ブルーノ・サンマルチノ死去
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http://www.wwe.com/article/bruno-sammartino-passes-away?sf187243454=1
WWE is saddened to learn that WWE Hall of Famer Bruno Sammartino passed away at age 82. 流石に現役を知る世代ではないが
ご冥福をお祈りします あの頃のレスラーみんな死んでるし生きてるの知らんかったわ
真面目な人だったんだろうな 「プロレススーパースター列伝」の所為で、
日本では妙に過小評価されちまったレスラーだったなぁ・・・・。
R.I.P プロレススターウォーズで
両肩に馬場とアンドレを担いでたんだっけ? プロレスラーは割と短命な人が多い印象だけど
この人は節制してたのか長生きだったな
まあドン・レオ・ジョナサンみたいにさらに年上の存命者もいるけど 馬場とのタッグを見たことがある
シン 上田との試合だけど
残されたのはシンだけ
猪木 マスカラス 小鹿あたりは健在だけど
いずれプロレス・クラシックの中継が全員故人なんて時代が来るんだろうな サンマルチノは引退後もボディビルをしていて筋肉が隆々としていた
馬場がドン・レオ・ジョナサンのついてもう長くはないんだと言っていたけどまだ健在で
わりと元気そうに見えたサンマルチノが亡くなったのは意外だ
サルマン・ハシミコフがプロになる前に見たプロレスはサンマルチノの試合だと答えていた 今年の正月にG+であった馬場との試合を見たけどリアルタイムで
古い方の試合は頭頂部が薄かったのにちょっと後の試合はもうすでに
カツラをつけてた ハンセンの下手糞なボディスラムで首の骨が折れた、で有名な? ビンスと長い間不和だったから静かに長生き出来たんかね >>25
それで入院したのに猪木アリ戦の全米クローズドサーキットが全く売れなくて
血相変えたマクマホン・シニアがサンマルチノの病室まで来て出場要請した アホぐらいタイトルを長期防衛したレスラーだよね
それだけ当時の民衆に支持されてたんだな
今だったら総スカン食らうだろうけど >>10
ホーガンのインスタ見て「えっ?今更?」ってガチで勘違いした 息子のデビットが全日本に来日した時に試合を観た。メインの6人タッグで、
デビューしたばかりの田上のバックフリップでフォールを取られた。
御冥福をお祈りします。 マジか!
と思ったがサンマルチノの試合ろくに見たことなかったわw プロレスラーでロールスロイスに乗っていたのはこの人位だろう
大レスラーでも晩年は悲惨な人が多いものだが・・・
「生ける伝説」から、本当の「伝説」になってしまった 日テレジータスで放送していた日本プロレス特集で
馬場さんvsサンマルチノさんの試合が観れて良かった。
ご冥福を。 YOU TUBE では早くもいくつもの追悼動画がupされている。
多い物は早くも6万回視聴されている。日本とアメリカでの評価に違いに今更ながら驚かされる。
先代マクマホンに唯一、NOと言えた男
現マクマホンを唯一、ジュニアと呼べた男
頼めば、シュワルッネガーをロスからニューヨークまで来させる男
スタローンをファンクラブに入るほど熱狂させた男
トランプが「Sir」と呼んだ男
今頃は天国にチャンピオンロードが作られ歴代の世界チャンプが出迎えに来ているだろう デビッドだっけ?
情けない試合して試合後にハンセンにボコられたの 昔ある芸人が一番発音しにくい英単語ってことでネタにしてたね。
確かに言いにくいわ「サンマルチノ」って。 >>35
小学生の頃、何故か列伝のこのセリフが流行って、何か揉め事がある度に最後は皆でこう叫んで、何もかもサンマルチノのせいにして丸く収めてた
サンマルチノさん、ごめんなさい、そしてありがとうございました 凄い体してたけどやっぱりステロイドかな?
調べたらもうあの頃にはあったらしいし スーパースター列伝の頃から馬場との関係ばかり思い出すわ
キャディラックとかシン&上田組との試合に最後の来日も東京ドームの引退式か
本人複雑な思いもあったろうけどWWE殿堂入りは出来て良かったな ジン・キニスキーも亡くなった。
デストロイヤーは日本国からタレントととして勲章?をもらった。 デストロイヤーもいい年なんだよね。もう100いってるんだっけ?
なんだかんだで数すくない力道山の対戦相手だし WWEのスーパーレジェンドって言ったらサンマルチノ、ホーガン、オースチンくらいかな? 夕方にラジオを聞いてたら
この話題が出てて
「昔は人間発電所とかいろんな形容詞がありましたね、人間風車カレリンとか・・」
なんて言ってて唖然とした トリプルHは、なんとかして生きてる間にサンマルチノをマクマホンとの仲を解消させて
WWE殿堂入りさせることができてホッとしてるんじゃないかな? >>17
俺は分かったが、他の人はどうなのかな?
いかん、いくらなんでも食い過ぎだ。 サンマルチノもシュワルツェネッガーも、移民の中で
チビで体が弱くて、まわりから馬鹿にされないようにボディビルはじめたクチ。 ニューヨークといえば移民が大西洋を越えて最初に見るのが自由の女神という移民の街…
ゴッドファーザのイタリアンマフィアの街…
マジソンスクエアガーデンでの興行を仕切っていたのがイタリアンマフィア…
サンマルチノはイタリアからの移民…
なぜWWWFの王座が長かったか
ま、そういうことだな。 明石家さんまが
彼のファンで、芸名の
さんまは「サンマルチノ」から取った。
まぁみんな知っている本当だなwww 60だが、
すまん!
間違えた!
訂正する!
×みんな知っている本当だな
○みんな知っている話だな
「本当」も「話」も「H]で
単語登録をしていて、よく見ないで書き込んだんだよ。 ばかだな、おおたけ(4)しのぶ・・・(2)にちか・・・(1)いまるで
だから芸名を「(3)さんま」にしたんだよw(棒読み) ま、戦隊の中で一番強いのはブルーノよりも
レッドノ・サンマルチノなのは言わずと知れたこと。 >>60
気持ち悪いからいちいちウソつきにこなくていいよ >>67
さんまのまんまでゲストがプロレスラーだとお約束の様に言ってたな さんまは、ふと思い出したレスラーの名前でペドロ・モラレスを挙げたら
思いのほか客ウケがよかったので、(客もペドロモラレスなんて誰なのかも知らなかろうが)
笑いが取れたらそれでいいというだけのことで、さんまはプロレスの話題になるとすぐペドロ・モラレスを出す。
名前が客にウケるだろうと、笑いをとれると思ったからでしかないでしょ? ちなみにサンマルチノはヅラだったので
試合中に相手レスラーが頭に触れることを一番嫌がったらしいな。 ズラを守るため頭部へ攻撃されるのを避けてたのがよかったのかねぇ >>60
さんまの芸名は、さんまが笑福亭松之助の弟子になって
芸名をつけることになった時に桂べかこ(現三代目南光)が
彼の実家はさんまの水産加工業をやってるので
さんまにしたらどうですか?て冗談で言ったから。 >>68-69
ジャイアント馬場がゲストで出た時に
ペドロ・モラレスに憧れてプロレスになろうと思ったて言ってた。
さんまはモラレスと一緒に来てたウィルバー・スナイダーのことも覚えてた。 さんまはモラレス以外に出す名前だと
ブルーノ・サンマルチノ、フリッツ・フォン・エリック、マーク・ルーイン
とかも出てくるな。 さんまは小学校の時、先生に薦められて東大寺学園という進学校を中学受験してるけど
面接で将来プロレスラーになりたいと答えたら、それじゃウチに来る必要はありませんねと
断られて受験に失敗している
あと何かの番組でフレッド・ブラッシーっていうのが昔いてという話をしたら、ブラッシーの日本人の
奥さんが偶々それを見ていたらしく、ブラッシーのサイン入りブロマイドと結構長めの便りを奥さんから
貰ったことがあるとヤングタウンというラジオで昔話していた さんまがペドロ・モラレスやプロレスが好きだった時期は小学校高学年を中心とした数年だけだったはず
前に日本テレビの番組でさんまが見たい映像というのでペドロ・モラレス初来日の試合が観たいとリクエストしたら
その映像は日本テレビのデータベースに残ってなかったらしく結局後に全日本プロレスに来たときの映像をみることに
なったけどズッとこれじゃないんだよなみたいな感じだったのを覚えている サンマルチノさんの死去のニュースが
時事通信でも取り上げられているのが凄い。
孤独のグルメでもネタになった人間発電所、
ひよっこでは部屋に馬場vsサンマルチノのポスター。 みなさんのおかげですの学園コントで石橋扮する教師が「はじめまして、先生の名前は」
と言ったあと、黒板に「人間発電所」と書いて「ブルーノ・サンマルチノです!」
当時小学生でサンマルチノのこと知らなかったけど大爆笑したw ハンセンWWE殿堂入りのプロモでのヘイマンが良かったな
「子供の頃ブギーマンもゴジラも怖くなかったがハンセンは違った 何故ならサンマルチノの首を折ったからだ!あのブルーノサンマルチノの首をだぞ!」 ペドロモラレスといえば坂口のデッドリードライブ風ボディスラムで
リング上からリング下に叩きつけられた時のハードバンプだな
ミックフォーリーやスパイクダッドリー顔負けのすげえバンプだったわ >>58
こういう50年前のゴングの記事的な物を未だに言う奴がいるんだな
すべてを否定する訳ではないが、イタリア系ならゴリラ・モンスーンでもドン・デヌーチでも
マリオ・ミラノでもアントニオ・ブグリシーでも誰でもよかったんじゃないのか?順繰りに回せばベストだろうが?
それに、WWWF=NYみたいに考えているのも多いな。WWWFのテリトリーはかなり広大でボストン、フィラデルフィア、
ピッツバーグ、首都のワシントン、ニュージャージーなど東部の大都市を網羅して当時の三団体の中でも
一番収益を上げていた筈。NY以外では振るわなかったモラレスとは違うね。 トップになる位だから試合は上手かったの?怪力系で上手いのは別のレスラーで例えるとホーガン的な感じ? >>83
じゃあなんでサンマルチノをトップに据えてたの? サンマルチノ
どう見てもサブミッションの技術ゼロだし、動きも鈍いし、
強さに関してはスコット・ノートンみたいなものだったと思う ガチの話と言うと来日した時にセーラー・アート・トーマスをボコボコにしたってのがあったらしいが
映像も残っていないし見た人いないだろうな フミ斎藤コラム
https://nikkan-spa.jp/1449952 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:847cfeaf6f31691a42c25abc56bd4433) >>88
サブミッションの技術ゼロってwwセメントで決まるプロレス技なんてパンチ、キック、頭突きを除けば
ヘッドロック、ベアハッグ、いいとこスリーパー位だろう。マジソンで四の字固めなんてやったら笑われるよ。
ブリスコはそれを理解できなかったから、前座で終わった。
動きが鈍いって、ロクに見てもナイダロウ?レイスや全日時代の馬場の間違いじゃないか? サンマルチノ、動き速いよね!動画みると驚くわ。
確かに重厚なイメージあるからノロそうに思われがちだろうけど。 プロレスラーのレスラー間のガチ話って単なる職場でのケンカだよな。 SNSでは多くのプロレス関係者や著名人が追悼の意を表している
特にシュワルッッネッガーはツイッターでツーショットの写真入りで故人の偉大さを偲んでいる
プロレスラーの死としてはこういう類のものは恐らく最後だろうなぁ
フレアーやホーガンが死んでも、もう誰も関心を寄せないだろう
そう言えば以前に猪木が国会質問に立った時、安倍首相が
「若い頃、猪木さんとブルーノ・サンマルチノの対戦をTVで見ていた」とか言っていたなぁ
今、思い出したよ >>95
あったあった笑
確か猪木とは大したことのないタッグ戦で一度だけしか絡んでないらしく、
安倍は余程の発電所マニア、とか言う記事が東スポに載ってた記憶がある 少なくとも4回は猪木とタッグマッチで対戦してる模様。
https://www.cagematch.net/?id=2&nr=243&page=4&s=500 >>96
昭和43年8月9日、田園コロシアムのメイン、
馬場&猪木対サンマルチノ&Rスチーブンスはインタータッグ戦。
アメリカ東の王者(ニューヨークWWWF王者)サンマルチノと
西の王者(サンフランシスコUS王者)のスチーブンス組と
当時、評された。安倍をフォローする気はないが、
大した試合だ。
西の王者はちょっと無理があるが。 >>57
メチャクチャな作り話を書き込まないでよw NYでイタリア系移民といえばどのファミリーに支援してもらってたんかね
ゴッドファーザーにはプロレス興行の様子は出なかったな仁義なき戦いには力道山モデルにしたのが出てたけど >>98
大会場で猪木が決勝のフィニッシュを初めて取った
日プロでの猪木台頭の起点になった試合でもある 73〜74年はWWWFを離れセントルイスやインデアナポリス等で活躍し、NWA世界にも挑戦している。決してニューヨーク一辺倒でも怪力一辺倒でもなく、融通の利くレスラーだったんだと思う >>102
昭和43年2月3日大田区体育館
インタータッグ決定戦
@リソワスキー(体固め)馬場
A馬場(片エビ)リソワスキー
B猪木(コブラ)Bミラー
と猪木が決勝を取っている。
1月8日、BI砲が王者だった時、リソワスキー&ミラーが
挑戦が決っていたが、猪木が東京に勝手に戻って
飛行機が大雪で欠便になり試合に出られなくなり返上。
その上での決定戦。大田区体育館が大会場でない
と言われたらそれまでだが。(苦笑)
続く6月17日、宮城県スポーツセンターでも
Cハリケーン&Mミラノの挑戦を受け
@ハリケーン(体固め)馬場
A馬場(片エビ)ミラノ
B猪木(コブラ)ハリケーン >>103
73年頃ニューヨークを出て
セントルイスでNWAに挑戦したのは
WWWF王座から降りたこと(71年1月)、
その後、しばらく長年の疲労からきた腰痛を治療し、
そして、もうひとつの理由は、WWWFがNWAの
メンバーになった(同年5月)からではないか? >>105
リフレッシュ期間というのもあるんじゃないの?
王座を降りて同年の秋頃にはロスにも出てたし
ブルーザーと組んでた動画も見たことがある 当時小学生で、タイガーマスクきっかけでプロレスをガッツリ見るようになり、
土曜の夕方に馬場・サンマルチノ×シン・上田を目にする。
「人間発電所」のニックネームを見て、ベアハッグしながら体内より電気を発電し、
失神させることができるんだと期待しながら、ビックリ人間大集合感覚で見ていた、
というサンマルチノの思い出。 さんまがラジオでちょっとだけ話題にしてたけどレギュラーの若い女の子は
ベアハッグやキーロックなども知らないほどプロレスに興味がなかった >>79
今年の朝ドラにはブッチャー君が出てるから、来年あたりはもしかして… サンマルチノ世代ではないが、WCWでムタ、テリーファンク組とフレアー、スティッグ組の特別レフェリーがサンマルチノだった。
ゲスト解説の武藤は「アメリカ版の力道山ですから」と言ってた。
ご冥福を祈ります。 馬場の節目の時は良く呼ばれていた。
全日本旗揚げ10周年、馬場デビュー30周年、馬場5000試合。
そして馬場引退試合。 >>101
ハンセンが首の骨折ったときマフィアが制裁しようとしたらしくて
慌ててニューヨークからハンセンが逃げたとサンマルチノの
自伝に書いてた 昔のテレビは会場に客を呼び込むためのプロモーションでは世界タイトル戦はテレビで放映しなかった。
地区ごとの王者がいてサンマルチノは東部WWWFチャンピオンだからNWA圏、AWA圏、西部地域のファンはサンマルチノを知らない。
逆にWWWFのファンはNWA王者テーズやAWA王者ガニアを知らないといった感じだった。
まぁ、NY、ワシントン、ピッツバーグ、フィラデルフィア、ボストンなど大都市が多いWWWF王者の知名度は高いが。 >>114
ずーっとニューヨークエリアにいて興行のトップとして出続けてたけどね。
各会場ともとんでもない緊迫感だったろうに、ハンセンはメンタル強いな。 >>115
要するにローカルタレントの大物ってことか
さとう宗幸とか宮地佑紀生とかばってん荒川とか >>83 >>115
サンマルチノはNYに限らないWWWFエリアの人気王者だったが、それ以外のエリアでは
実際あまり活躍した記憶が無いな。逆にモラレスは遠くロスのWWAでも王座に君臨した。 >>105,106
72年からのブルーノは激動を極めた。長い間、WWWFのチャンプとして東海岸地区を動けなかった反動からか
他地区に積極的に向かうようになる。まず、年明け早々、LAに登場。いきなりバトルロイヤルで優勝すると
ローカルタイトルではあるが、キラー・コワルスキーに挑戦。2-1で快勝(日本ではタイトル獲得と報じられたが
1本反則勝を含んでいたためタイトルは移動せず)この頃、新団体のNWFから初代チャンプとなる打診を受けるも固辞。
慌てたマクマホンからWWWFへの帰参を要請される。NWFの件もあるが、新チャンピオンのモラレスのファンである
プエルトリカンの態度が粗暴で会場を一部破壊したり、相手レスラーをナイフで傷つけたりとブルーノ時代では考えられない
事態が起きていた。又、定期戦のマジソンのインターバルの時にはどこからともなく「WE WANT BRUNO!」の大合唱が起こるようになり
マクマホンから真剣にチャンブの復帰を命ぜられるようになる。しかし、弟分であるモラレスを守りたいブルーノは中々腰を上げず
マジソンもスマッシャー・スローン相手の一戦だけで敢えてボイコットしていた。しかし、マクマホンはじめWWWFのプロモーターの圧力と
イタリア系ファンの要望でシェアスタジアムでのモラレス戦が計画され、話はどんどん大きくなっていき。さすがのブルーノも
NOと言えない事態になって来ていた。そんな時期、馬場の訪問を受ける。独立して新団体を設立するので是非協力して欲しいというものだった。
ブルーノは二つ返事でこれを快諾。プロレス界では考えられない二人の関係が築かれる事になる。というのも
馬場とブルーノの間ではこれ以降契約書が交わされていない。つまり、ギャランテイが決まっていないのだ。ブルーノ来日中にこの噂を耳にした
ある記者が、ブルーノに「もし、馬場がギャラを払わなかったらどうする?法的には可能だ」と尋ねるとブルーノは
「もし、馬場が、すまない。経営が苦しくてギャラが払えないんだと言ってきても私は遠い友人の手助けを出来た事を誇りに思って
胸を張ってアメリカに帰るだろう」と平然と答えた。無論、馬場がギャラを支払わない訳もなく外人レスラーとしては
ファンクスを超える最高額を支払っていた。そして、嵐のモラレス戦である。 続く >>115
WWWFができる前、テーズはMSGでパット・オコーナーとNWAの防衛戦、
アントニオ・ロッカと対戦してるね。
NAWA→WWA(初代王者エドワード・カーペンティア)
WWWF(初代王者バディ・ロジャース)
誕生はテーズが関係してるな。 >>120
そーいやテーズは世界王座陥落以降、TBSプロレスのTWWAやメキシコのUWAのような新興団体
(マスカラスの東部IWAもか)の参画に執心して?初代王者として名を残すようになるのな。。w >>119
そんなに忙しかったのによくボディーガードやってくれたな… >>120
テーズはNWA傘下だったWWWFのMSG含め基本的に他地区も単発で回った。
NWAの総本山セントルイスは30〜60年代は人口約70〜80万人で東京都大田区、相模原市規模。
AWAなんて中西部ミネソタ周辺地区だから、みちのくプロレスみたいなもの。
それを世界三大王座と称したプロレスマスコミw >>123
AWAはシカゴやラスベガスもテリトリーだしカナダやハワイでも試合してるぞ >>124
みちのくが後楽園や大阪でやるような単発で
ドサ回りのメインテリトリーはミネソタ周辺。 IWAはあの漫画とはちがって資金豊富な新興団体だったんだが
テーズとマスカラスを使ったにもかかわらず
ニューヨークのサンマルチノ人気には歯が立たなかったんだよね >>119
続きは?待ってるよ。読みごたえありました。
ブルーノは男気があるなあ。 >>128
有難う。すんまそん、必要なら明日、書き込みます。
貧乏暇なしで。馬場元子が死んだってホント? さんまは、関西ローカルラジオで「サンマルチノ死去」を告げた村上ショージに対し、
「テンション下がること言うなや…」と嘆きながら、5分ほど熱くサンマルチノの話題を
しゃべりまくっていた…20前後のモーニング娘たちに向かってw ブルーノ・ペドロ戦は9月30日に行われた。観衆2万2500人、25万ドルの収益を上げた。シェア・スタジアムで
2万2500人?少なくないか?マジソンだってフルハウスなら2万2千は収容できる。そう、確かに少ない。
NYは緯度で言うと日本の青森と同じである。つまり、寒い。夏はそれでも普通に暑いが9月も後半になると急に寒くなり
秋が無い所と言われている。そんな時期に野外での興行は普通行わないものである。しかも、この日はあいにくの土砂降り。
逆に言うと良く2万人以上も入ったものである。そして、世紀の対戦。誰もがブルーノがチャンブに返り咲くと思っていた。
いや、返り咲くはずだった。野外でのビッグマッチ。凄まじい興行収益。注目の高さ。ご法度であるべきベビーフェイス同士の対戦。これで
引き分けなんてプロレス興行では絶対ありえない。ところがである。何と二人は75分を戦い抜きNYのカーフューまで持ってってしまった。
二人と言うよりブルーノがそうしたというべきか。試合は圧倒的にブルーノの物であった。それでもベルトはペドロの腰に帰ってきた。
マクマホンは心中穏やかでなかったろう。すぐに10月のマジソンの定期戦での再戦を発表。この試合を観戦していたという馬場は
ブルーノの気持を唯一理解していたのかもしれない。馬場の言葉に「リングの上で起きている事。すべてがプロレス」正に言い得て妙。
因みにこの試合、いくつかの面白いこぼれ話がある。ブルーノがかつらをつけたのはこの試合が最初である。
そして前座の第3試合に翌年NWAチャンプとなるジャック・ブリスコが出場している。相手はミスターフジだったが相変わらずの脳天気ぷりで四の字で勝っている。そして、日本のゴング誌。大特集で別冊号を出しているが
観衆が5万2千とか、試合後のブルーノのインタビューとか相変わらずのやりたい放題である。もはや趣味の本ともいうべき。
ところでマジソンでの再戦はどうなったっかと言うと、ここでもブルーノはマクマホンに反旗を翻し再戦どころか
何と、ちゃっかりペドロとタッグを組んでプロフェツサー田中、ミスターフジ組と対戦。完勝しファンを狂気させた。
マクマホンに唯一「NO」と言えたレスラー。それはブルーノだけであり、実際そうできるだけの集客力と支持を持っていたと言う事である。 ブルーノは後年、ペドロとの一戦について「ビンスがあまりにもうるさく言うから仕方なくやったんだ。
はじめから勝つ気なんてなかったし、二度とやるつもりもなかった」と語っている。
話は前後するが、シェア・スタジアム戦の後、ブルーノは約束通り馬場の全日こけら落としシリーズに参戦。
腹心のデヌーチを同行させたが、注目すべきは後のNWAチャンプとなるテリー・ファンクも
参戦していたことである。テリーはこのシリーズ中、行動を共にしていく中でブルーノに心酔。
シリーズが終わりテキサスに戻ってもドリーにブルーノの話ばかりをし、ドリーに「もうその話は何回も聞いたよ」と
呆れさせたほどであった。又、このシリーズでの馬場・ブルーノ戦は二人の戦いの中でもベストバウトと評されている。
ブルーノが馬場の背後から逆ベアハッグ。脱出できないとみた馬場は自らコーナーポストを蹴り
ブルーノのジャーマン(!?)のような体勢で両者ダブルフォールの引き分け。馬場も独立とあって張り切ったのか
興行的にも大成功となった。
翌73年。マクマホンからの要請は更に強くなりますます激動の中に巻き込まれていくことになる。 続く いや。最後に削ったり付け足したりしていると行が狂ってくる。
いちいち直すのも面倒なんでね。かなり時間がかかって疲れるものだ。 読売社会面の訃報に元子が出てるな。
サンマルチノは一般新聞やニュースに出たか? >>134
ありがとうございます。急かした>>129です(笑)。めっちゃ面白かった。
また時間のある時に書き込んで。でもなるべく早く(笑)。 >>144
どうも有難うございます。
ご承知の様にブルーノ・サンマルチノが亡くなりました。
自分の子供時代の大ヒーローでした。もう、ブルーノについて語ることもないでしょう。
最後にこの機会に自分の記憶の整理をしようと思っています。
長文で拙文ですので不愉快に思われる方にはお詫びします。
長い目で見て頂けたら幸いです。
因みに自分は流氏ではありません。流氏がこんな、金にもならん事しないでしょう笑 1973年はアメリカ・マット界においても激動の年となった。
ブルーノを中心に書いているが、この時期、WWWFは色々と複雑な状況にあつた。
1971年にWWWFがNWAに加盟したのは周知の通りだが(これも複雑。これだけ取り上げても一スレッド
あつても可笑しくはない)肝心のNWAチャンプ、ドリー・ファンクは全く東部地区に来る気配は無く
逆に空気を読んだAWAの総帥、バーン・ガニアがWWWFに接近、72年11月にMSGに登場する。72年から73年に
掛けて、ガニアはレイ・スチーブンス、ラリー・ヘニング等のスター選手をNYに送り、更には売り出しに苦労していた
アンドレ・ザ・ジャイアントのプロモート権をマクマホンに譲り渡す。NYを巡り、様々な人間の思惑が渦巻いていた。
ブルーノは年明けの1月MSGに登場。ブロフェッサー田中をベアハッグで下す。(メインはモラレス、ロニー・メイン戦)
2月にはワンマッチ、しかもシングルで馬場に負ける為だけに来日(当時、ビッツバーグから日本までは丸一日以上かかったと言う。
お人好しめが!)その後はもっぱら地元のピッツバーグだけで試合をし、マクマホンの声を聴かないようにMSGにも上がらなくなる。
しかしマクマホンの執拗な要請は止まらず、それならばと考えられない行動に出た。何とNWAの総本山、セントルイスに姿を現したのだ。
当時セントルイスを仕切っていたのは泣く子も黙るNWA会長のサム・マソニック。
サム・マソニック。移民のユダヤ人。新聞記者からプロモーターになりNWAを設立。
ただ詳しい素性は良く分からず一部ではフリーメイソンのメンバーとも言われた。このブルーノの
セントルイス初見参は色々な意味で大きな話題となった。まず、マソニックというプロモーターはどんな
大物であってもセントルイスでは前座からスタートさせる。そうして勝ち上がって来た者をメインに登用させ
NWAタイトルに挑戦させていた。ところがブルーノをいきなりメインで起用し、しかもその相手と言うのが
因縁のイワン・コロフだった。 >>153
私は興味深く拝見しています。
72年の終わり頃か、ドリーがMSGに出場して
モラレスとNWA戦を行うとかいう噂もありましたが、
サンマルチノ、セントルイス進出で
レイスに挑戦するんですね。
一点、気にかかるのは、
>2月にはワンマッチ、しかもシングルで馬場に負ける為だけに来日
とありますが、手元の「日本プロレス史50年」の
「来日外人全リスト」によると
サンマルチノは73年に2月15日、札幌でG・馬場と
世界選手権(後のPWF)争覇戦に出場していますが
これのみならず18日まで特別参加とありますが?
オコーナー、ブラジルは同じシリーズに
20日、27日にワンマッチだけの出場ですね。 >>157
ドリーのMSG登場の噂は72年1月頃
モラレスが来日してUN挑戦の噂があったのも同時期
またこの頃はサンマルチノがワールドリーグに来るという噂もあった 記録だけみても味気ないから、嘘でも本当でも講釈垂れるだけの
知識あるのは裏山しいですな。
https://www.cagematch.net/?id=2&nr=243&page=4&s=300 >>159
ドリーがデカイMSGに出て普段の試合やったら、
つまらなすぎて「ボ〜リング」コールが起きるわ。 >>161
80年代後半には似非ファンクスで登場したがヒールスタイルだったのであまり参考にはならないな。
スレチだが、今でもドリーはファームのコーチやってんのかな。 ブルーノがコロフに敗れてWWWF王座を明け渡してから2年。ただ、この間、全く二人の対戦が無かった訳ではない。
1971年の2月と3月、ブルーノの地元ピッツバーグで対戦していて、特に3月はデスマッチでブルーノが快勝。一応、地元ファンの留飲だけは下げている。
しかし、檜舞台はあくまでMSG。セントルイスでブルーノがコロフと対戦と知った時のマクマホンの心境は如何ばかりか。してやられたと言うべきか。
MSGでの二人の対戦は更に2年の月日を要すことになる。ところでセントルイス戦。ブルーノ登場がどれほど注目を集めたかはこの日の数試合が
録画されている事でも分かる。MSGと違ってNWAの総本山セントルイス定期戦と言っても録画された物はまず見たことがない。
馬場あたりが出場して日本TVが同行して録った物が数本ある位だろう。ブルーノ、コロフ戦の物も画質は良質とは言えず、無声でコマ切れの物であったが
日本でもビデオテープで販売された。(無論、DVD化は無し)
ブルーノの試合ぶりはある意味セントルイスファンにも衝撃を与えた。比較的、充分に間取って技を掛け損なうことなど無いNWAのスタイルに対し
ブルーノはパワーファイターながら凄いスピードで最初からガンガン飛ばしていく。しかも試合がダレない。正に「フアイト・クラブ」とも呼べるそのスタイルは
セントルイスのファンにとっても新鮮に映ったのだろう。相手のコロフも充分手の内は知り尽くしているから両者の良い面が引き出された。
試合はブルーノがベアハツグで快勝。セントルイスに「ブルーノ・コール」が起きた。スポーツ紙は「ブルーノはキールをマジソンにしてしまった」と
見出しを付けた。観衆もフルハウスの成功とあってマソニックもしてやったりであったろう。実はこの時、NWAサイドにものっぴきならない事情があった。
4年以上に渡り世界チャンプを張っていたドリー・ファンクが交通事故を起こし長期離脱を余儀なくされていたのである。
新しいスターが欲しいNWAとNYから逃げ出したいブルーノ。両者の思惑がうまく噛み合ったのである。 この当時、セントルイスにはもう一人、話題のレスラーがいた。
インベーダーというマスクドレスラーでヒールだが、とにかく強く連戦連勝。
恵まれた体躯とクロー攻撃を得意とした事からフリッツ・フォン・エリックが正体ではないかと噂された。
ブルーノがコロフを下したリング上で翌月の定期戦のメインがブルーノ、インベーダーと発表されるとファンは大歓声。
その日の内にチケットはソールドアウトとなった。 >>165
サンマルチノ好きだったから俺は、楽しく読んでる
まぁ解釈は人それぞれ自由だから タイソンが自伝の中で書いていたけどチャンピオン時代(レイプ犯になる前)にNY
であるパーティーに出席した。そこには、映画スター、ロックスターなどのその頃のセレブリティー
が沢山いた。そのなかで彼が誰に出会って一番喜んだかと言うともう現役ではなかったブルーノサンマルチノ
だった。タイソンにとってもサンマルチノは少年時代のヒーローだったんだ。タイソンもニューヨーカー
だからね。他のセレブは世の中的にはサンマルチノより知名度なり収入なりで上の人も多いんだろうが、タイソン
にとってはサンマルチノが英雄だった。いかに彼がNYにおいてカリスマ性をもって君臨していたかのお話。 大富豪になったのは不動産投資に成功したからで、
WWWF王者を最初に降りた時点でもう金には困らない
状態だったらしい。 プルーノ・サンマルチノが、いちばん最後に日本のファンの前に写真と記事で登場したのは、
『1964年のジャイアント馬場』(文藝春秋社)に収録されている、
『週刊大衆』(2014年5月5日号)におけるインタビューです。
・ババとの関係は、ヴィンス・シニアとの関係が悪くなっても大切だったから、
シニアと提携していてもイノキのところにはいかなかった
・ババ以上のビッグ・ボス(プロモーター)を知らない。
ババはレスラーから悪口を言われたことのないただひとりのプロモーターだったと思う。
・ニューヨーク時代はババのパーソナリティは全くわからなかった。
「こいつはいいやつだ」と思うようになったのは初めて日本に行った1967年3月だよ。
・お互いの若手時代、「いつかふたりでMSGのメインイベントで戦おう」と誓い合った記憶はない
・ババの英語はノット・グッド。会話をするのは難しかった。日本に来てジョー樋口を通訳にして初めて本音で話し合った。
リング外でも誠実で信頼できる人間。キャデラックをプレゼントしたこともある。
・ババがひとつの都市にとどまり、フレッド・ブラッシーのようなマネージャーがついたら、もっと大きなスターになった。
でも日本で一番のレスラーとなって何十年にもわたって成功したわけだから帰国してよかったのかもしれない。 >>174
そう。71年にはビッツバーグに城のような豪邸、ボストンにセカンドハウス。
モーテル経営、投資。引退しても何ら困らなかった。
それに引き換え、NWA王座を4年も張ったジュニアは移動の飛行機はエコノミー、
宿泊は試合場近くの安宿。気の毒過ぎるよ。 要するに、ブルーノ・サンマルチノは、
1.プロモーターとして、人間としてのジャイアント馬場に高い評価を与えている
2.アメリカ時代の馬場はよく知らない、来日してから親しくなった
3.自分が契約している社長との関係を悪くしても、ジャイアント馬場のリングにしか上がらなかった
ということを言っています。
2は、これまで言われていた「アメリカ時代の2人の友情」のエピソードとは両立しない「新事実」です。
しかし、私にはむしろ、エピソードよりも「新事実」の方が不自然に感じました。 ブルーノ・サンマルチノは、ジャイアント馬場にキャデラックをプレゼントしているのですが、
たった1、2度の来日で仲良くなったぐらいで、高級車をプレゼントするのは解せません。
現役時代は、自分がその団体のチャンピオン、前チャンピオンのメインイベンターとして高額報酬を得ているにもかかわらず、
そのプロモーターよりジャイアント馬場のほうが大事だというのです。 そんなの別に不思議じゃない。
プロモーターを心底信頼しているレスラーなんか、基本いないよ。
まあ、例外として昔の全日時代の一流外人レスラーに対しての馬場位だろう。
その陰で日本人レスラーは薄給に泣いていたからプラマイ、ゼロだけど。 >>180
クルマのプレゼントについては俳優のジョン・ウェインにも、ほとんど同じようなエピソードがある。
アメリカの大金持ちは感謝や友情の印にクルマをプレゼントする習慣でもあるのかもしれん。 キャデラックのプレゼントもそうだが
新日とWWFとの提携後も新日出場を拒否して
全日に出場し続けたってのが凄い
ドン・デヌーチが「白紙の小切手に「好きな金額を書いていい」と言われても
ブルーノはニュージャパンへの出場を拒否しただろう
彼はそういう男だった」と言っていた
ゴッドファーザーで描かれた
何よりもファミリーを大事にする昔堅気のイタリア人そのままの人 >>183
WWWFと新日が提携することになって昭和50年に馬場と
WWWF、PWFダブルタイトルマッチをやった後、全日に来なくなったが
新日に行くことは拒否したのでスーパースター・ビリー・グラハムが
王者になってからWWWFヘビー級王者が新日に来るようになった。
昭和56年の全日創立10周年の時にサンマルチノはビンス・シニアと話をつけて
引退する(後に復帰する)ということで来れた。 ブルーノ「私が何もストーリーを知らなかったと言えば嘘になるでしょう。
ではプロレスラーが弱いのかと聞かれたなら、その答えは私の体です」 今日の読売新聞1面の左下の編集手帳に、サンマルチノとアンドレの名前があった
人間発電所、人間山脈と呼ばれた事が書かれておりなんか嬉しかった 意外と知られていないが、アンドレのアフロもずら。
別に禿げていた毛ではないが、大きく見せる為に被っていたとか。
充分にデカいが。 アンドレはヅラを卒業するためにボビー・ヒーナンに切らせたの? Gスピリッツ最新号でもデビュー当時のブルーノを特集 1964年、フレッド・ブラッシー、ニューヨーク来襲。
MSGでのブルーノ戦は大反響を呼んだ。当時の一番ポピュラーなレスラーと一番アンポピュラーな
レスラーの対戦なのだから当然の事だが。
試合はブラッシーの噛み付きに激怒したブルーノが暴走し反則負け。反則でタイトルの移動こそ無かったものの
MSGの定期戦でチャンプになつてから初めての黒星を喫した。
試合後、ブラッシーはブルーノのベアハッグで腰を痛め、ゆっくりと歩いて戻ったが事もあろうに
ドレッシングルームを間違え、ブルーノの部屋を開けてしまった。
そこでは既に戻っていたブルーノと一目でその道と分かるイタリア人が会話をしていた。
これがスコーランやブルーノの取り巻きレスラーなら「すまん。間違えた」で済むだろうが
いかにその道の人間と言えどもこの世界では素人。しかも誇り高きブラッシーである。
「おい、ブルーノ。あんな試合じゃ物足りねえぜ。ここでケリをつけるか」
男は冷酷な目でブラッシーを見ながら右手をすうーっと内ポットに滑らせた。これを察知したブルーノが慌てて
「まま待ってくれ。こいつだけは俺の手でぶちのめさなけりゃ気がすまないんだ」男の肩を両手で抑えると
目でブラッシーに「早く出ろ」と合図を送った。 翌月の対戦ではブルーノのベアハッグでブラッシーがギブアップ。完全決着となった。
またまた腰を痛めたブラッシー(当時、優に40は超えていただろう。ブルーノは28歳。正に全盛期だった)
が足を引きずりながら地下の駐車場に着くと、凄い勢いで最新型のクライスラーが出ていく所だった。
どこの金持ちだとふと見ると、ブルーノだった。ブラッシーは言葉も無く暫く立ち尽くしていた。
時は流れて1979年。ニューヨーク。ブラッシーはヒールのニコライ・ボルコフ等のマネージャーとなっていた。
ブルーノは12年近く王座に君臨し続け、44歳ながらセミリタイヤ。解説者として座っていた。
するとインターバルの時間にブラッシーがブルーノの所にやって来て、杖で机をバンバン叩きながら
「お前はこんなところで何をしているんだ。お前はここに座る人間じゃない。向こうに立つべき人間だろう!」
その声は半分泣いているようだった。
数か月後、ブルーノは久しぶりにMSGのマットに立った。
その姿は全盛期と何ら変わらない人間発電所であった。 サンマルチノの銅像は三体あるようだが
イタリアに一体、アメリカに二体。アメリカはどこにあるのかな。 サンマルチノのインタビューは柳澤の本に載ったのが最後かな。 あのWWWFのベルトはどうなるんだろうか?
1千万位の価値はあると思うが。
奥さんが売りに出すことはないだろうが、不肖のデビットあたりが売りに出しそうだ。 Gスピの第二弾、興味深かったな。ただ、可笑しな間違いもあった。
馬場戦を含めてMSGのメインのシングル戦はWWWFになってからは全て時間無制限一本勝負の筈。
三本勝負なんて聞いた事が無いし、一本勝負と三本勝負がゴチャ混ぜになつているのは不可思議。
それからボストンは60年代の後半に進出したはず。あそこは色々と複雑な所だったから。
逆にテーズとのカナダでの一戦は一本勝負だったのか?今まで、ずっとサンマルチノのストレート負けと日本では
伝えられてきたが。 Best Two Out Of Three Falls って三本勝負と違うの?
64年に馬場とMSGで対戦した時は一本勝負だったけど。
https://www.cagematch.net/?id=2&nr=243&page=4&s=800 Two Out Of Three Falls を3本勝負だとするなら、何でBESTが出てくんの?
前後の文脈が分からないけど、それでは過去の3本勝負のベストなものという企画のタイトルみたいだけど。 カーフューを長々と説明しておきながら、時間のかかる三本勝負なんかやる訳がない
流はいつもそう。矛盾だらけで言いっぱなしなんだよなぁ
テーズとの一本勝負もそう。テーズのマネージャーもやってた流ならとっくに知ってたはず
ブルーノは当時、カナダでもベビーフェイスのトツプなんだから勝つにしても一本も与えないのは
おかしいとずっと思ってたんだよな マクマホンシニアの仕打ちは酷いな、契約書を交わしてないからってそこまでするか 同じアメリカ国内でも絡んでないレスラーって結構いるんじゃないかな?
サンマルチノとエリックなんて同時代でも接点なさそう ブルーノとフリッツ・フォン・エリックなら一度対戦している。
1960年、フィラデルフィア。ブルーノが勝っている(詳細は不明)
本当に接点が無いと言えば、スナイダーとかゴッチ・・・
その位じゃないかな。 >>210
カール・ゴッチはWWWF時代にサンマルチノと絡みはなかったんだな。
ここに記載されてるを見てもないな。
https://www.cagematch.net/?id=2&nr=946&page=4 >>210
サンマルチノは若くして
WWWFの王者になったから
AWA系のレスラーとは絡みがないのでは?
ガニアやバションとはある? ゴッチなんて覚えているのは日本人だけだろうなぁ
ブルーノとガニアは対戦こそないがツーショットの写真は何枚もあるよ
恐らくはMSGで撮られたものだが、中でもアンドレを挟んで三人で談笑している写真がある
あのアンドレが心からの笑顔を見せていて最高の一枚だ。もう、三人共いないんだなぁ・・・
バションとは日本ではあまり知られていないが67年の初め、バションがAWAチャンプの時にカナダで対戦して
ブルーノが快勝している。これがアメリカの雑誌で大きく扱われた為か、バションはすぐに王座から降ろされ
二度とチャンプに返り咲くことはなかった。 デストロイヤーとも対戦がないんじゃない?
60年代初め、東部で素顔のディック・ベイヤー対
若手のサンマルチノはあったかも知れないが。
70年代半ばまで、MSGはマスクマン出場禁止だし
その頃は、もうデストは日本に定着していたし。 レイスとのNWA戦は有名ではあるが
キニスキー、ドリー、ブリスコとは対戦すらなさそうだなあ
個人的には全盛期のブルーザーとの対戦が見たかったが キニスキーは、NWA王者になる前の
1964年にMSGでサンマルチノに挑戦しているよ。
ブリスコは、1971年の夏ごろ、MSGに上がったが
その時、サンマルチノはWWWF王座から転落して
療養中だったな。 デストとは日本でタッグでやっている。シングルでやらせなかったのは馬場の両者への配慮かな。
キニスキーとはWWWF王座を賭けて死ぬほどやっている。
ドリー、ブリスコとは対戦はないが、ドリーの交通事故による長期欠場、ブリスコの欠場でセントルイスを
救ったのはブルーノだった。
ブリスコは何を思ったか、70年にニューヨークに登場したが全く受けずに前座止まり。
ニューヨークで四の字をやった超空気読めない男だつた。
ブルーザーとは招かれてタッグを組んだが、これが超大当たり。YOU TUBE辺りにあるんじゃないかな。
とにかくMSG以上の盛り上がりで会場が爆発している感じ。対戦相手はバリアント兄弟とか
ラッド、ラシク組とかバッとしないんだけどね。ブルーザーのベビーフェイスぶりがやたら可笑しいし
客分のブルーノに対する配慮が凄い。そこが破滅したシークと違う所。 サンマルチノと正統派タイプのレスラーとは
メインとして興行を組みのはむつかしそうだね
オコーナーとも大試合でも対戦はなさそうかな ゴリラ・モンスーンやビル・ミラーも基本的にはラフファイターなんだよな 60年代くらいのアメリカの四コマ漫画で、上流階級夫人らしき人がソファに座ってお茶を飲んでいるんだが
二コマ目で時間を確認すると三コマ目でテレビをつける。
最後の四コマ目で「BRUNO!!」と絶叫するオチというのがあったな。当時はそんな感じだったのかな。 馬場がマジソンで挑戦した時にはかなりのギャラを貰っていたんだな
あのドケチなマクマホンにしたら特例的な扱いだな ケネディとハードボイルドハガティ
カーターとミスターレスリング2号
トランプとサンマルチノ
それ位か・・・ 俺は読んでないけど、フレアーの自伝で思いっ切りサンマルチノをけなしていると聞いたが デトロイト地区のプロモーターだったザ・シークに呼ばれた時はたったの800ドルだった
「お前のケツの穴にでもツッコんでおけ!」
サンマルチノは二度とデトロイト地区に来ることは無かった モラレスが死んだらしいね。サンマルチノであんなに落胆してたさんまだから
さぞやガッカリしているだろうと思ったら、師匠も死んだって。
悪いことは続くからなぁ。 モラレスは馬場と二つしか違わなかったんだなぁ
マスカラスと一緒かぁ
馬場は随分、モラレスを子供扱いしてたけど
天国の方が確かにレスラー天国に成っちまったなぁ 去年から今年で一気に亡くなったなぁ
ブルーノ、ジョナサン、モラレス、デストロイヤー・・・
超一流ばかりじゃないか
日本でも坂口はもうヤバイし、猪木も自力ではリングにすら上がれないらしい ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています