1973年はアメリカ・マット界においても激動の年となった。
ブルーノを中心に書いているが、この時期、WWWFは色々と複雑な状況にあつた。
1971年にWWWFがNWAに加盟したのは周知の通りだが(これも複雑。これだけ取り上げても一スレッド
あつても可笑しくはない)肝心のNWAチャンプ、ドリー・ファンクは全く東部地区に来る気配は無く
逆に空気を読んだAWAの総帥、バーン・ガニアがWWWFに接近、72年11月にMSGに登場する。72年から73年に
掛けて、ガニアはレイ・スチーブンス、ラリー・ヘニング等のスター選手をNYに送り、更には売り出しに苦労していた
アンドレ・ザ・ジャイアントのプロモート権をマクマホンに譲り渡す。NYを巡り、様々な人間の思惑が渦巻いていた。
ブルーノは年明けの1月MSGに登場。ブロフェッサー田中をベアハッグで下す。(メインはモラレス、ロニー・メイン戦)
2月にはワンマッチ、しかもシングルで馬場に負ける為だけに来日(当時、ビッツバーグから日本までは丸一日以上かかったと言う。
お人好しめが!)その後はもっぱら地元のピッツバーグだけで試合をし、マクマホンの声を聴かないようにMSGにも上がらなくなる。
しかしマクマホンの執拗な要請は止まらず、それならばと考えられない行動に出た。何とNWAの総本山、セントルイスに姿を現したのだ。
当時セントルイスを仕切っていたのは泣く子も黙るNWA会長のサム・マソニック。
サム・マソニック。移民のユダヤ人。新聞記者からプロモーターになりNWAを設立。
ただ詳しい素性は良く分からず一部ではフリーメイソンのメンバーとも言われた。このブルーノの
セントルイス初見参は色々な意味で大きな話題となった。まず、マソニックというプロモーターはどんな
大物であってもセントルイスでは前座からスタートさせる。そうして勝ち上がって来た者をメインに登用させ
NWAタイトルに挑戦させていた。ところがブルーノをいきなりメインで起用し、しかもその相手と言うのが
因縁のイワン・コロフだった。