【相談】悟りを開いた人に聞くスレ【仏教】 54
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*悟りを開いた人には偉大な知恵があるらしいわ。
*生活のことなんでも聞いてみましょう。
*あるゆる悩みを聞いてみましょう。
*罵倒、批判だけのレスはスルーよ。
<前スレ>
【相談】悟りを開いた人に聞くスレ【仏教】 53
http://medaka.5ch.net/test/read.cgi/kankon/1597354447/ 寝落ち。
馬鹿鬼なんかに聞くだけ時間の無駄。
伝法の師家に参じて下さい。
ほかに方法はありません。 >なんでそうな云うことなのかは
>ひっぱだく
つうか動作が落ち着かな過ぎでしょ。 >>875-877
要するにではなく当初より、コップ一杯に海を掬うにはどうすればいいかを聞いています。
それを、どう解くかです。
>>851さんでも、難しいとは思います。
ただそれでも、二人目こそはと期待したい。 >>879
だから掬うんです。それが答えです。
日本語分かりますか? 再掲しておくよ。
いい加減にウザくなりそうだから答えというかどう云うことなのかを云っておく。
この手の話は「巨海」だろうが「須弥山」だろうが「くじら」だろうがそうした名詞は一切無視。
「掬う」とか「入れる」とか「動かす」とか、動詞だけをみれば良い。
その動作をすれば良い。
なんでそうな云うことなのかは本気で修行すればある日突然のように気付く。
あんたも身体を洗う時は風呂の水は何気に掬うだろ?
それと同じだよ。
そこんところを気付かせるためなんだよ。 考えてみなさいよ。
海って何ですか?
水平線迄続くから海ですか?
小さければ海ではないのですか?
塩っぱいから海ですか?
薄めたら海ではないのですか?
波打ってるから海ですか?
波打ってなければ海ではないのですか?
海は何処にありますか?
海は何から出来てますか?
海はどうやって捉えられてますか?
眼耳鼻舌身意によって捉えられた感覚を海って脳内で再構成してるのなら、海は何処にありますか?
色声香味触法によって感覚された海って脳内で再構成してるのなら、海は何処にありますか? 私はコップ一杯に海を掬う…
私とは?
コップとは?
海とは?
とどのつまりそれらを究極まで分解するとクオークっていうのかな?その組み合わせの総体の違いでしかないでしょ?
その組み合わせの違う三つの個体間の動きを感覚器官で時間と空間として捉えてるって事でしょ。
であれば、私はコップ一杯に海を掬うってどういう事ですか?
そこに何がありますか?
そこまで分かれば すーっ とその動作が出てくるはずです。 砂山のパラドックス(ソリテス・パラドックス)
砂山から数粒の砂を取り除いても砂山だが、数粒取り除く操作を何度もくり返し、最終的に一粒だけ残ったものも「砂山」と呼べるか。 >>880-883
やはり、無分別ですね。
それは、残念ながら。
ひきつづき
>>851さんに期待したいと思います。 >>888
違います。
無分別の分別です。
あなたが分からなければそれまで。
以上。 鬼和尚は何歳からアナルにラー油を塗ってちんぽにウナクールを塗り始めましたか? 鬼和尚、鬼和尚はカブトムシおじさんと神社です一体何があったのですか? >>889
分からなければ、というのも異口同音な知識です。
ここでは知識以外のものを求めています。
残る
>>851さんに期待してみたいです。 >>888
あなたのやってる事は明らか矛盾してますね。
宗教板にもそういうおかしな方が数人います。
ポッタンとかカカシとか呼ばれてる知的障害を持ってる方ですがね。
それはともかく、答えを知らないから他者に尋ねているのに、その他者の解答を理由なく否定してるという事は、否定する理由があるはずで、答えを確信していなくても想定はしてるはずです。
そもそもあなたが知っているのならそれについて問う必要は無いのですし、敢えて問うて相手の答えを理由もなく否定するのは、何らかの不正な意図があるとしか思えません。 それを公案というかはともかく、正師の元でその類の公案を透った者が見解を示しているのですから、少なくとも禅仏教的な見解(げんげ)は私の示した通りとなります。
勿論、違うというのはあなたの勝手です。 東洋的な叡智はアポリアの解決を自己に求めます。
コップに巨海の全てを掬うというアポリアも然りです。
無分別とかそんな事ではありません。
あくまでも無相の自己が主体となった無分別の分別って事なんです。
つまり、掬うんです。
分からなければそれだけの話です。 んな必死に連投せんでええ。
慌てない慌てない。
一休み一休み。 呆れてるんだよ。
実参すればいいだろ。
分かる奴なら即分かるんだけど、此処でやっててもお前じゃ埒が明かんからな。 >>894-897
同じ知識を続けても残念ながら、正見にはいたれません。
ただ解答にのみ取り組む人だけが、正見にいたれます。
もう難しいのだと思いますけれど、
残る
>>851さんに期待します。
あらかじめですが、公案は必要ない、というのは不正解です。
それは正解してからいくらでも考えればいいことです。 一体何を期待しているのやら
自分でコップに何を掬ってるんだろうね 鬼和尚、中国の玄奘三蔵はインドから多くの仏典を持ち帰り、東洋に仏教を
伝えました。悟っては居ないとは思いますが、菩薩と考えていいですか?
