「尖閣諸島 (ウィキペディヤ年表から)」 下の記事により、明確ですね。

1920年(大正9年):中華民国駐長崎領事・馮冕より魚釣島に漂着した遭難者(福建省恵安の漁民)の救護に対し、当時の石垣村長・豊川善佐、
石垣村衛生係雇・富田孫伴こと玉代勢孫伴(たまよせばんそん)、尖閣諸島を開拓した古賀辰四郎の子息の古賀善次らに感謝状が贈られる。
それには尖閣諸島の事を「日本帝国八重山郡尖閣列島」と明記されていた。 この感謝状は全部で4通あった。中国側からの通報に依れば7通という
説も有る様だが、確認はされていない。現在4通の内の1通が八重山博物館に寄贈され現物が保管されている。
中華民国駐長崎領事・馮冕から石垣島島民への感謝状1932年(昭和7年):魚釣島、久場島、南小島、北小島の4島が古賀に対し有償で払い下げられる。
1940年(昭和15年):古賀が事業継続を断念。尖閣諸島は無人島になる。
1945年(昭和20年)8月15日:日本、ポツダム宣言を受諾。
1946年(昭和21年)1月29日:「連合国軍最高司令官総司令部覚書」677号(SCAPIN677 (Supreme Command for Allied Powers Instruction Note No.677))
「若干の外郭地域を政治上行政上日本から分離することに関する覚書」により、尖閣諸島を含む南西諸島の施政権が日本から連合国に移される。
1951年(昭和26年)9月8日:日本国との平和条約調印。
1952年(昭和27年)4月28日:日本国との平和条約発効。 この条約の第3条によりアメリカの施政権の下に置かれる。 アメリカ軍が大正島(赤尾嶼)
および久場島(黄尾嶼)を射撃場として使用。
1952年4月28日:日華平和条約調印。
1953年(昭和28年)1月8日:中国共産党中央委員会機関紙『人民日報』が、「琉球群島人民のアメリカによる占領に反対する闘争」と題した記事を掲載。
尖閣諸島を日本名で「尖閣諸島」と表記し、琉球群島(沖縄)を構成する一部だと紹介する。
1958年(昭和33年)11月:北京の地図出版社、『世界地図集』発行。尖閣諸島を日本領として扱い「尖閣群島」と日本名で表記。
1965年(昭和40年)10月:中華民国国防研究院、『世界地図集第1冊東亜諸国』初版出版。尖閣諸島を日本領として扱い「尖閣群島」と日本名で表記。[2]