ブルーノ・サンマルチノ死去
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http://www.wwe.com/article/bruno-sammartino-passes-away?sf187243454=1
WWE is saddened to learn that WWE Hall of Famer Bruno Sammartino passed away at age 82. デビッドだっけ?
情けない試合して試合後にハンセンにボコられたの 昔ある芸人が一番発音しにくい英単語ってことでネタにしてたね。
確かに言いにくいわ「サンマルチノ」って。 >>35
小学生の頃、何故か列伝のこのセリフが流行って、何か揉め事がある度に最後は皆でこう叫んで、何もかもサンマルチノのせいにして丸く収めてた
サンマルチノさん、ごめんなさい、そしてありがとうございました 凄い体してたけどやっぱりステロイドかな?
調べたらもうあの頃にはあったらしいし スーパースター列伝の頃から馬場との関係ばかり思い出すわ
キャディラックとかシン&上田組との試合に最後の来日も東京ドームの引退式か
本人複雑な思いもあったろうけどWWE殿堂入りは出来て良かったな ジン・キニスキーも亡くなった。
デストロイヤーは日本国からタレントととして勲章?をもらった。 デストロイヤーもいい年なんだよね。もう100いってるんだっけ?
なんだかんだで数すくない力道山の対戦相手だし WWEのスーパーレジェンドって言ったらサンマルチノ、ホーガン、オースチンくらいかな? 夕方にラジオを聞いてたら
この話題が出てて
「昔は人間発電所とかいろんな形容詞がありましたね、人間風車カレリンとか・・」
なんて言ってて唖然とした トリプルHは、なんとかして生きてる間にサンマルチノをマクマホンとの仲を解消させて
WWE殿堂入りさせることができてホッとしてるんじゃないかな? >>17
俺は分かったが、他の人はどうなのかな?
いかん、いくらなんでも食い過ぎだ。 サンマルチノもシュワルツェネッガーも、移民の中で
チビで体が弱くて、まわりから馬鹿にされないようにボディビルはじめたクチ。 ニューヨークといえば移民が大西洋を越えて最初に見るのが自由の女神という移民の街…
ゴッドファーザのイタリアンマフィアの街…
マジソンスクエアガーデンでの興行を仕切っていたのがイタリアンマフィア…
サンマルチノはイタリアからの移民…
なぜWWWFの王座が長かったか
ま、そういうことだな。 明石家さんまが
彼のファンで、芸名の
さんまは「サンマルチノ」から取った。
まぁみんな知っている本当だなwww 60だが、
すまん!
間違えた!
訂正する!
×みんな知っている本当だな
○みんな知っている話だな
「本当」も「話」も「H]で
単語登録をしていて、よく見ないで書き込んだんだよ。 ばかだな、おおたけ(4)しのぶ・・・(2)にちか・・・(1)いまるで
だから芸名を「(3)さんま」にしたんだよw(棒読み) ま、戦隊の中で一番強いのはブルーノよりも
レッドノ・サンマルチノなのは言わずと知れたこと。 >>60
気持ち悪いからいちいちウソつきにこなくていいよ >>67
さんまのまんまでゲストがプロレスラーだとお約束の様に言ってたな さんまは、ふと思い出したレスラーの名前でペドロ・モラレスを挙げたら
思いのほか客ウケがよかったので、(客もペドロモラレスなんて誰なのかも知らなかろうが)
笑いが取れたらそれでいいというだけのことで、さんまはプロレスの話題になるとすぐペドロ・モラレスを出す。
名前が客にウケるだろうと、笑いをとれると思ったからでしかないでしょ? ちなみにサンマルチノはヅラだったので
試合中に相手レスラーが頭に触れることを一番嫌がったらしいな。 ズラを守るため頭部へ攻撃されるのを避けてたのがよかったのかねぇ >>60
さんまの芸名は、さんまが笑福亭松之助の弟子になって
芸名をつけることになった時に桂べかこ(現三代目南光)が
彼の実家はさんまの水産加工業をやってるので
さんまにしたらどうですか?て冗談で言ったから。 >>68-69
ジャイアント馬場がゲストで出た時に
ペドロ・モラレスに憧れてプロレスになろうと思ったて言ってた。
さんまはモラレスと一緒に来てたウィルバー・スナイダーのことも覚えてた。 さんまはモラレス以外に出す名前だと
ブルーノ・サンマルチノ、フリッツ・フォン・エリック、マーク・ルーイン
とかも出てくるな。 さんまは小学校の時、先生に薦められて東大寺学園という進学校を中学受験してるけど
面接で将来プロレスラーになりたいと答えたら、それじゃウチに来る必要はありませんねと
断られて受験に失敗している
あと何かの番組でフレッド・ブラッシーっていうのが昔いてという話をしたら、ブラッシーの日本人の
奥さんが偶々それを見ていたらしく、ブラッシーのサイン入りブロマイドと結構長めの便りを奥さんから
貰ったことがあるとヤングタウンというラジオで昔話していた さんまがペドロ・モラレスやプロレスが好きだった時期は小学校高学年を中心とした数年だけだったはず
前に日本テレビの番組でさんまが見たい映像というのでペドロ・モラレス初来日の試合が観たいとリクエストしたら
その映像は日本テレビのデータベースに残ってなかったらしく結局後に全日本プロレスに来たときの映像をみることに
なったけどズッとこれじゃないんだよなみたいな感じだったのを覚えている サンマルチノさんの死去のニュースが
時事通信でも取り上げられているのが凄い。
孤独のグルメでもネタになった人間発電所、
ひよっこでは部屋に馬場vsサンマルチノのポスター。 みなさんのおかげですの学園コントで石橋扮する教師が「はじめまして、先生の名前は」
と言ったあと、黒板に「人間発電所」と書いて「ブルーノ・サンマルチノです!」
当時小学生でサンマルチノのこと知らなかったけど大爆笑したw ハンセンWWE殿堂入りのプロモでのヘイマンが良かったな
「子供の頃ブギーマンもゴジラも怖くなかったがハンセンは違った 何故ならサンマルチノの首を折ったからだ!あのブルーノサンマルチノの首をだぞ!」 ペドロモラレスといえば坂口のデッドリードライブ風ボディスラムで
リング上からリング下に叩きつけられた時のハードバンプだな
ミックフォーリーやスパイクダッドリー顔負けのすげえバンプだったわ >>58
こういう50年前のゴングの記事的な物を未だに言う奴がいるんだな
すべてを否定する訳ではないが、イタリア系ならゴリラ・モンスーンでもドン・デヌーチでも
マリオ・ミラノでもアントニオ・ブグリシーでも誰でもよかったんじゃないのか?順繰りに回せばベストだろうが?
それに、WWWF=NYみたいに考えているのも多いな。WWWFのテリトリーはかなり広大でボストン、フィラデルフィア、
ピッツバーグ、首都のワシントン、ニュージャージーなど東部の大都市を網羅して当時の三団体の中でも
一番収益を上げていた筈。NY以外では振るわなかったモラレスとは違うね。 トップになる位だから試合は上手かったの?怪力系で上手いのは別のレスラーで例えるとホーガン的な感じ? >>83
じゃあなんでサンマルチノをトップに据えてたの? サンマルチノ
どう見てもサブミッションの技術ゼロだし、動きも鈍いし、
強さに関してはスコット・ノートンみたいなものだったと思う ガチの話と言うと来日した時にセーラー・アート・トーマスをボコボコにしたってのがあったらしいが
映像も残っていないし見た人いないだろうな フミ斎藤コラム
https://nikkan-spa.jp/1449952 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:847cfeaf6f31691a42c25abc56bd4433) >>88
サブミッションの技術ゼロってwwセメントで決まるプロレス技なんてパンチ、キック、頭突きを除けば
ヘッドロック、ベアハッグ、いいとこスリーパー位だろう。マジソンで四の字固めなんてやったら笑われるよ。
ブリスコはそれを理解できなかったから、前座で終わった。
動きが鈍いって、ロクに見てもナイダロウ?レイスや全日時代の馬場の間違いじゃないか? サンマルチノ、動き速いよね!動画みると驚くわ。
確かに重厚なイメージあるからノロそうに思われがちだろうけど。 プロレスラーのレスラー間のガチ話って単なる職場でのケンカだよな。 SNSでは多くのプロレス関係者や著名人が追悼の意を表している
特にシュワルッッネッガーはツイッターでツーショットの写真入りで故人の偉大さを偲んでいる
プロレスラーの死としてはこういう類のものは恐らく最後だろうなぁ
フレアーやホーガンが死んでも、もう誰も関心を寄せないだろう
そう言えば以前に猪木が国会質問に立った時、安倍首相が
「若い頃、猪木さんとブルーノ・サンマルチノの対戦をTVで見ていた」とか言っていたなぁ
今、思い出したよ >>95
あったあった笑
確か猪木とは大したことのないタッグ戦で一度だけしか絡んでないらしく、
安倍は余程の発電所マニア、とか言う記事が東スポに載ってた記憶がある 少なくとも4回は猪木とタッグマッチで対戦してる模様。
https://www.cagematch.net/?id=2&nr=243&page=4&s=500 >>96
昭和43年8月9日、田園コロシアムのメイン、
馬場&猪木対サンマルチノ&Rスチーブンスはインタータッグ戦。
アメリカ東の王者(ニューヨークWWWF王者)サンマルチノと
西の王者(サンフランシスコUS王者)のスチーブンス組と
当時、評された。安倍をフォローする気はないが、
大した試合だ。
西の王者はちょっと無理があるが。 >>57
メチャクチャな作り話を書き込まないでよw NYでイタリア系移民といえばどのファミリーに支援してもらってたんかね
ゴッドファーザーにはプロレス興行の様子は出なかったな仁義なき戦いには力道山モデルにしたのが出てたけど >>98
大会場で猪木が決勝のフィニッシュを初めて取った
日プロでの猪木台頭の起点になった試合でもある 73〜74年はWWWFを離れセントルイスやインデアナポリス等で活躍し、NWA世界にも挑戦している。決してニューヨーク一辺倒でも怪力一辺倒でもなく、融通の利くレスラーだったんだと思う >>102
昭和43年2月3日大田区体育館
インタータッグ決定戦
@リソワスキー(体固め)馬場
A馬場(片エビ)リソワスキー
B猪木(コブラ)Bミラー
と猪木が決勝を取っている。
1月8日、BI砲が王者だった時、リソワスキー&ミラーが
挑戦が決っていたが、猪木が東京に勝手に戻って
飛行機が大雪で欠便になり試合に出られなくなり返上。
その上での決定戦。大田区体育館が大会場でない
と言われたらそれまでだが。(苦笑)
続く6月17日、宮城県スポーツセンターでも
Cハリケーン&Mミラノの挑戦を受け
@ハリケーン(体固め)馬場
A馬場(片エビ)ミラノ
B猪木(コブラ)ハリケーン >>103
73年頃ニューヨークを出て
セントルイスでNWAに挑戦したのは
WWWF王座から降りたこと(71年1月)、
その後、しばらく長年の疲労からきた腰痛を治療し、
そして、もうひとつの理由は、WWWFがNWAの
メンバーになった(同年5月)からではないか? >>105
リフレッシュ期間というのもあるんじゃないの?
王座を降りて同年の秋頃にはロスにも出てたし
ブルーザーと組んでた動画も見たことがある 当時小学生で、タイガーマスクきっかけでプロレスをガッツリ見るようになり、
土曜の夕方に馬場・サンマルチノ×シン・上田を目にする。
「人間発電所」のニックネームを見て、ベアハッグしながら体内より電気を発電し、
失神させることができるんだと期待しながら、ビックリ人間大集合感覚で見ていた、
というサンマルチノの思い出。 さんまがラジオでちょっとだけ話題にしてたけどレギュラーの若い女の子は
ベアハッグやキーロックなども知らないほどプロレスに興味がなかった >>79
今年の朝ドラにはブッチャー君が出てるから、来年あたりはもしかして… サンマルチノ世代ではないが、WCWでムタ、テリーファンク組とフレアー、スティッグ組の特別レフェリーがサンマルチノだった。
ゲスト解説の武藤は「アメリカ版の力道山ですから」と言ってた。
ご冥福を祈ります。 馬場の節目の時は良く呼ばれていた。
全日本旗揚げ10周年、馬場デビュー30周年、馬場5000試合。
そして馬場引退試合。 >>101
ハンセンが首の骨折ったときマフィアが制裁しようとしたらしくて
慌ててニューヨークからハンセンが逃げたとサンマルチノの
自伝に書いてた 昔のテレビは会場に客を呼び込むためのプロモーションでは世界タイトル戦はテレビで放映しなかった。
地区ごとの王者がいてサンマルチノは東部WWWFチャンピオンだからNWA圏、AWA圏、西部地域のファンはサンマルチノを知らない。
逆にWWWFのファンはNWA王者テーズやAWA王者ガニアを知らないといった感じだった。
まぁ、NY、ワシントン、ピッツバーグ、フィラデルフィア、ボストンなど大都市が多いWWWF王者の知名度は高いが。 >>114
ずーっとニューヨークエリアにいて興行のトップとして出続けてたけどね。
各会場ともとんでもない緊迫感だったろうに、ハンセンはメンタル強いな。 >>115
要するにローカルタレントの大物ってことか
さとう宗幸とか宮地佑紀生とかばってん荒川とか >>83 >>115
サンマルチノはNYに限らないWWWFエリアの人気王者だったが、それ以外のエリアでは
実際あまり活躍した記憶が無いな。逆にモラレスは遠くロスのWWAでも王座に君臨した。 >>105,106
72年からのブルーノは激動を極めた。長い間、WWWFのチャンプとして東海岸地区を動けなかった反動からか
他地区に積極的に向かうようになる。まず、年明け早々、LAに登場。いきなりバトルロイヤルで優勝すると
ローカルタイトルではあるが、キラー・コワルスキーに挑戦。2-1で快勝(日本ではタイトル獲得と報じられたが
1本反則勝を含んでいたためタイトルは移動せず)この頃、新団体のNWFから初代チャンプとなる打診を受けるも固辞。
慌てたマクマホンからWWWFへの帰参を要請される。NWFの件もあるが、新チャンピオンのモラレスのファンである
プエルトリカンの態度が粗暴で会場を一部破壊したり、相手レスラーをナイフで傷つけたりとブルーノ時代では考えられない
事態が起きていた。又、定期戦のマジソンのインターバルの時にはどこからともなく「WE WANT BRUNO!」の大合唱が起こるようになり
マクマホンから真剣にチャンブの復帰を命ぜられるようになる。しかし、弟分であるモラレスを守りたいブルーノは中々腰を上げず
マジソンもスマッシャー・スローン相手の一戦だけで敢えてボイコットしていた。しかし、マクマホンはじめWWWFのプロモーターの圧力と
イタリア系ファンの要望でシェアスタジアムでのモラレス戦が計画され、話はどんどん大きくなっていき。さすがのブルーノも
NOと言えない事態になって来ていた。そんな時期、馬場の訪問を受ける。独立して新団体を設立するので是非協力して欲しいというものだった。
ブルーノは二つ返事でこれを快諾。プロレス界では考えられない二人の関係が築かれる事になる。というのも
馬場とブルーノの間ではこれ以降契約書が交わされていない。つまり、ギャランテイが決まっていないのだ。ブルーノ来日中にこの噂を耳にした
ある記者が、ブルーノに「もし、馬場がギャラを払わなかったらどうする?法的には可能だ」と尋ねるとブルーノは
「もし、馬場が、すまない。経営が苦しくてギャラが払えないんだと言ってきても私は遠い友人の手助けを出来た事を誇りに思って
胸を張ってアメリカに帰るだろう」と平然と答えた。無論、馬場がギャラを支払わない訳もなく外人レスラーとしては
ファンクスを超える最高額を支払っていた。そして、嵐のモラレス戦である。 続く >>115
WWWFができる前、テーズはMSGでパット・オコーナーとNWAの防衛戦、
アントニオ・ロッカと対戦してるね。
NAWA→WWA(初代王者エドワード・カーペンティア)
WWWF(初代王者バディ・ロジャース)
誕生はテーズが関係してるな。 >>120
そーいやテーズは世界王座陥落以降、TBSプロレスのTWWAやメキシコのUWAのような新興団体
(マスカラスの東部IWAもか)の参画に執心して?初代王者として名を残すようになるのな。。w >>119
そんなに忙しかったのによくボディーガードやってくれたな… >>120
テーズはNWA傘下だったWWWFのMSG含め基本的に他地区も単発で回った。
NWAの総本山セントルイスは30〜60年代は人口約70〜80万人で東京都大田区、相模原市規模。
AWAなんて中西部ミネソタ周辺地区だから、みちのくプロレスみたいなもの。
それを世界三大王座と称したプロレスマスコミw >>123
AWAはシカゴやラスベガスもテリトリーだしカナダやハワイでも試合してるぞ >>124
みちのくが後楽園や大阪でやるような単発で
ドサ回りのメインテリトリーはミネソタ周辺。 IWAはあの漫画とはちがって資金豊富な新興団体だったんだが
テーズとマスカラスを使ったにもかかわらず
ニューヨークのサンマルチノ人気には歯が立たなかったんだよね >>119
続きは?待ってるよ。読みごたえありました。
ブルーノは男気があるなあ。 >>128
有難う。すんまそん、必要なら明日、書き込みます。
貧乏暇なしで。馬場元子が死んだってホント? さんまは、関西ローカルラジオで「サンマルチノ死去」を告げた村上ショージに対し、
「テンション下がること言うなや…」と嘆きながら、5分ほど熱くサンマルチノの話題を
しゃべりまくっていた…20前後のモーニング娘たちに向かってw ブルーノ・ペドロ戦は9月30日に行われた。観衆2万2500人、25万ドルの収益を上げた。シェア・スタジアムで
2万2500人?少なくないか?マジソンだってフルハウスなら2万2千は収容できる。そう、確かに少ない。
NYは緯度で言うと日本の青森と同じである。つまり、寒い。夏はそれでも普通に暑いが9月も後半になると急に寒くなり
秋が無い所と言われている。そんな時期に野外での興行は普通行わないものである。しかも、この日はあいにくの土砂降り。
逆に言うと良く2万人以上も入ったものである。そして、世紀の対戦。誰もがブルーノがチャンブに返り咲くと思っていた。
いや、返り咲くはずだった。野外でのビッグマッチ。凄まじい興行収益。注目の高さ。ご法度であるべきベビーフェイス同士の対戦。これで
引き分けなんてプロレス興行では絶対ありえない。ところがである。何と二人は75分を戦い抜きNYのカーフューまで持ってってしまった。
二人と言うよりブルーノがそうしたというべきか。試合は圧倒的にブルーノの物であった。それでもベルトはペドロの腰に帰ってきた。
マクマホンは心中穏やかでなかったろう。すぐに10月のマジソンの定期戦での再戦を発表。この試合を観戦していたという馬場は
ブルーノの気持を唯一理解していたのかもしれない。馬場の言葉に「リングの上で起きている事。すべてがプロレス」正に言い得て妙。
因みにこの試合、いくつかの面白いこぼれ話がある。ブルーノがかつらをつけたのはこの試合が最初である。
そして前座の第3試合に翌年NWAチャンプとなるジャック・ブリスコが出場している。相手はミスターフジだったが相変わらずの脳天気ぷりで四の字で勝っている。そして、日本のゴング誌。大特集で別冊号を出しているが
観衆が5万2千とか、試合後のブルーノのインタビューとか相変わらずのやりたい放題である。もはや趣味の本ともいうべき。
ところでマジソンでの再戦はどうなったっかと言うと、ここでもブルーノはマクマホンに反旗を翻し再戦どころか
何と、ちゃっかりペドロとタッグを組んでプロフェツサー田中、ミスターフジ組と対戦。完勝しファンを狂気させた。
マクマホンに唯一「NO」と言えたレスラー。それはブルーノだけであり、実際そうできるだけの集客力と支持を持っていたと言う事である。 ブルーノは後年、ペドロとの一戦について「ビンスがあまりにもうるさく言うから仕方なくやったんだ。
はじめから勝つ気なんてなかったし、二度とやるつもりもなかった」と語っている。
話は前後するが、シェア・スタジアム戦の後、ブルーノは約束通り馬場の全日こけら落としシリーズに参戦。
腹心のデヌーチを同行させたが、注目すべきは後のNWAチャンプとなるテリー・ファンクも
参戦していたことである。テリーはこのシリーズ中、行動を共にしていく中でブルーノに心酔。
シリーズが終わりテキサスに戻ってもドリーにブルーノの話ばかりをし、ドリーに「もうその話は何回も聞いたよ」と
呆れさせたほどであった。又、このシリーズでの馬場・ブルーノ戦は二人の戦いの中でもベストバウトと評されている。
ブルーノが馬場の背後から逆ベアハッグ。脱出できないとみた馬場は自らコーナーポストを蹴り
ブルーノのジャーマン(!?)のような体勢で両者ダブルフォールの引き分け。馬場も独立とあって張り切ったのか
興行的にも大成功となった。
翌73年。マクマホンからの要請は更に強くなりますます激動の中に巻き込まれていくことになる。 続く いや。最後に削ったり付け足したりしていると行が狂ってくる。
いちいち直すのも面倒なんでね。かなり時間がかかって疲れるものだ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています