の
仲田専務とも表面上は波風を立てずノア物産は一時業界の雄とまで目されるようになった。
ただ三沢社長急逝前後から大口取引先であった日テレ商事から足切りされたりリストラ策を無理矢理
推進したため業績は急降下、ダメ押しは永源が連れて来た出資者が反社認定の詐欺師であった
ことなどからその出資者を取り合っていた仲田専務とともに平に降格させられる懲罰人事を食らう。
その後の突然の死まで永源は社の裏仕事を仕切り続けてはいたようだ。
故人をかばうわけではないが反社との付き合いは業界の成り立ち上避けて通れるものではないのだが
それでも常識の範囲を超えず付き合っていた永源は時代の流れによって大きなとばっちりを
食わされたと言えまいか。氏の葬儀には大物政治家や有名芸能人が参列するなど
死してなおその交友関係の広さを見せつけた。風貌からは想像も及ばないが業界で
ナンバーワンの筆まめと言われており達筆でもあったらしい。
あ 凄くマメだったらしい、小さなタニマチにも巡業で札幌行けばラーメン、
函館じゃ蟹とか付け届けも欠かすことがなかったという
それであの風貌と語り口だからやくざだってコロっといかれちゃうかな 京平と龍 おそらく子会社で下請けの(有)全日商事巨大サービスに籍があったと思われる。
巡回直売の会場設営撤去などの下働きに従事していたがほかならぬ馬場社長が二人を
引っ張り上げた。社長の目に留まったのは恐らく、若さ、要領の良さ、身のこなしの軽さ、そして
何より二人が社長に憧憬の情を強く持っていたことが決め手だったのだと思われる。本来は裏仕事で
終わるところを特別待遇ともいうべき若くしての本社勤務にともに抜擢される。
京平は社内警備、龍は社内放送担当としてキャリアを積んでいく。無論抜擢された裏で二人は
一年365日、プライベートなく寝る間も削り馬場社長に仕えた。周囲、特にサービスの先輩からやっかみ
の声も出たが「ハワイに同行しても朝から晩まで自由時間は一分もない、お前らにおんなじ事ができんのか?」
という京平に反論できる人物はいなかった。社長の右腕左腕として忠実に仕えた時間は馬場社長の急逝まで
続くことになった。 元子未亡人が筆頭株主として社の経営方針にまで口を出す時代が来て二人は明暗を分ける。
「いずれ三沢社長に全権を譲るのは既定の路線だから気が済むまで夫人の好きにやらせたらいい」
という京平と「馬場社長に恩義はあるが夫人の言うことは受け入れられない」とする龍。
龍は結局三沢社長を焚き付け独立に参加し社長の懐刀、実質ナンバー2の地位を確保し
ノア物産をメジャー企業に持ち上げることに成功したがその強引すぎる交渉方法や取引先への
恫喝まがいの案件を無理やり飲ませる等批判する声も多く三沢社長急逝後、業績が著しく悪化する中
反社の出資者に金銭をたかっていたことが露見し失脚、ほどなくして急病でこの世を去っている。
京平は武藤社長時代に一度退社してるが短期間で復職しずっと全日商事に籍を置き
夫人がなくなるまで仕え続けた。現在に至るまで本社社屋兼工場兼寮を無償で貸与されてるのは
京平が警備のトップとして社に居続けていることが大きく影響してるそうだ。
ただ近年は年のせいか仕事の精度はかなり低下してると言わざるを得ない。
「俺のいるところが全日商事」という発言は賛否両論といったところか。 改訂版)マイティ井上 国際商事の営業部を一時といえ牽引する立場だったほど
仕事に華がありかつ的確だった。ヨーロッパ全土を行商して
回った国際商事の営業マンと言えば井上と鶴見の名が上がるが契約を取り付ける手練手管
はイーブンとしても仕事ぶりの派手さ、独自性という点では井上に軍配が上がるだろう。
大人しい営業マンが多い中でその勝気さは抜きんでており新日商事との業務提携においては
なにかあってはいけない、と切り込み部隊の山本星野と距離を取るよう吉原社長が腐心したほど。
国際商事倒産時も本来なら社長の斡旋で新日商事に行くはずだったがそれを拒否し全日商事の
馬場社長に談判し入社を決めた。その際に引き取り手のなかった新入社員の冬木と菅原も一緒に
連れていくという面倒見の良さも見せた。 全日商事に再就職してからは経験を買われ小口取引を取りまとめる主任として
活躍する。国際商事からの移籍組はほかにもいたが最前線でリストラの心配をする
必要なく働き続けた、という点では井上に勝るものはいなかったはずだ。
安定感という点では生え抜きでも井上レベルの営業マンは数えるほどしかおらず
馬場社長の信頼も厚かった。また新規海外取引先との様子見の折衝では鶴見と並び
社に貢献したがヨーロッパ時代の経験が大きかったと思われる。
井上は意外に裏社会に通じる人脈も持っており馬場社長が民族派右翼を装った総会屋に
恐喝された際にも井上の顔で輩を撃退するなどの影の貢献度も高かった。
遊び人を自認してたゆえか後年は成人病に苦しみ営業から身を引き嘱託として
警備員に転身した。
こういう歯に衣着せず社長にも直言を辞さないタイプの社員を馬場社長は嫌い閑職に追いやる
事もあるのだが最後まで一線で働きとおせたのは馬場社長が井上をできる奴と認めていた
証拠に他ならない。余談だが井上は多芸で座持ちが非常によく取引接待で先方からの
指名ナンバーワンだったそうだ。全日商事では多少ランクが落ちたが宴席には欠かせぬ人材
だったと言われている。 改訂版)百田光雄 父は言わずと知れたリキ商店の創業社長にして日本に商事会社
という形態を持ち込んだ業界の祖である。その父の死後リキ商店
へ入社するも同年代に木戸修、佐藤昭雄、藤波辰爾、安達勝治、永源遥、戸口正徳、といった
異様に仕事のできる人材〜後年の業界のキーマンたち〜が目白押しで比較して百田は低評価であった。
ただそんな中で腐ることなく残業も厭わず愚直に仕事を続ける姿勢は当時米国流取引交渉術を教えていた
カールゴッチは高く評価しかわいがったといわれている。
平社員のまま数年を過ごした百田だが百田家とリキ商店の間にあった「いずれ兄義浩が父の跡目を
継いで役員に就任させる」という約束を反故にされた時点で退社する。
百田が次の展開を思案してるタイミングで声をかけてきたのは全日商事設立の準備をしていた
馬場社長だった。「リキ商店はもうもたない、うちで面倒を見るので立ち上げに参加してほしい」
馬場社長のたっての願いに百田は二つ返事で応じた。 全日商事に籍を置いた百田だが所属は人事部付というあいまいなもので主な業務は
新入社員教育で連日実地を交えたOJTに明け暮れる日々が続いた。もう一つの業務は
倒産したリキ商店から流れてきた一筋縄ではいかぬ日本中にいる一癖も二癖もある
古株の取引先からの売掛金回収作業であった。小鹿営業部長が適当な仕事の上、口約束
で商品を先渡ししてることが多く難儀な作業だったがここでは亡き父の威光は絶大で
馬場社長の名代としての役割を十二分に果たすことができたようだ。
目立たぬ仕事が多い百田だったが多くの顧客から百田を評価、後押しする機運が生じ
それがたまたま馬場社長の耳に入り水道橋での商談会を井上主任と二人で仕切り会場は
札止め、上場の売り上げを記録し営業マンとしてもキャリアの長さが伊達ではないところ
を見せた。以降は総務部主任として裏方仕事をこなし馬場社長逝去後の三沢ノア物産設立に
あたってはメインバンクの日テレ銀行とのパイプ役をこなした。
いまもフリー営業マンとして息子と二人三脚で中小商社で活躍している。特筆すべきは
そのコンディションの良さと30年前とほぼ変わらぬ仕事ぶりを見せてる点だろう。
リキ直系という看板は百田を語る上ではずせぬ要素だが若いころからの愚直さ、まじめさが
彼のサラリーマン生活を永らえさせてるのは疑いのないところだと思われる。 興味深いです
筆者のかたとしては、
日テレ銀行にノア物産が切られた要因てなんだと思います? >>313
私見ですが、巨人戦の視聴率低下、それに伴う日テレ運動部の社内での立場の弱体化、ヴェルディ問題
リーマンショック、「プロレスは正力時代からの日テレの至宝」とか言う守旧派の
おじいちゃんたちがいなくなった、ここらあたりが複合的に作用してたと思います。 たしかに!
回復したと言われる新日ですら
視聴率はボロボロ
ワープロがなんとか切られないのは
ブシロード新日に、坂口さんが相談役でギリギリ残っていて
テレ朝OB、役員と話しができるから、だとか 改訂版) 鶴見五郎 大卒で国際商事に入社。元々欧州のビジネススタイルに憧れて
国際商事を選択しており会社と取引のあった大物個人ブローカー
のビルロビンソンやカールゴッチからビジネスのイロハを吸収した。営業マンとしての基礎が
ある程度固まった時点で念願の欧州転勤のチャンスを得る。フランス、ドイツ、ベルギー、
イギリス、とそれこそ欧州の田舎までしらみつぶしに回り営業を続けたが特筆すべきは
どの国でも現地の商慣習に上手く馴染み取引先に重宝された点だろう。日本流を貫き無用な
トラブルを抱えたり干されてしまい本社や実家に無心をする営業マンが少なくない中で鶴見の
適応力と順応力は高く評価されてもいい。
ただメキシコを経由し帰国後は同様の経歴を持つ井上係長の活躍の影に隠れてしまった感があり
平の営業マン兼便利屋として国際商事倒産までを過ごす。取引先の東京十二銀行が融資の条件として
「鶴見社員へ課長級の裁量を委譲するべし」との提言を吉原社長に申し入れたが約束は果たされず
社は終焉を迎えた。ただここでくじけなかったところに鶴見の秘めたる強い反骨心が感じられた。 吉原社長の斡旋で多くの営業マンは新日商事に吸収される予定だったが鶴見は扱いに
不服を感じかつて知ったる欧州へ飛び出す。若いころの現地での営業活動の実績が高く
評価されており三顧の礼で迎え入れられた鶴見は再び欧州で営業活動を再開する。
その後かつて業務提携で縁のあった全日商事に契約社員として加わる。ここでの獅子奮迅の
活躍ぶりは広く知られている所であるが仕事を完全にコントロールしつつも自分を殺し
生え抜き社員を引き立てる手法と海外の取引先への接待は馬場社長に目を細めさせ「困ったときの
鶴見」と言わしめる間での高評価を受けた。だが契約社員という立ち位置の先行き不安があった
のだろうかSWSトレーディングの設立に参加し全日商事とたもとを分かった。
後年は居住地で鶴見商店を興し後進育成などにも手を広げて活躍した。
人生にもしがあるならば鶴見の場合はメキシコを経由した後北米に進出していれば
かなりの活躍ができたのではなかろうか。「相手を立てて自分を殺すが仕事の主導権は握っている」
「自分を殺しても己の存在価値が下がるような不細工な組み立てはしない」仕事の上手さでは全日
商事でトップといわれてた高千穂主任と同ランクにあったと思う。
余談だが鶴見の営業日誌はかつての時代の有り様が細かく書き留められておりありがちな誇張もなく
なにより正確という評判で業界紙のライターも歴史をさかのぼる際に参考にしているらしい。 鶴見の引退と
小橋の引退が同じ年というのが
なんだか全日商事ファンとしては
不思議な運命で興味深いですよねww ラッシャーが馬場と組み始めてから鶴見は余っちゃって小橋とか若手相手のシングルが増えた
さすがにシングルマッチも組み立てがうまくて小橋とか相手にのらりくらりと余裕を見せつけつつ
たまにアクセントでチェーン攻撃とかの反則技を混ぜていた
鶴見の「悪役」という立ち位置からすると反則は「必要な仕事」なんだけど
馬場が解説で「若手相手にああいうのはよくないですねえ」というのを聞いて
鶴見は「直接注意してくれればいいけどそろそろ潮時なのかな」と感じてワカマツに
連絡を取ったらしい、立場を分かりすぎてるというかそこまで忖度しなくてもとも思うが
鶴見にとって譲れない部分もあったのかなとも思う
もし残ったら大量離脱後それなりに重宝されたと思う、ブッチャーとタッグなんてよかったかも あまり好みでないかもしれませんが
大仁田、お願いできますか?? KENTAちっくな社会人て
東大卒とかで全くのぽんこつとかなんかね 大仁田厚 入社後九州三羽烏と言われた中で一番査定が低かった。当時人事部付きで
新人教育担当だったサクラダ社員によると「呑み込みが早いのは渕、真面目なのは
薗田、根性なしですぐ泣くのが大仁田」という評価だった。小物小口取引を主業務としていたが
特筆すべき実績を全日商事時代には残してない。関係者が口をそろえて言うのは大仁田の処世術
についてだ。日テレ銀行から出向してた倉持課長は「のちのちあれほど大成功するとは思わなかったが
当時から取り入ってくるのが上手く人たらしのお調子さんだった」と証言してる。
馬場社長と夫人にもプライベートでえらく可愛がられており養子縁組の話まで持ち上がった
という。要領の良さも目に付いたようで地方での直販会などで新人社員は販売業務をやりつつ
配車や会場の設営撤去までこなすのだが大仁田は下請け業者のおじさんたちに取り入って
そういう雑務を振り分けて手伝ってもらっていたらしい。また全日商事では副業は禁止されて
いなかったが手を出すのは退職が視野に入ってきたベテラン社員、というのが相場だったところを
20代からスナック経営に手を出すなど事業欲も旺盛だった。ただ好事魔多しというのか
オーバーワークで体を壊し全日商事退職を余儀なくされてしまう 様々な職を転々とした後商事会社の世界に戻って来た大仁田は新間寿,真樹日佐男、といった
名うての業界ゴロらと単発的に手を組み展示即売会を成功させ復活の狼煙をあげた。
元々の知名度と復活のインパクトでフリー営業マンとして活動するのか、と思われてた矢先に
元全日商事の後藤社員と組みFMW商会を設立する。当時は業界の二大巨頭の全日商事、新日商事ですら
クリーンイメージを前面に押し出した前田社長の新興UWF商事にシェアを食われている時代で
取り扱い商品ラインナップで2枚も3枚も劣るFMW商会は「半年も持つまい」とみられていた。
しかし爆弾、電流有刺鉄線、地雷などの斬新すぎる商品と身体を張って使用見本を提示した
大仁田社長の型破りな商法に注文が殺到しあっという間に中堅商社としての地位を確立。
一般マスコミにも業界の寵児として好意的に取り上げられた大仁田社長の知名度は
馬場社長、猪木社長といった業界の超大物とあっという間に肩を並べてしまった。
その後引退復帰を繰り返し今に至るのは有名な話でいまも熱烈な顧客を手放していない。
大仁田の当時の成功を目の当たりにして「俺にもできる」とばかりに零細商社が乱立し
その潮流は今も変わっていない。「商社マンと商品の質が下がったのはあいつのせい」と
戦犯扱いされることも多いが業界の裾野を広げ多少なりとも風通しが良くなった功績も
称えなければ大仁田にとって不公平だろう。 >爆弾、電流有刺鉄線、地雷などの斬新すぎる商品と身体を張って使用見本を提示
ここらが特に面白すぎていい スタンハンセン 学生時代の先輩だったテリーとの縁でファンク商会に籍を置く。丁稚として
下働きを積み重ねていた時期に全日商事から幹部候補生として米遊学中の鶴田と
知り合いともにビジネスのイロハを学んだ。その後全日商事駐在員として来日するが仕事の精度が低く
長期滞在はかなわず帰国。米国内を移動巡業販売で回るようになりNYで実績を上げたことにより現地を
取り仕切るWWWF商事のビンス社長の伝手で新日商事駐在員として派遣され再来日を果たす。
一度目の来日で失敗していたハンセンは日本市場における名刺代わりのオリジナル商品の必要性を痛感しており
今回満を持して持ち込んだのがテキサス式の極太荒縄洗濯ロープであった。
日本製の収納しやすい細く柔らかいものと違い太くごつごつしており扱い、収納はひと手間だが
「一発でスカっと乾く!」と湿度の高い日本で未曾有の人気を博し商品はバカ売れ、ハンセンは
一躍no1営業マンとなり新日商事に金の雨を降らせた。
日本での地位は安泰、のはずだったが改良類似品をヒットさせた後輩ホーガンの台頭や
全日商事のno1営業マンブッチャーを引き抜くなどの新日商事の自分をないがしろにするような
方針に先行き不安を感じアマリロのテリーの手引きで全日商事へ移籍することになり
業界にセンセーショナルかつスキャンダラスな話題を振りまいた。 ビジネスのイロハにうるさい馬場社長と基礎や仕込みより業務の勢いとスピードとテンポを
最重視するハンセンのビジネススタイルはかみ合うことはないだろう」という悲観的な見方
をする向きが多かったが意外にも馬場社長とハンセンは非常に手が合った。
「馬場社長がセオリー無視のハンセンのビジネススタイルを受け入れた」のが功を奏した
面もあったがハンセンも馬場社長に敬意を表しテンポを若干落としたのも結果として吉と出た。
一線から身を引こうとしていた馬場社長はハンセンから刺激を受け営業マンとして最後にひと花
咲かせることに成功した。その後も駐在員ながら社の営業を牽引し続け鶴田部長をはじめ
天龍次長、三沢社長、川田次長、小橋次長、と社史に名を残す営業マンの前に壁として
立ちはだかり切磋琢磨した。馬場社長の逝去後の大量離脱時に退社し帰国した。
洗濯用荒縄は色々なネーミングで100種を超える商品が販売され定番となっているが
本家本元の「テキサス式洗濯用極太荒縄」以上に一発でスカっと乾燥する高性能なものは当然ない。 日本人でありながら
ガイジン枠でキマラ駐在員と活躍、
馬場社長が生きていたら
WWFトレーディングのスパスタにもリクルートされていた
イズさんもお願いいたします! ジョニーエース 兄は言わずと知れた営業マンのアニマル。短時間の一方的な交渉で
高額商品を大量に売りさばくスタイルで業界に革新を興した重要人物だ。
当初は兄のコネで付き人的立場で来日していたが馬場社長乗換案内目に留まり駐在員となる。
仕事は雑で筋もよくはなかったがなんとか日本のビジネススタイルになじみ溶け込もうと
する熱心さが買われたようだ。営業成績はあまり上がらなかったが駐在員のボス的存在である
ハンセン駐在員を立て、また新人駐在員の面倒をよく見たりと業務外の献身的な働きが
評価された。渕人事部長によると「馬場社長の指令をハンセンに伝えるんだけどハンセンが
いないときはエースに行って皆に伝えてもらったり」とのことで本社と駐在員のつなぎ役としても
重宝されていたようである。 当時の日本式ビジネスはかなり複雑かつ独自の進化と深化を遂げており
日本駐在員とはいえ一年を通して日本にいるわけでない外国人営業マンは
そのスタイルについていくこと自体がかなり厳しい状況になっていた。
ハンセンやウィリアムス医師といった大御所でさえアップアップし始めてる中で
パートナーチェンジなど手を変え品を変え技量に劣るエースが馬場社長逝去まで
その地位を守ったのは皆が認めるエースの「地頭の良さと先行きを読む目」のお陰なのだろう。
自分に高評価を与えることのなかった三沢の独立に迎合せずに電撃的にWCWエンタプライズ
入社〜からのいつの間にかWWF商事副社長にのし上がったのはまさに機を見るに敏、にも
程があるまでの成り上がりぶりであった。現在世界市場をほぼ独占する会社において
全日商事風のムーブが見れることがあるがそれは間違いなくエースが持ち込んだレガシー
に他ならない。 米国医療法人
ウィリアムズ医師、お願いいたします! 泉田純 即戦力を期待されての全日商事中途入社であった。本人は第一線の営業を
希望していたが若手が不足していた総務部に配属される。
取引先と連日身を削りバチバチやりあう営業と比べて穏やかなイメージの総務だが
木村次長、永源課長、大熊課長、百田主任、と海千山千の曲者揃いの中で泉田は総務の
ルーティンを身に付けてゆっくりだが商社マンとして成長してゆく。ただ営業への憧憬は
捨てがたかったようで後輩の秋山大森らの仕事ぶりを目にして自分の立ち位置に不安と
不満を感じそれを鶴田役員に相談したりもしてるが「営業だろうが総務だろうが堂々と胸を張って
自分の仕事をしろ」、役員に王道の教えを諭されてひとまず吹っ切れた泉田は仕事にまい進する。 総務で頑張る泉田に目をかけたのは馬場社長、というか社長夫人だった。夫人のプッシュ
で繁忙期には営業を兼務する総務営業に泉田を抜擢する。問題は社長夫人が営業マンとしての
泉田に裁量を与えず自らプロデュースをしはじめたことだった。泉田は当時全盛だった
身を削る営業〜いわゆる四天王+1〜に割って入る腹づもりだったが与えられた役は商談成立後の
宴席でのにぎやかしだった。更に服装も座を盛り上げるためにスーツにシャツにネクタイ全てを
赤の水玉で統一することを強制された。営業に配属されてもこの扱いに耐えかね泉田も夫人に
直談判したがポジションは固定されてしまった。その後渕人事部長のプッシュを得てキマラ駐在員
とコンビを組み営業の第一線へ飛び込むチャンスを得たがここでは三沢部長、川田次長、小橋次長
らの仕事のペースについていくことができず瞬発力はあるものの肝心なスタミナ不足を露呈させて
しまう結果となった。しかし馬場社長はこのコンビに可能性を感じ取る。
「うまく話しがついたらお前、キマラとニューヨークへ行ってこい」と社長直々に海外勤務を言い渡される。
当時鎖国政策をとっていた全日商事だが国内需要は限界にきており新たな可能性を模索し
ニューヨークの超大手とも提携を始めようとしていた時期だった。
そこに社長急逝の一方が飛び込む。 後を継いだ三沢社長と筆頭株主の未亡人が割れ三沢一派は独立するのだが
この時三沢に追従したのが泉田の悔やんでも悔やみきれぬ運命の分岐点だったと思われる。
泉田を「使えない上に扱いづらい」と評価していた節のある三沢についていくより
彼の能力をそれなりに評価していた未亡人、渕部長の方が扱いも違ったはずだ。
ノア物産ではやはり総務に戻された挙句のリストラ、その上全社を巻き込んだ女詐欺師事件
では図らずも主役となってしまい巨額の負債を個人で背負い込むことになってしまう。
失意の日々の中業界復帰を目指し旧知の秋山社長にコンタクトをとるなどの活動中に若くして
逝ってしまい幕は閉じた。
NEVERとIFは禁物な業界だがもし泉田がニューヨークへ渡りあのキャラがアメリカで
受け入れられていれば、と想像する関係者は少なくない。私は「泉田とNYのステファニーお嬢
との熱愛」までも夢想してしまう。総じて愛されキャラだったと思う。 おお!
イズさん、ありがとうございます!
たしかに、あの癒しキャラは
意外とステフお嬢様に合うかもしれませんねww 日本人であこまで三枚目に徹するキャラて
意外とニューヨークにいないですよねwww 志賀賢太郎 高卒での全日商事入社ではあったが仙台一高という名門校の出である。
志賀の入社前に雅央、浅子、泉田、秋山、大森、本田、というこの会社に
しては珍しい採用ラッシュがあったためその若手の一人として営業に混じる。器用ではないが
どことなく可能性を感じさせる仕事ぶりを見せ秋山大森と並び将来を嘱望された。
志賀に目を付けたのは意外や馬場社長だった。志賀を営業から引っこ抜き総務部秘書課に
鞍替えさせ自らの専属秘書として取り立てた。馬場社長曰く「気が利くどころの話じゃない、
歴代最高の秘書だ」。今までの秘書は轡田、昭雄、大仁田、越中、川田、小川、小橋ら
が歴任しており確かに名前を見る限り気の利かなそうな連中が多そうではあるが。(昭雄以外)
勿論馬場に尽くした志賀に馬場社長は出来る営業マンとしての教育を施すことも忘れなかった。
秘書業務の傍ら若手営業マンとして正に王道中の王道を往く仕事をこなすが三沢川田
小橋田上らの寿命を削って数字を上げる命懸けのトップ戦線に食い込むことはかなわず
更に秋山大森の後塵を拝すあたりのポジションに甘んじるようになる。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています