この誰でもいいという感じは具体的事実の錯誤における法定的符号説の
発想と近似しているという点に受験生は着目すべきである。
A氏の性欲は筑波時代はXちゃんという「若い肉体」に向けられていたが、
明治時代はYちゃんという「若い肉体」に向けられることになった。
仮にA氏が明治転勤後もXちゃんと付き合っていたとしよう。某ホテルでXちゃんと
気持ちのいいことをした後に問題を教えてあげようと思ってプレイをしてみたら
実は相手はYちゃんだった。この教室事例においてA氏に真実の恋はあった
と言えるだろうか?