ブルーノ・サンマルチノ死去
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http://www.wwe.com/article/bruno-sammartino-passes-away?sf187243454=1
WWE is saddened to learn that WWE Hall of Famer Bruno Sammartino passed away at age 82. 読売社会面の訃報に元子が出てるな。
サンマルチノは一般新聞やニュースに出たか? >>134
ありがとうございます。急かした>>129です(笑)。めっちゃ面白かった。
また時間のある時に書き込んで。でもなるべく早く(笑)。 >>144
どうも有難うございます。
ご承知の様にブルーノ・サンマルチノが亡くなりました。
自分の子供時代の大ヒーローでした。もう、ブルーノについて語ることもないでしょう。
最後にこの機会に自分の記憶の整理をしようと思っています。
長文で拙文ですので不愉快に思われる方にはお詫びします。
長い目で見て頂けたら幸いです。
因みに自分は流氏ではありません。流氏がこんな、金にもならん事しないでしょう笑 1973年はアメリカ・マット界においても激動の年となった。
ブルーノを中心に書いているが、この時期、WWWFは色々と複雑な状況にあつた。
1971年にWWWFがNWAに加盟したのは周知の通りだが(これも複雑。これだけ取り上げても一スレッド
あつても可笑しくはない)肝心のNWAチャンプ、ドリー・ファンクは全く東部地区に来る気配は無く
逆に空気を読んだAWAの総帥、バーン・ガニアがWWWFに接近、72年11月にMSGに登場する。72年から73年に
掛けて、ガニアはレイ・スチーブンス、ラリー・ヘニング等のスター選手をNYに送り、更には売り出しに苦労していた
アンドレ・ザ・ジャイアントのプロモート権をマクマホンに譲り渡す。NYを巡り、様々な人間の思惑が渦巻いていた。
ブルーノは年明けの1月MSGに登場。ブロフェッサー田中をベアハッグで下す。(メインはモラレス、ロニー・メイン戦)
2月にはワンマッチ、しかもシングルで馬場に負ける為だけに来日(当時、ビッツバーグから日本までは丸一日以上かかったと言う。
お人好しめが!)その後はもっぱら地元のピッツバーグだけで試合をし、マクマホンの声を聴かないようにMSGにも上がらなくなる。
しかしマクマホンの執拗な要請は止まらず、それならばと考えられない行動に出た。何とNWAの総本山、セントルイスに姿を現したのだ。
当時セントルイスを仕切っていたのは泣く子も黙るNWA会長のサム・マソニック。
サム・マソニック。移民のユダヤ人。新聞記者からプロモーターになりNWAを設立。
ただ詳しい素性は良く分からず一部ではフリーメイソンのメンバーとも言われた。このブルーノの
セントルイス初見参は色々な意味で大きな話題となった。まず、マソニックというプロモーターはどんな
大物であってもセントルイスでは前座からスタートさせる。そうして勝ち上がって来た者をメインに登用させ
NWAタイトルに挑戦させていた。ところがブルーノをいきなりメインで起用し、しかもその相手と言うのが
因縁のイワン・コロフだった。 >>153
私は興味深く拝見しています。
72年の終わり頃か、ドリーがMSGに出場して
モラレスとNWA戦を行うとかいう噂もありましたが、
サンマルチノ、セントルイス進出で
レイスに挑戦するんですね。
一点、気にかかるのは、
>2月にはワンマッチ、しかもシングルで馬場に負ける為だけに来日
とありますが、手元の「日本プロレス史50年」の
「来日外人全リスト」によると
サンマルチノは73年に2月15日、札幌でG・馬場と
世界選手権(後のPWF)争覇戦に出場していますが
これのみならず18日まで特別参加とありますが?
オコーナー、ブラジルは同じシリーズに
20日、27日にワンマッチだけの出場ですね。 >>157
ドリーのMSG登場の噂は72年1月頃
モラレスが来日してUN挑戦の噂があったのも同時期
またこの頃はサンマルチノがワールドリーグに来るという噂もあった 記録だけみても味気ないから、嘘でも本当でも講釈垂れるだけの
知識あるのは裏山しいですな。
https://www.cagematch.net/?id=2&nr=243&page=4&s=300 >>159
ドリーがデカイMSGに出て普段の試合やったら、
つまらなすぎて「ボ〜リング」コールが起きるわ。 >>161
80年代後半には似非ファンクスで登場したがヒールスタイルだったのであまり参考にはならないな。
スレチだが、今でもドリーはファームのコーチやってんのかな。 ブルーノがコロフに敗れてWWWF王座を明け渡してから2年。ただ、この間、全く二人の対戦が無かった訳ではない。
1971年の2月と3月、ブルーノの地元ピッツバーグで対戦していて、特に3月はデスマッチでブルーノが快勝。一応、地元ファンの留飲だけは下げている。
しかし、檜舞台はあくまでMSG。セントルイスでブルーノがコロフと対戦と知った時のマクマホンの心境は如何ばかりか。してやられたと言うべきか。
MSGでの二人の対戦は更に2年の月日を要すことになる。ところでセントルイス戦。ブルーノ登場がどれほど注目を集めたかはこの日の数試合が
録画されている事でも分かる。MSGと違ってNWAの総本山セントルイス定期戦と言っても録画された物はまず見たことがない。
馬場あたりが出場して日本TVが同行して録った物が数本ある位だろう。ブルーノ、コロフ戦の物も画質は良質とは言えず、無声でコマ切れの物であったが
日本でもビデオテープで販売された。(無論、DVD化は無し)
ブルーノの試合ぶりはある意味セントルイスファンにも衝撃を与えた。比較的、充分に間取って技を掛け損なうことなど無いNWAのスタイルに対し
ブルーノはパワーファイターながら凄いスピードで最初からガンガン飛ばしていく。しかも試合がダレない。正に「フアイト・クラブ」とも呼べるそのスタイルは
セントルイスのファンにとっても新鮮に映ったのだろう。相手のコロフも充分手の内は知り尽くしているから両者の良い面が引き出された。
試合はブルーノがベアハツグで快勝。セントルイスに「ブルーノ・コール」が起きた。スポーツ紙は「ブルーノはキールをマジソンにしてしまった」と
見出しを付けた。観衆もフルハウスの成功とあってマソニックもしてやったりであったろう。実はこの時、NWAサイドにものっぴきならない事情があった。
4年以上に渡り世界チャンプを張っていたドリー・ファンクが交通事故を起こし長期離脱を余儀なくされていたのである。
新しいスターが欲しいNWAとNYから逃げ出したいブルーノ。両者の思惑がうまく噛み合ったのである。 この当時、セントルイスにはもう一人、話題のレスラーがいた。
インベーダーというマスクドレスラーでヒールだが、とにかく強く連戦連勝。
恵まれた体躯とクロー攻撃を得意とした事からフリッツ・フォン・エリックが正体ではないかと噂された。
ブルーノがコロフを下したリング上で翌月の定期戦のメインがブルーノ、インベーダーと発表されるとファンは大歓声。
その日の内にチケットはソールドアウトとなった。 >>165
サンマルチノ好きだったから俺は、楽しく読んでる
まぁ解釈は人それぞれ自由だから タイソンが自伝の中で書いていたけどチャンピオン時代(レイプ犯になる前)にNY
であるパーティーに出席した。そこには、映画スター、ロックスターなどのその頃のセレブリティー
が沢山いた。そのなかで彼が誰に出会って一番喜んだかと言うともう現役ではなかったブルーノサンマルチノ
だった。タイソンにとってもサンマルチノは少年時代のヒーローだったんだ。タイソンもニューヨーカー
だからね。他のセレブは世の中的にはサンマルチノより知名度なり収入なりで上の人も多いんだろうが、タイソン
にとってはサンマルチノが英雄だった。いかに彼がNYにおいてカリスマ性をもって君臨していたかのお話。 大富豪になったのは不動産投資に成功したからで、
WWWF王者を最初に降りた時点でもう金には困らない
状態だったらしい。 プルーノ・サンマルチノが、いちばん最後に日本のファンの前に写真と記事で登場したのは、
『1964年のジャイアント馬場』(文藝春秋社)に収録されている、
『週刊大衆』(2014年5月5日号)におけるインタビューです。
・ババとの関係は、ヴィンス・シニアとの関係が悪くなっても大切だったから、
シニアと提携していてもイノキのところにはいかなかった
・ババ以上のビッグ・ボス(プロモーター)を知らない。
ババはレスラーから悪口を言われたことのないただひとりのプロモーターだったと思う。
・ニューヨーク時代はババのパーソナリティは全くわからなかった。
「こいつはいいやつだ」と思うようになったのは初めて日本に行った1967年3月だよ。
・お互いの若手時代、「いつかふたりでMSGのメインイベントで戦おう」と誓い合った記憶はない
・ババの英語はノット・グッド。会話をするのは難しかった。日本に来てジョー樋口を通訳にして初めて本音で話し合った。
リング外でも誠実で信頼できる人間。キャデラックをプレゼントしたこともある。
・ババがひとつの都市にとどまり、フレッド・ブラッシーのようなマネージャーがついたら、もっと大きなスターになった。
でも日本で一番のレスラーとなって何十年にもわたって成功したわけだから帰国してよかったのかもしれない。 >>174
そう。71年にはビッツバーグに城のような豪邸、ボストンにセカンドハウス。
モーテル経営、投資。引退しても何ら困らなかった。
それに引き換え、NWA王座を4年も張ったジュニアは移動の飛行機はエコノミー、
宿泊は試合場近くの安宿。気の毒過ぎるよ。 要するに、ブルーノ・サンマルチノは、
1.プロモーターとして、人間としてのジャイアント馬場に高い評価を与えている
2.アメリカ時代の馬場はよく知らない、来日してから親しくなった
3.自分が契約している社長との関係を悪くしても、ジャイアント馬場のリングにしか上がらなかった
ということを言っています。
2は、これまで言われていた「アメリカ時代の2人の友情」のエピソードとは両立しない「新事実」です。
しかし、私にはむしろ、エピソードよりも「新事実」の方が不自然に感じました。 ブルーノ・サンマルチノは、ジャイアント馬場にキャデラックをプレゼントしているのですが、
たった1、2度の来日で仲良くなったぐらいで、高級車をプレゼントするのは解せません。
現役時代は、自分がその団体のチャンピオン、前チャンピオンのメインイベンターとして高額報酬を得ているにもかかわらず、
そのプロモーターよりジャイアント馬場のほうが大事だというのです。 そんなの別に不思議じゃない。
プロモーターを心底信頼しているレスラーなんか、基本いないよ。
まあ、例外として昔の全日時代の一流外人レスラーに対しての馬場位だろう。
その陰で日本人レスラーは薄給に泣いていたからプラマイ、ゼロだけど。 >>180
クルマのプレゼントについては俳優のジョン・ウェインにも、ほとんど同じようなエピソードがある。
アメリカの大金持ちは感謝や友情の印にクルマをプレゼントする習慣でもあるのかもしれん。 キャデラックのプレゼントもそうだが
新日とWWFとの提携後も新日出場を拒否して
全日に出場し続けたってのが凄い
ドン・デヌーチが「白紙の小切手に「好きな金額を書いていい」と言われても
ブルーノはニュージャパンへの出場を拒否しただろう
彼はそういう男だった」と言っていた
ゴッドファーザーで描かれた
何よりもファミリーを大事にする昔堅気のイタリア人そのままの人 >>183
WWWFと新日が提携することになって昭和50年に馬場と
WWWF、PWFダブルタイトルマッチをやった後、全日に来なくなったが
新日に行くことは拒否したのでスーパースター・ビリー・グラハムが
王者になってからWWWFヘビー級王者が新日に来るようになった。
昭和56年の全日創立10周年の時にサンマルチノはビンス・シニアと話をつけて
引退する(後に復帰する)ということで来れた。 ブルーノ「私が何もストーリーを知らなかったと言えば嘘になるでしょう。
ではプロレスラーが弱いのかと聞かれたなら、その答えは私の体です」 今日の読売新聞1面の左下の編集手帳に、サンマルチノとアンドレの名前があった
人間発電所、人間山脈と呼ばれた事が書かれておりなんか嬉しかった 意外と知られていないが、アンドレのアフロもずら。
別に禿げていた毛ではないが、大きく見せる為に被っていたとか。
充分にデカいが。 アンドレはヅラを卒業するためにボビー・ヒーナンに切らせたの? Gスピリッツ最新号でもデビュー当時のブルーノを特集 1964年、フレッド・ブラッシー、ニューヨーク来襲。
MSGでのブルーノ戦は大反響を呼んだ。当時の一番ポピュラーなレスラーと一番アンポピュラーな
レスラーの対戦なのだから当然の事だが。
試合はブラッシーの噛み付きに激怒したブルーノが暴走し反則負け。反則でタイトルの移動こそ無かったものの
MSGの定期戦でチャンプになつてから初めての黒星を喫した。
試合後、ブラッシーはブルーノのベアハッグで腰を痛め、ゆっくりと歩いて戻ったが事もあろうに
ドレッシングルームを間違え、ブルーノの部屋を開けてしまった。
そこでは既に戻っていたブルーノと一目でその道と分かるイタリア人が会話をしていた。
これがスコーランやブルーノの取り巻きレスラーなら「すまん。間違えた」で済むだろうが
いかにその道の人間と言えどもこの世界では素人。しかも誇り高きブラッシーである。
「おい、ブルーノ。あんな試合じゃ物足りねえぜ。ここでケリをつけるか」
男は冷酷な目でブラッシーを見ながら右手をすうーっと内ポットに滑らせた。これを察知したブルーノが慌てて
「まま待ってくれ。こいつだけは俺の手でぶちのめさなけりゃ気がすまないんだ」男の肩を両手で抑えると
目でブラッシーに「早く出ろ」と合図を送った。 翌月の対戦ではブルーノのベアハッグでブラッシーがギブアップ。完全決着となった。
またまた腰を痛めたブラッシー(当時、優に40は超えていただろう。ブルーノは28歳。正に全盛期だった)
が足を引きずりながら地下の駐車場に着くと、凄い勢いで最新型のクライスラーが出ていく所だった。
どこの金持ちだとふと見ると、ブルーノだった。ブラッシーは言葉も無く暫く立ち尽くしていた。
時は流れて1979年。ニューヨーク。ブラッシーはヒールのニコライ・ボルコフ等のマネージャーとなっていた。
ブルーノは12年近く王座に君臨し続け、44歳ながらセミリタイヤ。解説者として座っていた。
するとインターバルの時間にブラッシーがブルーノの所にやって来て、杖で机をバンバン叩きながら
「お前はこんなところで何をしているんだ。お前はここに座る人間じゃない。向こうに立つべき人間だろう!」
その声は半分泣いているようだった。
数か月後、ブルーノは久しぶりにMSGのマットに立った。
その姿は全盛期と何ら変わらない人間発電所であった。 サンマルチノの銅像は三体あるようだが
イタリアに一体、アメリカに二体。アメリカはどこにあるのかな。 サンマルチノのインタビューは柳澤の本に載ったのが最後かな。 あのWWWFのベルトはどうなるんだろうか?
1千万位の価値はあると思うが。
奥さんが売りに出すことはないだろうが、不肖のデビットあたりが売りに出しそうだ。 Gスピの第二弾、興味深かったな。ただ、可笑しな間違いもあった。
馬場戦を含めてMSGのメインのシングル戦はWWWFになってからは全て時間無制限一本勝負の筈。
三本勝負なんて聞いた事が無いし、一本勝負と三本勝負がゴチャ混ぜになつているのは不可思議。
それからボストンは60年代の後半に進出したはず。あそこは色々と複雑な所だったから。
逆にテーズとのカナダでの一戦は一本勝負だったのか?今まで、ずっとサンマルチノのストレート負けと日本では
伝えられてきたが。 Best Two Out Of Three Falls って三本勝負と違うの?
64年に馬場とMSGで対戦した時は一本勝負だったけど。
https://www.cagematch.net/?id=2&nr=243&page=4&s=800 Two Out Of Three Falls を3本勝負だとするなら、何でBESTが出てくんの?
前後の文脈が分からないけど、それでは過去の3本勝負のベストなものという企画のタイトルみたいだけど。 カーフューを長々と説明しておきながら、時間のかかる三本勝負なんかやる訳がない
流はいつもそう。矛盾だらけで言いっぱなしなんだよなぁ
テーズとの一本勝負もそう。テーズのマネージャーもやってた流ならとっくに知ってたはず
ブルーノは当時、カナダでもベビーフェイスのトツプなんだから勝つにしても一本も与えないのは
おかしいとずっと思ってたんだよな マクマホンシニアの仕打ちは酷いな、契約書を交わしてないからってそこまでするか 同じアメリカ国内でも絡んでないレスラーって結構いるんじゃないかな?
サンマルチノとエリックなんて同時代でも接点なさそう ブルーノとフリッツ・フォン・エリックなら一度対戦している。
1960年、フィラデルフィア。ブルーノが勝っている(詳細は不明)
本当に接点が無いと言えば、スナイダーとかゴッチ・・・
その位じゃないかな。 >>210
カール・ゴッチはWWWF時代にサンマルチノと絡みはなかったんだな。
ここに記載されてるを見てもないな。
https://www.cagematch.net/?id=2&nr=946&page=4 >>210
サンマルチノは若くして
WWWFの王者になったから
AWA系のレスラーとは絡みがないのでは?
ガニアやバションとはある? ゴッチなんて覚えているのは日本人だけだろうなぁ
ブルーノとガニアは対戦こそないがツーショットの写真は何枚もあるよ
恐らくはMSGで撮られたものだが、中でもアンドレを挟んで三人で談笑している写真がある
あのアンドレが心からの笑顔を見せていて最高の一枚だ。もう、三人共いないんだなぁ・・・
バションとは日本ではあまり知られていないが67年の初め、バションがAWAチャンプの時にカナダで対戦して
ブルーノが快勝している。これがアメリカの雑誌で大きく扱われた為か、バションはすぐに王座から降ろされ
二度とチャンプに返り咲くことはなかった。 デストロイヤーとも対戦がないんじゃない?
60年代初め、東部で素顔のディック・ベイヤー対
若手のサンマルチノはあったかも知れないが。
70年代半ばまで、MSGはマスクマン出場禁止だし
その頃は、もうデストは日本に定着していたし。 レイスとのNWA戦は有名ではあるが
キニスキー、ドリー、ブリスコとは対戦すらなさそうだなあ
個人的には全盛期のブルーザーとの対戦が見たかったが キニスキーは、NWA王者になる前の
1964年にMSGでサンマルチノに挑戦しているよ。
ブリスコは、1971年の夏ごろ、MSGに上がったが
その時、サンマルチノはWWWF王座から転落して
療養中だったな。 デストとは日本でタッグでやっている。シングルでやらせなかったのは馬場の両者への配慮かな。
キニスキーとはWWWF王座を賭けて死ぬほどやっている。
ドリー、ブリスコとは対戦はないが、ドリーの交通事故による長期欠場、ブリスコの欠場でセントルイスを
救ったのはブルーノだった。
ブリスコは何を思ったか、70年にニューヨークに登場したが全く受けずに前座止まり。
ニューヨークで四の字をやった超空気読めない男だつた。
ブルーザーとは招かれてタッグを組んだが、これが超大当たり。YOU TUBE辺りにあるんじゃないかな。
とにかくMSG以上の盛り上がりで会場が爆発している感じ。対戦相手はバリアント兄弟とか
ラッド、ラシク組とかバッとしないんだけどね。ブルーザーのベビーフェイスぶりがやたら可笑しいし
客分のブルーノに対する配慮が凄い。そこが破滅したシークと違う所。 サンマルチノと正統派タイプのレスラーとは
メインとして興行を組みのはむつかしそうだね
オコーナーとも大試合でも対戦はなさそうかな ゴリラ・モンスーンやビル・ミラーも基本的にはラフファイターなんだよな 60年代くらいのアメリカの四コマ漫画で、上流階級夫人らしき人がソファに座ってお茶を飲んでいるんだが
二コマ目で時間を確認すると三コマ目でテレビをつける。
最後の四コマ目で「BRUNO!!」と絶叫するオチというのがあったな。当時はそんな感じだったのかな。 馬場がマジソンで挑戦した時にはかなりのギャラを貰っていたんだな
あのドケチなマクマホンにしたら特例的な扱いだな ケネディとハードボイルドハガティ
カーターとミスターレスリング2号
トランプとサンマルチノ
それ位か・・・ 俺は読んでないけど、フレアーの自伝で思いっ切りサンマルチノをけなしていると聞いたが デトロイト地区のプロモーターだったザ・シークに呼ばれた時はたったの800ドルだった
「お前のケツの穴にでもツッコんでおけ!」
サンマルチノは二度とデトロイト地区に来ることは無かった モラレスが死んだらしいね。サンマルチノであんなに落胆してたさんまだから
さぞやガッカリしているだろうと思ったら、師匠も死んだって。
悪いことは続くからなぁ。 モラレスは馬場と二つしか違わなかったんだなぁ
マスカラスと一緒かぁ
馬場は随分、モラレスを子供扱いしてたけど
天国の方が確かにレスラー天国に成っちまったなぁ 去年から今年で一気に亡くなったなぁ
ブルーノ、ジョナサン、モラレス、デストロイヤー・・・
超一流ばかりじゃないか
日本でも坂口はもうヤバイし、猪木も自力ではリングにすら上がれないらしい ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています