70年代のアントニオ猪木 22 [無断転載禁止]©2ch.net
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基本的に70年代の猪木について語るスレですが
マジなプロレス話であれば他の年代でもおkです。
前スレ
70年代のアントニオ猪木 21
http://tamae.2ch.net/test/read.cgi/wres/1402771498/ >>80
うーん、バレンタインは衰えが猪木より早かったと思うし、斎藤では華がない。
永源は まぁ良しとしても…。
やはり遠回りでも日プロに戻って,馬場や一流外人レスラーの刺激を受けて…というのが猪木にとってもプラスになったのでは⁈ >>81
あの時一旦日プロに復帰した事でBI砲も見れたし、猪木にとってもプラスだったかも知れないね。
何か猪木と言うより猪木が所属してた団体の話になっちゃって申し訳無い。 40代が懐かしいと感じるもの・出来事 Part.30
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/cafe40/1515942004/565
より
565 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2018/01/30(火) 10:51:15.46
俺も小学校で放送委員やってた
アントニオ猪木の入場の時のテーマを給食時の放送でかけたら、バカうけだったw
俺はその後1時間正座だったがww ブロディに場外でパイルドライバーやって流血させた事無かったか? >>86
あったような気もするけど
おっさんになりすぎて忘れてるわ
ありがと 「猪木が やらない技はない」
なんて昔のプロレス雑誌にはあったけど
フライング ボディアタックは おそらくやった事ないな。 サイドスープレックスも見た覚えがないと思ってたら
バックランド戦で使ってたんだな フロントスープレックスは無いんじゃねーか?
ロープ際で場外に落とすのに似たような感じのはあったかもしれんが…
ドラゴンとタイガーは絶対無いw >>88
ドリー、ホッジ組戦の時間切れ寸前にコーナ最上段からやったことがある
この時の着地に失敗して指を骨折してる 猪木が(あまり、ほとんど)使わない技
アトミックドロップ
パイルドライバー
キャメルクラッチ
エルボードロップ
アトミックドロップは見たことがない
パイルドライバーはモンスターマン戦でのみ
キャメルクラッチは83年頃の雑誌で見た
エルボードロップは猪木、ローデス×シン、ハンセンでシンに出したがよけられた
ダイビングラリアットとかムーンサルトみたいなネタではなく当時のありふれた技で 猪木のベア・ハッグは見たことがあるな
しかも相手がアンドレだったw 片逆エビ固め
逆エビは結構つかってたのに
片エビ固め(フォールの際)
片エビは全日のイメージ、馬場イズム
ラリアットはハンセン戦、木村戦だけかな? ネックブリーカードロップは若手時代に使ってたらしいが、トップクラスになると使用しなくなったね。
なんでも「あの技は相手を騙し討ちするように見えるから使うのをやめろ」と誰かに言われたらしい。 >>90-91 >>94-97
サイドスープレックスは79年のブリスコ戦でやったし詳しい日付は忘れたけどシンハンセンマードック等にも使っている
フロントスープレックスも型こそ崩れていたけど79年12月のバックランド戦で見せている
パイルドライバーは80年の第3回MSGシリーズでの藤波戦で低い角度での所謂痛め技的な使い方だったけど一応繰り出した形にはなっている
アトミックドロップは日プロ時代と新日旗揚げ当時は使っていたらしいけど映像を見た事がない 猪木オリジナルとなると延髄斬りになるのかな?
他に猪木オリジナルの技ってあったっけ。
鎌固めがそう? UWFが新日に上がるようになって
全日、全女も含めて日本プロレス界が
猫も杓子もアキレス腱固めをやり始めた時期に
猪木がヒールホールドをチラリと見せてたのはさすがだと思う >>100
・スピニングバックブリーカー(アルゼンチン式カナディアン式の両方)
・鎌固め
・ブロックバスターホールド
・延髄斬り
これ等は確実に猪木オリジナルと言える
猪木以前に使い手がいたのかそれとも猪木が編み出したか既存の技にアレンジを加えたのかどうか微妙なのは
・カンガルーキック
・ショルダーアームブリーカー
・鬼殺し(胴締め式グラウンドコブラ→ナガタロックV) そういえばゴッチは フライングソバットを使っていたけど猪木は継承してないね。 知り合いから教えてもらった簡単確実稼げる秘密の方法
知りたい方だけみるといいかもしれません
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MAEZE >>99
藤波やバックランドみたいな自分とあまり変わらない体重の相手ならわかる。
シン、ハンセン、マードックと重量級をよくサイドで投げたな。
バランス崩れなかったのかな? 猪木ってピンチになるとパンチで形勢逆転してたイメージしかない
実況も鉄拳制裁だぁ〜ではなく反則のパンチですって言わなきゃダメじゃん
格闘技戦をはじめてプロレス自体を葬り去ったのも猪木
力道山からは理不尽ないじめを受けた事しか記憶にないって猪木自身が言ってるから潰したかったんだろうね
力道山ぐ作ったプロレスを >>94
>アトミックドロップは見たことがない
1969年の終わり〜70年の春頃に
時々、使っていた。
無論、坂口ほどの迫力はなく
長続きはしなかったがな。
この時、猪木はアルゼンチン式やカナダ式の
背骨折りを決めたままスピンするバックブリーカーも
よく見せたよ。 猪木はエリックやブルーザーも恐れていたみたいだが。
コワルスキーからは逃げたんだっけ? ガチガチボックと技術を凌駕するハンセン幻想だけで伊勢崎市体育館や長岡リージョンプラザや静岡産業館や岡山武道館や八代市体育館がプレミアムチケット化する時代 品川プリンスホテルゴールドホールは、当初ボックとのカードだったが、ボックが事故で来日できなくなり、対戦相手がシンに変更されたんだっけ。
その為、チケットをキャンセルする人も出たとか。 もう1つのペールワン戦が全然プロレスじゃないな。
お互いに汗だくで血相変えてやってる。
マンガでは油のおかげでバカげた引き分けだってなってたが、実際には判定負けだろう。 >>118
終盤,猪木がダウン取られたからね。
ダメージ無いとはいえ。 今、ふと思ったんだけど、本当は心優しい紳士であったタイガー・ジェット・シンを、猪木は当時、どんな風に思っていたんだろうか。 「最高のライバルレスラーは?」と聞かれると
インタビュアーはドリーとかロビンソンとかの回答を期待するが
猪木からは必ず「シン」と言う回答が来るとか シンとのラフファイトに明け暮れていた頃の猪木には,ドリーやブリスコといった正統派とやらせてあげたいなぁ と思っていたけれど、今思うとシンが最高の好敵手だったんだろうなと。 二人の全盛期が時期が重なって相性も良かったのだろう。
状況的にも。
また年齢的にもほぼ同じだし。 もしも少しでも状況が違えばそうはならなかったと思う。
新日が既に大物外国人が沢山呼べる状況だったり。
またシンが既に海外の超大物として日本にも認知されてたりとか。
もしそういう状況なら新日もシンを呼ばなかったかも。
仮に呼んでも重宝せず。
またシンも新日に上がらなかったかも知れない。
様々なタイミングが合ったからこそ生まれた関係だね。 アトミック・ドロップは、リッキー・ハンター戦で使った。
TV中継もされた。猪木ファン歴50年弱の自分も
見たのを記憶しているのはこの時1回だけ。 >>126
猪木のアトミックドロップは記憶ないね。
あと猪木のキャメルクラッチも記憶ないけど83年頃の雑誌で一回だけ見た。
カネックにキャメルクラッチ気味に決めてるのを。
あとは全く記憶ない。
それと猪木のシュミット式バックブリーカーも見たことない。。
所謂(いわゆる)膝の上に相手をグイグイやるやつ。
テクニャンでどんな技でも使うと言われた猪木だが。 >>126
でも日プロ時代を含めたらアトミックドロップみたいにあるのかも。
日プロ時代のを探せば。
エアプレーンスピンとかも使ってたし。 首4の字といえば アート ボンボン マハリックに掛けられて苦しそうにしていた猪木を思い出す。昭和44年頃。日プロ時代。 猪木のアトミックドロップって、UWFがUターンした日のタッグリーグ公式戦・VS藤波&木村で観たような気が
猪木と坂口が藤波木村それぞれにアトミックドロップをして、体を離さずにそのままバックドロップをすると言う流れがあった気がする
猪木のアトミックドロップ、坂口のバックドロップどちらも珍しいから覚えてる >>131
それは正しい記憶だろうね。
普通は猪木のバックドロップに坂口のアトミックドロップ。
それが逆だと。
その試合も見てたけどそこは覚えてないなあ。
公式戦と決勝戦で木村が猪木のナックルで流血してグロッキーだったのは覚えてる。 こだわりがあって使わないんだろうね
現役を続けてたとしても、流行のラリアット、パワーボム、DDT、
パワースラムなんかは使わなかったと思う。
まあ、ラリアットとパワーボムは誰もが使うようになる前に使ったけど、
安易に流行技を使うのとは違った 猪木のニードロップって その威力はともかく
見た目の美しさ,試合の流れの中でのアクセントという意味では絶品だと思う。
ミミ萩原のそれも猪木に似た華麗さがあった。 永田が帰国した時に『ラリアットは使わない』と公言していた。
『自分は猪木さんみたいに小さい男が大きな男を倒す』
『そういうプロレスを目指す』
『自分もサイズ的には大きくないし、ノートンからしたら全然小さい』
確かに永田はラリアットは使わなかった。
中西、小島、天山と同期がラリアットプロレスだったからそれも踏まえてだろうけど。 あと友人でシンがラリアット使ったのはショックと言ってたのがいた。
別の友人は『シンは腕が太いからラリアットは合ってる』と。
見る側の解釈も様々だね。 猪木はドリーといい勝負だったな。
ビルロビンソンには圧倒された。 ロビンソン戦は判定負けだろうなぁ。
ブリスコには分がいいのにね。
全盛期のニック,レイスとの対戦が観たかった。 >>138
>全盛期のニック
ファイターとしては、1970年秋に
来日した時が二ックの働き盛りだった。
若く見えるがこの時36歳。
27歳の猪木とは3度対戦
60分3本勝負はテレビ中継された
1−1からJクイーンの乱入で二ックの反則負け。
1970年代後半〜80年代前半、40代後半、
ダーティー王者時代の二ックを彼の全盛期とは呼びたくない。
まぁ「タレント」としてならそうなのだろうがな。
同じく1980年なら猪木も衰えていた。
70年の対戦が二人の戦いの全てでOK! 最も猪木らしい技は?
俺的にはコブラツイスト。
あばら折り という和名も好き。
馬場や他のレスラーのコブラとは その見映えと共威力が違った。 >>131
坂口のは急角度の投げっぱなしみたいなやつで怖かったな ☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。そのためには、公的年金と生活保護
を段階的に廃止して、満18歳以上の日本人全員に支給する、『ベーシックインカム』
の導入は必須です。月額約70000円位ならば、廃止すれば財源的には可能です。
ベーシックインカム、でぜひググってみてください。お願い致します。♪♪ 馬場に対する悪役でブッチャーがあって、猪木に対する悪役がシンだった。
ってのはみんな分かっているけど、よく同時期に合わせられたなと思う。
ジョニー・パワーズとかも良かったんだけど、シンと比べたら個人的には今一つだったし、それにシンは(本当は知性的な紳士だったけど)みんなが憎んでいたからね。
悪役でも愛されていたブッチャーとは違って、シンは本当に狂っているんじゃないかって思っていた人も多そうだし、 俺もガキの頃は シンは真性のキチガイと思ってた。
週刊ファイトが79年にシン特集号を出して興味深く読み耽った記憶がある。
シンもこんな穏やかな顔をするんだ、とね。 >>144
村松友視がファイトのシン特集を絶賛してたね 体力的には20代が全盛だったと思うが
インサイドワークというか駆け引きみたいなモノを身につけたという意味では30代前半かなぁ,猪木の全盛期。 75年生まれだが小学生の頃に見た80年代の猪木はすでに下降気味だったわけ?
ホーガンや巌流島のマサとの激闘が全盛期と思ったが違うんだ。
さすがに88年の長州に初フォール負け見たときはもう終わったなと思ったけど。 大木/小林からアリ戦までが全盛
アリ戦以降はワンパターンの客受け狙いばっかりになった
翌年からのハンセンブームとドラゴンフィーバーで猪木の影が薄くなっていた ざっくり言うとスレタイ通り70年代だわな。
ピンポイントでこの一年というと1974年かな。
なお馬場の全盛期は60年代。 >>148
下降気味というのが本音だろうね。
80年代前半は猪木が糖尿で一気に衰えたから。
病気は仕方ない。
あと勢いやら輝きやら。
遡れば遡る程それが如実になるみたい。
猪木の場合は。
アリ戦以降の猪木は勢いや輝きが徐々に失せていったって意見が大半。
こちらもその頃は見てないから何とも言えないが。
でも色んな記者やら元レスラーも何人もそういう証言をしてる。
だからそれは的を得た事だろう。
83年に猪木がホーガンにKOされて猪木は終わったという意見が大半。
あれが自作自演だったとしても。
また自作自演ってのはだいぶ後になってから一般に知れ渡った事。
当時は誰もが猪木のアクシデントでKOと思った。
80年代後半は落日の猪木だろうなあ。 70年代の猪木はドリーっぽくて
80年代の猪木はテリーっぽい 全盛期の始まりは、1969年にワールドリーグ戦に初優勝してから、ではないか。
この後日プロ離脱まで、猪木はシングルでの負けを許していない。
(反則負けを除く) >>154
そうすると日プロ時代、
最後にシングル戦で猪木から
フォール勝ちを取ったのはボボ・ブラジルに
なるんだな(1969年11回ワールドリーグ公式戦)
その前は、68年〜69年3月まで、キニスキー、
Wスナイダー、デストロイヤーと言った
G・馬場のインター挑戦者にことごとく負けていたが。
(決まって、挑戦試合の直前に) 結局、猪木って、日プロを出て自分で新日を作る以外にはエースになる可能性なかったし、
本人もそれを自覚してたの?つまり、60年代からもう新団体設立を意識してたの?
それとも、
いつか馬場が引退したあとでエースになれると期待して、馬場のインター挑戦者に
負ける仕事をこなしてたの? シンが悪役に徹底していたからこそ猪木が輝けた。
と同時にシンのような頭のいい人格者でなければ、猪木を理解し得なかった。
だからファンからキ〇ガイだと誤解されても(俺もその一人だったけど)シンは悪役プロレスラーを徹したんだろう。
猪木の一番の恩人はやはり、タイガー・ジェット・シンではないかなと思う。 >>155
スナイダー戦はインター挑戦後に反則負け決着
>>156
クーデター事件直前の段階では猪木は3冠王で事実上エースと言ってもいい
この段階で馬場はもう目新しい大物の対戦相手が枯渇していて
東京体育館のコロフ戦が3000人しか集まらないなど
展望が開けない状況に陥ってた 日プロ時代の猪木は健吾ポジションだった。
馬場が藤波、猪木が健吾 >>160
日プロ時代の馬場と猪木と言っても’67年〜71年の4年間で
その関係は違うけれどね。
確かに、最初の頃は、藤波と健吾くらいの差はあった。
しかし、71年の暮は、>>159が書いたように、馬場と並んだか、
追い越したくらいだな。
猪木はUNを賭けて、NWA王者ドリーと ダブルタイトルマッチ。
かたや馬場は格下のテリーとインターの 防衛戦。
さらに翌72年の新春シリーズには、WWWF王者のPモラレスも
参加が予定され、猪木と対戦する予定だった。
で、>>156へのレスになるが、クーデターを起こさなければ、
72年以降、徐々に馬場から猪木へエースの座は移ったと思うよ
(それに坂口が加わる)
ひとつには年齢的な問題もあるし(馬場の方が5歳上)
72年頃から、外国の有名選手は、世界王者のドリーやモラレス、
後にNWA王者になるブリスコ、レイス、テリー、マスカラスと皆、
標準体型のテクニシャンだ。こういう選手は猪木とは手が合うが、
馬場とは合わない。馬場と合う怪物、ラフファイター、
(ブル・クラ、エリック、ブラジル)は、ピークを過ぎている。
新しいラフファイターせいぜいブッチャーくらい。
となると、自然、猪木中心のマッチメークになり、
彼がエースとなっただろう。
日プロは73,4年に、B・ロビンソンも引きぬいたかも知れない。
馬場は、その頃、王座から降ろされ、76年、38歳の時、
本人が希望した通り、引退してハワイにでも移住したかも。
で、日プロは、猪木と坂口の時代。
でも、社長が芳の里では、どっちみち反旗を翻しただろうがね。 >>161
つまり、日プロに残ってたとしても、猪木はエースになれた、と。
リング上の立場は頂点に立つ見込みはじゅうぶんにあったわけですね。
でも、会社のトップには立つ見込みゼロ。
それじゃつまらないし、いつか坂口にエースを譲らなくてはならなくなる。
やはり猪木は自分の会社を建てるしかなかったんじゃないかということですね。 >>155
確かに、開幕戦では…
昭和44年4月5日、東京・蔵前国技館
第11回ワールドリーグ戦、開幕 1/30
ボボ・ブラジル(21分35秒、体固め)アントニオ猪木
ところが、ほとんど報道されなかった地方大会で
猪木がフォール負け。東スポによると、
昭和44年4月25日(金)、下関市体育館、1/20
ゴリラ・モンスーン(4分32秒、体固め)アントニオ猪木 >>163
そうでしたか!
Wリーグ、公式戦では
猪木はモンスーンに勝っているので
ブラジルが最後に勝った選手かと思いましたよ。
ちょっと調べてみようかな?
他に外人にフォール負けしていないかどうか。 >>156
日プロ時代はそこまで考えなかったんじゃないの。
離脱間際には考えたかも。
つーか猪木当人は一度は日プロ出てたか。
あれは豊登に誘われた形だったが。
でもそういう経緯を踏まえていつかは日プロ出て自分の団体とか考えていたかもね。 逆にワールドリーグ優勝以降は
45年にマルコフに反則負け以外は
日プロでは全く負けていないかもしれない >>166
ざっと調べたら
1969年5.30
Fブラッシー
11.22
Bオースチン
1970年8.25
Mアトミック(3本勝負1−1から)
1971年2.4
Ⅿ・ストンパー(3本勝負1−1から)
この試合は、猪木の反則負けになっているね。 チャンピオンクラスで意外に反則負けが多いのが猪木
と桜井さんが言ってたのを思い出した 人気はどうだったんだろう?
視聴率や集客力でも、馬場に追いついていたんでしょうか?
昔の写真とか見る限り、オレンジパンツがあまりにもカッコ悪くて、
ぜんぜん貫禄もないんだけど。 リアルタイムでは見てないが
馬場以上に人気があったとは言わんが
馬場抜きでそれなりの視聴率を得て
ゴールデン枠を維持してたんだから不人気な訳がない
マルコフやドリーとのシングルを見ても会場人気も高い
当時全盛の馬場でも変なヤジが飛んでるのが動画に残ってるが
猪木には皆無 日本全国、子供からお年寄りまでの
「知名度」なら馬場の方が上だろうが、
プロレスファン、それも中学、高校生の
「人気」は猪木の方が上だったろう。 新日黄金時代からプロレスを見るようになった自分からすると、
団体(業界)内2番手に甘んじてる猪木というのが想像できない。 BI砲後期の馬場は週1、猪木は週2
彼らがゴールデンタイムに登場する回数
坂口大木小鉄勘太郎も1度は出る
この頃は年齢性別興味の有無も関係なく、ゴールデン時間にレギュラー出演ってだけで全国的な知名度を得る
何せ最大の娯楽のテレビが原則一家に1台だけ
チャンネルは教育含めて7局、県によっては4局しかなかったのでな
ニュースで「・・なお犯人はデストロイヤー状の覆面を被っており」だけで誰でもわかる時代が、80年代前半まで続いた とは言っても、当時NETはネット局が少なく、
ワールドプロレスリングはゴールデンタイムの放送では無かった。
九州では福岡だけ。
それでも土日の夕方あたりで放送され、視聴率は結構良かったのではないか。 >>133
ラリアット、ハンセンに使ってなかったっけ?
ハンセンがラリアット見舞った際、掟破りの逆ラリアット
からの逆さ抑え込みでフォール勝ちってのが
あったように記憶している。 >>176
あったよ。
80年9月の広島。
コンマ数秒差で猪木の方が早かったと。
また細腕の猪木のラリアットは効くとも。
腕が細いと相手の首、喉に入りやすい。
そんな解説が雑誌に書かれてた。
後々に猪木がチョークスリーパー使い始めてからも同じ理屈が書かれていた。
腕が細いと相手の首に入りやすい。
腕が太いと首に入りにくいと。 >>174
週によっては馬場よりも吉村(両方に出場)の
方が映っている時間が多い時もあったのでは?ww
1969年ダイヤモンドシリーズの開幕戦(日本テレビ生中継)は
セミの猪木&吉村対デストロイヤー&ベン・ジャスティス
の45分3本勝負が、時間切れ迄戦ったので、
メインの馬場対Bオースチン戦が放送に入らなかった。
同じく71年のダイナミックシリーズ開幕戦だって
猪木はBラムステッド、セミは星野対マスカラスで
メインの馬場&大木対S・アリオン&Bデュラントン
は、ほんの数分しか放映されなかた。
馬場は、ほとんど常にメインに出るということで
テレビに映りにくいという皮肉なことが起きた。 80年代前半のマッタリ全日でも、土曜5時半から1時間枠で10%の時代
北陸だと新日は土曜午後4時からだったらしい
土曜夕方なら社会現象化した金八や太陽にほえろ!が裏番組になく、巨人戦もない
ゴルフ/演芸/相撲の中入り前後が裏番組で、お達者クラブの教育抜いて実質3択か
81年前半までなら当時のゴールデン以上の視聴率だったかも知れん
ファミコンがなくビデオは普及していない時代だからな >>176
国際軍団との1対3の第2戦でラッシャーをフォールしたのも
ラリアットっぽかった気がします、ジャンプしてたけど ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています