山田芳裕 『ヘうげもの』 追憶之席 二
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豊臣秀吉:ゴールド
>>17
徳川大阪城の普請差配は義父の藤堂高虎だから、当然ああいう文書が出て来てもおかしくないわな。 大坂幕府構想検討か 新たな書状|NHK 関西のニュース - NHKオンライン
https://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20181220/0010924.html
大坂幕府構想検討か 新たな書状
12月20日 18時55分
江戸時代の初期、大坂を徳川幕府の本拠地とする「大坂幕府構想」が検討されていた可能性を示す新たな書状が見つかりました。
書状からは、当時江戸にいた将軍の居城になることを想定して、大坂城の築城が進められていたことがわかり、調査に当たった専門家は、構想が具体化していたことがうかがえると指摘しています。
この書状は、三重県に住む男性が茶道具店から購入し、三重大学の藤田達生教授などが調査を行いました。
その結果、書状は花押や筆跡などから、「大坂の陣」のあと大坂城の建て直しを担当していた小堀遠州が、遠州の義理の父親で徳川秀忠の側近、藤堂高虎に宛てたもので、記された内容から、寛永3年(1626年)に書かれたと考えられることがわかりました。
藤田教授によりますと、書状の中で遠州は、大坂城の茶室の庭に置く石を献上するよう高虎に進言し、その理由について、「大坂はゆくゆくは御居城にもなさるべきところ」と説明しています。
誰の城になるかは明記されていませんが、城に「御」という敬称が付けられていることなどから、当時江戸城にいた大御所の徳川秀忠や三代将軍、家光の居城になるという前提で、遠州が大坂城の整備を進めていたことがわかるということです。
徳川幕府の本拠地を江戸から大坂に移す「大坂幕府構想」は、この書状の10年ほど前、「大坂夏の陣」の直後の史料にも記されていますが、間接的な聞き書きにとどまっていました。
この構想について藤田教授は、「大坂は豊臣家以来の伝統的な場所で、京都と大坂で体制を安定させていく目的があった。豊臣家が滅亡したときから、家康が近畿地方を政権の本拠地にしていこうと考えるのは自然なことだ」と指摘しています。
そのうえで、「『ゆくゆくは居城になる』というような表現については、あまりにも大きな内容なのでびっくりした。家康の構想に沿って秀忠も動いていたことがうかがえる」と話しています。 【書状の内容は】
書状を書いた小堀遠州は、遠州流の茶道の祖としても知られる大名で、「大坂の陣」で荒廃した大坂城の再建にあたって、建築を担当する作事奉行を務めました。
相手の藤堂高虎は、今の三重県にあった津藩の藩主で、徳川家康の信任が厚く、その後も、将軍職を退いて大御所と呼ばれていた徳川秀忠の側近として重用されていました。
大阪城天守閣の跡部信、研究副主幹によりますと、書状は、江戸にいる高虎に対する返信で、秀忠の孫の誕生についての祝儀に関するやりとりから始まっています。
このあと自身が手がけている大坂城の茶室と庭について触れ、「あなた様の京都の庭にある石鉢などをご進上されるのがよろしい。適当なものがありません」などとつづっています。
そのうえで、「大坂はゆくゆくは御居城にもなさるべきところなので、このたび石を進上するのがよい」と重ねて進言しています。
このほか秀忠の体調に関する話題として、「現在はお食事も召し上がっておられるとお知らせ下さり、めでたく存じます」などとも記され、2人が将軍家の内情について詳細なやり取りをしていることがうかがえます。
跡部さんは、「幕府の中枢にいる人物の間でのやりとりの中で『大坂幕府構想』が語られているので、当時としては現実味のある構想だったと言えると思います」と指摘しています。
そのうえで、「今回の書状は、大坂城再建のまさに中心にいた小堀遠州が出している手紙で、大坂に将軍と大御所を移すという構想を語っている。見逃せない史料で、久しぶりに興奮しました」と話しています。 【大坂幕府構想とは】
大坂城の歴史に詳しい大阪城天守閣の跡部信、研究副主幹によりますと、徳川幕府の拠点を大坂に移す構想は、
西暦1615年、豊臣家が滅亡した「大坂夏の陣」の直後に上洛した、薩摩藩の島津家久の話が、史料に記されています。
この史料には、家久が幕府の上層部から、大坂城を当時の将軍、秀忠の居城にするという計画を聞いたと記録されています。
跡部さんによりますと、その後、秀忠は、朝廷と幕府の関係を強化する「公武合体政権」を目指して娘を天皇家に入れ、寛永3年(1626年)に孫が生まれていました。
今回の書状は、この直後に書かれたとみられ、誕生の祝儀にはどれくらいのものを贈ればいいのかや、来年、秀忠が上洛するうわさがあるといった、孫の誕生に関連する記述もあります。
また、跡部さんによりますと、江戸時代前期の大坂城の平面図には、小堀遠州が建築を進めていた茶室を示す「数寄屋」が存在していますが、後期の平面図には見られないということで、
将軍が居城する可能性がなくなって壊したのではないかと考えられるとしています。
「大坂幕府構想」について跡部さんは、「当時は天皇がいる都やその近くに武家政権の本拠地を置く『畿内政権』というのが基本的なあり方でした。
幕末の外交官の記録に、『大坂城は江戸城よりもずっと美しくずっと堅固である』という記録がありますが、ここを本拠地にするという思いで作っていたと考えると納得できます」と指摘しています。
しかし、秀忠の孫は2年後の寛永5年に亡くなり、秀忠自身も寛永9年に死去したことから、「公武合体政権」や「大坂幕府構想」が実現することはありませんでした。
跡部さんは、「構想が実現していれば、江戸幕府ではなくて大坂幕府、江戸時代ではなくて大坂時代ということになり、日本の国の形や歴史が全く別の可能性を持っていた。
それをリアルに感じさせてくれる非常におもしろい書状だと思います」と話しています。 徳川家康によって200万人の大阪市民が虐殺され日本文化の粋は消滅し辛気臭い江戸文化が代って日本文化を僭称するようになった 羽島市は、葉栗郡と中島郡が明治時代に併合させられてできた羽島郡がもとだから、
戦国時代にはなかったんだよね? 南方で思い出した
高山殿はすぐに死んでしまったが、織部妹はその後どうしたんだろう? >>28
それこそ織部を南方に呼んで高山右近がなぜ帰ってくれと言ったかを伝えてひょうげを安心させたのではないかな 織部はインドまで行って怪しげな宗教集団に捕まってイケニエにされたことに。
しかもハッシーシで最期まで嗤い死に。 門松の竹を袈裟斬りにしたのは
ヤスが最初で参勤交代通して全国にカッケーって波及したとか 原作に惚れ込んだジェームス・キャメロンが
20年後にハリウッドで実写化してくれるよ。 >>42
4コマでは些かもの足りのう感じますゆえ、一切を黒く塗りつぶすのがよろしいかと >>50
撮影NGの物にはこの説明書きの所にカメラ✖みたいなこが書いてあるからこれらはOK >>51
いいな。俺が行くところは悉く撮影NGだ。
最近こういうの増えてきてるのかな。 >>52
これから上野の東京国立博物館、常設展では撮影OKが多いけど特別展はNGが多いですね。 馬蝗絆とかわざわざ明まで送った物が返ってきたらあんなんなってて
普通なら打ち捨てそうなものをあえて面白いと感じ入ったセンス 縁がひどく欠けている馬蝗絆
素人にはゴミにしか見えまい 馬蝗絆は最初駄器にしか思えなかったが近年あれの「景」が解ってきた
ゲヒの十文字茶碗も実物見ると結構な迫力があって感動しちゃう >>58
馬蝗絆はまだちょっと苦手だな
アンバランスな感じが不安になるというか 油滴は良いな
東洋陶磁美術館には是非一度は行くべき
ラーメン天目に物言いつけてたのもここの学芸員だったなw 専門外の中島の言うこと真に受けてラーメン天目が本物だと信じてた連中は今どうしてるんだろう まだあれ偽物とか言ってる子がいるんだ
惣吉完全敗北だったじゃねぇか 七十分って結局なんだったの?
ただのかぶき者のオリキャラ? 日本では手土産を渡す際に「つまらないものですが。。」などへりくだった言い方をして手土産を渡すのが礼儀とされています。
しかし、外国ではその逆です。「つまらないものですが。。」「すみませんが。。。」と言って手土産を渡すのは、
「良くないものを人に渡すのか!」っと失礼にあたります。その手土産の価値をあまりにも強調して伝えることもありませんが、
「日本では人気のお菓子なんですよ〜」など、そっと付け加えて渡すのもよいでしょう。 乙な物に目が慣れてくると甲な物を見る目もまた変わってくる感じがするな
「一周回って」ってこういうことか へうげ愛読者だが乙より甲が好き
自分の感性だからしかたない カプセルトイ「戦国の茶器 弍−天正名物伝−」
一、香炉 三足ノ蛙
二、曜変天目
三、荒木高麗
四、唐物茶壺 松花
五、紹鴎茄子
六、初花肩衝
まあまあ出来が良いですよ 名物伝で一発で初花が出た
嬉しかったがやはりちょっとだけこう質感が足りない 300円なら充分なんだけど 城の壁にバンクシーの猿の落書きが見つかって秀吉激怒
消すのを命じられた織部だったが 祭姪文稿の順番待ちつらかった
白菜ほどじゃないけど 先週の雪降った日の夜間は空いてたよ
10分待ちぐらいだから3回見たw
しかしあれだけ中国人が多い展覧会も珍しいな
中国でも見られんのに日本に貸し出しやがってってみんな怒ってるらしいな 中国のお宝はだいたい国民党がどさくさ紛れに盗もといお救いして台湾へ運んだんだっけ? 祭姪文稿も大陸に残ってたら文化大革命で焚書されてただろアカ共に >>91
確かに中国人多かったな
漢服(notチャイナ服)来た子なんて初めて見た 2019年02月16日20:00
韓国人「韓中日、それぞれの最高傑作の陶磁器を見てみよう」
http://blog.livedoor.jp/kaikaihanno/archives/54877859.html
やはり技術的には相当日本が劣っていたのは否定できないか ひさしぶりにこれ見たけど、
三成が不器用なキャラってのはどこの創作でもあるあるなのにこの三成は不思議と記憶に残るな 自由な感覚と、天真爛漫な自分を発見する中で、イデアから、天上の国から、美が降りてきます。心に邪心の無い澄んだ心にしていく旅の道すがら、美の天使はやってきます。 必死さの度が過ぎてるのは三成も家康も最後の織部も同じで、
特に最後の織部のはまさに笑いの袋が超押しつぶされるんだが、
何故か三成だけがダメ出しされるという ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています