◆懐かしの名馬・名勝負スレ16◆
歴代の名馬・名勝負をまったりと語るスレです。
(競馬に関する事なら何でもOK!まったりと語ること)
※過去・現在の名馬を比較しての最強論争は極力お避け下さい。
前スレ
◆懐かしの名馬・名勝負スレ15◆
https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/uma/1419611622/ >>116
イナボレスは準サラですね。今ではまず聞く事が無い競馬用語になりました。
ヘリオスは、殆どのレースで大久保正陽騎手が乗ってましたが、エリモジョージが
勝った天皇賞にはイナボレスも出走していました。後年、レースビデオを見ながら、
大久保調教師が現役時代に乗っていた馬の、それほど多くない産駒がレースに出て
いるのは、感慨深いだろうなぁと思ったものです。 >>117
アラブ血量が25%未満の馬を準サラと呼んでいましたが、S49年にサラ系に統合されました。
大井A1のゴーディーがこれに当たります。
イナボレス、ナポレオンが徳川幕府に寄贈したアラブ馬の末裔でした。引退後は東京競馬場の
誘導馬でしたね。JRAのCMにも出演しました。
>>115
現2歳、ロシアンブルーも復活しましたね。
先代はS60年七夕賞&新潟記念を連勝したローカル巧者でした。 イナボレスの稲富氏は筑後から出ていた民社党の代議士でした
筑後は馬産地じゃありませんが育成地としては西日本の最高峰ですね 馬名の復活は、最近特に増えた気がします
ロードエース、ジョイフル
ヤマピットの忘れ形見のボージェストは、今度は牝馬ですか >>118
今日、七夕賞の日に福島でロシアンブルーが出てましたね。
残念ながら殿でしたが。 今日の福島競馬場のファンファーレ、オールドファンには懐かしいものでした。
次は、京都競馬場で、かつてのファンファーレが聴きたいですね。
>>120
ヒダロマンなんて、先代(?)は牧場名が冠名だった馬なので、まさか復活するとは
思いませんでした。 ボアソルチなんて、先代は牧場で生まれた時から追いかけていた
牡馬だったけど、今走っているのは牝馬だもんな。 >>122
GT級勝ちのヒダロマンやゴールドシチーがOKなら
昭和の馬なら、よほどの著名馬以外は全部復活できそうですね
イットー、レデースポート、カバリダナー、キシュウローレル…
こんなのが復活すればあんまりです
歯止めのルールが必要な時期かもしれません ヘリオス
いつの京都記念だったか
なぜか家族で淀へ
芝生にシートを敷いて見ました
ギリギリで逃げ切り
そして最終は繋駕速歩
枯芝に夕陽
その父も・・・
まだ95歳で毎週中継だけ見てます ペガサスも復活しました。
先代は92新潟3歳Sと93福島記念を勝ちました。 >>124
キシュウローレルとイットーは勘弁して欲しい。この2頭の名前を聞くと、あの
悲劇の京都牝馬特別を思い出してしまう・・・
>>125
もし宜しければ、ほかの馬の思い出もお聞かせいただけたらと思います。
繋駕速歩のレース風景なども・・・ ヘリオスというと2015年生まれのアメリカの馬が Helios17 らしいので2016年生まれの
オルフェーヴルの仔は18頭目かな 日曜日の函館10Rで、「アグネス」の渡辺さんの一族の方がお持ちの馬が出走して
いました。服色も以前の「アグネス」の勝負服と同じでした。
持ち馬を全て売却したと言う話を聞いていましたが、何頭か残していたのか、或いは
ご一族のだれかが新たに馬主になられたのか、ちょっと気になります。 ひとつ思い出した話があります
ダイナナホウシュウの厩務員さんは飯原農場からこの馬を連れて来た牧夫さんで
ダイナナホウシュウが引退すると厩務員を辞めて元の農場に帰られたそうです ダイナナホウシュウ
最後は熊本の大津産業高校馬術部(移転前の旧校舎)
それも近所の子供たちの遊び相手
すっかり大人しくなっていたとか ダイナナホウシュウは、志摩直人がとても肩入れしていましたね
大川慶次郎は、アローエクスプレス一辺倒でした >>129
渡辺公美子さん、おそらく御親族でしょうか。
数頭は所有されておられるのでしょうね。 >>124
南関東にはカミノスミレも。
先代は目黒記念を勝ち、3200m最後のS58天皇賞秋で2着でしたね。 >>132
志摩直人さん,初代 森乃福郎さん、松本暢章アナ、3人とも故人か。 フジの鳥居アナも、ハイセイコーのころに実況を降りて
やがて見かけなくなりました >>136
フジテレビ開局の際に文化放送から移られた方でしたね。 大川慶次郎さんが好きな馬
ミツハタ、メイヂヒカリ、アローエクスプレス、ミオソチス 関東と関西はクラスがひとつ違う
頭数が一割多かったんですけどね
ライデン、ハクズイコウが無事ならシンザンなんかと言ってました 大川慶次郎さんが嫌いな馬。
シンザン
一度も◎を打つことはなかった。 石崎欣也?さんは有馬記念のレース回顧(優駿)で
シンザンのようなスピードのない力馬は日本独自で
欧州あたりでは通用しないとか書いていた記憶
しかし菊、秋天、有馬を見ていると相当外目を回って
さらに上がり3ハロンはかなり早かったと思います。
最近目にする欧米のレーススタイルに近かったのではと シンザンの子が走り出してみると大半がスピード型でしたからね
武田文吾師が 「そうだったのか、済まなかった」 と謝ったという話もありますし
ダイコーターやリュウフォーレルの子にもスピード型が多くて
ヒンドスタンは決して当時考えられていたようなスタミナ型ではなく
長距離偏重の時代に能力で大レースを勝っていたんでしょう >>142
リユウフオーレルに、産駒はそんなにいましたか?
リュウファーロスなら何頭かわかりますが >>143
グレートライナーは目が覚めるような快速馬でしたよ >>142
大半ってシンザンの仔でスピードタイプというとスガノホマレ、シルバーランドくらいだろ。
ミホシンザン、ミナガワマンナ、グレートタイタン、キャプテンナムラらステイヤータイプもかなり出ている。 >>145
ミナガワマンナもキャプテンナムラも超よりをこなしたスピード馬だと思いますよ >>146 自己レス
超よりってひどいですね。長距離の打ち間違いです。
補足しますと
私が考えるスピードタイプというのはスプリンターやマイラーではありません
距離の長短には関係なく、時計が速くなると強い馬のことです ヒンドスタンは確かに、輸入当初はマイラーと言われていたようです
パーソロンも、仕上がり早やの三歳血統という扱いでしたが
メジロアサマ辺りから、評価が一変しましたね
決めつけは出来ないけど、大まかな特性は確実にあると思います
テスコボーイなどは、ホクトボーイやインターグシケンがいなければ
マイラー寄り種牡馬の扱いだったでしょう パーソロンもテスコボーイも2400ですら長いと言われてましたね テスコボーイ系を残すためにもビッグアーサー,グランプリボスはいい子を出してほしい。 チャイナロックは不思議な種牡馬でした
自身は栗毛なのに産駒は鹿毛に出るとよく走る
栗毛ではメジロタイヨウくらいで オープンクラスの活躍馬は、種牡馬が東西にやや隔たりがありましたね
チャイナロックやパーソロンは、圧倒的に関東馬
ネヴァービートやシプリアニは、関西馬が多かった
ヒンドスタンやテスコボーイのようにリーディングを続けるような種牡馬は
さすがに東西まんべんなく活躍馬を出しました 直線の坂が関係あるんですかね
最後の一踏ん張りが効くか効かないか 地域によるんじゃないでしょうか
昔は各地に親分のような人がいましたから
水田から転向した生産者なんか販路をもっていませんから
離乳後は地域を仕切っている人の育成場に馬を贈ったので
特に三石より東は関東の調教師さんは行きたがらないですし パーソロンの仔はほとんど関西に入って来なかったな。活躍したのはダイアナソロン、アグネスホープくらいか。 アグネスホープ
大川が「これはダービー云々という馬じゃない」とかいってたな 海外の競馬小説を読むと、大富豪の馬主の息子が身を持ち崩して
幼い頃から馬に乗っていた経験を生かして調教師になるというケースがあるようです
自分が生まれ育ったお屋敷に住む馬主のためにそこの厩舎に住み込んでるとか
日本で身を落としたと言えば競馬評論家でしょうか
本来なら自分が馬主としてダービーを争うべき身分だった人たち
大川財閥の御曹司大川慶次郎氏と沖縄の王族宮城昌康氏 明治時代の競馬では、馬主自身が騎乗してレースに出た事がありますし、日本競馬会
になってからも、馬主が馬で身を持ち崩して、競馬会職員になった例もあります。 書き間違い。改めて
>>159
昔、関東で発売されていた「競馬新報」という競馬新聞は、総会屋で有名だった「上森子鉄」が社主でしたね。
一時期、日本競馬新聞協会会長でもありました。 上森子鉄がさっと出てくるとはたいしたもんです
知ってる方も少なくなりました ラジオ関東も上森さんだったような気がするんですよね
ウィキ読むと遠山社長の暴走なんて書かれてますけど
洋平さんが新自由クラブで散財して那須野牧場も売っちゃったし
ラジ関も売ったと記憶してるんですが
しょっちゅう労組がピケ張ったりして変な局だなと 上森氏自身は競馬好きだった様で、「競馬新報」も、採算度外視で出していたという話を聞いた事があります。
日本の戦後社会に色々関わった人ですが、その割には語られる事が少ない様に思いますね。
>>164
キネマ旬報の社主だったのは知ってますが、ラジオ関東は違う様な・・・ >>165
上森さんが太刀川恒夫さんに売ったのかなあ
洋平さんが誰かに売ったことは間違いないです 上森子鉄氏の名前が出たんで、
アウトローに近い人というコトで・・・・・
醍醐安之助氏
弟はダイゴホマレ<第25回日本ダービー優勝馬>の馬主−醍醐幸右衛門氏、
幸右衛門氏と共に、大井競馬の発展に尽し、東京都馬主会の会長を務めた。
長く大田区選出の東京都議会の議員に就き、議長職の座にも在った。
元々はテキヤ出身、旧東京二区選出の故新井将敬氏とも関係が深かった。
ヒカルメイジの新田新作氏も、元はと言えば新田組の組長でしたね。 >>166
太刀川恒夫氏は東京スポーツ会長ですね。
永田雅一氏の大映が傾いた際に永田氏が社主を務めていた東スポを買収しましたね。 関係ないですけど
昨日のサクソンウォーリアにガッカリ
オブライエンがとかムーアがとかいろんなグチが出ます
その昔、短波のラジオ中継でタケシバオーの2年連続惨敗を聞いたことを思い出しました このスレ的には新しい話になりますが、平成3年秋の天皇賞の時、南米のある国に出張で滞在していて、日本から
持って行った短波ラジオでラジオたんぱの周波数に合わせて、ようやく受信出来た微かな音が途切れ途切れに
なりながらも聴いていました。
スタートでは何とか受信出来ていたのに、「メジロマックイーン先頭」という実況を最後に受信出来なくなり、次に受信
出来た時には、「メジロマックイーンは失格になりました」と言うアナウンスが聴こえて、理解するのに時間が掛かった
のを思い出しました。今では、ネットで何処でも実況が聴ける様になり、まさに隔世の感があります。 短波ラジオというと
松屋の裏に行くと突然風景が変わってここが銀座?
空き地に打ってある杭に引っ掛けたラジオから競馬中継が聴こえてきて
浮浪者風のおじさんがたむろしてて
銀座場外の周辺ってそんな感じでした
プレイガイドビルの地下のミニ場外もありましたね タケシバオーのワシントンDCは最近になって
YouTubeでみました
サーアイヴァーと接触した場面も写ってました >>172
プレイガイドビル地下の銀座通り場外は、元のサービスセンターですね。 ワシントンDCといえば大惨敗ばかりだったな。
ローレルの「牧草地みたい」と言われた馬場が合わなかったのか、当時の日本馬のレベルが
低かったのか。 >>175
低湿地だから単純にパワーが要るんですよね
日本馬はスタートから1マイルまでは馬群についていくけど
最後の半マイルは1完歩の歩幅が狭くなって徐々に遅れる
マラソンでこぼれていく選手みたいに
要は日本馬に最も向いてない競馬場ですよ
あの頃栄養価の高い外麦が入ってきて外麦食わすと太るから
飼葉は8升を5升にしろなんて真面目に言ってたんですから
外麦8升食わして太らん調教しろよと思ったものです まああのパワーの権化みたいなタケシバオーで駄目だったんだから、当時のどの馬でも無理だったでしょうね 第一関節まで隠れるぐらい深い芝だと言ってましたね
賞金王のケルソが勝ったときは、2分23秒台でしたが
さすがにあのときは、もっと走りやすい馬場だったと思います
そのレースで大差シンガリのリュウフォーレルも、一応タイムは自己ベストでした >>172
>>174
学生時代<昭和>、目黒区緑が丘に住んでいて、
函館−札幌のレースを買いに、
愛車 pop-gal で銀座まで何度か行ったなぁ・・・・・
千円単位の発売で、単勝複勝だけ買っていた。
( 後楽園でも発売していたけど、そこに行く発想は無かった )
お客さんも数える程しかいなかったなぁ・・・・・
帰りは、向かいの伊東屋で文具を見て帰るというのが常だった。
>>179
狭くて入場者数を絞る必要があるので、千円単位の発売にせざるを得なかったんでしょうね。 フォーレルはどこか不具合があっての出走だったと記憶しています
タケシバの二年のどちらかは風邪上がりでした 大井の能検でスカーレットリボンが合格
父親がヴァーミリアンだから父の祖母の姉と同名
竹原が桜花賞で1番人気という平成最後の現在では考えられない昭和最後の桜花賞 昭和最後の名勝負タマモクロスvsオグリキャップ
みたいな平成最後の名勝負がみれるか? 前にも出ましたが、毎年この時期になると
東京開催の平場オープンが、豪華メンバーになったのを思い出します
ヤマブキオーとハイセイコー
タニノチカラとロングワン
テンポイントとロングホーク
ホクトボーイとカシュウチカラ
天皇賞勝ち抜けの時代で、有馬記念へのちょうどいいローテーションのせいですか
ホクトボーイの年は、忘れたけど他にもいい馬が出ていたと思います 今日になってなぜか思い出しました
タマミほどテンの3ハロンが速い馬はかつて存在せず
タニノムーディエほど上がりの3ハロンが速い馬はいなかった
そう言われていました いきなり質問で申し訳ないのですが
昔の優駿でマル外の特集が組まれていたことがあって
関西馬でマル外で改名がうけて
人気になった馬がいたと書かれてました。
優駿は処分してしまったのでその馬が何だったか思い出せません。
お分かり方がいたら教えて頂けないでしょうか >>188
当たっているかどうか、思い当たるのは
ツクモオダマキ→ボールドエイカンですね
内藤厩舎で、僚馬に同じ外国産のレッドルーラーがいました
カツラノハイセイコの世代です ツクモオダマキという情趣のある馬名がなぜ
ボールドエーカンなんて平凡な馬名になっちゃったのか…… >>190
外国産馬に相応しくないから...とかそんな類の理由だったと記憶しています
当時は外国産馬と言えばスピードで内国産馬を圧倒する事が多く、馬名も
ギャラントダンサー、スピリットスワプス、マルゼンスキー等
(マルゼンスキーは外国産馬ではありませんでしたが...)、馬名も
如何にも外国産馬と思わせるものが多かったですから >>189
ありがとうございます。
ボールドエイカンという名前のようだった気がします。
記憶があやふやなのではっきりとしたことを申せないのが歯がゆいですが
助かりました。 >>192
どういたしまして
ボールドエイカンとレッドルーラーが一緒に出た
冬の京都の4歳戦は面白かったですよ
ボールドエイカンはだめでしたが、レッドルーラーは3着
1、2、4着が、カツラノハイセイコ、テルテンリュウ、ホースメンテスコ
のちにすべてタイトルホースになる豪華メンバーでした >>193
このレース、微かに記憶がありますが、豪華なメンバーでした。カツラノハイセイコは、レッドルーラーに乗った
福永洋一騎手に代わって、このレースから松本善登騎手が主戦になったんでしたっけ?
>>186
ヤマブキオーとハイセイコーのオープンは、他にもタケホープ・ストロングエイト・ディクタボーイ・メジロスイセイが
出ていて、下手な重賞よりもメンバーが揃ってましたね。
テンポイントとロングホークは、まさに一騎打ちでした。これらのレースが、土曜日の特別戦の前に行われたの
ですから、何とも豪華ですよね。
タニノチカラ・ロングワンは、京都のオープンだった様な記憶が。新人の頃の河内騎手が乗って勝ったレースでした。 ツクモオダマキは新聞紙上で、次回開催の有力新馬で紹介されていました。
それが出馬を見ればボールドエイカンですからね
改名の理由も>>191氏の通りであったと記憶しています。
種牡馬として引退、種牡馬試験不合格(かどうか怪しいですが)
草競馬のスーパースターと、話題の多かった駿馬でした。
持込みでしたが、ニジンスキーの仔が新聞紙上をにぎわしたこともあります
明和が繁殖ともども輸入して、生まれたのが牡馬ということで
その名もメイワスキーと名付けられ(る予定)でしたが
競走馬デビューの時には、ニジンスキースターと
凄い名前で出てきました。 >>194
レスありがとうございます
タニノチカラは京都でしたか。失礼しました
松本騎手は、あの一戦から主戦になったと思います
有馬記念でシンザンが回ってきたり、少しは報われた騎手人生でしたね
秋の東京と同じように、春の阪神でも豪華なオープンレースがありました
タマホープ、トウメイ、ジュピックなどの出たレース
ハマノパレードとオンワードガイを、内から洋一メトロオーカンが急襲した年
ロングホークとトウフクセダンの年など
現在はGTや重賞も増え、有力馬がかなり分散します
当時と今の最も違う点の一つでしょうね ニチドウタローはオープンをレコード勝ちして
10日後の天皇賞も阪神でしたがレコード勝ち
イシノヒカルは道悪なのでレコードとはいきませんが
オープンと9日後の菊花賞を勝ちました。 >>このオープン、桜花賞の前日辺りに実施されていたレースですね。
春の天皇賞に向けての一叩きとして、実力馬の出走が多いレースでした。 >>198
メトロオーカンは、桜花賞当日の最終レースでした
タケシバオーは、桜花賞前日の土曜だったと思います
タケシバオー、リキエイカン、ニチドウタローなどは
オープンを強い競馬で独走して、天皇賞につなげました コーネルランサーがレコード勝ちした、ひいらぎ賞
あのレースは確か3歳500万級でしたね
3歳の2勝クラスの条件戦が、わずかな期間ありました
今は、2歳重賞が大幅に増え、1勝馬が大挙参戦する時代
隔世の感があります 昔の条件戦はクラス分けが非常に細かかった印象があります。
2歳重賞が多くなりすぎて、メンバーが逆に揃わなくなってしまったので、重賞勝ち馬といっても、
以前ほどの価値を感じなくなりました。 ひいらぎ賞 コーネルランサーの翌年の勝ち馬はカブラヤオー
2年連続でダービー馬を出したことになりますね
カブラヤオーは当時まだ1勝馬 格上挑戦だったわけで8番人気
このレースをぶっちぎって勝つことによりテスコガビー、マツフジエース(朝日杯)と
牝馬の活躍が目立っていた関東牡馬陣でこの馬が最強と印象付けました。
当日はハイセイコー引退狂騒真っ只中の中山だっただけに目撃者も多かったはずです。
関西の人たちがこの馬を認識するのはおそらく翌年のテスコガビーとの対決だったと思いますが >>204
所用で東京へ行ったとき、初めて東京競馬場に足を運んだのが
テスコガビーの京成杯でした
府中は直線が長く、コースの幅員も広いので
イシノマサルとのゴール前、どちらが勝ったのか判りづらかった記憶があります
準メインの条件特別は、のちに天皇賞馬になるフジノパーシア
当時はほんと、関東馬の層は厚かったですね
コーネルランサーと接戦したスルガスンプジョウに
同時期に強い勝ち方をしたインターグッド
このあたりがキタノカチドキのライバルになるのかなと思ってましたが
関東の下馬評では、カーネルシンボリが一番のようでしたね >>205
確かにあの年の関東総大将はカーネルシンボリという下馬評でしたが、
抜けたものは感じませんでしたね。
カチドキには敵わないだろうと思っていました。
もっともすべてが終わった今から考えるとカチドキの東上以降の調子下降を
除いても距離の融通性からダービー、菊花賞と逆転はあったかなと思います。
カーネルシンボリは2歳夏からトップを引っ張って来ていて、クラシック前に壊れました。
これは和田共弘氏に(のちのルドルフへの)とって大きな教訓になったと思います。
東西の両横綱が対戦するというのが1番キレイな形で実現したのがアロー、ムーティエ。
私にとってはTTGなんかよりはるかに盛り上がりましたが、2度とこういう形は実現しませんでした。
トウショウボーイVSテンポイントも初対決時は全国区のテンポイントにトウショウボーイは
関東の新星にすぎませんでした。
ヒシスピードVSリュウキコウは本番前に共倒れで本番も両方とも用なし。
サッカーボーイの東上初戦のときも関西の大将に関東馬がどう立ち向かうかという感じで
前走ミュゲロワイヤルに負けてるチヨノオーに大将感はありませんでした。
そのうち、馬も人も交流が激しくなりすぎて関東馬とか関西馬とか気にならなくなりました。
1番盛り上がる形だったんですけどね東西対決。
正直、今、馬の名前いわれてもすぐ関東馬か関西馬かわかりませんから。 キタノカチドキはダービーが惜しかったですね
前へ行ったり後ろへ下がったり内へ入ったり外へ出たり
武騎手が制御に苦労してました
コンディション調整が上手くいってなかったんでしょうけど
原因は厩務員ストだと思います
3週間延期された皐月賞を勝ったとはいえ
その時点でもう体調は狂っていたのではないでしょうか 当時はケガとかで3レースともまともに走れず2冠で終わる馬が多かったから、なおさらダービー3着が惜しいですね
負けた原因はストと単枠指定の大外を上手く乗れなかった
しかし直線の斜行は前にいたスリーヨークの内を行こうとしたように見えます
ロングエースのようにね
しかしスリーヨークがそこを閉めてしまい立て直すも間に合わず
何度もこのスレに書いてしまいましたが残念ですね、まあ調子が良ければ先行して直線入口で先頭に並んでいたでしょう しかし関西の騎手は東京コースはそんなに馴れてないから、当時の多頭数ダービーを上手く乗れないのも仕方ないんかな スリーヨークいましたねえ、曲者って感じの実力馬でした
稲部和久騎手は競馬ニホンの騎手座談会によく出ていました
あれは日曜のレースが終わってからなので騎手も早く帰りたいし
確保するのが大変だったようで、出ていた騎手は気のいい人たち スリーヨークは、春の天皇賞での落馬の印象が今も強いですね・・・
騎手座談会、かつての週報では毎週掲載されていましたが、騎手の本音が読めて面白かったですね。
調教師座談会もありました。 逃げ馬が好きだったな
特にツインターボ
名勝負はナリタブライアンとマヤノトップガンの一騎討ち 逃げ馬は交わされてから二の足を使う馬が好きだな。パッシングゴールとか。 パッシングゴールは、新田幸春渾身の逃げでしたね。
ヤマニンウェーブが差して来るとは思わなかったのでは? 新田幸春=松田幸春
舞原昌博=松永昌博
上野清彰=伊藤清彰
榎屋 忍=梅内 忍