パーリ語やサンスクリット語を理解していたと思いますから、頭も良かったのですね? >>900
あなたは間違ってます。
その答えが正見である事を誰が証明するのですか?
証明し得る人から答えを得なければ単なる自問自答で、全く意味がないですよね?
少なくとも当方は伝統仏教の中で醸成されてきた公案に付いて参じ、その類の公案を正見を得たとして透ってるんですからね。
答えと言えばそれが答えに他ならないのです。
否定される謂れはありません。 >>905
従前どおり>>851さんでは難しいのではないかと。
>>906
どのように解かれましたか。 >>853 簡単なことじゃ。
コップを逆さにすれば善いのじゃ。
そうすれば海が全て掬えたことになるのじゃ。
少しはみだしているだけなのじゃ。
コップがあれば逆さにするのじゃ。
なければ手で作って逆さにするのじゃ。
すると坊主は更に「では山を掬うにはどうすればよい」
とか聞いてくるのじゃ。
その時は横にしたりすると善いのじゃ。
更に空を掬うには、とか三千世界を救うにはとか、いろいろ仕掛けてくるが、その時も臨機応変にコップを頭とか目にささげもつよいのじゃ。
すると最後には、そんな答えじゃいかんとかなんとか言って、全て否定するじゃろう。
その時には自信満々でコップを坊主にささげたりするのじゃ。
坊主もコップの中ということなのじゃ。
全て自信満々で押していけば、向こうが勝手に解釈してくれるのじゃ。
逆に自信がなくおどおどしていれば何をしても駄目なのじゃ。
そうであるから気合で押していくのが正解なのじゃ。
わしに聞くのは反則であるがのう。
なぜならばわしはお釈迦様と全く同じ、無上正等正覚を得ているからのう。
この程度のクイズなどは刹那に解けるのじゃ。 >>902 そうじゃ、菩薩と言えるじゃろう。
頭のもよかったのじゃ。
旅だけでなく、大量の経も翻訳しているのじゃ。
中国では菩薩として奉られているのじゃ。 >>908
鈴w
実際に老師の前でそういう見解を呈して鈴を振られた人が居たから。 >>908
お答えありがとう。
公案は謎々ではないので、そのお答え自体は違うとされますけど、
いずれにしろ自信満々と書かれてるように一言目でそれが出てくればよかった。
かもしれません。
私自身は一問一答で
コップで海を掬い海の中にとどめます
とお答えしました。
それが正見とされたかどうか。
それはご判断におまかせします。
いまのところここでは私含め
一敗
一分け
一サスペンディド
ですね。
>>906さんに期待します。
よそでも聞いてみますね。 >>911
ご存知ないようですが、公案は室内で行われるんですよ。
つまり、室内でその問題が出されてその場で答えろって事です。 実際の公案問答は
雲水「コップで海を掬い海の中にとどめます」
師家「それは言葉だろ」
チリチリチリーンって鈴を振られて終わりです。 頓智ですね。
ただなにせ本当に海を掬っているのですから、私の中に一抹の疑義も生じないわけです。
であるこそ他の言葉なくお答えできたのであって、そこに一問一答が成り立ち
本来頓智ではあるが
と禅門ではされるのです。
ここの場で一敗とされた
コップ一杯に掬い取る
では言葉とされます。
ただし同じ言葉でも、一言目ならかなり寛容に扱われます。
大方が他の言葉を発し、室外とみなされるなか、二言目にお答えに切り替えた>>908さんの、そこが秀でたところです。 疑義がないと言えばそうなるけどそれでは薬物でもやるか至高体験でもして自信満々に大我のようになってればそれでいことになってしまうね
疑義がないんじゃなく疑義の生じる元と関係なくならないといけない
疑義がなければいいというのでは寝てるか死ねばそれでいいということになってしまう
禅は生れたときに戻るのではなく生まれる前を知るのではなかったかな
まあお好きなように 鬼和尚に質問です。
自分たちは暇を持て余す所がありますが、鬼和尚はそういう事はありませんか?
時間が余っている時は、何をしているのですか? 思い出した。
>一口吸盡西江水
>(いっくにきゅうじんす さいこうのみず)
要するに「黄河を一口で飲み尽くして見せなさい」って公案があるんですよ。
その素空慈さんのそれはこの公案のパクリでしょうね。
まぁ別に「琵琶湖の水を一口で飲み尽くして見せなさい」でも同じです。 で、
琵琶湖はここにないし?
そんな大量の水を一口で飲み込めないし?
どうやって?
と分別し理屈を考える訳ですw
そうこうやって鈴を何十回も振られてるうちに、
理屈じゃないんだな!
分別じゃないんだな!
って事に気付くんです。
で、
琵琶湖の水を一口で吸い込む・・・
琵琶湖の水を一口で吸い込む・・・
琵琶湖の水を一口で吸い込む・・・
・・・
三昧に入るんです、禅定ですね。 で、
あっ!!!!!!!
て出てきて老師に見解(けんげ)を呈すると、ね。
そんな感じです。
琵琶湖は名称に過ぎません。
遠い・近いは分別です。
水の多い・少いも分別です。
そういう名辞や分別を取り除くと、この問題に何が残るでしょうね?
・・・一口で吸う事そのものじゃないでしょうか?
そういう事です。 まぁ、琵琶湖(黄河でも大海でも、無字でも隻手でも同じ)が爆発してしまうんです。
琵琶湖という概念(本質といってもいいかも知れません)が。
で、理屈じゃ無い分別じゃ無い実存、それそのものが残るんです。
それを見せてみろというのがこの類の公案って事なんです。 >>915
凹はコップに似てみえますね。
ただ凹(ひく)い気分にせよウケバコ(落とし穴)にせよたしかに海が容れられるかもしれませんが、それでは仏祖に会えた気分ではないかもしれませんね。
>>916
疑義と疑似大河の問題ですが、隻手の聲を聞けと問われ
フィンガースナップでしょ。
と矢のように答え、室外へ蹴り出された人がいました。
一方で同じ問いをされ
フィンガースナップです。
と答え、正見とされた人がいます。
前者には裡に静謐な感動がなく
後者にはしみじみとした感動があった
それだけの違いでした。
知識として知っていて、あるいは自ら導き出して、まごうことなき確信を持っていても、そこに感動がなければ仏祖ではないということですね。
それは老若男女、国や知の段階を問わず、人間であれば人間同士であれば一目でわかってしまうものです。 実際の公案問答は
雲水「指パッチンです」
師家「それは言葉だろ」
チリチリチリーンって鈴を振られて終わりです。 >>911 まだわかっていないようじゃのう。
公案はただのなぞなぞであり、クイズなのじゃ。
おぬしのような腰の据わらない者達をただ座らせておくために小坊主共が工夫しただけなのじゃ。
おぬしのその答えも五、六年座り続けた後に落ち着いて出せば正しいとされるのじゃ。
ただ単に長く座った褒美としてのう。
そうであるから世間的に明らかに愚かな者も何年か座れば、初関を通ったとしてくれるのじゃ。
愚かな者はそれで逆に自我肥大に陥って堕地獄の妄僧になってしまうこともあるのじゃ。
そのような欠点もあるしようもないクイズの工夫なのじゃ。
この鬼和尚って、宗教板で知ったか振りして公案に口出しして、実参してる人にアッサリ瞬殺されて笑い者になったんだよな。
それがトラウマになって、その人が来ると避ける様に宗教板に来なくなったから。 >>924
指パッチンです
では不可かもしれませんね。
フィンガースナップです
なら徹るかもしれません。
>>926
禅門における座は長短にこだわりません。
というよりも形態としての座を意味しない。
とされます。
心がしかと座っている姿。
それが禅門における正しい座です。
そして心が座した姿は翻り、肉体をも座らせてくれます。 それはその師家の方も隻手の公案がちゃんと解けてなかったとしか思えないけど
まああなたがそれでいいならいいよね
言い合うようなことでもなし 透りません。
ぐだぐだ言ってるのなら実参されたらどうですか?
まぁ、婆説すると
「両掌相拍って声あり、隻手に何の声かある」
なんです。
つまり、「両手を合わせ打つと(パンって)音がするけど、片手はどんな音がしますか?」という意味です。
師家から片手を突き出されて「さぁ、聞いてこい!」って迫られる訳です。 >>930
あのなぁ?
師家っていうのは、二千とも三千とも云われる公案の全てを透って終わらせた人な。
隻手なんて初関に過ぎないんだよ。 >>926
鬼和尚はダメですね。
悟りの境地に達していません。
インチキです↓。
公案は、師家(老師)から雲水が悟りの境地へと進んで行くために手助けとして課す問題であり、悟りの境地に達していない人には容易に理解し難い難問だが、屁理屈や詭弁が述べられているわけではなく、頓知や謎かけとも異なる。 鬼和尚が生活全般板にまで出没してて、クソワロタwwww
鬼和尚は宗教板に帰れよwwww 鬼和尚は宗教板で本物の仏教徒からインチキを暴かれ、ボロカスのタコ殴りにされたからなぁ。
こういう板でこっそりと覚者ゴッコしてるwww
931がウブで初心ななんちゃって小僧だというのが滲み出てるんですが
老婆心ながら知らせてやるとROMってた方が恥を書かんで済むぞ?
恥の感情が有ればの話だが・・・ 公案なんて隻手の声の1つあればいい気がする。
通過した雲水達は本当に通ったのか疑いたくなる程に微塵も解せんわ。 >>930
私自身がいいかどうかはともかく、ここでの眼目はそのスタンスですね。
見解ではない。
>>931
私自身は
今音がしたと思います
とお答えしました。
>>932
一も千七百も本質全て同じものを問うています。
一が解ければ他のいくつかは確認にすぎません。
各論があるようならば、それは対症療法にすぎないということです。
>>933
ただ>>926さんはこの手の場にしては異例なほどに、かなり心が騒いではいない方とみうけます。
ならばせめて
コップに海?
そんなものはコップどころか毎日お猪口で呑んでおるわ。
釈迦に説法じゃよ。
程度のお答えが欲しかったところです。 だめだこりゃwww
口先だけで公案妄想を1,000年やっても意味ないから。 実際に公案参禅してないのにここでどうこう云っても全く意味ないよ。 ま、伝法の正師の実際に参じてから物言いなw
畳の上の水練のようなもんだからな。 日蓮宗(正宗)はその成り立ちからして日本の他仏教とは
素人からすると異質にみえるのですが、同業者や日蓮宗視点からは
特異な部類にはいるのでしょうか? >>929 おぬしが本当に参禅しているならば、それを師匠に対して言うが善いのじゃ。
まともな師匠ならば棒喝によって、おぬしの天狗の鼻をへし折ってくれるじゃろう。
おぬしも自分では気がつかないようであるが、かなり天狗になっているのじゃ。
もはや他人の言葉も理解できなくなっているのであるからのう。
>>924のようなものを白痴に等しいとか思っているのかもしれんが、おぬしも同じなのじゃ。
そのような傲慢な天狗になる位ならば、公案などやらないほうが遥かに増しだったのじゃ。
そもそも公案などは仏教ではないのじゃ。
初心の門にも入れぬ者達を座らせるための道具なのじゃ。
それはわしの意見ではなく白陰が言っていることなのじゃ。
>>942 自分達は特異とも思っていないじゃろう。
むしろ日蓮を信じない者達が特異に見えるのじゃ。
それが狂信的な宗教というものじゃ。
同業者もいれば自分たちの宗教こそ正しいものであり、日蓮宗も他宗も全ておかしいと思っていることじゃろう。
>>943
公案は悟りの点検道具だよ。
お前は触れる事さえ叶わなかった。
その程度のレベルって事。 >>943
白隠な。
で、そんな事は言ってないから。 自称覚者がたかだか雑則の公案に手も足も出なかったとかw
ただのペテンだわww >>943
まだ天狗になる段階ではないですね。
天狗になるのは最小限、対話、一問一答が始まってからです。
べつの意味で天狗を希求してはおりますが。
禅門では他の一語を発した瞬間、室外とみなされます。
その意味で>>924さんはいまだ、入室を満たしていないと思われます。
逆にいえば入室できた時点で既に、公案は解かれているともされるものです。
また一問一答が成った時、そこはどこでも室内とみなされますし、室内でさえあれば別外たしかに、公案すら無用です。
>>943さんは稀なことに、入室に近い方であろうとは思います。
これはとても簡単なことなのですが、現代では稀有ですね。 >>948
???
入室って隠寮とか、師家が公案を訊く部屋に入る事だけど?
というか、貴方、失礼ですが言葉のサラダ状態ですね。 >>949
禅門では問われる者が、入室するさまが入室とされます。
そのうえで、他の言を発し、一問一答が崩れた時点で、その者は既に室外とみなされます。
問われる段階にないということです。 >>950
君はそもそも禅宗どころか仏教徒じゃないんだろ?
老師が鈴を振るまでは言ってることが外れていても室内で問答できるんだよ。
知ったかぶりして云うのは実参してる人に失礼だからやめなさい。 >>947 無いのじゃ。
経をよんだりしているのじゃ。
何もしないで居ることもできるのじゃ。
暇が苦になるのは自分という観念があるからなのじゃ。
暇だとそのような自分にとって苦になる記憶とか観念がわいてくるからなのじゃ。
自分の目標に邁進すると善いのじゃ。
>>948 それが天狗になっている証なのじゃ。
天狗なっている者は他人からそう指摘されると天狗ではないと言い張るのじゃ。
天狗になっていない者は、そうかもしれないと自分を省みるのじゃ。
天狗になっていないから謙虚であるからなのじゃ。
謙虚に自分を省みることこそ真の仏教に必要なものじゃ。
おぬしは師家の真似ごっこをする>>924を白痴に等しいとか思っているのかもしれんがおぬしも同じなのじゃ。
師家になったつもりで他人のレスに評価をつけているのであるからのう。
それこそ天狗じゃ、天狗のしわざじゃ。
おぬしがこのスレに来た意味があるとすれば、それは自分が天狗であると自覚することなのじゃ。
黄檗宗も公案を使うのじゃ。
韓国にも公案を使う宗派が在るというのじゃ。
>>953
天狗どころか悟りをひらいたなどと嘯くお前は最悪の増上慢だろ? >>952
たとえ見外であっても禅門では、ひきつづいて問答はできます。
ただし他の一語を発した瞬間、それは室外とみなされます。
>>953
天狗でないというよりも、天狗になる段階でもないという意味ですね。
評価は別段私自身が、つけているわけではありません。
一問一答ならば本来評価は、無用なものでありますゆえに。 >>956
> ただし他の一語を発した瞬間、それは室外とみなされます。
誰がそんな事決めたんですか?
禅宗ではそんな事ないですが? 長い事数息観しても心が散漫で鎮まらないのは
物理的に脳の神経系がパチパチしてるとかでシナプス等の回路が異常なのでしょうか?
数がゆっくりだと10まで数えられません
ひたすら初心で数だけを数えるべきでしょうか? 鬼和尚は、人間の出来る最高の境地に達したのだから、もう目標が無くなりましたね。
世界の4大聖人は自分から本を書いていません。
すべて弟子が書いています。
ブッダ・孔子・ソクラテス・老子です。
鬼和尚の次の目標があれば、教えてください。 画家のゴッホは精神病だったのでしょうか?
どうして耳を切ってしまったのか。
彼が狂人だから常人には描けない絵を描いて死後、絵が評価されたんでしょうか。 >>956 立派な天狗なのじゃ。
そんなに師家ごっこがしたいならば自分で宗教を作ればよいのじゃ。
>>958 まだ慣れていないだけなのじゃ。
そのようにするとよいのじゃ。
慣れたらいろいろ試すが善いのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
>>960 おぬしを大悟に導くことじゃな。
>>962 ノイローゼだったのじゃな。
耳に入る噂などは気にしないという表現だったのじゃな。
才能が有り、努力したからなのじゃ。
>>967
鬼和尚、ありがとうございます。
鬼和尚は「無」だから、夢など見る事はないのですか?
ぐっすり眠れていいですね。 >>960
その中では孔子が仏祖以前に実成されていますね。
老子は孔子の仏弟子でしょうか。
>>966
別の意味で天狗を希求してはおります。
ただしまだ、禅定に入ってはバスケットボールのリングでハンドスプリングをする。
その程度の段階ではありますが。
ソコンジャさんには及んでいません。
これとてしかし、居座っていては実現できない相ですが。
座主の座であって成しうる相にはなります。 >>968 そうじゃ、見ないのじゃ。
意識は常にあるのじゃ。
肉体が寝ていても覚めているのじゃ。
>>969 希求しなくても今十分にでかい鼻の天狗なのじゃ。
おぬしの禅とは誰かに及んだり、及ばなかったりするものなのじゃな。
他人と比べるのがおぬしの禅ということじゃな。
天狗じゃ、まさに天狗のしわざじゃ。
及ばないものは及ばないのですから、そこを及ぶと言い立てても無意味です。
げんにいまの私は以前の私に及びません。
私はおそらく肉体的にも、首が居座り腰が居座るよりも過去の時点に巻き戻りました。
なのでできなかったことができるのです。
それでもソコンジャさんと同じにはできませんから、これからまだ解体が進むのでしょう。
その過程が愉しみです。
ただし、昔の私が存在しなければ、現時の私もないのですから、そうした意味では対比など介在しません。
そのことと、聖求というベクトルの実在とは全くの別物です。
現代では禅も仏も公案も、ほかのなにかにかんしても、聖求自体がほとんど世に示現していないです。
まれには、占い等遊興ではなく、仏の道を世と人みなで語り合ってみたいと思います。 ベトナムの禅僧ティク・ナット・ハンさんが亡くなりました。
解脱した人ではないと思いますが、世界的に影響力のある仏教指導者でした。
鬼和尚は彼をどのように見ていましたか?
彼は天に生まれ変わりますか? >>971 わしの書いたことが理解できないようじゃのう。
さすが天狗じゃ。
おぬしが以前のおぬしに及ばないのは当然じゃ。
天狗になってしまっているのであるからのう。
天の狗というように畜生に堕ちてしまっているのじゃ。
そのような自他に及ぶとか、及ばないとかの枠を捨てるのが禅門なのじゃ。
天狗になっているからもはや人の言葉は理解できないのかもしれんがのう。
哀れな者じゃ。
>>972 世間的には影響があったようであるが、やはり真のお釈迦様の教えには到達できなかったのじゃ。
マインドフルネスとかも共産主義者の洗脳とかわらないものになってしまったのじゃ。
人になるのじゃ。
>>973
結局は自身を超えられないのが禅門ですが、その中で自身の成長や、菩提がおわかりになれば未達もおわかりになるでしょう。
であるからこそたしかに神秀は、慧能には及ばなかったのです。
公案が解けない人は厳然と、公案が解けた人には及ばない。
ここでの及ばないはそういう及ばないです。
自身を超えられない意味の及ばないなどではない。
まだ修辞に迷っていては、公案は解けません。
クリシュナムルティは公案を否定しました。
解けなかったからでしょう。
なので真禅や孔子、イエスには及びません。
その言説は菩提の役には立たない。
いやしくも法を関する語りの場ならば、役立つ対話を積みたいものです。
それと、傍生にも仏性はありますよ。 鬼和尚。
一般的なタバコに限らず加熱・気化して口から肺に吸入摂取するもので
身体にいいものは存在するんでしょうか? レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。