【自殺は】早く死にたい喪女57 ワッチョイなし【嫌】
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なにかの機会に、「ああ、かわいそうだ」と感じることがある。
そのときの心を、ふだん平気で見過ごしていた事がらにまで広めたもの、それが仁である。
また、「絶対によくないことだ、やるまい」と決心することがある。
そのときの心を、いままで平気で行ってきた事がらにまで広めたもの、それが義である。
たとえば、「他人から軽んじられたくない」という気持ちを大切にし、自分にそれだけの実質的人格を
磨き育ててゆくならば、行うことすべて義の道にかなうのである。
(孟子) 仁の心はだれにでもある、というわけはこうだ。
幼児がヨチヨチと井戸に近づいて行くのを見かけたとする。
だれでもハッとして、「かわいそうだ、救ってやろう」と思う。
それは別に、幼児を救った縁でその親と近づきになりたいと思ったためではない。
村人や友人にほめてもらうためでもない。
また、救わなければ非難される、それが怖いためでもない。
してみると、かわいそうだと思う心(仁)は、人間だれしも備えているものだ。 人間は生まれながら心を備えているように、この仁を備えている。
それなのに、自分は仁や義など実行できぬと決めこむのは、自分を傷つけるものである。
他人に対しても、同じように決めつけるのは、他人を傷つけるものである。
自分に備わっているこの仁と義を、育てようと思い立てば、樹木が生い茂るようにそれは
限りなく大きくなってゆく。そうすれば、天下を安定することもできる。
しかし育てなければ、自分の父母を養うことすらできない。
(孟子) 仁ならば栄えるし、不仁ならば辱めを受ける。
辱められるのを嫌がるのに不仁であるならば、それは湿り気を憎みながら低湿地にいるのと同じことだ。
書経にこうある、
「天の下すわざわいはまだ避ける道もあろうが、みずから成せるわざわいは逃れる道はない」
(孟子) 君子のふみ行うべき道は、たとえば遠方の土地に行くのも必ず近くから始めるようなものであり、
高い所へ登るのも必ず低い所から始めるようなものである。
まず身近なところから始まるのだ。
詩経には「妻や子たちの温かい和やかさ、まるで琴と大琴の合奏。兄弟もすっかりむつみあい、
やわらぎの中で楽しんでいる。なんじの家庭をうまくととのえ、なんじの妻子を楽しませている」
とうたわれている。
先生は言われた、
「父も母も満足しておられるだろうね」と。
(中庸) ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています