■正岡子規の短歌■part1
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正岡 子規(まさおか しき、1867年10月14日(慶応3年9月17日) - 1902年(明治35年)9月19日)は、
日本の俳人、歌人、国語学研究家である。
名は常規(つねのり)。幼名は処之助(ところのすけ)で、のちに升(のぼる)と改めた。
俳句、短歌、新体詩、小説、評論、随筆など多方面に渡り創作活動を行い、日本の近代文学に多大な影響を及ぼした、
明治時代を代表する文学者の一人である。死を迎えるまでの約7年間は結核を患っていた。 >>1
http://yuzuru.2ch.net/test/read.cgi/tanka/1164046286/l50
↑これを見ればわかると思うけどこの板の住人は小学生レベルだから
正岡子規も知らない人多いと思うし語れる人なんてほとんどいないかも。 高校の文学史程の事歴を羅列するだけで子規が云々とは片腹痛い。
そもそも子規の写生を彼独自の姿勢、卓見とみて尊崇する連中が無数にいるが、その写実なるもの、内実は江戸俳諧における写実とどれだけ相違があるのか。
近代崇拝の連中こそ、今となっては旧陋月並みというべきだ。 因みに言う。
スレッドまで立てて、高踏なる高説を立てた以上、
それに相応しい力量ある自作の俳句を書き込んでみせることだ。
それが出来ずに「自分は批評の立場だ」と言うのであれば、縁台将棋にしたり顔に口を挟むヘボ親父と変わらないと知るべきだ。 伝統の和歌は雅語で詠むべきものとされてきたが、実際は室町時代までは
当時それほど時代遅れの言葉ではなかった。
室町時代の歌論、二条良基の『近来風体抄』でも、
古今集のたとえば「袖ひぢて」のような言葉は古い言葉なので今の時代では使わないというようなことが言われていた。
中世の和歌連歌の言葉は決して当時にあっては古語ではない。
むしろそれが急速に古語となっていったのは、中世から近世への変り目に都市文化が急速に発達し、
都市の町人の言語が支配的になり、宮廷中心の標準語としての雅語が廃れていったことによるものだろう。
そして、それが俳諧の急速な発展のもとともなったようだ。 正岡子規の短歌だから問題ない。
この板>>の6見たいなレベル低い奴大杉。 どうした>>1
エラそうなゴタクを並べた以上はご立派な俳句を作ってもらおうじゃないか。
でなければ長谷川厨とやっている事が同じになるぜ。 >正岡子規の短歌だから問題ない。
それは回答になってないだろう。無知ですからまともに反論出来ませんと言っているようなものだ。
子規は歌を芸術に祭り上げ、結果的に歌を読み物に萎縮させてしまった。
歌本来の性質や短詩であるが故の機能というものを二の次にしてしまった。
柿くえば 鐘がなるなり 法隆寺
これ正岡 子規だよ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています