幕末、福井藩の忍者の姿 史料調査で徐々に解明
4/15(日) 11:25配信

黒装束姿で高い塀を飛び越え城に忍び込み、手裏剣を放ち、どろんと消える―。
小説や漫画で超人的に描かれる忍者について、史実に基づいた研究が全国で進んでいる。
県内でも福井県立図書館にある幕末期の史料の調査で、福井藩の忍者の姿が分かってきた。
城下町に堂々と住み、名前はいたって平凡。
普段は忍術の稽古や、門番や武器の管理といった地味な仕事をこなし、本業の情報収集では張り紙を書き写していた―。
担当者の解説を基に、幕末期の忍者を描いてみた。

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「皆さんが知っているのは作り上げられた忍者の姿」。
県立図書館で開かれている企画展「幕末福井藩の忍者」の解説講座で、司書の長野栄俊さん(46)が切り出した。
長野さんの調査によると、福井藩の忍者は「『忍之者(しのびのもの)』」などと呼ばれ、幕末期は12人いた。
身分は武士で、最下層の足軽に属した。
足軽の身分はお金で買えたため、長野さんは「忍者もお金を払えばなることができたのでは」と推測する。

足軽の中では給料が高く、現在の福井市宝永1丁目・日之出5丁目辺りに約500坪が与えられ、長屋とみられる屋敷に住んでいた。
幕末の城下町を描いた絵図には「忍組」と書かれており「絵図に明記されているぐらいだから、城下の人たちは忍者の屋敷だと分かっていたはずだ」。
名前も史料に記されており「山形隆」や「高橋利助」といった、現代にもありそうな名が並ぶ。
長野さんは「『霧隠才蔵』や『猿飛佐助』といった特徴的な名前なら子孫を探せるのだが…」と残念そう。

福井藩の忍者はどのような仕事をしていたのか。
長野さんは「忍者と聞いてイメージするような心躍る仕事はしていなかった」とする。
普段は忍術の稽古に励みつつ、藩の倉庫に収められた武器の管理や、武芸の道場の門番を務めていたらしい。
忍術の流派は源義経が祖とされる「義経流」。
屋敷の隣には「半弓」と呼ばれる持ち運びやすい短い弓の稽古場があり、手裏剣ではなく弓の上達に努めていたようだ。

中略

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180415-00010001-fukui-l18