今、何年も経ってからでさえ語るべき言葉の無いものじゃった。
 わしはそこで全ての技を捨てた。空であると言う観も捨てた。
 そこでは為すべきことは無く、為す己が無く、為すという行為さえ無かった。

 わしは再び問うた。(本当はもうわしは無いんじゃよ、わかっとるね?)
 この境地が最後であるかと、智慧が答えた。
 この境地が最後である。何故ならもはや為すべき事も、為すべき者もおらず、為す事も無いのだから。と、智慧が答えた。

 そこには智慧があった。平等性智、大円鏡智、妙観察智等の智慧が全てあった。
 無為にして坐り続けるわしの前に、一切の神秘が開かれた。
 わしは世の一切が平等であり、空間さえも一つの同じ意識を共有しているのを感じる事が出来た。
 わしは死の意識を知り、死がもはや無い事を知った。
 死は意識の消滅ではなく、変化に過ぎないことを知った。
 わしは経典の言葉が理解出来るようになった。お釈迦さまが何を言わんとしていたのか、判るようになったのじゃ。
 世界は全て一つの意識で出来ており、それは唯一なるが故に、一つと数える事さえ無いものであった。 

 わしは長らく坐っていたようじゃ。
 永遠の安らぎである涅槃がそこにはあったのじゃ。 
 わしは菩薩の誓いを思い出した。
 悟りを得たら、再び地上に返って人々を導くと言う菩薩の誓願が、わしを押し止めた。
 わしは定を解き、ここに帰ってきた。
 自我は無くなっていた。 
 人と話をする為に擬似的自我を作り出したのじゃ。