◆懐かしの名馬・名勝負スレ16◆
歴代の名馬・名勝負をまったりと語るスレです。
(競馬に関する事なら何でもOK!まったりと語ること)
※過去・現在の名馬を比較しての最強論争は極力お避け下さい。
前スレ
◆懐かしの名馬・名勝負スレ15◆
https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/uma/1419611622/ ツクモオダマキは新聞紙上で、次回開催の有力新馬で紹介されていました。
それが出馬を見ればボールドエイカンですからね
改名の理由も>>191氏の通りであったと記憶しています。
種牡馬として引退、種牡馬試験不合格(かどうか怪しいですが)
草競馬のスーパースターと、話題の多かった駿馬でした。
持込みでしたが、ニジンスキーの仔が新聞紙上をにぎわしたこともあります
明和が繁殖ともども輸入して、生まれたのが牡馬ということで
その名もメイワスキーと名付けられ(る予定)でしたが
競走馬デビューの時には、ニジンスキースターと
凄い名前で出てきました。 >>194
レスありがとうございます
タニノチカラは京都でしたか。失礼しました
松本騎手は、あの一戦から主戦になったと思います
有馬記念でシンザンが回ってきたり、少しは報われた騎手人生でしたね
秋の東京と同じように、春の阪神でも豪華なオープンレースがありました
タマホープ、トウメイ、ジュピックなどの出たレース
ハマノパレードとオンワードガイを、内から洋一メトロオーカンが急襲した年
ロングホークとトウフクセダンの年など
現在はGTや重賞も増え、有力馬がかなり分散します
当時と今の最も違う点の一つでしょうね ニチドウタローはオープンをレコード勝ちして
10日後の天皇賞も阪神でしたがレコード勝ち
イシノヒカルは道悪なのでレコードとはいきませんが
オープンと9日後の菊花賞を勝ちました。 >>このオープン、桜花賞の前日辺りに実施されていたレースですね。
春の天皇賞に向けての一叩きとして、実力馬の出走が多いレースでした。 >>198
メトロオーカンは、桜花賞当日の最終レースでした
タケシバオーは、桜花賞前日の土曜だったと思います
タケシバオー、リキエイカン、ニチドウタローなどは
オープンを強い競馬で独走して、天皇賞につなげました コーネルランサーがレコード勝ちした、ひいらぎ賞
あのレースは確か3歳500万級でしたね
3歳の2勝クラスの条件戦が、わずかな期間ありました
今は、2歳重賞が大幅に増え、1勝馬が大挙参戦する時代
隔世の感があります 昔の条件戦はクラス分けが非常に細かかった印象があります。
2歳重賞が多くなりすぎて、メンバーが逆に揃わなくなってしまったので、重賞勝ち馬といっても、
以前ほどの価値を感じなくなりました。 ひいらぎ賞 コーネルランサーの翌年の勝ち馬はカブラヤオー
2年連続でダービー馬を出したことになりますね
カブラヤオーは当時まだ1勝馬 格上挑戦だったわけで8番人気
このレースをぶっちぎって勝つことによりテスコガビー、マツフジエース(朝日杯)と
牝馬の活躍が目立っていた関東牡馬陣でこの馬が最強と印象付けました。
当日はハイセイコー引退狂騒真っ只中の中山だっただけに目撃者も多かったはずです。
関西の人たちがこの馬を認識するのはおそらく翌年のテスコガビーとの対決だったと思いますが >>204
所用で東京へ行ったとき、初めて東京競馬場に足を運んだのが
テスコガビーの京成杯でした
府中は直線が長く、コースの幅員も広いので
イシノマサルとのゴール前、どちらが勝ったのか判りづらかった記憶があります
準メインの条件特別は、のちに天皇賞馬になるフジノパーシア
当時はほんと、関東馬の層は厚かったですね
コーネルランサーと接戦したスルガスンプジョウに
同時期に強い勝ち方をしたインターグッド
このあたりがキタノカチドキのライバルになるのかなと思ってましたが
関東の下馬評では、カーネルシンボリが一番のようでしたね >>205
確かにあの年の関東総大将はカーネルシンボリという下馬評でしたが、
抜けたものは感じませんでしたね。
カチドキには敵わないだろうと思っていました。
もっともすべてが終わった今から考えるとカチドキの東上以降の調子下降を
除いても距離の融通性からダービー、菊花賞と逆転はあったかなと思います。
カーネルシンボリは2歳夏からトップを引っ張って来ていて、クラシック前に壊れました。
これは和田共弘氏に(のちのルドルフへの)とって大きな教訓になったと思います。
東西の両横綱が対戦するというのが1番キレイな形で実現したのがアロー、ムーティエ。
私にとってはTTGなんかよりはるかに盛り上がりましたが、2度とこういう形は実現しませんでした。
トウショウボーイVSテンポイントも初対決時は全国区のテンポイントにトウショウボーイは
関東の新星にすぎませんでした。
ヒシスピードVSリュウキコウは本番前に共倒れで本番も両方とも用なし。
サッカーボーイの東上初戦のときも関西の大将に関東馬がどう立ち向かうかという感じで
前走ミュゲロワイヤルに負けてるチヨノオーに大将感はありませんでした。
そのうち、馬も人も交流が激しくなりすぎて関東馬とか関西馬とか気にならなくなりました。
1番盛り上がる形だったんですけどね東西対決。
正直、今、馬の名前いわれてもすぐ関東馬か関西馬かわかりませんから。 キタノカチドキはダービーが惜しかったですね
前へ行ったり後ろへ下がったり内へ入ったり外へ出たり
武騎手が制御に苦労してました
コンディション調整が上手くいってなかったんでしょうけど
原因は厩務員ストだと思います
3週間延期された皐月賞を勝ったとはいえ
その時点でもう体調は狂っていたのではないでしょうか 当時はケガとかで3レースともまともに走れず2冠で終わる馬が多かったから、なおさらダービー3着が惜しいですね
負けた原因はストと単枠指定の大外を上手く乗れなかった
しかし直線の斜行は前にいたスリーヨークの内を行こうとしたように見えます
ロングエースのようにね
しかしスリーヨークがそこを閉めてしまい立て直すも間に合わず
何度もこのスレに書いてしまいましたが残念ですね、まあ調子が良ければ先行して直線入口で先頭に並んでいたでしょう しかし関西の騎手は東京コースはそんなに馴れてないから、当時の多頭数ダービーを上手く乗れないのも仕方ないんかな スリーヨークいましたねえ、曲者って感じの実力馬でした
稲部和久騎手は競馬ニホンの騎手座談会によく出ていました
あれは日曜のレースが終わってからなので騎手も早く帰りたいし
確保するのが大変だったようで、出ていた騎手は気のいい人たち スリーヨークは、春の天皇賞での落馬の印象が今も強いですね・・・
騎手座談会、かつての週報では毎週掲載されていましたが、騎手の本音が読めて面白かったですね。
調教師座談会もありました。 逃げ馬が好きだったな
特にツインターボ
名勝負はナリタブライアンとマヤノトップガンの一騎討ち 逃げ馬は交わされてから二の足を使う馬が好きだな。パッシングゴールとか。 パッシングゴールは、新田幸春渾身の逃げでしたね。
ヤマニンウェーブが差して来るとは思わなかったのでは? 新田幸春=松田幸春
舞原昌博=松永昌博
上野清彰=伊藤清彰
榎屋 忍=梅内 忍 テンメイが有名だけどヤマニンウエーブも天皇賞勝って阪神大賞典 >>216
これは失礼
人の名前を間違えてはいけませんね
上野騎手は不運な人でした >>218
伊藤修司氏、晩年は悲惨だった様ですもんね。
上野さんは須貝厩舎(彦三先生の方です)で助手をされていましたけど、現在は流石に隠居されたのかも。 >>219
伊藤さん晩年悲惨だったの?
去年亡くなったかサンスポトラックマンの古川さんの義弟だから全く縁者がいなかったわけでもないでしょうし…
古川さんの訃報はプロ野球創成期の選手として書かれていましたね >>220
プロ野球の第一回東西対抗オールスター戦のメンバーに
「古川清蔵」の名があるので、ずっと気になっていましたが
やはり同一人物でしたか
8大競走前日には関テレで特集番組があって
古川さんと大坪さん、それに時々関東から大川さんが出演していました >>221
サンスポトラックマンの時代でも、元プロ野球選手というのは有名だったはずですよ
プロ野球板の長命スレでもほぼ筆頭に古川さんの名前あり、最近まで何年か一度はプロ野球創成期の取材を受けられて、存命確認!と書かれてましたね
最晩年までご壮健だったようで、独特の喋りが思い出されます 伊藤修司師は莫大な借金を作っておられて
清章騎手は進上金を取り上げられてたという噂でしたね
これは想像ですが大馬主の連帯保証をされたのでは…
調教師引退後は予想業者の看板になられたりして
最後はどこかでのたれ死にされたと聞きましたが >>223
伊藤修司、伊藤雄二。
この二大巨塔(伊藤姓の二人)の明暗、晩年でハッキリと分かれましたよね。 >>223
確か、自ら命を絶たれたのではなかったかと思います。
伊藤師は、父親の代から続いて大馬主の馬を預かる事が多かったですから、その中で、
本業が傾いた馬主との付き合いで、借金や馬の代金を断れなかったなど、色々あったのかも
知れません。
歴史に名を残した調教師としては、あまりに悲惨な最期だと言わざるを得ません。
伊藤雄二師は、笹田調教師という後継者が出来ましたが、伊藤修司師は、伊藤清騎手は離婚して
上野姓に戻りましたし、後継者が作れずに終わったのが残念です。 >>223
確か、自ら命を絶たれたのではなかったかと思います。
伊藤師は、父親の代から続いて大馬主の馬を預かる事が多かったですから、その中で、
本業が傾いた馬主との付き合いで、借金や馬の代金を断れなかったなど、色々あったのかも
知れません。
歴史に名を残した調教師としては、あまりに悲惨な最期だと言わざるを得ません。
伊藤雄二師は、笹田調教師という後継者が出来ましたが、伊藤修司師は、伊藤清騎手は離婚して
上野姓に戻りましたし、後継者が作れずに終わったのが残念です。 >>225
伊藤修司厩舎に居たスタッフ、殆どは鮫島一歩厩舎にスライドしていた筈ですよ。
寺井さん(グランドマーチスの主戦騎手)、松田幸春さんは在籍していましたし。 ヤマニンウエーブと似た臨戦過程だと気付いてホクトボーイの単勝取ったのは良い思い出 42 名前:古川清蔵氏96歳生存確認[age] 投稿日:2018/08/12(日) 01:53:54.57 ID:wSV3Kwri
>>41
> AS選出3回以上/主要タイトル獲得/監督経験者/他
> 1913年度 浅岡三郎
> 1917年度
> 1918年度 松尾幸造
> 1919年度
> 1920年度 木村勉
> 1921年度 古川清蔵→本塁打王2回獲得今日テレビ出演で生存確認96歳
BS1 スペシャル 戦火を駆け抜けた男たちのプレイボール
終戦からわずか3ヶ月の昭和20年11月23日
戦後初のプロ野球試合
東西対抗戦に出ていた選手だった
44 名前:神様仏様名無し様[sage] 投稿日:2018/08/12(日) 20:45:38.47 ID:yx6KDHQq
古川清蔵老は2年前あたりのNHK7時のニュースに出てた
262 名前:神様仏様名無し様[] 投稿日:2018/10/18(木) 05:30:53.53 ID:QHNlBVvH
プロ野球創成期の強打者、古川清蔵さん死去 96歳…老衰
https://www.sanspo.com/baseball/news/20181018/npb18101805010006-n1.html
264 名前:神様仏様名無し様[sage] 投稿日:2018/10/18(木) 10:21:38.82 ID:rYbqa559
このスレの生存者リストでお馴染みの古川氏みたいな感じだったな
合掌
265 名前:神様仏様名無し様[sage] 投稿日:2018/10/18(木) 19:19:55.23 ID:eqxnnPlx
古川氏や岩本義行氏や西本御大は
まさに天命を全うするみたいな安らかな死に方のイメージだな
268 名前:神様仏様名無し様[sage] 投稿日:2018/10/19(金) 16:41:40.85 ID:TfzoKuUd
中日OBとしての訃報も遅ればせながら
元中日・古川清蔵さん、死去 1942年延長28回伝説の一戦で戦った男
http://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/dragons/news/201810/CK2018101902000115.html
281 名前:神様仏様名無し様[] 投稿日:2018/10/20(土) 11:11:17.50 ID:M/kKw+JX
古川清蔵氏の訃報を見て来たものの、スタンカばっか
394 名前:神様仏様名無し様[] 投稿日:2018/11/10(土) 12:14:11.05 ID:k59aEtqn [1/2]
古川清蔵の死亡記事見ると戦前のプロ野球最後の生き残りみたいに書かれてた 古川さんあの時代に1400安打ってスゴいな
今の時代なら2千本打ってもおかしくないしホームラン王獲ってるからプロ野球史に残る人なんだね
まさに大往生。
伊藤さんの最晩年は詳しくはタブーなのかわからなそうだね
お金は相当稼いだはずなのに残念なことです 道営の名手佐々木一夫騎手 (調教師) も縊死されました 大金が動く世界はいろいろあるんですね
貧乏人にはわかりませんね 競馬評論家の宮城昌康氏も、メディアによく露出していましたが
突然見なくなりました
一部で黒い噂もありましたが、あれだけメディアに出ていた人にもかかわらず
誰も話題にしなかったですね 競馬評論家で、借金のせいかいつの間にか居なくなった人は結構居る気がします。
難しい世界ですね。 >>233
彼の長女が嫁いだ相手、中舘英二というのも面白い処ではあります。 >>226
マツクニさんは伊藤修二厩舎で調教助手をしていたし、その意味では
友道、角井、高野さんは伊藤一門といえるのでは? >>236
なるほど、松田国師は確かに伊藤修司師の下で調教助手やってましたね。
その後、山内師の所に移動してから調教師になっていますが、そういう意味では門下生と言えますね。 正月京都の1R未勝利戦は、出世レースといわれた時期がありました
ニホンピロムーテーやハマノパレードなどがそうだったと記憶しています
今年はどうでしょうか 福寿草特別でヘリオスが逃げていて、何か嬉しくなりました? >>239
秋の枯芝京都記念?の思い出があります
そして最終レースはケイガ速歩 重賞という言葉は昭和29年に佐藤正人氏が作りました。 以前は東で京成杯、西でシンザン記念
東でAJC杯、西で日経新春杯って対になる重賞を同日にやっていたけど
気がつけば東西の金杯くらいしか残ってないなと昨日思いました その金杯にしても、今は距離が違いますしね。
東西間がフォッサマグナのように別れていた頃は、むしろそうじゃないといけなかったんでしょうが。 金杯はもともと正月開催の最終日に行われていたんですが
西の金杯は日経新春杯に名前が変わりました
東ではAJCCが出来て金杯は初日に移り
西では初日のニューイヤーSを迎春賞と改めて重賞に格上げし
昭和41年から東と同じ金杯という名にしたという経過です
重賞ではありませんがアラブの銀杯というのもありましたね 昭和44年までカップの金杯ではなくサカズキの金盃ですね。
3日にやってたのは昭和43年まで。
この頃からもう競馬ブームということが言われていて
正月には中央競馬をやるなという指導が入ったんだと思います。 尾形厩舎のフイニイ、翌年のミノル
ともに秋から関西に滞在していました
日経新春杯の頃までいたかな。当時としては珍しいケースでしたね 失礼。ミノルはフイニイの2年後でした
伊藤修司師が一門だったから、そこに入厩していたのかな ミノルとフイニイはいつも帯同していましたよ
名義は尾形厩舎でしたが
実際は元騎手の山内与吉厩務員が九州在住の馬主さんのお抱え調教師で
馬主さんが観戦しやすいように関西に来ていたんです 失礼、間違えてました
山内与吉氏はタカエノカオリです
ミノルとフイニイを管理していたのは吉村嘉吉氏で
馬主さんの九州の地方競馬でのお抱え騎手でした >>251
フイニイやミノルの滞在先は、伊藤雄二厩舎かなと思っていました。
そう言えば、フイニイが勝った万葉S、今も正月に淀の3000mで行われていますが、ダービー前の
むらさき賞と同じく、長年条件が変わらない特別として、貴重な存在かも知れません。 >>252
ありがとうございます
>>253
フイニイは菊花賞を取消したあと、関西で走ったのは
京都記念、阪神大賞典、金盃、日経新春杯の四つです
5歳の秋は、ハリウッドターフクラブ賞と京阪杯 >>214
この天皇賞で1番人気だったキームスヴィミー、パッシングゴールは
ともにヴィミーの産駒だった。
ヴィミーはキングジョージ&クイーンエリザベスSなどを勝った名馬だが、
気性が悪く「きちがい馬」と言われ、地元のフランス人は
「日本人は勇敢だ。あのヴィミーを買ってきてどんどん付けている」
と驚いていたそうだ。 >>254
フイニイが万葉Sを走ったのは、旧7歳(70年)の正月ですね。
この時は、オープンと万葉Sを使って2勝してますが、保田騎手とのコンビはこれが最後になりました。 >>256
京都で2走して一旦東京へ戻り、春の天皇賞でまた西下してるんですね
秋には天皇賞のあと、また阪神大賞典
確かダイアモンドSがラストランだったと思いますが
長距離戦は、たとえ苦手の道悪でもすべて堅実に走り切りましたね 明後日、名古屋の新春ペガサスカップにゴールドウエイという馬が出ます。
特に追い込み馬ではなさそうですがw
毎日王冠の差し切りは忘れられません。 大川慶次郎さんと盛山アナウンサーが浮かびます、この毎日王冠。 今日の京都メインは、1着が8歳、3着が9歳馬
昔に比べると格段に高齢馬が活躍できる時代ですね
ゴールドイーグルとロイヤルスプリンタの8歳馬2頭で決まったマイラーズC
当時はかなり話題になりましたが
今の表記だと7歳馬2頭ですから、そう珍しくも感じられませんね https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/keiba/1548321066/l50
上記スレから誘導を受けてまいりました
時々覗きますのでよろしくお願いします
キタノカチドキ、二ホンピロセダン、二ホンピロスイセイ、フジオックス、マサエイカン、二ホンピロリーダー
二ホンピロエバート、ナルタキサンダー、二ホンピロカホウ、リキタイコー、二ホンピロエイカン、ターボー
服部厩舎の馬を追っかけていました キタノカチドキ、イットー、タニノチカラで決まったマイラーズカップは阪神競馬場で見ていました。
カブラヤオーが勝った皐月賞の日で武邦彦騎手はロングホークに乗りに中山に行っていました。
カチドキの鞍上はデビュー3年目の田島信行騎手でしたが最も強く印象に残っているレースです。 武邦彦騎手のお兄さんの武輝彦氏はJRAの職員で
渋谷にあったプラザエクウスの館長をされてました 武輝彦氏には広報室長だったころ新橋でお会いしたことがあります
いくら応募しても電話投票に当たらないといったらその場で申込用紙をくださいました
ルール違反ですがもう時効ですね >>262
このレースはテレビで見た記憶がありますが、この時点でタニノチカラは脚部不安があって、その前の
オープンでどちらか一方の馬と対戦する筈が、結局出走しなかった様に思います。 しかしここへ来られる方の年代はどれくらいでしょう?
私は70歳ですがひょっとしてここでは洟垂れ小僧かなと >>265
タニノチカラは有馬記念の後京都記念を大差で逃げ切り
3月のオープンでは河内騎手でイットーとの一騎打ちに勝利しています。
マイラーズカップが最後のレースとなりましたので脚部不安の兆候が出始めていた可能性はありますね。
前週には二ホンピロセダンが天皇賞の叩き台に使ったオープンがありましたがそこからスライドしたという記憶はありません。
いずれにしても当時の関西古馬2強とのちに名牝と称えられる名馬の巴戦を見れたことはこの上ない財産になりました。
ちなみに斤量はカチドキ60キロ、イットー52キロ、タニノチカラは61キロでした。 >>266
おそらく年長者の部類に入られると思います
ずっと、スレの話題の多くが
昭和45年〜55、56年ぐらいの馬や人に関するものですから
現在60代、それも後半の人が圧倒的に多いのではと推測しています
中にはメイズイやシンザン以前の話をレスされる年配の方もおられますが
貴重な話題として聞かせていただいています >>266
私は今年還暦を迎えます。
中学生の頃からテレビで競馬を見始め、ハイセイコーブームで完全にはまりました。
高校の頃に週刊「馬」がペーパーオーナーズゲームをはじめて
勝ち馬の写真を贈呈してくれる企画がありしばしば拙文を投稿していました。
その流れで大学に入ってからは池袋の喫茶店であったアベコーさんや井崎周五郎らとの集まりにも参加していました。
馬券を買うようになったのは大学生になってからで最初に大勝ちしたのはカツラノハイセイコのですね。 >訂正、カツラノハイセイコが勝ったダービーでした
相手筆頭に4歳中距離特別を勝って挑戦してきた
嶋田功騎乗のリンドプルバンを狙い枠連と単勝仕留めました。
リンドプルバンはテルテンリュウの斜行で大きな不利を受けハナ差届かず気の毒でしたが
ハイセイコーの産駒がダービー馬になり感無量でした。 >>261
旧四歳クラシックは、キタノカチドキ世代1974年から見ているので、
キタノカチドキは、その名前の響きの良さと共に強く印象付けられました。
その翌年の菊花賞の前日、サンテレビ( 神戸在住でした )の競馬中継で、
前年の菊花賞のレースが放映され、小崎アナが「 予定通りの勝利 」と実況、
それを受けて、飛鳥井アナが「 今年( コクサイプリンスが優勝 )は予定通りの馬はいないですね 」と語っていたのを何故か憶えています。
>>271
昭和50年ですね。春はカブラヤオー、テスコガビーの両2冠馬が華々しい活躍をしていましたが
秋はリタイヤしたためあまり印象に残っていません。
菊花賞ではヤマゼントップが1コーナーで馬鹿ついて逸走し落馬したシーンはよく覚えています。
ロングホークとファスト、イシノアラシとマサル、エリモジョージ、ハーバーヤング
脇役も多士済々で個性的な馬が多かったと思います。
KBS制作の競馬中継は私も見ていました。ラジオの競馬展望もよく聴いていました。
解説は競馬ブックの中西勉、山田一雄、松本晴夫、内炭重夫、坂本日出男さんらでしたね。 カブラヤオー世代はTTG世代と比べると地味ですが、
ファバージ、フォルティノと当時日本に数少ない世界で通用しそうな種牡馬の産駒の
デビュー年で新馬が始まるのがとても楽しみでした。
当時は血統に興味のある人間なんて少なくてサクライワイがオークスで1番人気になる時代でしたが…。
期待通り夏の北海道でホシボージ、ロングフアストが活躍しましたが、当初期待していたような大物は出なかったですかね。
なにげにこの年はエリモシブレー、ニジンスキー産駒のニジンスキースター、ササフラ産駒のホクエイワンとかいて
血統的には結構派手。
今から考えると面白いですが、ノーザンダンサー産駒で母系も良血のエリモシブレーより、ニジンスキースターの方が
世間的な注目度は上でしたかね。 >>273
私も血統には大いに興味を持ち山野浩一氏、白井透氏などの書物を読み漁りました。
ファバージはテスコボーイ、バーバーに続いて導入され
日本で大成功を収めたプリンスリーギフト系の直仔で
凱旋門賞馬ラインゴールドを輩出していましたから「真打ち登場!」とワクワクしました。
おっしゃる通り当時はマタドア、ミンシオ、サウンドトラックなどの早熟で3歳戦を席巻した
短距離血統馬がクラシックでも過剰に人気するので蹴跳ばす妙味がありましたね。 1973年に変動相場制となりマ動相場制となり輸入自由化も進み良血の外国産馬が入って来ました。
同時に父内国産馬の奨励金が(母内国産も)手厚くなり
限定重賞も定着してシンザン、ダイコーターなどの産駒が増え活躍しました。
この年はタニノムーティエの初年度産駒タニノサイアスが桜花賞でテスコガビーの4着に入り注目されました。
翌年はアローエクスプレスの産駒がデビューしテイタニアが桜花賞に勝ちその後も息長く活躍馬度出しました。 ファバージは大成功、フォルティノも成功した部類でしょうけど、>>274さんのような、そういう期待とは微妙にズレた結果に感じたのは私だけでしょうか?
ビクトリアクラウンとハードバージは相当強かったけどピークが短かったのが残念です。 >>276
ファバージは3歳リーディングも獲りましたしコンスタントに活躍馬を出しましたから成功の部類だと思います。
しかしながら本国でラインゴールドやゲイルーザック、チャンピオンSを勝ったジャコメッティを輩出していたことや、
同じプリンスリーギフトの直仔で既にランドプリンスやキタノカチドキを出していたテスコボーイとの比較から
過度な期待を受け(その後のテスコボーイの大成功もあり)物足りなく感じた人も多かったと思われます。
ちなみに私がファバージの産駒で最も期待したのはギャラントダンサーの弟のバリシニコフでした。
話は逸れますが個人的に導入時の「ワクワクするような」期待感でいうと、
タイプは全く違いますが同じく高齢で輸入されたセントクレスピンも期待が大きかったですね。
フォルティノは期待外れかもしれませんが大好きだったシービークロスを出してくれましたから満足です。(笑) 種牡馬が成功したかどうかは
事前の評判や期待と比べてどうだったかのイメージ評価が多いように思います
名前の出たフォルティノは、かなり前評判が高かったし
セダンなどは、当時の日本でトップ級だったネヴァービートよりはるかに大物
そういわれていました
内国産の方は厚遇されない時代でしたが
時折活躍する馬が出ると嬉しかったですね
リュウファーロスは、アンドレアモン、ロバリアアモンと
関東でダート戦の強い馬を出しました
カブラヤオーからは、ヒテツという馬が出たのを思い出しました >>278
>種牡馬が成功したかどうかは
>事前の評判や期待と比べてどうだったかのイメージ評価が多いように思います
その通りでそれに尽きると思います
逆に評判倒れだったに終わった種牡馬の方が多いですよね。
大コケした馬として思い出すところでは米2冠馬カウアイキング、凱旋門賞馬プリンスロイヤル
少し新しくなりますが、何と言っても英愛ダービーなどGT5勝の年度代表馬グランディですね。 日本を 「種牡馬の墓場」 と呼んだのは
グランディの輸出についての記事だったと思います
スポーティング・ライフの 「ジャック・ローガンの月曜評論」でしたか
日本に行くとその血が欧米競馬社会に戻って来ない
そこで終わりだという意見が当然と思われていた時代でした リュウファーロスの仔ではリュウキコウが阪神3歳S、きさらぎ賞に勝って昭和52年のクラシックに乗りました
息長く活躍し古馬になっても京都大賞典と目黒記念を連勝してテンメイが勝った天皇賞では1番人気になりました
関西ではファンの多かった馬です
昭和50年ごろはダービー出走馬28頭中20頭ぐらいが違う種牡馬の産駒でした。
それぞれ個性があって血統の勉強もし甲斐がありましたね。 グランディは初年度のハギノトップレディをわざわざ英国に運んで付けさせたんですよね。
どうせなら声価の定まった超一流つければいいのに、と思ってしまう。
サンプリンスやラインゴールドも残念なクチ。 グランディは競馬会が供用した馬でしたので九州に流れて行って最期を遂げました。
欧州に返すべきでしたね。
円が強くなってグランディ、ジェネラス、 クリスタルパレス、ファーディナンドなどの大物種牡馬が輸入されるも
日本で大成せずジャパンマネーに皮肉を込めて「名馬の墓場」といわれました時代がありました。 「日本は名馬の墓場」というフレーズは欧米では昔から言われていたようですが
日本ではJCが開催される頃からクローズアップされるようになったと記憶しています。
一流の競争成績を残した種牡馬が日本に適合せず成功しなかったことよりも
輸入馬偏重で内国産種牡馬を冷遇するあまりサイアーラインを繋ぐことが出来ない
当時の状況を指したものだと思います。 グランディ、ジェネラス、ファーディナンドは
向こうで失敗したので日本に来た馬たちですね。 ハードリドンは本国での実績があり輸入前にも持ち込みの活躍馬を多数出していたので
デビュー前から期待が大きかったですね。
初年度からダービー馬ロングエースを出しました。
リニアクインはレベルの高かった世代のオークスを勝ちました。
アイノクレスピンを3馬身ちぎり、勝ちタイムもダービーより早く
ダービーに出ていても勝てた、と言われました。
個人的にはキタノカチドキの僚馬で故障に泣いた二ホンピロスイセイが残念でなりません。 英ダービー馬らしく2400に特化した感じでダービーやオークスでの強さは格別でした。
ハードリドンの父ハードソースはスプリンターだったようですが。 ハードリドンの孫ハードツービートが、仏ダービーを制したのを見て
日本でも、つながっていきそうな血脈かと思いましたが
ロングエース→テルテンリュウで、止まってしまいました
当時の内国産で父系を強く引き継ぐ土壌があったのは
メジロ牧場ぐらいではないでしょうか 〇〇ハードリって馬いましたね
〇〇パーソだとか
変な所で切るのやめてくれよと思ったものです ハードりドンは自身が2000ギニーの勝ち馬ですし本国に残した産駒は短距離系でした。
日本では早くから持ち込みのアスカやハードイットなどが長距離でも活躍していましたね。
70年代に大成功した種牡馬の一頭だと思います。
やはりクラシックディスタンスで活躍した馬の方が印象が強いですね。 >>292
サーペンフロの産駒がサーペンで切られる事案
結構いたね
サーペンプリンス、サーペンアップ、マルブツサーペンなどなど