前レスの 精神分析2 の引用した文章の続きはこうなっている。まるで「ど根性ガエルの娘」の土下座の状態みたい。
http://psychodoc.eek.jp/abare/analysis2.html 精神分析2
> 女性側が誘惑したせいだと言わんばかりである。これでは、ほとんどセクハラおやじの言い訳のようではないか。
> また、あるときフロイトは、自分の患者の手術を友人の耳鼻科医フリース(この怪しい耳鼻科医フリースとフロイトの関係もなかなかおもしろいのだけど、それはまた別の話)に頼んだのだが、フリースは手術の際ガーゼを鼻の中に置き忘れ、それが原因で患者は大出血を起こしてしまった。しかしこのとき、フロイトはこれを治療者の関心を引くためのヒステリー性の出血だと解釈して、友人を擁護したという(以上のエピソードは、岡野憲一郎『新しい精神分析理論』からとった)。
> 古典的な分析では、治療を成功させるためには、治療者はあくまで超然としていなければならず、自分の非を認めてはいけないようなのだ。これじゃ単なる独善である。
> また、フロイト理論を忠実に適用するなら、「性的虐待などでトラウマを負った患者が精神的自由を獲得するのは、本当は自分がそのような目にあうことを望み、それを楽しんだのだということを認めることができたときだ」ということになってしまう。そして実際フロイトは、ドラという少女に対し、そうした治療を行っているのである。
> 18歳の少女ドラは、父親の友人であるK氏に誘惑され、抱きつかれたりキスされたりしたことをきっかけにヒステリー症状を起こしていた。一方、ドラの父親はK氏の妻と不倫関係にあり、そのためK氏の娘への接近を知りながら見てみぬふりをしていた。
> どう考えてもドラはセクハラの被害者なのだが、フロイトは大人たちの責任をまったく問おうとはしない。フロイトの「治療」とは、キスされたときドラ自身いかに内的な興奮を感じたか、それを抑圧したせいでどんな症状が起こったか(フロイトは、夜尿は自慰行為で、呼吸困難は父の性行為の際のあえぎ声の模倣、と「解釈」するのですね)、それが夢の中にどう現れているのかを一つ一つ取り上げて認めさせていく、ということなのである。これでは治療自体が外傷体験になってしまう。
> もちろんフロイトの唱えた非合理的なドグマは、その後次々と否定されている。たとえば、フロイトがろくに実際の子供も見ずに頭の中で考えた発達段階の理論(口唇期とか肛門期とかいうやつね)は、実際の乳幼児観察によってもろくも崩れ去っているし、かつては特権的な地位を占めていた「解釈」の価値も揺らぎ、「正しい」解釈などというものはなく解釈はあくまで仮説として提示されるものだということになってきている。