◆懐かしの名馬・名勝負スレ16◆
歴代の名馬・名勝負をまったりと語るスレです。
(競馬に関する事なら何でもOK!まったりと語ること)
※過去・現在の名馬を比較しての最強論争は極力お避け下さい。
前スレ
◆懐かしの名馬・名勝負スレ15◆
https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/uma/1419611622/ >>146 自己レス
超よりってひどいですね。長距離の打ち間違いです。
補足しますと
私が考えるスピードタイプというのはスプリンターやマイラーではありません
距離の長短には関係なく、時計が速くなると強い馬のことです ヒンドスタンは確かに、輸入当初はマイラーと言われていたようです
パーソロンも、仕上がり早やの三歳血統という扱いでしたが
メジロアサマ辺りから、評価が一変しましたね
決めつけは出来ないけど、大まかな特性は確実にあると思います
テスコボーイなどは、ホクトボーイやインターグシケンがいなければ
マイラー寄り種牡馬の扱いだったでしょう パーソロンもテスコボーイも2400ですら長いと言われてましたね テスコボーイ系を残すためにもビッグアーサー,グランプリボスはいい子を出してほしい。 チャイナロックは不思議な種牡馬でした
自身は栗毛なのに産駒は鹿毛に出るとよく走る
栗毛ではメジロタイヨウくらいで オープンクラスの活躍馬は、種牡馬が東西にやや隔たりがありましたね
チャイナロックやパーソロンは、圧倒的に関東馬
ネヴァービートやシプリアニは、関西馬が多かった
ヒンドスタンやテスコボーイのようにリーディングを続けるような種牡馬は
さすがに東西まんべんなく活躍馬を出しました 直線の坂が関係あるんですかね
最後の一踏ん張りが効くか効かないか 地域によるんじゃないでしょうか
昔は各地に親分のような人がいましたから
水田から転向した生産者なんか販路をもっていませんから
離乳後は地域を仕切っている人の育成場に馬を贈ったので
特に三石より東は関東の調教師さんは行きたがらないですし パーソロンの仔はほとんど関西に入って来なかったな。活躍したのはダイアナソロン、アグネスホープくらいか。 アグネスホープ
大川が「これはダービー云々という馬じゃない」とかいってたな 海外の競馬小説を読むと、大富豪の馬主の息子が身を持ち崩して
幼い頃から馬に乗っていた経験を生かして調教師になるというケースがあるようです
自分が生まれ育ったお屋敷に住む馬主のためにそこの厩舎に住み込んでるとか
日本で身を落としたと言えば競馬評論家でしょうか
本来なら自分が馬主としてダービーを争うべき身分だった人たち
大川財閥の御曹司大川慶次郎氏と沖縄の王族宮城昌康氏 明治時代の競馬では、馬主自身が騎乗してレースに出た事がありますし、日本競馬会
になってからも、馬主が馬で身を持ち崩して、競馬会職員になった例もあります。 書き間違い。改めて
>>159
昔、関東で発売されていた「競馬新報」という競馬新聞は、総会屋で有名だった「上森子鉄」が社主でしたね。
一時期、日本競馬新聞協会会長でもありました。 上森子鉄がさっと出てくるとはたいしたもんです
知ってる方も少なくなりました ラジオ関東も上森さんだったような気がするんですよね
ウィキ読むと遠山社長の暴走なんて書かれてますけど
洋平さんが新自由クラブで散財して那須野牧場も売っちゃったし
ラジ関も売ったと記憶してるんですが
しょっちゅう労組がピケ張ったりして変な局だなと 上森氏自身は競馬好きだった様で、「競馬新報」も、採算度外視で出していたという話を聞いた事があります。
日本の戦後社会に色々関わった人ですが、その割には語られる事が少ない様に思いますね。
>>164
キネマ旬報の社主だったのは知ってますが、ラジオ関東は違う様な・・・ >>165
上森さんが太刀川恒夫さんに売ったのかなあ
洋平さんが誰かに売ったことは間違いないです 上森子鉄氏の名前が出たんで、
アウトローに近い人というコトで・・・・・
醍醐安之助氏
弟はダイゴホマレ<第25回日本ダービー優勝馬>の馬主−醍醐幸右衛門氏、
幸右衛門氏と共に、大井競馬の発展に尽し、東京都馬主会の会長を務めた。
長く大田区選出の東京都議会の議員に就き、議長職の座にも在った。
元々はテキヤ出身、旧東京二区選出の故新井将敬氏とも関係が深かった。
ヒカルメイジの新田新作氏も、元はと言えば新田組の組長でしたね。 >>166
太刀川恒夫氏は東京スポーツ会長ですね。
永田雅一氏の大映が傾いた際に永田氏が社主を務めていた東スポを買収しましたね。 関係ないですけど
昨日のサクソンウォーリアにガッカリ
オブライエンがとかムーアがとかいろんなグチが出ます
その昔、短波のラジオ中継でタケシバオーの2年連続惨敗を聞いたことを思い出しました このスレ的には新しい話になりますが、平成3年秋の天皇賞の時、南米のある国に出張で滞在していて、日本から
持って行った短波ラジオでラジオたんぱの周波数に合わせて、ようやく受信出来た微かな音が途切れ途切れに
なりながらも聴いていました。
スタートでは何とか受信出来ていたのに、「メジロマックイーン先頭」という実況を最後に受信出来なくなり、次に受信
出来た時には、「メジロマックイーンは失格になりました」と言うアナウンスが聴こえて、理解するのに時間が掛かった
のを思い出しました。今では、ネットで何処でも実況が聴ける様になり、まさに隔世の感があります。 短波ラジオというと
松屋の裏に行くと突然風景が変わってここが銀座?
空き地に打ってある杭に引っ掛けたラジオから競馬中継が聴こえてきて
浮浪者風のおじさんがたむろしてて
銀座場外の周辺ってそんな感じでした
プレイガイドビルの地下のミニ場外もありましたね タケシバオーのワシントンDCは最近になって
YouTubeでみました
サーアイヴァーと接触した場面も写ってました >>172
プレイガイドビル地下の銀座通り場外は、元のサービスセンターですね。 ワシントンDCといえば大惨敗ばかりだったな。
ローレルの「牧草地みたい」と言われた馬場が合わなかったのか、当時の日本馬のレベルが
低かったのか。 >>175
低湿地だから単純にパワーが要るんですよね
日本馬はスタートから1マイルまでは馬群についていくけど
最後の半マイルは1完歩の歩幅が狭くなって徐々に遅れる
マラソンでこぼれていく選手みたいに
要は日本馬に最も向いてない競馬場ですよ
あの頃栄養価の高い外麦が入ってきて外麦食わすと太るから
飼葉は8升を5升にしろなんて真面目に言ってたんですから
外麦8升食わして太らん調教しろよと思ったものです まああのパワーの権化みたいなタケシバオーで駄目だったんだから、当時のどの馬でも無理だったでしょうね 第一関節まで隠れるぐらい深い芝だと言ってましたね
賞金王のケルソが勝ったときは、2分23秒台でしたが
さすがにあのときは、もっと走りやすい馬場だったと思います
そのレースで大差シンガリのリュウフォーレルも、一応タイムは自己ベストでした >>172
>>174
学生時代<昭和>、目黒区緑が丘に住んでいて、
函館−札幌のレースを買いに、
愛車 pop-gal で銀座まで何度か行ったなぁ・・・・・
千円単位の発売で、単勝複勝だけ買っていた。
( 後楽園でも発売していたけど、そこに行く発想は無かった )
お客さんも数える程しかいなかったなぁ・・・・・
帰りは、向かいの伊東屋で文具を見て帰るというのが常だった。
>>179
狭くて入場者数を絞る必要があるので、千円単位の発売にせざるを得なかったんでしょうね。 フォーレルはどこか不具合があっての出走だったと記憶しています
タケシバの二年のどちらかは風邪上がりでした 大井の能検でスカーレットリボンが合格
父親がヴァーミリアンだから父の祖母の姉と同名
竹原が桜花賞で1番人気という平成最後の現在では考えられない昭和最後の桜花賞 昭和最後の名勝負タマモクロスvsオグリキャップ
みたいな平成最後の名勝負がみれるか? 前にも出ましたが、毎年この時期になると
東京開催の平場オープンが、豪華メンバーになったのを思い出します
ヤマブキオーとハイセイコー
タニノチカラとロングワン
テンポイントとロングホーク
ホクトボーイとカシュウチカラ
天皇賞勝ち抜けの時代で、有馬記念へのちょうどいいローテーションのせいですか
ホクトボーイの年は、忘れたけど他にもいい馬が出ていたと思います 今日になってなぜか思い出しました
タマミほどテンの3ハロンが速い馬はかつて存在せず
タニノムーディエほど上がりの3ハロンが速い馬はいなかった
そう言われていました いきなり質問で申し訳ないのですが
昔の優駿でマル外の特集が組まれていたことがあって
関西馬でマル外で改名がうけて
人気になった馬がいたと書かれてました。
優駿は処分してしまったのでその馬が何だったか思い出せません。
お分かり方がいたら教えて頂けないでしょうか >>188
当たっているかどうか、思い当たるのは
ツクモオダマキ→ボールドエイカンですね
内藤厩舎で、僚馬に同じ外国産のレッドルーラーがいました
カツラノハイセイコの世代です ツクモオダマキという情趣のある馬名がなぜ
ボールドエーカンなんて平凡な馬名になっちゃったのか…… >>190
外国産馬に相応しくないから...とかそんな類の理由だったと記憶しています
当時は外国産馬と言えばスピードで内国産馬を圧倒する事が多く、馬名も
ギャラントダンサー、スピリットスワプス、マルゼンスキー等
(マルゼンスキーは外国産馬ではありませんでしたが...)、馬名も
如何にも外国産馬と思わせるものが多かったですから >>189
ありがとうございます。
ボールドエイカンという名前のようだった気がします。
記憶があやふやなのではっきりとしたことを申せないのが歯がゆいですが
助かりました。 >>192
どういたしまして
ボールドエイカンとレッドルーラーが一緒に出た
冬の京都の4歳戦は面白かったですよ
ボールドエイカンはだめでしたが、レッドルーラーは3着
1、2、4着が、カツラノハイセイコ、テルテンリュウ、ホースメンテスコ
のちにすべてタイトルホースになる豪華メンバーでした >>193
このレース、微かに記憶がありますが、豪華なメンバーでした。カツラノハイセイコは、レッドルーラーに乗った
福永洋一騎手に代わって、このレースから松本善登騎手が主戦になったんでしたっけ?
>>186
ヤマブキオーとハイセイコーのオープンは、他にもタケホープ・ストロングエイト・ディクタボーイ・メジロスイセイが
出ていて、下手な重賞よりもメンバーが揃ってましたね。
テンポイントとロングホークは、まさに一騎打ちでした。これらのレースが、土曜日の特別戦の前に行われたの
ですから、何とも豪華ですよね。
タニノチカラ・ロングワンは、京都のオープンだった様な記憶が。新人の頃の河内騎手が乗って勝ったレースでした。 ツクモオダマキは新聞紙上で、次回開催の有力新馬で紹介されていました。
それが出馬を見ればボールドエイカンですからね
改名の理由も>>191氏の通りであったと記憶しています。
種牡馬として引退、種牡馬試験不合格(かどうか怪しいですが)
草競馬のスーパースターと、話題の多かった駿馬でした。
持込みでしたが、ニジンスキーの仔が新聞紙上をにぎわしたこともあります
明和が繁殖ともども輸入して、生まれたのが牡馬ということで
その名もメイワスキーと名付けられ(る予定)でしたが
競走馬デビューの時には、ニジンスキースターと
凄い名前で出てきました。 >>194
レスありがとうございます
タニノチカラは京都でしたか。失礼しました
松本騎手は、あの一戦から主戦になったと思います
有馬記念でシンザンが回ってきたり、少しは報われた騎手人生でしたね
秋の東京と同じように、春の阪神でも豪華なオープンレースがありました
タマホープ、トウメイ、ジュピックなどの出たレース
ハマノパレードとオンワードガイを、内から洋一メトロオーカンが急襲した年
ロングホークとトウフクセダンの年など
現在はGTや重賞も増え、有力馬がかなり分散します
当時と今の最も違う点の一つでしょうね ニチドウタローはオープンをレコード勝ちして
10日後の天皇賞も阪神でしたがレコード勝ち
イシノヒカルは道悪なのでレコードとはいきませんが
オープンと9日後の菊花賞を勝ちました。 >>このオープン、桜花賞の前日辺りに実施されていたレースですね。
春の天皇賞に向けての一叩きとして、実力馬の出走が多いレースでした。 >>198
メトロオーカンは、桜花賞当日の最終レースでした
タケシバオーは、桜花賞前日の土曜だったと思います
タケシバオー、リキエイカン、ニチドウタローなどは
オープンを強い競馬で独走して、天皇賞につなげました コーネルランサーがレコード勝ちした、ひいらぎ賞
あのレースは確か3歳500万級でしたね
3歳の2勝クラスの条件戦が、わずかな期間ありました
今は、2歳重賞が大幅に増え、1勝馬が大挙参戦する時代
隔世の感があります 昔の条件戦はクラス分けが非常に細かかった印象があります。
2歳重賞が多くなりすぎて、メンバーが逆に揃わなくなってしまったので、重賞勝ち馬といっても、
以前ほどの価値を感じなくなりました。 ひいらぎ賞 コーネルランサーの翌年の勝ち馬はカブラヤオー
2年連続でダービー馬を出したことになりますね
カブラヤオーは当時まだ1勝馬 格上挑戦だったわけで8番人気
このレースをぶっちぎって勝つことによりテスコガビー、マツフジエース(朝日杯)と
牝馬の活躍が目立っていた関東牡馬陣でこの馬が最強と印象付けました。
当日はハイセイコー引退狂騒真っ只中の中山だっただけに目撃者も多かったはずです。
関西の人たちがこの馬を認識するのはおそらく翌年のテスコガビーとの対決だったと思いますが >>204
所用で東京へ行ったとき、初めて東京競馬場に足を運んだのが
テスコガビーの京成杯でした
府中は直線が長く、コースの幅員も広いので
イシノマサルとのゴール前、どちらが勝ったのか判りづらかった記憶があります
準メインの条件特別は、のちに天皇賞馬になるフジノパーシア
当時はほんと、関東馬の層は厚かったですね
コーネルランサーと接戦したスルガスンプジョウに
同時期に強い勝ち方をしたインターグッド
このあたりがキタノカチドキのライバルになるのかなと思ってましたが
関東の下馬評では、カーネルシンボリが一番のようでしたね >>205
確かにあの年の関東総大将はカーネルシンボリという下馬評でしたが、
抜けたものは感じませんでしたね。
カチドキには敵わないだろうと思っていました。
もっともすべてが終わった今から考えるとカチドキの東上以降の調子下降を
除いても距離の融通性からダービー、菊花賞と逆転はあったかなと思います。
カーネルシンボリは2歳夏からトップを引っ張って来ていて、クラシック前に壊れました。
これは和田共弘氏に(のちのルドルフへの)とって大きな教訓になったと思います。
東西の両横綱が対戦するというのが1番キレイな形で実現したのがアロー、ムーティエ。
私にとってはTTGなんかよりはるかに盛り上がりましたが、2度とこういう形は実現しませんでした。
トウショウボーイVSテンポイントも初対決時は全国区のテンポイントにトウショウボーイは
関東の新星にすぎませんでした。
ヒシスピードVSリュウキコウは本番前に共倒れで本番も両方とも用なし。
サッカーボーイの東上初戦のときも関西の大将に関東馬がどう立ち向かうかという感じで
前走ミュゲロワイヤルに負けてるチヨノオーに大将感はありませんでした。
そのうち、馬も人も交流が激しくなりすぎて関東馬とか関西馬とか気にならなくなりました。
1番盛り上がる形だったんですけどね東西対決。
正直、今、馬の名前いわれてもすぐ関東馬か関西馬かわかりませんから。 キタノカチドキはダービーが惜しかったですね
前へ行ったり後ろへ下がったり内へ入ったり外へ出たり
武騎手が制御に苦労してました
コンディション調整が上手くいってなかったんでしょうけど
原因は厩務員ストだと思います
3週間延期された皐月賞を勝ったとはいえ
その時点でもう体調は狂っていたのではないでしょうか 当時はケガとかで3レースともまともに走れず2冠で終わる馬が多かったから、なおさらダービー3着が惜しいですね
負けた原因はストと単枠指定の大外を上手く乗れなかった
しかし直線の斜行は前にいたスリーヨークの内を行こうとしたように見えます
ロングエースのようにね
しかしスリーヨークがそこを閉めてしまい立て直すも間に合わず
何度もこのスレに書いてしまいましたが残念ですね、まあ調子が良ければ先行して直線入口で先頭に並んでいたでしょう しかし関西の騎手は東京コースはそんなに馴れてないから、当時の多頭数ダービーを上手く乗れないのも仕方ないんかな スリーヨークいましたねえ、曲者って感じの実力馬でした
稲部和久騎手は競馬ニホンの騎手座談会によく出ていました
あれは日曜のレースが終わってからなので騎手も早く帰りたいし
確保するのが大変だったようで、出ていた騎手は気のいい人たち スリーヨークは、春の天皇賞での落馬の印象が今も強いですね・・・
騎手座談会、かつての週報では毎週掲載されていましたが、騎手の本音が読めて面白かったですね。
調教師座談会もありました。 逃げ馬が好きだったな
特にツインターボ
名勝負はナリタブライアンとマヤノトップガンの一騎討ち 逃げ馬は交わされてから二の足を使う馬が好きだな。パッシングゴールとか。 パッシングゴールは、新田幸春渾身の逃げでしたね。
ヤマニンウェーブが差して来るとは思わなかったのでは? 新田幸春=松田幸春
舞原昌博=松永昌博
上野清彰=伊藤清彰
榎屋 忍=梅内 忍 テンメイが有名だけどヤマニンウエーブも天皇賞勝って阪神大賞典 >>216
これは失礼
人の名前を間違えてはいけませんね
上野騎手は不運な人でした >>218
伊藤修司氏、晩年は悲惨だった様ですもんね。
上野さんは須貝厩舎(彦三先生の方です)で助手をされていましたけど、現在は流石に隠居されたのかも。 >>219
伊藤さん晩年悲惨だったの?
去年亡くなったかサンスポトラックマンの古川さんの義弟だから全く縁者がいなかったわけでもないでしょうし…
古川さんの訃報はプロ野球創成期の選手として書かれていましたね >>220
プロ野球の第一回東西対抗オールスター戦のメンバーに
「古川清蔵」の名があるので、ずっと気になっていましたが
やはり同一人物でしたか
8大競走前日には関テレで特集番組があって
古川さんと大坪さん、それに時々関東から大川さんが出演していました >>221
サンスポトラックマンの時代でも、元プロ野球選手というのは有名だったはずですよ
プロ野球板の長命スレでもほぼ筆頭に古川さんの名前あり、最近まで何年か一度はプロ野球創成期の取材を受けられて、存命確認!と書かれてましたね
最晩年までご壮健だったようで、独特の喋りが思い出されます 伊藤修司師は莫大な借金を作っておられて
清章騎手は進上金を取り上げられてたという噂でしたね
これは想像ですが大馬主の連帯保証をされたのでは…
調教師引退後は予想業者の看板になられたりして
最後はどこかでのたれ死にされたと聞きましたが >>223
伊藤修司、伊藤雄二。
この二大巨塔(伊藤姓の二人)の明暗、晩年でハッキリと分かれましたよね。 >>223
確か、自ら命を絶たれたのではなかったかと思います。
伊藤師は、父親の代から続いて大馬主の馬を預かる事が多かったですから、その中で、
本業が傾いた馬主との付き合いで、借金や馬の代金を断れなかったなど、色々あったのかも
知れません。
歴史に名を残した調教師としては、あまりに悲惨な最期だと言わざるを得ません。
伊藤雄二師は、笹田調教師という後継者が出来ましたが、伊藤修司師は、伊藤清騎手は離婚して
上野姓に戻りましたし、後継者が作れずに終わったのが残念です。 >>223
確か、自ら命を絶たれたのではなかったかと思います。
伊藤師は、父親の代から続いて大馬主の馬を預かる事が多かったですから、その中で、
本業が傾いた馬主との付き合いで、借金や馬の代金を断れなかったなど、色々あったのかも
知れません。
歴史に名を残した調教師としては、あまりに悲惨な最期だと言わざるを得ません。
伊藤雄二師は、笹田調教師という後継者が出来ましたが、伊藤修司師は、伊藤清騎手は離婚して
上野姓に戻りましたし、後継者が作れずに終わったのが残念です。 >>225
伊藤修司厩舎に居たスタッフ、殆どは鮫島一歩厩舎にスライドしていた筈ですよ。
寺井さん(グランドマーチスの主戦騎手)、松田幸春さんは在籍していましたし。 ヤマニンウエーブと似た臨戦過程だと気付いてホクトボーイの単勝取ったのは良い思い出 42 名前:古川清蔵氏96歳生存確認[age] 投稿日:2018/08/12(日) 01:53:54.57 ID:wSV3Kwri
>>41
> AS選出3回以上/主要タイトル獲得/監督経験者/他
> 1913年度 浅岡三郎
> 1917年度
> 1918年度 松尾幸造
> 1919年度
> 1920年度 木村勉
> 1921年度 古川清蔵→本塁打王2回獲得今日テレビ出演で生存確認96歳
BS1 スペシャル 戦火を駆け抜けた男たちのプレイボール
終戦からわずか3ヶ月の昭和20年11月23日
戦後初のプロ野球試合
東西対抗戦に出ていた選手だった
44 名前:神様仏様名無し様[sage] 投稿日:2018/08/12(日) 20:45:38.47 ID:yx6KDHQq
古川清蔵老は2年前あたりのNHK7時のニュースに出てた
262 名前:神様仏様名無し様[] 投稿日:2018/10/18(木) 05:30:53.53 ID:QHNlBVvH
プロ野球創成期の強打者、古川清蔵さん死去 96歳…老衰
https://www.sanspo.com/baseball/news/20181018/npb18101805010006-n1.html
264 名前:神様仏様名無し様[sage] 投稿日:2018/10/18(木) 10:21:38.82 ID:rYbqa559
このスレの生存者リストでお馴染みの古川氏みたいな感じだったな
合掌
265 名前:神様仏様名無し様[sage] 投稿日:2018/10/18(木) 19:19:55.23 ID:eqxnnPlx
古川氏や岩本義行氏や西本御大は
まさに天命を全うするみたいな安らかな死に方のイメージだな
268 名前:神様仏様名無し様[sage] 投稿日:2018/10/19(金) 16:41:40.85 ID:TfzoKuUd
中日OBとしての訃報も遅ればせながら
元中日・古川清蔵さん、死去 1942年延長28回伝説の一戦で戦った男
http://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/dragons/news/201810/CK2018101902000115.html
281 名前:神様仏様名無し様[] 投稿日:2018/10/20(土) 11:11:17.50 ID:M/kKw+JX
古川清蔵氏の訃報を見て来たものの、スタンカばっか
394 名前:神様仏様名無し様[] 投稿日:2018/11/10(土) 12:14:11.05 ID:k59aEtqn [1/2]
古川清蔵の死亡記事見ると戦前のプロ野球最後の生き残りみたいに書かれてた 古川さんあの時代に1400安打ってスゴいな
今の時代なら2千本打ってもおかしくないしホームラン王獲ってるからプロ野球史に残る人なんだね
まさに大往生。
伊藤さんの最晩年は詳しくはタブーなのかわからなそうだね
お金は相当稼いだはずなのに残念なことです 道営の名手佐々木一夫騎手 (調教師) も縊死されました 大金が動く世界はいろいろあるんですね
貧乏人にはわかりませんね 競馬評論家の宮城昌康氏も、メディアによく露出していましたが
突然見なくなりました
一部で黒い噂もありましたが、あれだけメディアに出ていた人にもかかわらず
誰も話題にしなかったですね 競馬評論家で、借金のせいかいつの間にか居なくなった人は結構居る気がします。
難しい世界ですね。 >>233
彼の長女が嫁いだ相手、中舘英二というのも面白い処ではあります。 >>226
マツクニさんは伊藤修二厩舎で調教助手をしていたし、その意味では
友道、角井、高野さんは伊藤一門といえるのでは? >>236
なるほど、松田国師は確かに伊藤修司師の下で調教助手やってましたね。
その後、山内師の所に移動してから調教師になっていますが、そういう意味では門下生と言えますね。 正月京都の1R未勝利戦は、出世レースといわれた時期がありました
ニホンピロムーテーやハマノパレードなどがそうだったと記憶しています
今年はどうでしょうか 福寿草特別でヘリオスが逃げていて、何か嬉しくなりました? >>239
秋の枯芝京都記念?の思い出があります
そして最終レースはケイガ速歩 重賞という言葉は昭和29年に佐藤正人氏が作りました。 以前は東で京成杯、西でシンザン記念
東でAJC杯、西で日経新春杯って対になる重賞を同日にやっていたけど
気がつけば東西の金杯くらいしか残ってないなと昨日思いました その金杯にしても、今は距離が違いますしね。
東西間がフォッサマグナのように別れていた頃は、むしろそうじゃないといけなかったんでしょうが。 金杯はもともと正月開催の最終日に行われていたんですが
西の金杯は日経新春杯に名前が変わりました
東ではAJCCが出来て金杯は初日に移り
西では初日のニューイヤーSを迎春賞と改めて重賞に格上げし
昭和41年から東と同じ金杯という名にしたという経過です
重賞ではありませんがアラブの銀杯というのもありましたね