「東京六大学野球への誘い」を断った中央、東洋
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1 :名無しなのに合格:2008/09/05(金) 17:22:26 ID:0aNN2CJY0
知ってましたか?この歴史の真実を。
明治時代の後期、早稲田・慶応が野球の定期戦を行なっていた。大正初期になって、ラグビーで有名だった早稲田・明治の関係から
早慶野球に明治が加わった。しかし3校対抗では少なすぎるという理由から明治大学と校舎が比較的近かった法政大学に声がかかり、
大正時代にはこの4校はリーグ戦形式での試合をおこなっていたらしい。大正中期に立教大学に声をかけると立教は好返事で了解。
大正末期に明治の近所にある中央大学に声をかけたが、中央は白門と称し法律では有名な大学だったので、『野球などにうつつを
抜かす時間はない』と言う理由で断りを入れたため、小石川区(現文京区)にある東洋大学に声をかけたのである。東洋大学の前身は
東洋哲学館と称していたほど哲学(主に支那哲学や印度哲学が有名)で有名な大学であった。当時世間は『中央の白門』と『東洋の哲門』と
言うほど有名だったらしい。中央大学と同じ理由か定かではないが、東洋はやはり断りを入れたのである。
それらの理由から、本郷区(現文京区)にある東京帝国大学(現東京大学)に声をかけたら帝大は快諾したとのこと。これにより早稲田・慶応義塾・
明治・法政・立教そして東大の六校がそろうことになったのである。まもなくこの六校は名称を『東京六大学野球定期戦』となり、春・秋にリーグ戦
形式の試合を行なうことになるのである。早慶野球から始まったこのリーグ戦なので最終週には早慶両校が試合を行うことに他の4大学は異を唱える
声はなく、一塁側に早稲田3塁側に慶応というスタイルは現在も変わっていないのである。この両校の試合は『伝統の一戦』と言われるほど古くからの
ものであり、誰彼となく今でも使われるのはその所以からである。
昭和40年代に偏差値が登場するまでは、東京六大学野球が東京六大学そして六大学という単語が世間で定着したのである。
中央や東洋があの当時の呼びかけに応じていたら、今とは変わっていたかも知れないのに惜しいことをしたものである。本来ならば国立大学が入っていること自体奇異なのだが、それも歴史だと思えば致し方あるまい。