現代文に「解き方」ってあるのか? と思う……
あえて言うなら、本文よりむしろ「設問」に対して異常なほど神経尖らせて読むってことかな…

本部の作者、筆者はある程度の筆力の学者〜高名な作家に至る人物で、文章を書くことを生業としている。
「息遣い」だの「筆致」だの、表現はなんでもいいが、彼らの文章は「言葉が自然に連なって生きている」ものだ。
だから、時間の流れのなかで、言語があたかも自然に生成している手ごたえがあり、それにより沿って言葉をイメージ化していけばいい。

ところが「設問」というのは、大抵の場合、まず「答ありき」であり、この「答」に合致した「問」を形成したうえで、誤りの選択肢への配慮を重ねながら作られている。
そうした「たくらみ」が作り出す文の「ぎこちなさ」を、設問と本文を照らし合わせながら炙り出せば、何が正解か見えてくる。

よく言われることかもしれないが、こうして「出題者の意図=邪悪な策略」を見抜くことによって自然と正解に到達できるんじゃないかな?

また、別の確度からいえば「本文を題材として出題者と対話している(もっとも敵対しているわけだが)」というイメージだと思う。

もっとも「言語が生成している手ごたえがあり、それにより沿ってイメージ化していけばいい」の部分だけでも、それなりに文を読む力は必要。
その部分に関しては読書量と、知識がものを言うわけなんだが……

よくわからんが、現代文ができるヤツの多くが「大人を信用していない」タイプのように感じるのは……気のせいか?