◆懐かしの名馬・名勝負スレ16◆
歴代の名馬・名勝負をまったりと語るスレです。
(競馬に関する事なら何でもOK!まったりと語ること)
※過去・現在の名馬を比較しての最強論争は極力お避け下さい。
前スレ
◆懐かしの名馬・名勝負スレ15◆
https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/uma/1419611622/ 競馬評論家の宮城昌康氏も、メディアによく露出していましたが
突然見なくなりました
一部で黒い噂もありましたが、あれだけメディアに出ていた人にもかかわらず
誰も話題にしなかったですね 競馬評論家で、借金のせいかいつの間にか居なくなった人は結構居る気がします。
難しい世界ですね。 >>233
彼の長女が嫁いだ相手、中舘英二というのも面白い処ではあります。 >>226
マツクニさんは伊藤修二厩舎で調教助手をしていたし、その意味では
友道、角井、高野さんは伊藤一門といえるのでは? >>236
なるほど、松田国師は確かに伊藤修司師の下で調教助手やってましたね。
その後、山内師の所に移動してから調教師になっていますが、そういう意味では門下生と言えますね。 正月京都の1R未勝利戦は、出世レースといわれた時期がありました
ニホンピロムーテーやハマノパレードなどがそうだったと記憶しています
今年はどうでしょうか 福寿草特別でヘリオスが逃げていて、何か嬉しくなりました? >>239
秋の枯芝京都記念?の思い出があります
そして最終レースはケイガ速歩 重賞という言葉は昭和29年に佐藤正人氏が作りました。 以前は東で京成杯、西でシンザン記念
東でAJC杯、西で日経新春杯って対になる重賞を同日にやっていたけど
気がつけば東西の金杯くらいしか残ってないなと昨日思いました その金杯にしても、今は距離が違いますしね。
東西間がフォッサマグナのように別れていた頃は、むしろそうじゃないといけなかったんでしょうが。 金杯はもともと正月開催の最終日に行われていたんですが
西の金杯は日経新春杯に名前が変わりました
東ではAJCCが出来て金杯は初日に移り
西では初日のニューイヤーSを迎春賞と改めて重賞に格上げし
昭和41年から東と同じ金杯という名にしたという経過です
重賞ではありませんがアラブの銀杯というのもありましたね 昭和44年までカップの金杯ではなくサカズキの金盃ですね。
3日にやってたのは昭和43年まで。
この頃からもう競馬ブームということが言われていて
正月には中央競馬をやるなという指導が入ったんだと思います。 尾形厩舎のフイニイ、翌年のミノル
ともに秋から関西に滞在していました
日経新春杯の頃までいたかな。当時としては珍しいケースでしたね 失礼。ミノルはフイニイの2年後でした
伊藤修司師が一門だったから、そこに入厩していたのかな ミノルとフイニイはいつも帯同していましたよ
名義は尾形厩舎でしたが
実際は元騎手の山内与吉厩務員が九州在住の馬主さんのお抱え調教師で
馬主さんが観戦しやすいように関西に来ていたんです 失礼、間違えてました
山内与吉氏はタカエノカオリです
ミノルとフイニイを管理していたのは吉村嘉吉氏で
馬主さんの九州の地方競馬でのお抱え騎手でした >>251
フイニイやミノルの滞在先は、伊藤雄二厩舎かなと思っていました。
そう言えば、フイニイが勝った万葉S、今も正月に淀の3000mで行われていますが、ダービー前の
むらさき賞と同じく、長年条件が変わらない特別として、貴重な存在かも知れません。 >>252
ありがとうございます
>>253
フイニイは菊花賞を取消したあと、関西で走ったのは
京都記念、阪神大賞典、金盃、日経新春杯の四つです
5歳の秋は、ハリウッドターフクラブ賞と京阪杯 >>214
この天皇賞で1番人気だったキームスヴィミー、パッシングゴールは
ともにヴィミーの産駒だった。
ヴィミーはキングジョージ&クイーンエリザベスSなどを勝った名馬だが、
気性が悪く「きちがい馬」と言われ、地元のフランス人は
「日本人は勇敢だ。あのヴィミーを買ってきてどんどん付けている」
と驚いていたそうだ。 >>254
フイニイが万葉Sを走ったのは、旧7歳(70年)の正月ですね。
この時は、オープンと万葉Sを使って2勝してますが、保田騎手とのコンビはこれが最後になりました。 >>256
京都で2走して一旦東京へ戻り、春の天皇賞でまた西下してるんですね
秋には天皇賞のあと、また阪神大賞典
確かダイアモンドSがラストランだったと思いますが
長距離戦は、たとえ苦手の道悪でもすべて堅実に走り切りましたね 明後日、名古屋の新春ペガサスカップにゴールドウエイという馬が出ます。
特に追い込み馬ではなさそうですがw
毎日王冠の差し切りは忘れられません。 大川慶次郎さんと盛山アナウンサーが浮かびます、この毎日王冠。 今日の京都メインは、1着が8歳、3着が9歳馬
昔に比べると格段に高齢馬が活躍できる時代ですね
ゴールドイーグルとロイヤルスプリンタの8歳馬2頭で決まったマイラーズC
当時はかなり話題になりましたが
今の表記だと7歳馬2頭ですから、そう珍しくも感じられませんね https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/keiba/1548321066/l50
上記スレから誘導を受けてまいりました
時々覗きますのでよろしくお願いします
キタノカチドキ、二ホンピロセダン、二ホンピロスイセイ、フジオックス、マサエイカン、二ホンピロリーダー
二ホンピロエバート、ナルタキサンダー、二ホンピロカホウ、リキタイコー、二ホンピロエイカン、ターボー
服部厩舎の馬を追っかけていました キタノカチドキ、イットー、タニノチカラで決まったマイラーズカップは阪神競馬場で見ていました。
カブラヤオーが勝った皐月賞の日で武邦彦騎手はロングホークに乗りに中山に行っていました。
カチドキの鞍上はデビュー3年目の田島信行騎手でしたが最も強く印象に残っているレースです。 武邦彦騎手のお兄さんの武輝彦氏はJRAの職員で
渋谷にあったプラザエクウスの館長をされてました 武輝彦氏には広報室長だったころ新橋でお会いしたことがあります
いくら応募しても電話投票に当たらないといったらその場で申込用紙をくださいました
ルール違反ですがもう時効ですね >>262
このレースはテレビで見た記憶がありますが、この時点でタニノチカラは脚部不安があって、その前の
オープンでどちらか一方の馬と対戦する筈が、結局出走しなかった様に思います。 しかしここへ来られる方の年代はどれくらいでしょう?
私は70歳ですがひょっとしてここでは洟垂れ小僧かなと >>265
タニノチカラは有馬記念の後京都記念を大差で逃げ切り
3月のオープンでは河内騎手でイットーとの一騎打ちに勝利しています。
マイラーズカップが最後のレースとなりましたので脚部不安の兆候が出始めていた可能性はありますね。
前週には二ホンピロセダンが天皇賞の叩き台に使ったオープンがありましたがそこからスライドしたという記憶はありません。
いずれにしても当時の関西古馬2強とのちに名牝と称えられる名馬の巴戦を見れたことはこの上ない財産になりました。
ちなみに斤量はカチドキ60キロ、イットー52キロ、タニノチカラは61キロでした。 >>266
おそらく年長者の部類に入られると思います
ずっと、スレの話題の多くが
昭和45年〜55、56年ぐらいの馬や人に関するものですから
現在60代、それも後半の人が圧倒的に多いのではと推測しています
中にはメイズイやシンザン以前の話をレスされる年配の方もおられますが
貴重な話題として聞かせていただいています >>266
私は今年還暦を迎えます。
中学生の頃からテレビで競馬を見始め、ハイセイコーブームで完全にはまりました。
高校の頃に週刊「馬」がペーパーオーナーズゲームをはじめて
勝ち馬の写真を贈呈してくれる企画がありしばしば拙文を投稿していました。
その流れで大学に入ってからは池袋の喫茶店であったアベコーさんや井崎周五郎らとの集まりにも参加していました。
馬券を買うようになったのは大学生になってからで最初に大勝ちしたのはカツラノハイセイコのですね。 >訂正、カツラノハイセイコが勝ったダービーでした
相手筆頭に4歳中距離特別を勝って挑戦してきた
嶋田功騎乗のリンドプルバンを狙い枠連と単勝仕留めました。
リンドプルバンはテルテンリュウの斜行で大きな不利を受けハナ差届かず気の毒でしたが
ハイセイコーの産駒がダービー馬になり感無量でした。 >>261
旧四歳クラシックは、キタノカチドキ世代1974年から見ているので、
キタノカチドキは、その名前の響きの良さと共に強く印象付けられました。
その翌年の菊花賞の前日、サンテレビ( 神戸在住でした )の競馬中継で、
前年の菊花賞のレースが放映され、小崎アナが「 予定通りの勝利 」と実況、
それを受けて、飛鳥井アナが「 今年( コクサイプリンスが優勝 )は予定通りの馬はいないですね 」と語っていたのを何故か憶えています。
>>271
昭和50年ですね。春はカブラヤオー、テスコガビーの両2冠馬が華々しい活躍をしていましたが
秋はリタイヤしたためあまり印象に残っていません。
菊花賞ではヤマゼントップが1コーナーで馬鹿ついて逸走し落馬したシーンはよく覚えています。
ロングホークとファスト、イシノアラシとマサル、エリモジョージ、ハーバーヤング
脇役も多士済々で個性的な馬が多かったと思います。
KBS制作の競馬中継は私も見ていました。ラジオの競馬展望もよく聴いていました。
解説は競馬ブックの中西勉、山田一雄、松本晴夫、内炭重夫、坂本日出男さんらでしたね。 カブラヤオー世代はTTG世代と比べると地味ですが、
ファバージ、フォルティノと当時日本に数少ない世界で通用しそうな種牡馬の産駒の
デビュー年で新馬が始まるのがとても楽しみでした。
当時は血統に興味のある人間なんて少なくてサクライワイがオークスで1番人気になる時代でしたが…。
期待通り夏の北海道でホシボージ、ロングフアストが活躍しましたが、当初期待していたような大物は出なかったですかね。
なにげにこの年はエリモシブレー、ニジンスキー産駒のニジンスキースター、ササフラ産駒のホクエイワンとかいて
血統的には結構派手。
今から考えると面白いですが、ノーザンダンサー産駒で母系も良血のエリモシブレーより、ニジンスキースターの方が
世間的な注目度は上でしたかね。 >>273
私も血統には大いに興味を持ち山野浩一氏、白井透氏などの書物を読み漁りました。
ファバージはテスコボーイ、バーバーに続いて導入され
日本で大成功を収めたプリンスリーギフト系の直仔で
凱旋門賞馬ラインゴールドを輩出していましたから「真打ち登場!」とワクワクしました。
おっしゃる通り当時はマタドア、ミンシオ、サウンドトラックなどの早熟で3歳戦を席巻した
短距離血統馬がクラシックでも過剰に人気するので蹴跳ばす妙味がありましたね。 1973年に変動相場制となりマ動相場制となり輸入自由化も進み良血の外国産馬が入って来ました。
同時に父内国産馬の奨励金が(母内国産も)手厚くなり
限定重賞も定着してシンザン、ダイコーターなどの産駒が増え活躍しました。
この年はタニノムーティエの初年度産駒タニノサイアスが桜花賞でテスコガビーの4着に入り注目されました。
翌年はアローエクスプレスの産駒がデビューしテイタニアが桜花賞に勝ちその後も息長く活躍馬度出しました。 ファバージは大成功、フォルティノも成功した部類でしょうけど、>>274さんのような、そういう期待とは微妙にズレた結果に感じたのは私だけでしょうか?
ビクトリアクラウンとハードバージは相当強かったけどピークが短かったのが残念です。 >>276
ファバージは3歳リーディングも獲りましたしコンスタントに活躍馬を出しましたから成功の部類だと思います。
しかしながら本国でラインゴールドやゲイルーザック、チャンピオンSを勝ったジャコメッティを輩出していたことや、
同じプリンスリーギフトの直仔で既にランドプリンスやキタノカチドキを出していたテスコボーイとの比較から
過度な期待を受け(その後のテスコボーイの大成功もあり)物足りなく感じた人も多かったと思われます。
ちなみに私がファバージの産駒で最も期待したのはギャラントダンサーの弟のバリシニコフでした。
話は逸れますが個人的に導入時の「ワクワクするような」期待感でいうと、
タイプは全く違いますが同じく高齢で輸入されたセントクレスピンも期待が大きかったですね。
フォルティノは期待外れかもしれませんが大好きだったシービークロスを出してくれましたから満足です。(笑) 種牡馬が成功したかどうかは
事前の評判や期待と比べてどうだったかのイメージ評価が多いように思います
名前の出たフォルティノは、かなり前評判が高かったし
セダンなどは、当時の日本でトップ級だったネヴァービートよりはるかに大物
そういわれていました
内国産の方は厚遇されない時代でしたが
時折活躍する馬が出ると嬉しかったですね
リュウファーロスは、アンドレアモン、ロバリアアモンと
関東でダート戦の強い馬を出しました
カブラヤオーからは、ヒテツという馬が出たのを思い出しました >>278
>種牡馬が成功したかどうかは
>事前の評判や期待と比べてどうだったかのイメージ評価が多いように思います
その通りでそれに尽きると思います
逆に評判倒れだったに終わった種牡馬の方が多いですよね。
大コケした馬として思い出すところでは米2冠馬カウアイキング、凱旋門賞馬プリンスロイヤル
少し新しくなりますが、何と言っても英愛ダービーなどGT5勝の年度代表馬グランディですね。 日本を 「種牡馬の墓場」 と呼んだのは
グランディの輸出についての記事だったと思います
スポーティング・ライフの 「ジャック・ローガンの月曜評論」でしたか
日本に行くとその血が欧米競馬社会に戻って来ない
そこで終わりだという意見が当然と思われていた時代でした リュウファーロスの仔ではリュウキコウが阪神3歳S、きさらぎ賞に勝って昭和52年のクラシックに乗りました
息長く活躍し古馬になっても京都大賞典と目黒記念を連勝してテンメイが勝った天皇賞では1番人気になりました
関西ではファンの多かった馬です
昭和50年ごろはダービー出走馬28頭中20頭ぐらいが違う種牡馬の産駒でした。
それぞれ個性があって血統の勉強もし甲斐がありましたね。 グランディは初年度のハギノトップレディをわざわざ英国に運んで付けさせたんですよね。
どうせなら声価の定まった超一流つければいいのに、と思ってしまう。
サンプリンスやラインゴールドも残念なクチ。 グランディは競馬会が供用した馬でしたので九州に流れて行って最期を遂げました。
欧州に返すべきでしたね。
円が強くなってグランディ、ジェネラス、 クリスタルパレス、ファーディナンドなどの大物種牡馬が輸入されるも
日本で大成せずジャパンマネーに皮肉を込めて「名馬の墓場」といわれました時代がありました。 「日本は名馬の墓場」というフレーズは欧米では昔から言われていたようですが
日本ではJCが開催される頃からクローズアップされるようになったと記憶しています。
一流の競争成績を残した種牡馬が日本に適合せず成功しなかったことよりも
輸入馬偏重で内国産種牡馬を冷遇するあまりサイアーラインを繋ぐことが出来ない
当時の状況を指したものだと思います。 グランディ、ジェネラス、ファーディナンドは
向こうで失敗したので日本に来た馬たちですね。 ハードリドンは本国での実績があり輸入前にも持ち込みの活躍馬を多数出していたので
デビュー前から期待が大きかったですね。
初年度からダービー馬ロングエースを出しました。
リニアクインはレベルの高かった世代のオークスを勝ちました。
アイノクレスピンを3馬身ちぎり、勝ちタイムもダービーより早く
ダービーに出ていても勝てた、と言われました。
個人的にはキタノカチドキの僚馬で故障に泣いた二ホンピロスイセイが残念でなりません。 英ダービー馬らしく2400に特化した感じでダービーやオークスでの強さは格別でした。
ハードリドンの父ハードソースはスプリンターだったようですが。 ハードリドンの孫ハードツービートが、仏ダービーを制したのを見て
日本でも、つながっていきそうな血脈かと思いましたが
ロングエース→テルテンリュウで、止まってしまいました
当時の内国産で父系を強く引き継ぐ土壌があったのは
メジロ牧場ぐらいではないでしょうか 〇〇ハードリって馬いましたね
〇〇パーソだとか
変な所で切るのやめてくれよと思ったものです ハードりドンは自身が2000ギニーの勝ち馬ですし本国に残した産駒は短距離系でした。
日本では早くから持ち込みのアスカやハードイットなどが長距離でも活躍していましたね。
70年代に大成功した種牡馬の一頭だと思います。
やはりクラシックディスタンスで活躍した馬の方が印象が強いですね。 >>292
サーペンフロの産駒がサーペンで切られる事案
結構いたね
サーペンプリンス、サーペンアップ、マルブツサーペンなどなど ハードソースからのミスオンワード、ハードツービートとオンワードの樫山氏は縁が深いですね。
ハードツービートが1番人気になった凱旋門賞は2番人気がロベルト。
他にもサンシー、プルバン、エリモホーク、メジロムサシが出ていて勝ったのがサンサン。
1972年の凱旋門賞はずいぶん日本に縁があります
この年には、日本ホースメンクラブも起ち上げられて海外の競馬が身近に感じられるようになりました。
今と違って何年か遅れて海外の競馬の傾向が日本にもフィードバックされるのは
それはそれで楽しかったですね。
最近は種牡馬が日本で競走した馬ばかりになって、確かに親しみやすいのですが
逆に能力も適性もわからない輸入種牡馬が来てそれを推しはかるのを
楽しみにしていた頃がなつかしくなります。 >>293
ハードイットの名前を聞いて思い出したのですが、この馬の血統は残らなかったですね・・・
牝馬ながら神戸杯と京都杯を連勝して、菊花賞でも3着に入ったほどですし、血統的にも名血だと思うのですが。 ハードリドンといえば「関西の雄」ロングホークも好きだったな
関西馬が強くなってからは「関西の雄」という表現は聞かれなくなったが。 思い出したのですが昔
毎日放送(TV)で桜花賞菊花賞天皇賞の当日朝に
調教師も入った座談会?をやってませんでしたか?
覚えているのはシンザンの菊花賞の時に武田御大が出ていた記憶があります ロングホークとテンポイントが対決したオープンを見たかった・・・。 >>299
テンポイントは持ったまま
ロングホークは押して叩いて
名勝負じゃなかったです >>299
昭和40年代は、関東のレースは
夜のダイジェストでも、重賞を取り上げるぐらいでした
でもテンポイントのころになると、注目レースはダイジェストで流れましたよ
反対に関東エリアでの関西レースの放映事情も、同じようなものだと聞きました >>301
ハイセイコーとタケホープが戦った昭和49年秋の東京でのオープンは、折からのハイセイコーブーム
もあってか、近畿放送の競馬中継で生中継で放送されました。
私はそこで初めてヤマブキオーの名前を知る事になりました。 私は関東圏ですが、関西の平場オープンを初めて見たのは
ラッキーオイチがカチドキに勝ったオープンでした。
昼の競馬番組内なのは確かですが、生中継だったか5分か10分くらいの後に
放送したかはよく憶えていません。 >>303
関東はUHF局が、中継もダイジェストも充実していたそうですね >>304
U局の競馬中継、関西と関東の両方をそれぞれ10年以上見ていましたが、レースの合間の企画や
実況そのものは、関西の中継の方が上かなと感じていました。
歴史的にも、近畿放送→KBS京都の競馬中継の方がかなり古いんですよね。 サンテレビで午後10時55分から11時まで
レースダイジェストをやっていました
中央競馬じゃなくて地方競馬・競輪・競艇の結果ですね
園田はラチの代わりにガードレール使ってました >>306
星野亮子さんのオッズ読み、懐かしいですね >>307
やってましたね。たしか最初が競艇で、競馬、競輪の順番でしたが、私の記憶では10分ほどの
番組だったような記憶があります。
競艇の結果を流すときのBGMは、ホットバターの「ポップコーン」でした。 >>309
10分間でしたか、 確かに5分じゃ映像までは無理ですよね
園田競馬を初めて生で見たのはタイムラインがヤマホーマーに負けたレースでした タイムラインと聞くと、あの園田競馬の焼き討ち事件を思い出してしまいます。私は当時園田に住んでいました、
まだ子供でしたが、あの日の騒動を少し覚えています。
家に居ると、急にパトカーらしいサイレンが立て続けに鳴り響き、ヘリコプターが飛んできたりして、てっきり
大阪空港で事故が起きたのではと思っていました。
それが、夕方のニュースで園田競馬場で騒乱が起きたと聞き、園田競馬場で馬券売りとして働いていた近所の
おばさんから話を聞いて、びっくりしたのでした。 水曜はギャンブルホリデーなので尼のボートの客が大勢来てて
出遅れは返還しろと叫んでゴミ箱に火をつけて
大騒動の隙に馬券売場へなだれ込んで現金袋を強奪したんですよね 今年2019年の夏競馬から、降級制度の廃止と共に、
条件クラスの呼称が「 1勝馬クラス 」等に変更されます。
二歳時にOP特別を勝ったり重賞で二着( それも複数回 )があると、
「 3勝馬クラス 」に一勝馬が出走するといった違和感が生じるんでねェ・・・・・
バカな競馬関係者の、1000万下を勝つと賞金が1000万円貰える━━の誤解を防ぐ、なんて話も聞いたのですが、果たして?
本題なんですが、1970年代のオープン←→条件設定ってどうなっていたんでしょうか?
例えば、中距離の名馬−1800mの王者ヤマブキオー
https://ahonoora.com/yamabukio.html
平場のオープンを二勝し、中京記念やダービー卿を優勝しているのに、旧七歳時にアメジストSという条件特別に出走しています。
この時代は、年前半は旧五歳−旧六歳−旧七歳でそれぞれ賞金額を決めて条件編成をしていた「 筈 」ですが、
古馬の重賞を二勝している馬が条件特別に出走するのは・・・・・です。
例えば、カブラヤオー世代の名脇役ロングファスト
https://ahonoora.com/long_fast.html
ダービー&菊花賞二着、それ以外にもきさらぎ賞やダービーTRNHK杯でも二着し、
スワンS勝利の翌日のスポーツ紙は「 悲願の重賞制覇 」の文字の見出しでした。
そんなロングファストも旧八歳時にはジューンSという条件特別に出走しています。
このレースの優勝馬が、菊花賞以来だったグレートタイタン、この時期のグレートタイタンが条件馬なのは分かりますが、
重賞二着四回にスワンSを勝っているロングファストが条件特別出走とは・・・・・・
現代ならば、ダービー二着の賞金一発で、一生オープン馬でしょうから・・・・・
>>310
ヤマホーマー 懐かしい名前です。
アラブだけの時代、馬場改修前の一周1000m時代の園田競馬場で、確か1630mのレコードホルダーでしたね。
オトワヒメと同じ母オトワだった記憶が・・・・・
ついでに、ヤマホーマーの1630mというコトで、園田―姫路のアラブ時代の話です。
アラブの旧三歳の重賞だった市川賞の歴代優勝馬のデータがNARのwebサイトで確認できます。
市川賞ですから、播州平野の姫路競馬場が開催場になるのですが、
1979年以前は姫路競馬場の1630mとなっています。
この1630mはどこにスタート地点が置かれていたのでしょうか?
今の名古屋や笠松の1600m地点? 感覚としては浦和の1600m的な感じ?
園田−姫路の場内予想屋さんの山口信夫氏( 一本書きの人 )に一度尋ねたんですが、そういうコトは憶えていないと返されて・・・・・
※※山口氏とは個人的に親しくしていて、年賀状の遣り取りをしていて、亡くなった時も親族の方から通知を頂きました。
※※氏が残しておられた昔の競馬新聞等を、譲ってもイイよ━━という話もしていたんで・・・・・
>>314 の訂正
オトワヒメの母はスモールセフトでした。
ヤマホーマー オトワ オトワヒメ の三頭が母スモールセフトだった・・・・・??
競馬を見始めた頃はNETテレビ(減テレ朝)で大井競馬の重賞を放送しておりアラブの強豪だった
リキスユリ、スカレー、イナリトウザイ等をライブで見ることが出来ました。アラブ競馬の廃止は本当
に残念でした。 ヤマホーマー 昭和45年生 父センジュ 母スモールセフト
オトワ 昭和46年生 父ミヤマシューホー 母スモールセフト
オトワヒメ 昭和48年生 父エルシド 母スモールセフト
アラブは上が走れば下も走るという典型ですね
姫路の1630は3コーナーの引込線ですよ >>318
姫路競馬場の1630m
今の名古屋−笠松競馬場の1600mみたいに三角の奥に引込線が在って、そこからスタートだったんですね。
今日3月5日は名馬テンポイントの命日です。
あの様な悲劇は二度と繰り返して欲しくは無いです。
坊主頭の中学生時代、塾をさぼって、
一度だけ 阪神競馬場で同馬の走るのを観ました@第11回京都大賞典1976年
そして、阪神百貨店の電器製品売場のテレビで雪辱戦となった1977年第22回有馬記念を視ました。
また高田久成氏や志摩直人氏とも10〜15分ばかりですが、お話しする機会も得ました。
想い出深いテンポイントは、古馬になってからは 誰が何と言おうと 日本最強馬 であると思っています。
( 異論は認めますし、論争はしたくありません )
事実上の「 マッチレース 」となった1977年第22回有馬記念、
先行有利のマッチレースであのトウショウボーイ=武邦彦を、鹿戸明が騎乗して負かした事実は大きいです。
※※同年の第18回宝塚記念
※※芦毛二頭の初対決になった1988年第98回天皇賞(秋)
※※GTレベルでないランドヒリュウが一瞬逃げ切りかと思わせた1988年第18回高松宮杯━━マッチレースは先行有利です。
更には現代では酷量レベルの63kgを背負って 2分27秒台で楽に逃げ切った1977年第12回京都大賞典
関西テレビの杉本清氏のレース実況の音声を集めたLPレコードのライナーで、
志摩直人氏が「 テンポイントの海外遠征が成されないことで日本の競馬は十年遅れる 」と記しておられますが、
旧三歳時に、不良馬場で古馬のオープンより速いタイムで勝ったテンポイントは、
ロンシャンやローレルのタフなコースでも太刀打ちできたと妄想しています。
>>37
私の憶えている限りでは、
後発の 日刊ゲンダイを除いて
現存する 大阪スポーツ 夕刊フジ 以外の消えた夕刊紙は、
大阪新聞<後年は産経新聞系列/この時期は、大学別高校合格者数ランキングが一面に>
関西新聞<晩年はイトマン事件の一端に名を連ねる>
新大阪<週刊ファイトを発行>
新関西・・・・・あんまり記憶が無い。
━━この辺りではないでしょうか?
>>323 の続き
今は朝刊になった 大阪日日 も夕刊紙でした。
>>323
大阪新聞ですが合格者名まで載ってませんでしたか? 3月4日は、福永洋一騎手の落馬事故から40年でした。あの日は、北風の強い、寒い日だった
記憶があります。
福永騎手の現役時代を知る人は、私を含め、結構な年齢になってしまいました・・・ 40年か…
福永さんは桜花賞、皐月賞、菊花賞、春秋の天皇賞
あの時代に短期間でこれだけ勝つのはすごいし
全部違う馬で勝つのもすごい
一番得意なのはやはり桜花賞かな >>323
新夕刊というのもありました
1面トップはいつもプロレス。まだ東スポ大スポのない時代です
地下鉄難波駅では、壁新聞のように夕刊紙が貼られていました
ある日、大勢の人が壁新聞に見入ってるので、何事かと思ったら
「美智子妃、流産」の記事でした
テンポイントの闘病生活のころは、壁新聞も消えていました >>318
スモールセフトは400sそこそこの小柄な牝馬でしたが、本当に子だしが良く
ヤマホーマーからシゲキヨアラシまで父親が違っても5頭連続でオープン馬を出しました。
3頭目のオトワオーと5頭目のシゲキヨアラシは、父タガミホマレで同じでしたが・・・
石川昇騎手、当間進騎手が、乗ってましたね。 アメリカにはカルヴィン・ボレル、別名ボ・レールという騎手がいて
レールとは内埒のことですが、3〜4角で内埒沿いを突いてくる
園田には石川コースというのがありました
「どけ!」 と叫ぶと3〜4角の内埒沿いがぽっかり空くんだそうです
頭の禿げた大ベテランにどけと言われればどきますよね >>325
兵庫県━━神戸新聞
京都府━━京都新聞 に対応する府域紙が大阪府には無いので、
国公立大学については、大阪府出身?大阪府内の高校?からの合格者氏名を掲載していた記憶が有ります。
>>329
流石に 新夕刊 ってのは知りません。
>テンポイントの闘病生活のころは、壁新聞も消えていました
この頃は、まだ地下鉄梅田駅−阪神梅田駅の間の地下スペースには、壁新聞が存在していたと思います。
壁新聞は、キタやミナミのソープランドと同時に、APECアジア太平洋経済協力1995年大阪開催の頃に駆逐された━━のでは?
>>330
当間騎手は、山口瞳『 草競馬流浪記 』園田編に、チラッと名前が出るくらいで、
しっかりした文献では目にしない騎手でしたね。
同書の姫路−紀三井寺編では、氏が姫路競馬場を訪れた前日に生野秀行という若手騎手の落馬が言及されていますが、
この騎手も余り 目にしない騎手ですね。
━━儂が知らないだけかも・・・・・
1976年
春の目黒記念・4番人気・3着
ダイヤモンド・ステークス・2番人気・2着
アルゼンチン共和国杯・2番人気・2着のオウプレスとは、どのような馬だったのでしょうか?
教えて頂けると幸いです。