問題の数式はこちら「8÷2×(2+2)」。
日本のみならず世界中でこの問題が話題となっております。結論から言えば「1」と「16」2つの答えがあり、どちらなのかという議論が巻き起こっているのです。

規則は行為を決定できるか ウィトゲンシュタイン「哲学探究」
https://book.asahi.com/article/12639305
朝日新聞2019年8月17日掲載

例えば誰かXが「38+43=6」と解答したとする。私たちは、Xは加法の規則がてんでわかっていないと思うだろう。
だがもしXがこの解答が加法の規則に適(かな)っていると証明できたとしよう。
「6」のようなとんでもなく外れた解答でもパスするなら、どんな数でも加法の規則に従っていると見なすことができるはず。
このとき、加法の規則は正しい行為(正解)を決定できない、ということになる。
ウィトゲンシュタインの命題が含意しているのはこういうことである。

 だが、先の「もし」の部分がとうてい成り立ちそうもない。ところが成り立つのだ! 
「6」でも加法の規則に合致していると見なすことができるということを、クリプキは論証してみせる。
ここで、そのスリリングな議論の展開を紹介できないのは残念だ。
結局、「加法の規則に従っているなら、Xは『38+43』に『81』と答えるだろう」(〈1〉)
と言うことはできない。

 だが、ここが終わりではない。ウィトゲンシュタイン=クリプキによれば、
「『38+43』に『81』と答えないならば、Xは加法の規則に従っているとは見なされない」(〈2〉)
と言うことは許される。
ここでまた躓(つまづ)くだろう。〈1〉と〈2〉は論理学で言う対偶の関係にあり、同じ意味だ。
〈1〉が否定されれば、〈2〉も退けられるはずではないか。

 〈2〉の言明には、Xに「それは誤りだ」と言う他者Yの存在が暗示されている。
『哲学探究』が最終的に目ざしている論点がここにある。人間存在の本源的な社会性、これだ。