【昭 和】蔵前国技館【20世紀】 [無断転載禁止]©2ch.net
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屋外だと天候の心配があるからね。
日本武道館は格闘技の殿堂として国内最高峰の会場だから、当時は他に考えられなかった。
採算については最初からアリへの莫大なギャラのために武道館だけの水揚げでは足りないことはわかっていたから、世界中にクローズドサーキットを配した。 田園コロシアムですら
雨天の事で及び腰になって
凡庸なカードになることがしばしばあった 猪木対アリは6月だったから梅雨の真っ最中、屋外で開催するには躊躇する。
ソフト化も長らくされなかったが、新日DVDマガジンでめでたく解禁、さぞたくさん売り上げたことでしょう? 芳の里が話してたが
もし馬場猪木戦をやるなら
後楽園球場でという構想があった 日プロ時代に馬場VS猪木をやっても世間的にはナンバー1の馬場とナンバー2の猪木の対戦という認識だったと思う。
二人が独立して猪木が団体のナンバー1となり、ファンも真っ二つに分かれていた70年代に対戦すれば後楽園球場でも満員にできただろうね。 昭和だと後楽園球場での興行が最大の目標だった。
オールスター戦も後楽園球場での開催とか。
でも平成になってドーム連発する時代になった。
そう言えば国立競技場での開催希望もあったな。
長州が全日に上がっていた時代だったかな。 蔵前最後の幕内最高優勝が平幕の多賀竜という大番狂わせ。 >>139
最後の日に見に行ったわ
若嶋津の綱取りと小錦旋風の方が話題で
全然注目されてなかった 伝説のオープンタッグ
外人となればやはり最大の主役はテリー
インタータッグやNWAの防衛戦も含めて 実はシングルでのブッチャーのメーン登場は意外にも鶴田とのUS防衛戦のみ
この日は同時に鶴田のシングルでの初の蔵前メーン >>142
大木戦の決定前は馬場×ブッチャーのPWF戦がメインだったはずだけど
その頃は猪木×小林のあった時も猪木×アンドレがメインの予定だったし、
猪木×大木のときもなんか違う試合が発表されていたように思う。
失礼だけど、たぶん当て馬だよね。 新日本の話だが、82年夏のシリーズ開幕戦が蔵前で前シリーズを欠場した猪木の復帰戦としてアンドレとのシングルが予定されていた(MSGシリーズでの復讐戦)。
しかし猪木の体調が優れないからか実際に組まれたのは猪木対スコット・マギーで当然猪木の快勝。
アンドレは替わりにホーガンとのシングルで「田コロのハンセン戦の興奮よ再び!」と期待されたが凡戦に終わった。
この猪木対アンドレはちゃんとポスターを刷っていたので、このカードお目当てにチケットを買ったファンは多かったはず。
代替カードがファンを満足させられなかったら暴動モノだが、この頃の新日本ファンはまだ我満ができたのだな。 >>144
長らくメーンだと思っていた馬場vs大木をセミにしたのは荒れ試合になった場合の用心か
そのためにもメーンのブッチャーvs鶴田はタイトルマッチにする必要があった感じも >>145
ホーガンvsアンドレ面白かったじゃん
その日1番盛り上がったわ
TV生放送の時間の都合で最後の乱闘中に猪木が入ってきたのは残念だったけど >>146
荒れるかも知れないという意味でなら
前年の猪木大木戦も条件は同じかそれ以上のはず
わざわざメインから外しベルトも賭けない馬場は
大木にかなりビビってたということか >>148
大木とか大したことないわということだろ
試合時間も猪木の半分で収めた >>149
若手時代の危険攻撃とか坂口との喧嘩試合とか新日本との手切れによる大木の立場の弱さとか
まあとにかく様々な要因が重なってあの扱いになった感じ
とにかくタイトルマッチとしてはむしろ翌年のインタータッグこそが本番という感じ
三年前の因縁もだがとにかくいきなり奪取のドクが強烈
思えば大木も蔵前での初挑戦でインタータッグ初奪取だったが >>150
大木の新日最終戦って何だった?
最終的にはどんな扱いだったの? >>151
日大講堂での坂口との第2回ワールドリーグ決勝第一戦 >>114
ただし一番盛り上がったのは年末の最強タッグ >>112
天龍はなんとか最後の最強タッグ使用でメーンに間に合った印象 >>147
プロレススーパースター列伝ホーガン編の冒頭にも使用 アンドレVSホーガンは大阪での再戦がショボかった。 DVDマガジンには高松でのIWGP公式戦でなく蔵前の試合を入れてほしかった >>157
TV放送されなかったからね
まあ後日CSで放送されたけど >>147
初代タイガーとウルトラマンが戦った時か >>53
猪木セミ出場の蔵前のもう一つは75年のワールド大リーグ開幕戦
猪木の相手は大木でメーンは坂口vs小林 蔵前といえば新日がよく最終戦のビックマッチに20名様リングサイド招待ってやってたね。よく応募したが当たった事はなく、「この度は残念でしたが…」との手紙と共に2階後方の自由席が2枚送られてきた。
この「残念賞」的なチケットは意外によく当たって(というのも変だが)、弟や友達とよく観に行った事を思い出す。
当時中学生だったからこうしたファンサービスは有り難かった。
結局リングサイドは一回も当たらなかったが、自分にとって蔵前は2階席後方の(つまりリングから一番遠い)大相撲の歴代横綱だかのデカい額縁のある薄暗い一角。そんな印象。 前のほうで書いてる人がいるけど
蔵前国技館最後のセレモニーいいね
まさかyoutubeにあがってるとはたまげたな
なかなか感動的な貴重映像だ 辺野古新基地建設反対ママの会に対して、機動隊員が「お前たちには汚い血が流れている」「だってお金欲しいもん〜」「俺の写真を待ち受けにしろ」などと暴言。(顔写真)
https://twitter.com/MothersNoWar/status/690357793702940672
ファッシズム政権の終わりは、いつでも残酷な結末しかない。安倍晋三はどんな殺され方をするんだろう?
https://twitter.com/tok aiamada/status/605899171313246209
【サヨク勝利目前!】 ゲスウヨは土下座して山本太郎を「さん」付けて呼べ 【ゲスウヨ涙目(笑)】
日本国民はどう対処すればいいのか。
新しい政権は民意を反映し、適切な食糧、住宅の供給、健康管理、教育が最も重要な責任となるでしょう。そして最後に防衛です。
来るべき株式市場の崩壊は必然的に多くの失業者を出すでしょう。抑制のない成長に基づく現在の経済の終焉を見るでしょう。
民衆の指導者は職業的政治家ではない人々から見つかるのです。国民の意志を裏切ることは、極端な場合、自殺や殺人にまでつながります。
最初になくなるのは世界の株式市場でしょう。
差し迫る株式市場の暴落は、他の人々が飢えている間にお金を儲けることの結果です。かれらは自分の財産を隠し、犯罪的雰囲気さえも創出しています。
彼らはただ座って待っているだけです。世界に振りかかる負担は莫大です。世界を餌にして生きており、社会に何も負うことなく、何も還元しません。
日本から始まる世界的株式市場の大暴落
ウォールストリートの大暴落(1997年)につながったプロセスが、いま日本におけるプロセスの中に写し出されており、再び株式市場の暴落につながるでしょう。
日本がアメリカ国債の25%を引き出すと世界経済が破綻し、マイト レーヤは出現するでしょう。彼は「匿名」で働いております。
彼は日本人ではありませんが、日本語で話すでしょう。彼は、非常に物静かなやり方で話します。彼の最初の控えめな態度に混乱してはなりません。
非常に間もなくマイト レーヤを、テレビで見るでしょう。マイト レーヤは毎日テレビに現れ、質問に答えるでしょう。
マイト レーヤが公に現れるにつれてUFOが、とてつもない数で姿を表すでしょう。 >>123
80年の四大スーパーファイトでは一万人を切っていた >>162
そうそう、それは当たった。招待券に限らず蔵前だと対戦カードも入ったチケットで余計にワクワクした。 >>169
つか流智美によると新日の武道館が初めて超満員になったのが90年11・1、
つまり猪木時代は一度も超満員にならなかった。 >>172
アリ戦はゴングによると9割程度の入りだった。 >>169
結果的にはそれが猪木の最後の武道館なんだよな。
この日は猪木のデビュー20周年記念日なんだけど、特にそれを謳ってたわけでもないし、
相手もケン・パテラだし、客席もガラガラと猪木最後の武道館としてはあまりにも寂しい
ものになってしまった。 一方、馬場と日本武道館は密接な関係となり全日本の聖地と呼ばれるほどに。更に馬場お別れの会の会場ともなったからね。 >>174
その時の武道館大会は
開催の発表が9月中だったため
宣伝と前売りの期間が短すぎたらしいね >>174
猪木VSパテラ(NWF)
バックランドVSハンセン(WWF)
藤波VSスター(WWFジュニア)
木村VSチャボ(NWAジュニア?)
豪華カードが揃ったわりには宣伝が遅れて満員にならず、か。
知らなかった。
猪木の武道館ラストマッチってのも意外な。
80年9月30日は猪木デビュー20年記念だったんだけどね。
でも新日はその後は全く武道館使用しなかった。
90年11月1日に10年ぶりに武道館使用。
でもこの時は猪木は既にセミリで試合せず。
90年の新日は猪木無し体制で、猪木はゲスト的立場だったから。
ちなみに両国の猪木のラストマッチは89年2月22日の長州戦か。 >>174
この試合時点でのパテラは
史上唯一のミズーリ州ヘビーとWWFインタコンチの同時保持という絶頂期だったから
それほど悪い相手ではない この頃の猪木の相手はシンやハンセンだったから新鮮味はあったかも。
パテラで。
ただシンやハンセンと比べたら確かに物足りない。
しかしパテラを大物として扱っていた。
新日は80年代の武道館使用はこの一回だけか。
確かに意外だが、武道館は全日の専用会場に。
全日は輪島入門から国技館を使えなくなったから。
新日→両国 国技館
全日→日本 武道館
こういう流れになった。
90年に入ってから新日も武道館を使用し始めたが。
でも新日のメイン会場は両国。
そしてドーム。
全日は両国もドームも使用しない分、武道館に力を入れていた。 >>184
国際や新日は日プロが潰れるまで後楽園を使えなかったけど、全日は旗揚げ2シリーズ目でもう使えてたからな。 旗揚シリーズで既に使用
ちなみにその時が唯一のサンマルチノの後楽園登場
日テレに切られた日プロとしては居心地が悪かったか
それとも図々しく全日本にも貸すなとやっていたか クラマは古かったが、リョウゴは新しく外観も良い
ヨコハブンタも古いが、ヨコハアリナは新しいから見映えも良い
新しい会場の方がいいな 蔵前国技館っちゅうたらやっぱりアントニオ猪木の試合が圧倒的に多い。
名勝負や印象に残る試合は。
1980年代は新日本プロレスリングは蔵前国技館を使用する頻度が高かった。
全日本プロレスリングは蔵前国技館使用率が低かった。
だからジャイアント馬場の蔵前国技館での試合は数える程しか印象に残ってない。
むしろ蔵前国技館は世界最強タッグ決定リーグ戦最終戦のイメージが強い。
だから全日本プロレスリングではテリーファンクだな。
蔵前国技館でのテリーファンクの試合は印象に残っているのが多い。
ザファンクスとしてもテリーファンク個人でも。
その後は新日本プロレスリングは両国国技館で全日本プロレスリングは日本武道館だな。 東京体育館は新日本プロレスリングも全日本プロレスリングもあまり使用してないんだよね。
新日本プロレスリングは蔵前国技館だったし。
全日本プロレスリングは蔵前国技館や都内大会場はあまり使用しなかった。
1980年は新日本プロレスリングは蔵前国技館を5回使用。
全日本プロレスリングは世界最強タッグ決定リーグ戦最終戦の1回のみ。
1981年は新日本プロレスリングは何と7回も使用した。
全日本プロレスリングは2回。
全日本プロレスリングはここぞって時にしか使用してない。
新日本プロレスリングは常に蔵前国技館でのビッグマッチを組んでいた。
そこは双方の考え方の違いだが。
今の東京ドームが昭和時代では蔵前国技館に該当した。
他にも東京体育館や日本武道館をもっと使用すれば良かったのに。
あと新日本プロレスリングは夏場には田園コロシアムを使用していた。 東京体育館は施設管理側がプロレスリングに対して良い印象がないらしい。
それで貸出しがされない。
まあ過去には何度も興行をやってるから『絶対にNG』っちゅうわけではなかろうが。
しかし大きな都内大会場なのに使用率は低い。
三沢光晴がタイガーマスクのマスクを脱いだ記念すべき試合。
これは東京体育館のこけら落とし興行だった。
天龍源一郎等の離脱で全日本プロレスリングが崩壊の危機に直面していた。
何とジャイアント馬場がメインに登場。
ジャンボ鶴田と組んでテリーゴディ、スティーブウイリアムスという現役バリバリを相手に。
ジャイアント馬場が順当にフォールされたが、この日の大会は一大事件だった。
三沢光晴のマスク脱ぎ、ジャイアント馬場のメイン登場。
東京体育館はこのあとも頻繁に使われるかと思った。
でも頻繁には使われなかった。 東京体育館は力道山、インター王者時代の馬場の頃はよく使用して、馬場VSハンセンで再び使用さることが多くなり全日本の聖地の印象がついていた。
そして新東京体育館も真っ先に使用して聖地の印象を決定的にしようと目論んだが、直前に天龍が離脱し観客動員及び散々な試合でケチがついてしまった。
東京体育館はゲンの悪い会場として以後訣別することになったのです。 >>192
メイン⇒メインエベント
フォール⇒ピンフォール 東京体育館ではジャイアント馬場がメインイベントに登場。
ジャンボ鶴田と組んでテリーゴディとスティーブウイリアムスと対戦した。
最後は順調にピンフォール負け。
そしてセミファイナルでは三沢光晴がマスクを脱いだ。
この東京体育館大会は一つの歴史的大会にもなった。 >>193
馬場vsハンセンの時は全日本として実に六年ぶりくらいの使用だったはずだが理由は何か
その時は蔵前がたまたま使えなかったからか
過去の数々の大舞台を意識してか
それとも二年前にハンセンが猪木を破った会場だったからか この1月は蔵前国技館は相撲開催中では?
新日本プロレスリングも東京体育館を使っていたし。
確かに1月の蔵前国技館大会はないな。
でも1982年1月と2月。
新日本プロレスリングと全日本プロレスリングの興行戦争。
これは完全に全日本プロレスリングの勝ち。
ジャイアント馬場が息を吹き返した事が話題に。
勢いが凄かったスタンハンセン相手に元気を取り戻し。
新日本プロレスリングではアントニオ猪木とアブドラーザブッチャーが不完全燃焼試合。
完全に全日本プロレスリングに軍配が上がったと各雑誌にも書かれていた。
その後も両団体は東京体育館を定期的に使用。
蔵前国技館が使用できない時の都内大会場として。
でも新装された東京体育館はあまり使われず。
全日本プロレスリングはこけら落としの一回のみか。
新日本プロレスリングやWARはチョコチョコ使用していたが。 >>197
ちゃんと、レッスルアンドロマンスって言ってやれよ 東京体育館っちゅうたら新日本プロレスリングとUWFのイリミネーションマッチが印象的だ。
あとはアントニオ猪木VS藤波辰巳の涙のシングルマッチも。
でもやっぱり新日本プロレスリングとUWFのイリミネーションマッチだな。
UWFは勢いがあったし、対抗戦としては良かった。
前田日明が最も光っていた。
UWFの大将として堂々と渡り合い。
UWFがいなければ新日本プロレスリングはヤバかった。
大量離脱の煽りで新日本プロレスリングは崩壊の危機に直面していた。
引き抜いたブルーザーブロディだけでもダメで。
やっぱりUWFの存在はデカイ。
UWFを新日本プロレスリングに上げて息を吹き返した。
UWFもそれだけブランドだった。
前田日明最強伝説まで築き上げて。
そういう称号を得るだけの説得力もあったし。
その分外国人レスラーが煽りを食ったが。 UWF(第一次)のことをゴングは当初ユニプロと呼んでいなかったけ?
UWFのほうが活字が少なくて済むのに。 あと2月初旬の蔵前としては翌年と翌々年に新日本が開催
翌年は二度目の変則マッチ
翌々年は三つ巴のジュニア戦が売りで 1983年2月の蔵前国技館大会はアントニオ猪木VSラッシャー木村だっけ?
ハルクホーガンVSブラックジャックマリガンがあったのは別冊ゴングで覚えてる。
大型パワーファイター同士のシングルマッチ。
あとはタイガーマスクが小林邦昭とのシングルマッチだっけ?
ダイナマイトキッド?
あまり記憶にないんだよなあ。
1984年2月の蔵前国技館大会の方が印象深い。
こちらの方がビッグマッチ並べ立てたし、メンバーがいた。
ジュニアヘビー級三つ巴。
ザコブラ ダイナマイトキッド デイビーボーイスミス
長州力 谷津嘉章VSハルクホーガン アイアンマイクシャープ
長州力が大流血してハルクホーガンとやり合っていた。
リキラリアットとアックスボンバーの同士打ちも見応えあった。
外国人レスラー相手には塩と言われた長州力もこの試合は良かったね。
メインはアントニオ猪木VSバッドニュースアレン。
バッドニュースアレン唯一の蔵前国技館初メインエベント。
しかもシングルマッチで相手はアントニオ猪木。
しかし終盤にラッシャー木村の謎の裏切り。
その後はバッドニュースアレンとラッシャー木村の抗争をやって欲しかった。
しかしラッシャー木村は直後に新団体の旧UWFに。
バッドニュースアレンVSラッシャー木村のリベンジマッチは見たかった。 1984年2月の蔵前国技館大会は藤原喜明の袋叩き試合もあったな。
藤原喜明は木村健吾と組んだんだっけ?
アニマル浜口と寺西勇?
藤原喜明がテロリストとして覚醒した頃。
長州力の革命と同じく藤原喜明もこのテロリストで売り出された。
これがなければ普通の中堅レスラーで終わっていたわけだから。
長州力も革命がなければ中堅レスラーで終わっていただろうから。
そう考えたら長州力や藤原喜明は運がいい。
売れ出した分 体を張って大変な面もあっただろうが。
結果的に藤原喜明も長州力も大会場でアントニオ猪木とのシングルマッチを張った。
しかもメインエベントで注目されながら。
凄い進化だった。
それがなければ二人とも大会場でアントニオ猪木とのシングルマッチ、しかもメインエベントはなかった。
意外にも藤原喜明は6人タッグマッチではほんのたまーにメインエベントに登場。
そこでタイガージェットシンやスタンハンセンとも対戦。
長州力の方がまだメインエベント出場回数は多かった。
テレビ放送登場率も。
長州力は坂口征二と共にノースアメリカンタッグ王者でもあった。
藤原喜明よりは期待もされていた存在だったのだ。 >1983年2月の蔵前国技館大会はアントニオ猪木VSラッシャー木村だっけ?
猪木と国際軍団の二度目の変則マッチ
その次の4月3日が猪木と木村のIWGPアジアゾーン予選 1983年4月3日
この日は長州力が藤波辰巳からワールドレスリングフェデレーションインターヘビー級タイトル奪取もあったな。
長州力とマサ斎藤が抱き合いながら喜ぶシーンは感動的だった。
リキラリアットで押し倒してそのままフォール。
アントニオ猪木が国際はぐれ軍団とのハンディキャップマッチ二回戦は1982年2月か。
言われれば確かにこの時期だが。
あとアントニオ猪木VSラッシャー木村は長州力と藤波辰巳の試合で印象薄くなった。
アントニオ猪木と国際はぐれ軍団のハンディキャップマッチの最初は1982年11月3日?だったし。
新日本プロレスリングは蔵前国技館を乱発したから試合がゴッチャになる。
アントニオ猪木VSラッシャー木村
アントニオ猪木VSマサ斎藤
藤波辰巳VS長州力
タイガーマスクVSダイナマイトキッド
タイガーマスクVSブラックタイガー
タイガーマスクVS小林邦昭
こういうカードが乱立していたし。
でもこういうカードで新日本プロレスリングは蔵前国技館を超満員にしていた。
1983年言うたら新日本プロレスリングブーム真っ盛り。
っちゅうか最終章の時期か。 ちっ、名前変わったか
>>208
インターヘビー→インターナショナルヘビー
1982年2月→1983年2月
11月3日→11月4日
詰めが甘いんだよ。さてまたNGにしないと。 (ガラプー は、どこに書いても
文体で分かるな。
こいつ、良い年齢のオッサンなんか?
それとも若輩のマニアかな?
どっちにしても頭は悪いがwwww 猪木・坂口vs木村・ブッチャーもそうだけど
とりあえず発表してチケットが売れないからカード変更したんだろうな・・ >>188
テリーの蔵前初登場は全日本として初でもある鶴田の凱旋試合
その後は馬場のPWFへの挑戦や鶴田相手のNWA防衛戦
そして決定的はオープンタッグ ちなみにシークの蔵前登場はオープンタッグが初
そしてそれ以後の登場も最強タッグのみ ザシークの蔵前国技館登場は意外にも少ないんだな。
アブドラーザブッチャーやザファンクスは何度もある。
しかし全日本プロレスリングは蔵前国技館はあまり使用しなかった。
新日本プロレスリングの方が使用回数が多くて。
だから全日本プロレスリング系より新日本プロレスリング系の方が蔵前国技館登場率は高い。
タイガージェットシンやスタンハンセン、アブドラーザブッチャーみたいな移籍組含めて。
やっぱり昭和時代っちゅうなら蔵前国技館だな。
両国国技館は平成時代のイメージだ。
昭和時代からあるが。
東京ドームは完全に平成時代。
これも実はギリギリ昭和時代からだけど。
アントニオ猪木は蔵前国技館のイメージが一番強い。
過去のアントニオ猪木の名勝負の大半は蔵前国技館。
タイガージェットシン スタンハンセン アンドレザジャイアント ハルクホーガン
蔵前国技館ではアントニオ猪木のビッグマッチを組んでいたから当然だが それくらいのことリアル世代なら皆知っていますよ(´・ω・`) 意外にもシングルでのブッチャーの蔵前メインは一回のみ 意外にもシングルマッチでのタイガージェットシンの両国国技館登場はなし 下手すると
何年か前にIGFで猪木、ブッチャーと共演してた時が初めてだったかも >>217
鶴田とのUS戦のこと?
当て馬カードだったかもだけど、
大木戦が決まるまでは蔵前では馬場×ブッチャーのPWF戦が予定されていた。 タイガージェットシンの両国国技館登場は記憶によると一回?
1985年8月31日の両国国技館大会。
ジャイアント馬場 石川隆志VSタイガージェットシン キラーブルックス。
ちなみにメインエベントがジャンボ鶴田 天龍源一郎VSスタンハンセン テッドデビアス。
スタンハンセンの両国国技館登場もこれを含めて数回。
テリーゴディとのシングルマッチも両国国技館だったはず。
長州力VSキラーカーンの日かな?
1986年7月の。
違ったかな?
いずれにせよ1986年あたりから全日本プロレスリングは両国国技館を使用しなくなった。
日本武道館を使用する様になり。
だからスタンハンセンやタイガージェットシンの両国国技館での試合は印象が薄い。
アブドラーザブッチャーも両国国技館でのイメージはないな。
ちなみにタイガージェットシンが1990年以降に新日本プロレスリングにUターンした時。
何故かタイガージェットシン参加のシリーズは両国国技館なし。
両国国技館がある時はタイガージェットシンの参加はなし。
これはたまたまだろうが。
後々の全日本プロレスリングも両国国技館は使わなかった。
三沢光晴、川田利明、小橋建太の両国国技館の印象も薄い。 会場壊されるのを恐れたんだろ
ダメと言ってもノリでやっちゃうタイプだから ブルーザーブロディが新日本プロレスリング初登場の時。
入場の際にチェーンをいつも通りに振り回しながらの入場。
その時にチェーンが新設したばかりの館内のフェンスにバンバンぶつかった。
それを見た相撲協会が新日本プロレスリングに厳重に抗議した。
そんな話を聞いた事ある。
古い蔵前国技館ならまだしも新設したばかりの両国国技館だからなあ。
しかしその後もブルーザーブロディは両国国技館に登場。
相変わらずチェーンを振り回しながらの入場は変わらず。
ただ両国国技館のフェンスや壁に当たらない様に気を付けたのかな?
タイガージェットシンもイスを投げて会場の壁に穴を開けたとかかなりあったらしい。
あとは扉を壊したり、窓ガラスを割ったり。
新日本プロレスリングでも全日本プロレスリングでも。
確かに新設の会場でそんなんやられたら持ち側は堪ったもんじゃない。
でもプロレスリングでは会場の破壊行為はファンサービスで盛り上がる。
特にタイガージェットシンやブルーザーブロディ、スタンハンセンみたいなタイプは。
スタンハンセンも両国国技館での試合は少ないが。両国国技館こけら落とし興行はブルーザーブロディ、ザロードウォリアーズそしてハーリーレイス。 ブロディ両国2回目からは花道の壁にマットかシートで覆っていたの見てないのかよヴォケ ブッチャーの両国となればやはり梶原追悼の格闘技の祭典 あん時はアブドラーザブッチャー、タイガージェットシン組じゃなかったんだよな。
初代二代目タイガーマスク顔合わせとかもあったな。
あと1996年10月の東京プロレスリングだっけか?
高田延彦VSアブドラーザブッチャーの意味不明なシングルマッチ。
もう20年も前か。
あれは高田延彦が可哀想だった。
その1年後にはヒクソングレイシーに完敗。
今から考えると高田延彦は新日本プロレスリングと絡んだ辺りから落ちてきたな。
UWFインターナショナルが崩壊して高田延彦はプロレスラーと格闘家の中間。
何とも中途半端な状態だった。
高田延彦本人は自らの『プロレスラー否定』を。
しかし格闘技側は高田延彦を『プロレスラー』扱い。
本当に中途半端だったな。 ブッチャーのパートナーはジョージ・スコーラン
同時に馬場の最後の両国出場 >>222
長州vsカーンの日のハンセンは鶴田とのダブル戦でインター奪取
ちなみにこの日は世界ジュニアの初代決定戦 >>220
実は鶴田の蔵前で初のシングルでのメイン登場 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています