仁義なき戦いの獄中手記を、美能幸三が執筆した原動力は、
1965年に中国新聞記者である今中瓦が『文藝春秋』に執筆した「暴力と戦った中国新聞 勝利の記録」
という記事への反論からであった。

網走刑務所で服役中だった美能が、たまたま雑誌でこの記事を見つけた。なつかしくて飛びついて読んだというが、
読むと10日間メシが食えない程腹が立った。ケンカの張本人が自分と決めつけられている上、身に覚えのないことまで
書かれている。美能が他の組幹部の意向を無視して山口組と勝手に盃を交わした、
破門された美能が山口組と打越会に助けを求めたという記述など。

特に美能は打越会に助けを求めたという部分にプライドを傷つけられた。
「助けを求めたなどと書かれては、ヤクザとして生きていく以上、黙ってはいられない。」と
翌日から舎房の机にかじり付いた美能は、こみ上げてくる怒りを抑えながら、7年間にわたり計700枚の手記を書き上げた。

この手記が「週刊サンケイ」で連載が決定した時、"登場人物を全て実名で掲載すること"を
連載の条件に付けた。実名を出せばトラブルになることは分かっていたが、あくまで名誉回復のためなので
「実名でなければ断る」と頑なであった