【坂口社長】平成の新日本プロレス【長州現場監督】
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1989年以降の新日本プロレスについて語りましょう
いろいろあったと思うので… >>5
三澤威はライガー戦で大ケガしなかったらどんな存在になってたんだろう…
ヘビーの中堅の位置で平成維晨軍とかに入ってたのか ライガーデビューは嬉しかったし、入場テーマに燃えた 長州は飯塚とのタッグ王座に着いてからエースの風格が戻ってきた気がする… 潴木が基本的に権限のない会長職に
坂口が代表取締役社長
長州が現場の最高責任者たる興行担当取締役
藤波が渉外担当取締役
渉外能力に長けているわけでもない藤波の顔を立てるために名前だけの取締役にしたわけだ
が‥‥ >>9
名前だけの取締役ならまだいいけど社長時代はヤバかった猪木の操り人形だから 89年の夏以降猪木、坂口、藤波が一気にいなくなりパンフレットで当時4番目に載っていた長州がエースだったね… 89年8月の長州対ベイダーのタイトルマッチでのベイダーのドロップキックはめちゃくちゃ破壊力ありそうだった…最後はローリングクラッチだったが実質あれ一発がフィニッシュだった… 小原〜中西までの第三世代は地方の体育館でのデビューだったね…
西村は糸満市総合体育館… >>15
元年デビュー組の大利や三澤も地方だった。
中西はベイダーのSGタッグドタキャンがなかったら
92年11月の両国2連戦のどちらかか翌年のドームが
デビューだったかもしれない。 確かに安田、健三、中邑は特別だったのかも…
最近は後楽園ホールが多いイメージがある
石澤のデビュー戦ってどこでしたっけ… >>18
岩手県営体育館(盛岡)。
ちなみに永田は島根の松江市総合体育館で、
中西は大阪の東大阪市立中央体育館だった。 >>19
大谷、高岩も地方でひっそりとデビューしてたよね…
中西はリーグ戦の流れだったね 91年の夏頃にテレ朝の夜中にやってた朝まで新日本プロレスは今でも印象に残ってる…
この頃はプロレス界もバブルで明るい話題が多く本当に良い時代だった
ターザンがライガーに山田選手と連発して微妙な空気にしてた… nwo初期の頃はマーカスバグウェルの扱いがやたら良かった…
健介、リーガルにフォール勝ち 猪木の何が変人かって北朝鮮で試合もあるけど
ソ連崩壊前にボクサー含め選手発掘したこと ま、イイ選手探すのはマサや長州、馳あたりが見たんだろうけど 藤波、小鉄、ピーター‥‥昭和の新日本プロレスを支えた面々が閑職に追い込まれたな。 猪木→坂口→藤波→草間→サイモン→菅林他の順番だったっかな… 昭和末期から平成のプロレス界のトップに君臨した新日本プロレス 令和も生き残れるのだろうか? >>25
リングについては旧ジャパンに完全に乗っ取られた感じだったな >>30
この頃の蝶野は可哀想なくらい存在感が薄れていた… G1決勝戦で一番地味な組み合わせだったのは、
94年の白蝶野対パワーウォリアーかな… むしろインパクトがあったのはその後のマイクアピール >>32
俺的には93年の藤波vs馳かな
そもそも両国7連戦の大トリじゃないし 両国7連戦のの6日目だったね…
この1試合だけで勝負しようとしてた当時の新日の強気たるや…
セミもノートン、ヘルナンデス対ハク、バーバリアンだったような >>4
ギミックとしてなら
獣神ライガー、平成元年4月24日、東京ドーム
純粋にデビューは大利博史
平成元年9月16日、岐阜、対ブラック・キャット
次に
三澤威、10月22日、十和田、対松田納 >>36
2人とも短かったよな…三沢は実動1年半くらいだったかな >>37
三澤は91年にちょこっと復帰してたけどすぐまた怪我をして
そのまま戻ってこなかった。
大利は翌年小原がデビューする頃には見なくなった。
2人とも実働半年もないだろ? 小原と金本以降の第三世代は微妙に間隔が開いてるイメージだよね
そんなデビュー変わらないけど… 三澤なんかデビューして
2か月でライガーに潰された。
(12月の夢勝ち) >>40
というか小原の入門した時期がちょっと特殊な例じゃなかったかな?
確か浜口の推薦で前年の6月ぐらいに入門して最初の頃は大学の寮から通う形で練習に参加していたそうだから >>40
92年の5月後楽園での金本、西村vs山本、小島が週プロでカラーグラビア3ページ取るほど
話題になってその後も組まれて名物カードになってたと思った
小原は海外武者修行に行ってたから当然そこには入れない
それで別枠のイメージがあるんじゃないか 小原って海外行ったのも帰ってきたのもいつの間にかって印象が強かったな…海外から戻って初試合が橋本のパートナーでWARだったし… 95年2月12日の平成の乱はよくできた興行だった… 自分はずっと新日ファンだっけけれど、新日って業界最大の団体なのに実力的にはイマイチだったのか、
それとも懐が深いというべきなのか、他団体との抗争では常に分が悪かったよな
健介vs川田でも新日vs全日の3対3で行われ、大将戦含めて1勝2敗で
負け越し、しかもこの時の全日は主力選手が抜けたボロボロの状態だったにもかかわらずだ
新日vsUインターでも最終的な星取りでは新日の負け越し、選手層の薄いUインター側は選手の連戦が多く、
負担が大きかったにもかかわらずだ
新日vsWARでは天龍相手に新日の主力選手が相次いで撃沈、タッグでは新日側のカットプレーがやたらと多かった
業界最大の団体で「ストロングスタイル」を標榜してるのにこの結果はどうなん?と思った
同時に、試合内容はともかく結果は予め決まってるとするなら、ここまで負けブックを飲める新日の懐の深さは
凄すぎるとも思える
この点、他のプロレスファンの意見を聞いてみたい 結果ほとんどの団体が潰れ、生き残った団体も現在は細々と活動。 >>46
今もまた、冬の札幌やどんたくの福岡など同じ会場で2連戦やるなら
地方ドーム興行出来るんじゃ無いかな?
ホテル代・遠征費・会場費・セット費・・・
色々考えてもドーム興行1発より連戦にした方が儲かるのかな? >>49
今やっても京セラで2万人行くかどうかで、他は1万人行くかどうかだろ。 >>51
天山が若手時代に砂に埋められてたね…あれは沖縄かな… >>47
>新日って業界最大の団体
あたかも1972年の会社創立以来現在まで一貫してトップみたいな書き方だな
あと文章読んでもここ20〜30年くらいしか見てないのが解る
それでいて良くそんな長文書けるな 内容も言わずもがな
感心するわ プロレスの仕組みがいろいろ分かった時代になると
新日本の共存共栄の思想と勝ちに固執する全日本の思想が
はっきりしたという事でしょう。
全日本に他者を光らせる発想は無かった。 >>53
20〜30年をリアルタイムで見て無いんじゃん?後から結果や録画だけで。
ちゃんと見てれば、ずっと新日って業界最大の団体みたいな風には書かないし、
違う事ぐらいわかるでしょ。 >>47
負けブックを飲んだから今があるんだろ。
飲まなかったところは今が悲惨 坂口はK1とPRIDEが隆盛を極める前に、馬場全日と全面協力して芽を摘んでおくべきだったと
悔やんでいた。そうすればプロレスがここまで追い込まれることは無かっただろうとね。 ナゴヤドームでやってほしい。
そうしないとあいつと組む意味がない へいせいのしんにちはだれがしゅやくかはっきりしなかった。
しょうわしんにちのしゅやくはまぎれもなくいのき。
はっきりしており、わかりやすかった。
しかしへいせいになってからはしゅやくがころころかわる。 へいせいのぜんにちはちゅうしんはみさわだった。
みさわがちゅうしん。
つるたはせみりたいあ、じじつじょうのいんたい。
てんりゅうもぜんにちをさった。
へいせいのぜんにちはわかりやすかった。 もっぺん現場監督に長州復帰でストロングスタイル復権じゃー! 新日がこうなったのはストロングスタイルというものに説得力が無くなったからじゃん >>65
あいつはあいつだろ、ばかやろぉ、くたばれ。 >>68
取りあえずやるだけでお客さんが埋まってたね…またドームツアーやらないのかな… >>69
今の福岡大会や札幌大会なんかを見てると、
ドームでやるより同じ場所や地域で2大会連続開催の方が儲かるのでやらないでしょ。 >>57
じゃあもう一つの原因の暴露本でファンにマイナスな衝撃が走ったのはどう立ち回るつもりだったのか >>47
下剋上だから下の者が勝たないと、ストーリーが展開しないからな・・
猪木だって初戦はラッシャーに負けてるし、鶴田は天龍に2連敗スタート。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています