◆懐かしの名馬・名勝負スレ16◆
歴代の名馬・名勝負をまったりと語るスレです。
(競馬に関する事なら何でもOK!まったりと語ること)
※過去・現在の名馬を比較しての最強論争は極力お避け下さい。
前スレ
◆懐かしの名馬・名勝負スレ15◆
https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/uma/1419611622/ >>80
そうでしたか。ありがとうございます
歳ですね。これだけ記憶違いをしていたら、もしかすると
競馬好きの後輩に、かなりウソの昔話を教えてきたかもしれません 今日のダービーで、遂に福永祐一騎手がダービージョッキーの栄冠を勝ち取りました。
思えば、福永洋一騎手が、カンパーリで乾坤一揆の追い込みを見せながら僅差の3着
になって今年で40年、あの時「洋一がダービージョッキーになる日は近い」と思って
いましたが、まさか最後のダービーになるとは、夢にも思っていませんでした。
祐一騎手の「福永家の悲願」という言葉は、当時を知る自分にとっても、同じ思い
でした。馬券こそ取れませんでしたが、今日は本当に嬉しい1日になりました。 福永洋一騎手の最後の重賞勝ち馬は、ニホンピロポリシーだったかなと思い出しながら、
ふと気になったのが、「ニホンピロ」の小林百太郎さん、一時期「ナルタキ」の冠名
を使っていた様な・・・
誰かご記憶ないでしょうか? 洋一さんを思い出しますね〜
エリモジョージの有馬記念、4角先頭で外を見るから余裕かと思いきや、ズルズル後退w
インターグロリアのマイラーズカップ、後200過ぎても追わないw早く追えよとイライラしてたら猛然と追って1着
ツマランことを思い出しましたw >>87
確かにそうなんですが、88でも触れられているインターグロリアが勝った78年の
マイラーズカップの映像を見ていて、4着に入ったナルタキサンダーの勝負服が、
小林百太郎さんの服色に見えたのと、他にも居た様な記憶があって、気になって
います。 >>89
調べてみたらナルタキサンダーは旧4歳の初戦まで武村氏で
2戦目から小林百太郎氏になってました やはりそうでしたか。何か訳ありだったんでしょうね。 サルノキングやダイアナソロンで知られる中村好夫氏、亡くなられましたね。 現役騎手の頃から中村厩舎のコメントは大辻さんが出してたと思います 中村先生の弟子、牧田和弥厩舎のアンドリエッテがマーメイドステークスを制覇。
弔いの勝利、という処でしょうか。 >>94
元騎手の大辻助手でしたっけ。元々伊藤勝吉厩舎の人だったかと思います。
かつては、どの厩舎にも番頭格の助手が居て、色々取り仕切っていましたね。 ここの本題からは少々外れますが「国立国会図書館デジタルコレクション」というサイトで
http://dl.ndl.go.jp/
競馬で検索すればいくつか古い資料を見ることができます
↓は「全国騎手所属厩舎別 附・全国競走馬厩舎別 昭和11年版」という大昔の書物ですが
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1025928
旧阪神競馬場(鳴尾)のコース図が載ってたりします
ここの皆さんで興味ある方は一度ご覧になってみては ゴール後騎手がハデにガッツポーズするのはいつ頃からでしょうかね
昔は見なかったような
あれあんまり好きでないんですよ
ハギノトップレディの伊藤さんは桜でやってますね
馬の首をポンポン軽く撫でるように叩くのが良いんですね
「よく走ったよ!」
宝塚のカツアールの樋口さんみたいな感じですね >>75
テイトオ−は岩川(九州種馬所)にいたような記憶があります
そのあと宮崎大学に寄贈されたと思います テイトオーは岩川でしたか
ダービー馬だから競馬会が買って軽協へ寄贈って流れなら
当然岩川ですよね、すると牧園に居たのは何だったんだろう
ムオーは綾だったかな、とにかく宮崎県でした >>101
星川厩舎にいたタケノヒエンとゴールドシチーも宮崎大学でしたね。 相前後の不確かな記憶ですが
綾にはニットエイト 大崎にはサトヒカルだったかな
それにしても
延岡 綾 大崎 牧園とかよく覚えてられるますなあ マーチスも牧園にいました
確か、「霧島温泉下」とかいうバス停の近所
その国道に面しているパドックにいたかな どんな人でも競馬で確実に勝てる方法は、「草浜ゴマキの競馬必勝マニュアル」というHPで見られるらしいです。検索すると分かりますよ。
A2S91 >>104
サトヒカルと言えば、コダマも晩年は九州でしたっけ? 当時は、青森が比較的馬産なところだと聞きました
アサカオーが確か青森だったと思いますが
産駒のデビューはあったのでしょうか × 馬産なところ
◎ 馬産のさかんなところ
失礼しました アグネスデジタルは名馬だと思う
3〜6歳全てで芝ダート距離関係なく中央G1に勝利してるんだけど詳しく書いてみる
3歳時に古馬混合のマイルCSでコースレコード勝ち、
4歳時の秋天で時の最強馬に完全勝利、
秋天前に地方でもG1に参戦して勝利、秋天後に香港まで遠征しそこでもG1を1勝
5歳のフェブラリーSの勝ちタイムは当時のコースレコードと0.1秒差でレースレコードで勝ち、
もう終わったと思われた6歳時、安田記念にてコースレコードを0.7秒も縮めるタイムで勝利
名馬の定義は色々あると思うけど、俺はこんな馬こそ名馬だと思う コダマは最後の2年だけ鹿児島の吉永牧場でした
供用していたかどうかは?
その最初の年に「なぜか」見ました
まだ元気そうでしたが
厩舎の2階に東京優駿のカップ とかレイとか写真が飾られていました
次の年に死んだと思います
しかしあの記念品はどうなったんでしょう
吉永牧場は確か吉永吉人騎手の血縁の方と思います 晩年、コダマの仔は九州産新馬で出てきていました
まだ若いのに九州送りか・・・なんて思っていましたよ。
タニノムーティエも九州で種牡馬やってた時期がありました。
後に十勝の鹿追で生を終えたのかな。 タニノムーティエ、静内→鹿児島→十勝を経て最期は生まれ故郷だったはずです。
ビゼンニシキも最期は鹿児島でしたね。
鹿児島の馬産関係者から三顧の礼をもっての鹿児島入りでした。 今年の2歳、ヘリオスやチェスナットバレーが復活しましたね ヘリオスといえばイナボレス。オールカマーの印象が強烈だった。
確か準サラブレッドでしたね。 >>116
イナボレスは準サラですね。今ではまず聞く事が無い競馬用語になりました。
ヘリオスは、殆どのレースで大久保正陽騎手が乗ってましたが、エリモジョージが
勝った天皇賞にはイナボレスも出走していました。後年、レースビデオを見ながら、
大久保調教師が現役時代に乗っていた馬の、それほど多くない産駒がレースに出て
いるのは、感慨深いだろうなぁと思ったものです。 >>117
アラブ血量が25%未満の馬を準サラと呼んでいましたが、S49年にサラ系に統合されました。
大井A1のゴーディーがこれに当たります。
イナボレス、ナポレオンが徳川幕府に寄贈したアラブ馬の末裔でした。引退後は東京競馬場の
誘導馬でしたね。JRAのCMにも出演しました。
>>115
現2歳、ロシアンブルーも復活しましたね。
先代はS60年七夕賞&新潟記念を連勝したローカル巧者でした。 イナボレスの稲富氏は筑後から出ていた民社党の代議士でした
筑後は馬産地じゃありませんが育成地としては西日本の最高峰ですね 馬名の復活は、最近特に増えた気がします
ロードエース、ジョイフル
ヤマピットの忘れ形見のボージェストは、今度は牝馬ですか >>118
今日、七夕賞の日に福島でロシアンブルーが出てましたね。
残念ながら殿でしたが。 今日の福島競馬場のファンファーレ、オールドファンには懐かしいものでした。
次は、京都競馬場で、かつてのファンファーレが聴きたいですね。
>>120
ヒダロマンなんて、先代(?)は牧場名が冠名だった馬なので、まさか復活するとは
思いませんでした。 ボアソルチなんて、先代は牧場で生まれた時から追いかけていた
牡馬だったけど、今走っているのは牝馬だもんな。 >>122
GT級勝ちのヒダロマンやゴールドシチーがOKなら
昭和の馬なら、よほどの著名馬以外は全部復活できそうですね
イットー、レデースポート、カバリダナー、キシュウローレル…
こんなのが復活すればあんまりです
歯止めのルールが必要な時期かもしれません ヘリオス
いつの京都記念だったか
なぜか家族で淀へ
芝生にシートを敷いて見ました
ギリギリで逃げ切り
そして最終は繋駕速歩
枯芝に夕陽
その父も・・・
まだ95歳で毎週中継だけ見てます ペガサスも復活しました。
先代は92新潟3歳Sと93福島記念を勝ちました。 >>124
キシュウローレルとイットーは勘弁して欲しい。この2頭の名前を聞くと、あの
悲劇の京都牝馬特別を思い出してしまう・・・
>>125
もし宜しければ、ほかの馬の思い出もお聞かせいただけたらと思います。
繋駕速歩のレース風景なども・・・ ヘリオスというと2015年生まれのアメリカの馬が Helios17 らしいので2016年生まれの
オルフェーヴルの仔は18頭目かな 日曜日の函館10Rで、「アグネス」の渡辺さんの一族の方がお持ちの馬が出走して
いました。服色も以前の「アグネス」の勝負服と同じでした。
持ち馬を全て売却したと言う話を聞いていましたが、何頭か残していたのか、或いは
ご一族のだれかが新たに馬主になられたのか、ちょっと気になります。 ひとつ思い出した話があります
ダイナナホウシュウの厩務員さんは飯原農場からこの馬を連れて来た牧夫さんで
ダイナナホウシュウが引退すると厩務員を辞めて元の農場に帰られたそうです ダイナナホウシュウ
最後は熊本の大津産業高校馬術部(移転前の旧校舎)
それも近所の子供たちの遊び相手
すっかり大人しくなっていたとか ダイナナホウシュウは、志摩直人がとても肩入れしていましたね
大川慶次郎は、アローエクスプレス一辺倒でした >>129
渡辺公美子さん、おそらく御親族でしょうか。
数頭は所有されておられるのでしょうね。 >>124
南関東にはカミノスミレも。
先代は目黒記念を勝ち、3200m最後のS58天皇賞秋で2着でしたね。 >>132
志摩直人さん,初代 森乃福郎さん、松本暢章アナ、3人とも故人か。 フジの鳥居アナも、ハイセイコーのころに実況を降りて
やがて見かけなくなりました >>136
フジテレビ開局の際に文化放送から移られた方でしたね。 大川慶次郎さんが好きな馬
ミツハタ、メイヂヒカリ、アローエクスプレス、ミオソチス 関東と関西はクラスがひとつ違う
頭数が一割多かったんですけどね
ライデン、ハクズイコウが無事ならシンザンなんかと言ってました 大川慶次郎さんが嫌いな馬。
シンザン
一度も◎を打つことはなかった。 石崎欣也?さんは有馬記念のレース回顧(優駿)で
シンザンのようなスピードのない力馬は日本独自で
欧州あたりでは通用しないとか書いていた記憶
しかし菊、秋天、有馬を見ていると相当外目を回って
さらに上がり3ハロンはかなり早かったと思います。
最近目にする欧米のレーススタイルに近かったのではと シンザンの子が走り出してみると大半がスピード型でしたからね
武田文吾師が 「そうだったのか、済まなかった」 と謝ったという話もありますし
ダイコーターやリュウフォーレルの子にもスピード型が多くて
ヒンドスタンは決して当時考えられていたようなスタミナ型ではなく
長距離偏重の時代に能力で大レースを勝っていたんでしょう >>142
リユウフオーレルに、産駒はそんなにいましたか?
リュウファーロスなら何頭かわかりますが >>143
グレートライナーは目が覚めるような快速馬でしたよ >>142
大半ってシンザンの仔でスピードタイプというとスガノホマレ、シルバーランドくらいだろ。
ミホシンザン、ミナガワマンナ、グレートタイタン、キャプテンナムラらステイヤータイプもかなり出ている。 >>145
ミナガワマンナもキャプテンナムラも超よりをこなしたスピード馬だと思いますよ >>146 自己レス
超よりってひどいですね。長距離の打ち間違いです。
補足しますと
私が考えるスピードタイプというのはスプリンターやマイラーではありません
距離の長短には関係なく、時計が速くなると強い馬のことです ヒンドスタンは確かに、輸入当初はマイラーと言われていたようです
パーソロンも、仕上がり早やの三歳血統という扱いでしたが
メジロアサマ辺りから、評価が一変しましたね
決めつけは出来ないけど、大まかな特性は確実にあると思います
テスコボーイなどは、ホクトボーイやインターグシケンがいなければ
マイラー寄り種牡馬の扱いだったでしょう パーソロンもテスコボーイも2400ですら長いと言われてましたね テスコボーイ系を残すためにもビッグアーサー,グランプリボスはいい子を出してほしい。 チャイナロックは不思議な種牡馬でした
自身は栗毛なのに産駒は鹿毛に出るとよく走る
栗毛ではメジロタイヨウくらいで オープンクラスの活躍馬は、種牡馬が東西にやや隔たりがありましたね
チャイナロックやパーソロンは、圧倒的に関東馬
ネヴァービートやシプリアニは、関西馬が多かった
ヒンドスタンやテスコボーイのようにリーディングを続けるような種牡馬は
さすがに東西まんべんなく活躍馬を出しました 直線の坂が関係あるんですかね
最後の一踏ん張りが効くか効かないか 地域によるんじゃないでしょうか
昔は各地に親分のような人がいましたから
水田から転向した生産者なんか販路をもっていませんから
離乳後は地域を仕切っている人の育成場に馬を贈ったので
特に三石より東は関東の調教師さんは行きたがらないですし パーソロンの仔はほとんど関西に入って来なかったな。活躍したのはダイアナソロン、アグネスホープくらいか。 アグネスホープ
大川が「これはダービー云々という馬じゃない」とかいってたな 海外の競馬小説を読むと、大富豪の馬主の息子が身を持ち崩して
幼い頃から馬に乗っていた経験を生かして調教師になるというケースがあるようです
自分が生まれ育ったお屋敷に住む馬主のためにそこの厩舎に住み込んでるとか
日本で身を落としたと言えば競馬評論家でしょうか
本来なら自分が馬主としてダービーを争うべき身分だった人たち
大川財閥の御曹司大川慶次郎氏と沖縄の王族宮城昌康氏 明治時代の競馬では、馬主自身が騎乗してレースに出た事がありますし、日本競馬会
になってからも、馬主が馬で身を持ち崩して、競馬会職員になった例もあります。 書き間違い。改めて
>>159
昔、関東で発売されていた「競馬新報」という競馬新聞は、総会屋で有名だった「上森子鉄」が社主でしたね。
一時期、日本競馬新聞協会会長でもありました。 上森子鉄がさっと出てくるとはたいしたもんです
知ってる方も少なくなりました ラジオ関東も上森さんだったような気がするんですよね
ウィキ読むと遠山社長の暴走なんて書かれてますけど
洋平さんが新自由クラブで散財して那須野牧場も売っちゃったし
ラジ関も売ったと記憶してるんですが
しょっちゅう労組がピケ張ったりして変な局だなと 上森氏自身は競馬好きだった様で、「競馬新報」も、採算度外視で出していたという話を聞いた事があります。
日本の戦後社会に色々関わった人ですが、その割には語られる事が少ない様に思いますね。
>>164
キネマ旬報の社主だったのは知ってますが、ラジオ関東は違う様な・・・ >>165
上森さんが太刀川恒夫さんに売ったのかなあ
洋平さんが誰かに売ったことは間違いないです 上森子鉄氏の名前が出たんで、
アウトローに近い人というコトで・・・・・
醍醐安之助氏
弟はダイゴホマレ<第25回日本ダービー優勝馬>の馬主−醍醐幸右衛門氏、
幸右衛門氏と共に、大井競馬の発展に尽し、東京都馬主会の会長を務めた。
長く大田区選出の東京都議会の議員に就き、議長職の座にも在った。
元々はテキヤ出身、旧東京二区選出の故新井将敬氏とも関係が深かった。
ヒカルメイジの新田新作氏も、元はと言えば新田組の組長でしたね。 >>166
太刀川恒夫氏は東京スポーツ会長ですね。
永田雅一氏の大映が傾いた際に永田氏が社主を務めていた東スポを買収しましたね。 関係ないですけど
昨日のサクソンウォーリアにガッカリ
オブライエンがとかムーアがとかいろんなグチが出ます
その昔、短波のラジオ中継でタケシバオーの2年連続惨敗を聞いたことを思い出しました このスレ的には新しい話になりますが、平成3年秋の天皇賞の時、南米のある国に出張で滞在していて、日本から
持って行った短波ラジオでラジオたんぱの周波数に合わせて、ようやく受信出来た微かな音が途切れ途切れに
なりながらも聴いていました。
スタートでは何とか受信出来ていたのに、「メジロマックイーン先頭」という実況を最後に受信出来なくなり、次に受信
出来た時には、「メジロマックイーンは失格になりました」と言うアナウンスが聴こえて、理解するのに時間が掛かった
のを思い出しました。今では、ネットで何処でも実況が聴ける様になり、まさに隔世の感があります。 短波ラジオというと
松屋の裏に行くと突然風景が変わってここが銀座?
空き地に打ってある杭に引っ掛けたラジオから競馬中継が聴こえてきて
浮浪者風のおじさんがたむろしてて
銀座場外の周辺ってそんな感じでした
プレイガイドビルの地下のミニ場外もありましたね タケシバオーのワシントンDCは最近になって
YouTubeでみました
サーアイヴァーと接触した場面も写ってました >>172
プレイガイドビル地下の銀座通り場外は、元のサービスセンターですね。 ワシントンDCといえば大惨敗ばかりだったな。
ローレルの「牧草地みたい」と言われた馬場が合わなかったのか、当時の日本馬のレベルが
低かったのか。 >>175
低湿地だから単純にパワーが要るんですよね
日本馬はスタートから1マイルまでは馬群についていくけど
最後の半マイルは1完歩の歩幅が狭くなって徐々に遅れる
マラソンでこぼれていく選手みたいに
要は日本馬に最も向いてない競馬場ですよ
あの頃栄養価の高い外麦が入ってきて外麦食わすと太るから
飼葉は8升を5升にしろなんて真面目に言ってたんですから
外麦8升食わして太らん調教しろよと思ったものです まああのパワーの権化みたいなタケシバオーで駄目だったんだから、当時のどの馬でも無理だったでしょうね 第一関節まで隠れるぐらい深い芝だと言ってましたね
賞金王のケルソが勝ったときは、2分23秒台でしたが
さすがにあのときは、もっと走りやすい馬場だったと思います
そのレースで大差シンガリのリュウフォーレルも、一応タイムは自己ベストでした >>172
>>174
学生時代<昭和>、目黒区緑が丘に住んでいて、
函館−札幌のレースを買いに、
愛車 pop-gal で銀座まで何度か行ったなぁ・・・・・
千円単位の発売で、単勝複勝だけ買っていた。
( 後楽園でも発売していたけど、そこに行く発想は無かった )
お客さんも数える程しかいなかったなぁ・・・・・
帰りは、向かいの伊東屋で文具を見て帰るというのが常だった。
>>179
狭くて入場者数を絞る必要があるので、千円単位の発売にせざるを得なかったんでしょうね。