今じゃ考えられない昭和の生活◆115
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ちょっと前のことなのに、今じゃ考えられないことをしてた・・・みたいなことありますよね。
都会だけど鍵を開けたまま寝てた、とか。
若い人には信じられない、古い人にもそうだったなぁ・・・と思わせるような事。
そういう事実を書いてください!
基本的に、特に皆さんがよくご存知の昭和に限定させていただきます。
マタ〜リと参りましょう。
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【前スレ】
今じゃ考えられない昭和の生活◆114
https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/kankon/1627129761/ 【ケンモジサン】「1987年(昭和62年)」の頃 君らマジで何してた?日本が最強の国だった頃の話だけど [341520396]
https://leia.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1630420333/
ケンモメンがまだ子供だった頃の「昭和50年代」ってどんな時代でしたか??? [217487125]
https://leia.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1630234431/ カルピスをよく飲んでいた気がする
友達の家と濃さが違ったりして
当然瓶のやつね マクドナルドでお誕生日会
不二家と同じような感覚だったと思う なんとなくタバコの煙のにおいが混じったようなエアコンの風が懐かしい。。
新幹線や出先の建物の中とかでそういった匂いが感じた。 小学校では毎日のように「ちょっと男子ー!」
でも今のアニメや漫画のように美少女でそういうこと言うやつは少なくブスばかり
だからどうしても男女は対立してた
どうして女の子って今でいう「なんとか警察」を今考えるとつまんないことでやりたがったのだろうか 今も冷蔵庫にペットボトルのカルピスがあるが、壜なんかあったっけ?
と思い出すと、そういえば白い厚紙みたいのにくるまれた瓶で
子供には滑りそうで扱いにくいのがあったね
瓶の端から垂れたのが、その白い包み紙の間に消えてゆく
当然指ですくって舐めるんだけどもw 男子ふざけやんやんやんやんやんやんやんやんといてぇやー。 お中元には瓶のカルピスだったでしょ。。
なんかグレープとかオレンジもあったな。 カルピスを麦茶で割ると香ばし甘くて美味しかった記憶 >>8
俺のクラスは、寄り道警察、呼び捨て警察、立ちション警察だったな。
寄り道は公式に禁止されていたが、呼び捨てでクラスメイトを呼んだり、放課後や休日でも道端で立ちションをしてるのを見つけると、鬼の首をとったように学級会に上程するのだ。
学校で禁止と言われなくても、マナー、エチケットに反することは、逐一あげられていた。
男子の悪事を先生に晒すことで、女子の株をあげようとする戦略に思える。
担任も女だから、二言目には男のクセになんだ、と叱らせるのが戦術、というか怒られてるザマをみるのが快感だったのだろう。 ある勇気の記録が放送されたのは、わしが小学校の時じゃたのう
毎回、ドキドキしながら見とったわいw
広島でサイン会が開かれて、宮口キャップを演じた滝田裕介さんのサインもろうたんは
いい思い出じゃ >>5
よその家で出される飲み物の定番は、カルピスとグリーン・ティー。
濃い差も、各家庭で違うたのう。
>>12
少年期に成ると、カルピスは酒で割って飲むもんじゃったのう。
>>13
女生徒のチンコロ密告云うて、わしらん地域や世代じゃほとんど聞かんのう。
女子は、男子を君付けで、男子は呼び捨てじゃったけど、女子も怒ると男子を呼び捨て
じゃろう。 >>15
「ある勇気の記録」は、下の幹部に責任転嫁大親分忖度する新聞と警察の綺麗事で、
レッテル誹謗中傷も酷かったけぇ、ミノさんが、映画「仁義なき戦い」の元となる
手記を書いたわけじゃし。池上彰も大嘘コキ癖もこの作品を賞賛しよる事ものう。
https://biz-journal.jp/2017/03/post_18340.html
[…彼が獄中にいる間に、地元の新聞記者たちによって広島抗争の真相を書いたとする
著作が世に送り出される。「ある勇気の記録」と銘打ったこの本は菊池寛賞を
受賞したが、その内容を知った美能は愕然とする。抗争の原因はすべて自分にあると
され、事実とは異なる見方で卑怯者に描かれていたからだ。
一連の抗争では20人以上の命が失われたが、何事もそれまでの流れというものが
あり、一部分だけを切り取るのはおかしい。自分の罪は認めるが、「関わった人
だれもがそれぞれの立場で罪の意識を背負う責任があるのではないだろうか」–
そう考えた美能は、獄中で抗争に関する詳細な手記を書き始めた。これが後に、
『仁義なき戦い』シリーズの原案になった…] 小学校だと先生はほぼ女、父兄会といっても来るのは女親ばかりで物事が決められ、自分達に逆らない現代的な小さな紳士にしようとしていたと感じる。
鉛筆削り用の小刀も教室に鉛筆削りがあるから所持禁止(本音はケンカ等に悪用されたくない)。ナイフを使った遊び(木を削ってなにかを造る)、木登り、川遊び、カンシャク玉は危険だから、メンコやベーゴマも賭け事に繋がるとか、野球以外の昭和っぽいと言うか昔ながらの男の子っぽい遊びはことごとく禁止になり、廃れていった(みるみるやる子がいなくなった)
間違ったことじゃないから反論できない、それを認めて事故が起きたらどうする、で、提案され次第禁止してったんじゃなかろうか。
市の中心部の小学校だったせいか、考え方が都会的と言うか、禁止されてるそんなことやりたがヤンチャな男子は、子供同士でも、時代遅れ、田舎者扱いされ、立場がなくなっていったが、中学で一緒になる郊外の小学校出身の男子は、規則を破るのがかっこいいというがデフォで、自分達からみると野蛮というか、しつけを一切されてない野猿に見えた。
40〜50年代。 うちの近所のアリオSCには、巨人の国イメージで巨大物体の台所ディスプレイがあり、そこにカルピスの瓶が。
TVでも 「カルピスをもっと濃く作るの!」 という幼児時代の思い出のCMやってた。 仁義なき戦いの獄中手記を、美能幸三が執筆した原動力は、
1965年に中国新聞記者である今中瓦が『文藝春秋』に執筆した「暴力と戦った中国新聞 勝利の記録」
という記事への反論からであった。
網走刑務所で服役中だった美能が、たまたま雑誌でこの記事を見つけた。なつかしくて飛びついて読んだというが、
読むと10日間メシが食えない程腹が立った。ケンカの張本人が自分と決めつけられている上、身に覚えのないことまで
書かれている。美能が他の組幹部の意向を無視して山口組と勝手に盃を交わした、
破門された美能が山口組と打越会に助けを求めたという記述など。
特に美能は打越会に助けを求めたという部分にプライドを傷つけられた。
「助けを求めたなどと書かれては、ヤクザとして生きていく以上、黙ってはいられない。」と
翌日から舎房の机にかじり付いた美能は、こみ上げてくる怒りを抑えながら、7年間にわたり計700枚の手記を書き上げた。
この手記が「週刊サンケイ」で連載が決定した時、"登場人物を全て実名で掲載すること"を
連載の条件に付けた。実名を出せばトラブルになることは分かっていたが、あくまで名誉回復のためなので
「実名でなければ断る」と頑なであった クラスで呼び捨て禁止なんてなかった
あだ名なんて無茶苦茶だったw おでこ広いからアダ名は「デコ」だったな
50の今も幸い禿げてはいないけど
子供の頃は「将来これ以上おでこ広がったらどうしよう」って悩んでたw ゴリラとカッパ足したような見た目の女の子に「ゴリッパ」とかあだ名つけてたな
今だったらえらいことになりそう 太ってる男子は、高木ブーになぞらえて、〇〇(名字)ブーだった。 >>9
水玉模様でな。口から垂れて紙がネチャネチャしてた 知能が足りない子のクラスは
まんま「特殊学級」だったものな。 痩せた子はガリ
小さい子はコビ(ト)
怒ると真っ赤になった子はタコ
だった・・
みんな仲良く遊んでたw >>5
母親の作るカルピスが薄いから自分で濃く作ったら濃すぎて、水を足したら薄くなってしまって、もう一度カルピスを足すのは面倒だから薄いのを飲んだ >>24
あと名字が高木さんだと男女体型問わず
あだ名が「ブー」になってしまうケースも有り >>26
うちの学校ではなぜかハト組さんと呼んでたわ >>13
自分は小学二年のとき、横断歩道をまっすぐ渡らず
斜めに近道渡りしたのを近所の男子生徒に
チクられて教師に怒られたな
それからそのチクリの今岡を恨むようになったw
自分の家庭は貧乏だったが通ってた小学校は
今では超絶セレブ地区になってて(当時もおそらく?)
名前を呼び捨てで呼ぶ人はいなかった記憶
なので、荒れた中学に上がって人を苗字だけで呼ぶのを
とてもかっこよく感じた >>32
小学校いっぱい、人を呼び捨てにしたり、男子が自分を俺というのも無作法で、禁止(女子が学級会で俺警察をやる)っていう教育だったので、中学で担任(男)が生徒を呼び捨てにしたり、生徒に家来のようなぶっきらぼうなしゃべり方をしたときは、話が違うだろ、と思うと同時に、この教師はいい大人なのに品のない人間だな、と思うことにし、教科以外の話を聞かないようにしていた。 >>26
小学校に入学したとき、クラスにどう見ても普通学級は無理だろって子(女子)がいた。
しかも俺の隣の席。
授業に全くついていけないどころか、集合のときも勝手なことをしていて、3歳の自分でももっと聞き分けよかったぞ、なんでこの子が小学校に上がれたのか、と思っていた。
俺の顔をみただけで激昂し、授業中でも、ものすごい形相で俺の顔や髪をカー杯引っ張ってくる。
親に言ったら、偉い人にお金を渡したんじゃない?とか言っていた。
結局、その子は普通学級は無理と判断されて、2学期だか2年から養護学級にいくことになり、ほっとした。
籍は俺らのクラスのままだったので、遠足とかの授業以外の行事は女子が交代でその子のお姉さん(エスコート)役になり、俺は極力その子から離れるようにした。
後刻、なぜ俺のとなりにしたか、人づてだか先生か忘れたが、聞いたが
「〇〇君(俺)は優しそうだから、となりにした」と
小さい子の世話なんかしたこともなく、幼稚園から、大人のいうことならなんでも折れる子とでも申し送りでもあったんだろう。
俺の1年生らしくのびのび送れる権利を奪われた思いだった。 >>18
変わった地域じゃのう。わしらん地域たぁ全然違うわいや。
ほいで、本来の紳士云うたら、カントリージェントルマンじゃの粗野な野蛮人で家が
裕福なだけじゃし、野外や喧嘩で暴れ、学業は汚らわしと学業成績がクラスの中以下が
紳士の子供らしいとされるもんじゃが。
鉛筆じゃの備前守で削つても学校じゃ問題に成るまあ。喧嘩に使うても、内々に済ます
もんじゃし。メンコ云うたら、パッチンの事じゃのう。
子供の野外遊びで亡くなる生徒もおったけど、学校の問題でも無かったわけじゃが。
躾じゃの家庭による所作で、学校じゃ関係無あし、他の生徒が食いよったら強奪する
もんじゃし、学校の集団生活は軍隊や監獄同様シャバと違うんじゃけぇ。
>>20
ミノさんの責任に仕立てられたわけで、戦前世代の人らは、ウッちゃんと呼ぶ人も
軽うて、空気が読めんけぇ、山口組との縁組を望んだわけじゃし。
ミノさんも、書けん部分はあったけえ、ウッちゃんと初代に振り回された内容の手記と
成ったのう。 >>32
地方都市の都市部にセレブ学区じゃのほとんどあるまあ。広島にゃセレブ学区じゃの
無かったのう。社会的地位の高い地区の付近は、任侠気質の高い地区やスラム地区、
被差別地区とかがあるもんじゃし、同じ学校へ通う事に成る。
都市部の山、川、海付近はアウトロー人間も多いいわけじゃし。 >>18
昭和末期でも父兄と言いよったかいのぉ。
保護者になっんは平成かいのぉ。 >>37
「保護者」がデフォになる以前でも、戦後は「父兄」ではなく「父母」が主流だったと思うのだが。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています