>>398
アマゾンのトップレビューなw

ところが須藤の『学』の水準は想像以上に低いものであった。たしかに最近の有名どころの哲学書はそれなりに読んでいるようだ。ところが知識がいびつなのだ。基盤になるべき社会科学系の教養は、ほぼ無い。
岩波文庫の青版などはほとんど、あるいは全く読んでいないはずだ。また、主流で有名どころの哲学者の著作はそれなりに読んでいるようだが、傍流とされる哲学者や評論家の知識は、聞いた限りでは皆無だった。
17歳から20歳という人生で最も学ばねばならない時期にAKB(NMB)で懸命に働いていたのだから、知識や教養の不足はやむ得ないと言える。
しかし、哲学者を目指すと公言しているにもかかわらず、『先端』をなぞるばかりで、『基盤』を固める努力をしているようには感じられなかった。
大学受験レベルの学力があるかどうかもあやしく、『学』を志す本来の意味での『学生』であるならば持たなければならないはずの基礎教養がきれいに欠落していた。

実存主義について語りながら、E・ホッファーやC・ウィルソンの存在すら知らなかった。ニーチェとフロイトに対する傾倒を語りながら、『罪と罰』以外のドストエフスキー作品を読んでいない事に驚かされた。
これではフロイトの主著のひとつである『ドストエフスキーと父親殺し』など、存在すら知らないのではなかろうか。
ニーチェをやるのならばさすがに読んでおかなければと、ニーチェとドストエフスキーの関係を評者なりに解説した手紙を添えて『悪霊』を贈ったが、どうやら読まずに捨てたようだ。
哲『学者』になりたいというが、国立国会図書館が20歳以上からしか入館できないことも知らなかった(現在は18歳以上から)。
早稲田に古本街があることも知らず、そもそも「古本は嫌い」なのだそうだ。古本が嫌いな哲学者とは!

須藤が極めて優れた知能の持ち主であることは、断言できる。科目数の多い国立大学は難しいにしても、一年も勉強すれば早慶上智くらいならば合格するだろう。
しかし、この本を出版した時点での須藤の知的水準はこのようなところにあった。そして現在21歳の須藤は、知性と特に品性という点で本書を執筆した18歳の時よりも大きく後退したように思える。