★1981年の全日本プロレス★ [無断転載禁止]©2ch.net
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創立10周年の記念すべき年に、新日本との外国人レスラー引き抜き戦争勃発とニアミス興業合戦。 観客動員では新日本の後塵を拝することも多かったが、最後の最後で大逆転が! まさに激動の一年となった1981年の全日本プロレスを語りましょう。 大木が日本組で出場 馬場と大木のタッグが実現していたのに驚いた 新春ジャイアントシリーズはUN王者ブッチャーとシークの対決、馬場対バーン・ガニアなど見所満載! この年は燃えに燃えた一年だったね。 引き抜きだけがインパクト強すぎていろんな出来事忘れがちだけど俺的には フロリダ地区のブッカーにドリーが就任したことによりフロリダルートを 全日本が取り返したのが嬉しかったなぁ。 あとエキサイトのツウィンデビルズも印象に残っているよ 81年の最強タッグは最高だったな 残念なのはプロレスクラシックで素材が無いらしく ほとんど放送されなかったこと 81年、というより昭和56年の全日本プロレスの主な出来事 ★ジャイアント馬場三千試合連続出場突破記念試合第一弾としてAWA世界王者バーン・ガニアとPWF王座を賭けてダブル選手権試合。 ★ジャンボ鶴田がブッチャーからUN王座を奪還。 ★ジャイアント馬場三千試合連続出場突破記念試合第二弾としてNWA世界王者ハーリー・レイスに挑戦。これが馬場最後のNWA挑戦となる。 ★第9回チャンピオンカーニバルで馬場が優勝。 ★力道山ゆかりのインターナショナル選手権が全日本管理下となり新王者決定トーナメントを開催。 ★第10代インターナショナル選手権者にドリー・ファンクJr.が就き、初防衛戦の相手にテリー・ファンクが決まり初の兄弟対決が実現。 ★アブドラザ・ブッチャーが新日本へ電撃移籍。仁義なき引き抜き戦争が勃発。 ★天龍が凱旋帰国、第三の男として注目される。 ★極道コンビが長らく保持したアジアタッグ王座から転落。 王座は鉄の爪兄弟から石川&佐藤に渡り若返りを目指す。 ★サマーアクションシリーズ開幕戦にタイガー・ジェット・シンが乱入。馬場の報復が始まる。 ★天龍がビル・ロビンソンと組んで馬場&鶴田のインタータッグに挑戦。プロレス開眼の一戦となる。 ★前代未聞のスーパーアイドルシリーズ開催。 ミル・マスカラス対リッキー・スティムボートの夢の対決が実現。ジプシー・ジョー、チャボ・ゲレロも参戦。 ★創立10周年記念ジャイアントシリーズが開催。 蔵前大会は新日本とニアミス興業となるが13500人の観客を動員。 馬場&ブルーノ・サンマルチノの友情コンビがシン&上田と対決。 新NWA世界王者リック・フレアーが登場、天龍、テリー、鶴田らの挑戦を退ける。 倒産した国際プロレスからマイティ井上、阿修羅原らが移籍。 ★世界最強タッグ決定リーグ戦開催。 シン対シークの凶悪対決が実現。 最終戦蔵前大会、ブロディ&スヌーカのセコンドとしてスタン・ハンセンが登場。 場外でテリーをKOし馬場鶴田と大乱闘、全日本移籍が決定的となる。 スレーターの事故も残念だったね。事故以後の来日はまったくの別人になったよね。 あの事故がなくチャンピオンカーニバルに参加してブロディ、ブリスコと 戦っていたらと思うと残念でなりません。 夏のスーパーアイドルシリーズもワクワクしました。 マスカラス、ドスカラス、ワグナー、アニバル 憧れました。 ワグナーって前年の来日でも活躍したけど本当に良いレスラーでしたね。 マスカラスとのシングルみたかったなぁ。 >>5 前年にファンクスがロスのブッカー役をやっていた関係かデビルスやチャボが全日本登場 インタージュニア王座の全日本移動もフロリダとの関係からか やはり第3の男・戸口の移籍につきるよな あれがなかったら天龍のブレイクは無かったように思う 新春ジャイアントシリーズでブッチャー対シーク マーク・ルーインはブッチャーとコンビ結成 世界最強タッグ決定リーグ戦で シーク対シン マーク・ルーインはシークとコンビ結成 年始と年末でこんなに変わった。 バグジーマグロー、ビクターリベラ、チャボゲレロ、アニバル、ラリーズビスコ 、キラーカールクラップ、ラリーヘニング、新日本移籍組 ウェインファリス、グレートマーシャルボーグ、ボビーヒーナン、ジノフェルナンデス 、個性豊かな脇役も1981年が充実していたなぁ。 エキサイトシリーズではキラー・カール・コックス、ディック・マードック、ハーリー・レイスとブレーンバスターの名手が揃っていた。 コックスはマードック、レイスとそれぞれタッグを結成し馬場、鶴田を苦しめた。 馬場が3月にメキシコEMLLマットをサーキットしているね。 ドリー・ファンクJr.も同行して、馬場&マスカラスのドリームタッグが実現した。 視察の目的が強く、その成果でスーパーアイドルシリーズに多くのメキシカンが参加した。 スーパーパワーシリーズ(5〜6月)のリッキー対スヌーカのミッドアトランティック 黄金カードの並行輸入よかったな。予告編で初めて見たスヌーカの背面とびムーブが新鮮だったw >>17 さん そうそうEMLL遠征ありましたねぇ。 それにしても皆さんお詳しいですね。ここは私にとってオアシスとなりそうです。 1981年は本当にエキサイティングな一年でしたよね。 だから春のファンク対決霞むんだよね。 ところで10月のシリーズの横浜大会ノーテレビだけど夢のカードだね。 サンマルチノ対ブロディ、フレアー対テリーNWA戦 タイムマシーンできないかなぁ。 >>20 私も昭和56年の全日本プロレスには深い思い入れがあります。 楽しい話に花が咲くといいですね。 余談ですがGスピリッツ17号の表紙、馬場とドリー、マスカラスの写真がメキシコ遠征で撮られたものですね。 それとGスピリッツ9号、馬場が茶目っ気たっぷりの表情でシューズの紐を結んでいる表紙、これも同じメキシコでの写真と思われます。 日本でならシューズの紐は付き人が結んでいるはずで、馬場自ら結ぶのは付き人がいない環境だと推測します。 >>22 私も1981年という年は凄く思い出があります。 地方なので年に2,3回の観戦だったのですがチャンピオンカーニバル、 スーパーアイドルシリーズ、最強タッグとこの年は観戦しました。 ブッチャーが引き抜かれショックで給食が食べれない事もありましたよwww こんな熱い時代のプロレス体感出来たことを誇りに思いますよ。 All Japan Pro Wrestling (AJPW) http://www.cagematch.net/?id=8& ;nr=6&page=4&s=4500 >>23 地方と仰いますが3回も観戦していらっしゃるのですね。 もしかして大阪府立体育会館でしょうか? 私が全日本を初観戦したのは昭和57年の新春ジャイアントシリーズでした。 ちなみにメインイベントはジャイアント馬場対上田馬之助・・・と言えばどこの会場かはすぐにわかりますよねw >>25 さん 馬場対上田 鹿児島大会ですね。 私もこのシリーズ松山大会行きましたよ。 このシリーズ来日予定のスティーブオルソノスキーが中止になったのが 残念な思い出です。 高知です。すべてノーテレビですが4月鶴田対戸口 最後の対決 9月 マスカラス兄弟対天龍、羽田、馬場鶴田対ジョーワグナー 12月 ファンクス対天龍原、馬場対クラップ 私は昭和50年から観戦していますが対戦カードとかもはっきり覚えています。 仕事では忘れごとが多いですがwww。 あと1981年で忘れられない出来事はエリック兄弟のアジアタッグ獲得も 忘れられない出来事です。 >>24 翻訳アプリで日本語に変換したら、ミスター林が林さんと和訳されていて笑った。 >>26 さん 高知の方でいらっしゃいましたか。 全日本は高知県と愛媛県には多く巡業している印象があります。 鹿児島県は御存知G・馬場がNWA世界王座を初戴冠した地としてカード的には優遇されていますがいかんせん巡業で来るのが不定期だったため、昭和57年の初観戦から二度目の観戦は昭和60年の激突!オールスターウォーズまで待たねばなりませんでした。 その三年間毎シリーズ、発表された日程をチェックしては「また鹿児島には来ないのかよ!」と地団駄を踏んでいましたw 今でも悔やまれるのがハンセン&ブロディを生で見ることができなかったことですね。 ブロディを生で見たのは昭和60年新日本のIWGPタッグリーグ戦だけでした。 でもブロディメモリアルナイトin日本武道館は観に行きましたよ。 私の全日本観戦歴は昭和55年からなので若輩者ではありますが、まだまだ語りたいことが一杯あります。 これからも楽しく語り合えたら幸いです。 >>29 さん 鹿児島といえばマスカラス対ハンセンのタッグマッチですよね。 マスカラスが腕を極めた伝説の試合ですよね。 羨ましい限りです。 私もブロディ大好きでした。スヌーカとのコンビはハンセンとは違った 魅力がありました。 社会人になって就職していまは広島県に住んでいますが 東京へ見に行ったのはテリー引退試合だけです。 あと大阪に夏休みにマスカラスドスカラス対デストロイヤークルーザーの 優勝戦を父に頼んで連れて行ってもらいました。 私の方こそまだまだ色んなお話できれば幸いです。 これからも宜しくお願い致します。 この年から全日中継を見るようになったからね。インターヘビーをめぐる戦い、シンの全日登場。 そして、ハンセン!なんかハンセンが全部持って行ってしまった。 >>31 堅苦しい口調ですみませんw もうちょっとリラックスして書きますね。 >>30 マスカラスとハンセンは試合後のド突き合いがゾクゾクしました。 マスカラスがハンセンに「サシでやってやるぞ!」と一本指を立ててプライドの高さを誇示していました。 結局マスカラスとハンセンのシングルマッチは実現せず、翌年の最強タッグでも不穏な試合となったのはご承知の通り(この時はハンセンよりブロディのほうが意地を張っていたが)。 話を昭和56年に戻して、新春ジャイアントシリーズとエキサイトシリーズの全日本プロレス中継内で「ジャイアント馬場三千試合の足跡」と題して、日プロ時代と全日本時代の名勝負をダイジェストで特集してくれたのが馬場ファン初心者の私には嬉しかった。 また当時発売されていた馬場のプロレスアルバムはバイブルとして穴が開くほど読み返したものだ(改訂版ももちろん買いましたよ)。 >>20 横浜大会は事前の告知だとテレビ収録だったんだよね こんな夢のカードがノーテレビとは・・・ 観客のビデオ撮りの動画はまだYouTubeにあるのかな >>34 ビデオというコンテンツが普及していれば率先して収録していたんだろうな。 時代が時代なだけに残念この上ないね。 竹内宏介さんは自前のカメラ(8mm?)でノーテレビの試合を撮影していたそうですね。 竹内さん没後、スチールも含めてプロレスライブラリーがどうなったのか気になる・・・ >>32 インターを巡るドリーとブロディの抗争は良かった ディンク君にフライングニードロップを決めたブロディ 81年の全日は激動の1年だった。アジアタッグ戦線、ひとの出入り、天龍の真打ち昇進w、リックフレアーNWA王者、ハンセン登場など見所満載の年に三沢光晴デビュー。 >>19 ハンセン登場の盛り上がりもそれ以前のスヌーカの良さがあってこそ スタンハンセン移籍前後にはバッグロブレイの存在も良い味になっていた。 スヌーカは手首に黒の絶縁テープ巻いてたような気がする。 >>41 Tシャツを着たままのファイトは後の大仁田のハシリか ドスカラスは兄と離れて来日した時は本当に魅力的だったな。 前年ワグナーとの抗争しかり、81年のツウィンデビルスしかり良い仕事していたよ。 最後の単独参加は大仁田のインタージュニアに挑戦の時か >>43 そのまま試合するの?ていう強烈な違和感があったな スヌーカは日プロと新日本のタッグリーグで黄金コンビとやってるんだな >>44 ドスカラスはエキサイトシリーズへの単独来日が多かったね。 新春バトルロイヤルでPトンガ優勝 キラーカールコックスVS馬場PWF選手権 CCで馬場がブロディからピンフォール勝ちV >>7 13500は誤り、正しくは13000発表 前日の新日猪木木村戦より2階の入りで明らかに 劣っていたが意地の同数発表、当日は巨人王助監督 横綱輪島、大関貴ノ花ら花輪が届けられる。5月TJシン突如 全日参戦、Sハンセン乱入に新間激怒、「ウチの契約で来日しているにも かかわらず、すでに行動を開始している、ブッチャーの新日契約の際は 全日で来日しているからここではサインできない、と帰国後に私がアメリカ にとんで契約したのに。明らかに全日本プロレスの引き抜きですよ。 天龍が卍固めや延髄切りを使い始めるが元祖猪木とは比較にならない ほどのチャッチい物であり線も細く先々大きな不安抱える 国際から井上、原、菅原、冬木らが合流、新日には木村、浜口、寺西に加え リングアナ兼任の鈴木部長もセコンドに度々付いていた 暮れの蔵前でも動員で新日に完敗、それでも発表は12500、おまけに史上 最大のサプライズが待っていた 全日本プロレスは早々にハンセンの 82新春ジャイアントシリーズの特別参加を発表した >>46 あれは24時間テレビのチャリティーTシャツだろ 新間の言いぐさはなかなかだね。 ブッチャーが筋を通しているだけで新日がまともなのではないね。 ブッチャーがよければそこでサインなりするつもりだったんだろ。 ハンセンはそんな細かいことを気にしなかっただけで、どっちも引き抜きなのにね。 バックロブレイがTシャツ着て試合しているのを翌年のチャンピオンカーニバルで見たような 気がする。この時も黄色いTシャツだった。 Nobody calls me crybaby とか書いてあったと思う。 ブッチャーの退団〜親日移籍に呼応するかのようにブロディが一気に開花したな。 インター王座戴冠、スヌーカとのコンビ結成、ディンク君事件、ハンセンとの合流 >>53 、>>54 >>52 だげどよく覚えているね。動画であるのかな?検索します。バックロブレイをはじめブロディ軍団ってあったような?でもいい味出していた。 にしても、引き抜き戦争がなかったら 全日にハンセンいないままだと どう考えても全日は終わってただろう 全日はハンセンにどれだけ救われたか つかハンセンがずっと親日にとどまってたら・・ まずホーガンのブレイクは無い。長州革命もどうだか・・。佐山タイガーも それほど前面には出してこない、とかw まあ色々妄想は浮かぶね タイガーマスクの登場はまさしく神がかったとでも言いたいくらい衝撃的だった。 やはりブッチャー離脱後遺症が年末まで続いていたよな。 ブロディ、シンでさえも当時はブッチャーの穴埋めれなかった。 ハンセン登場でやっとブッチャーショックが消えたよ。 でも10月にホーガン参加していたらどんなチーム編成になっていたのだろう。 1981年リックフレアー世界チャンピオン誕生で実質NWA幻想が崩壊した瞬間 だったね。この年にテッドデビアスがなるべきだった。 話がオーバーになるけどデビアスがチャンピオンとして長期政権だったら その後のアメリカマット界の歴史、WWFの躍進もなかったかもしれない。 それくらいの逸材だったと思う。 もしレイスがNWA王者のままだったら、10月の蔵前大会ではレイス対馬場の世界戦だったとか? >>49 当時で最低の最強タッグの不入りはやはりブッチャー不在の影響が大きい 新日本としてはブッチャーを使うというより全日本から抜く事に意義があったというのは確かに正しい この年に全日本がオープン選手権の続編をしかけたらどうなっていただろうね ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.5 2024/06/08 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる